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戦闘機機動展示〜平成30年度芦屋基地航空祭

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T-4がイルミネーションフライトというオリジナル演目を済ませ、
芦屋基地航空祭のプログラムは次のF-15に移りました。

展示飛行を行うF-15は2機。
時速750キロで会場に飛来します。

演技時間は15分。

ダイジェストでもお話ししたように、この日はヴェイパーが綺麗に出ましたが、
いつも見えているわけではなく、現れた次の瞬間には
消えてしまうのがヴェイパーです。

T-4にはほとんど見られないことからもわかるように、
高速で飛行する戦闘機に見られる現象で、これは飛行機が運動するときに、
機体の一部(主翼の付け根、翼端等)からこぼれた空気が急減圧され、
空気中に含まれる水分が凝結することによって目に見えるものです。

 湿度が高い時はより低速でも発生しやすいそうですが、この日の芦屋は
確かに10月にしては蒸し暑いと感じられる気候でした。

戦闘機なので、アクロバティックな動きは行いませんが、
9g(グラビティを表す時には基本小文字)に耐えながら
弧を描いたり、翼を滑らせたりといった駆動を見せます。

岩国基地の海兵隊パイロットに基地を案内してもらった時、
レガシーホーネット・ドライバーである彼が、控え室で
息子に耐G(なぜかこれは大文字)スーツを着せてくれたものです。

戦闘機パイロットはこれを身につけて下半身を締め付けることで、
脳の虚血状態を軽減し、ブラックアウトを防ぎます。

ただ、会場でも言っていたように、誰でも耐圧スーツを着れば
ブラックアウトしないかといえば決してそんなことはありません。

戦闘機パイロットは普通の人なら6gで気を失うところを、
上半身の筋肉を鍛え、心肺機能を引き上げることによって
スーツなしでも8gまで生身で耐えることができるようになるのです。

身体適正だけでも狭き門なのに、なってからもさらに
自分を鍛えあげないと任務をこなしていくことができないんですね。

アクロバティック、といえば、アフターバーナーを利用しながら8の字を描く、
という展示もありました(冒頭写真)。

アフターバーナーというのは、ジェットエンジンの排気に対して
もう一度燃料を吹きつけて燃焼させ、高推力を得る装置のことですが、
たとえばF-15がアフターバーナーを使用すると、15分から20分で
タンクを使い切ってしまうくらい燃料を喰います。

つまり大変装置として「非効率的」というものなのですが、それでは
なんのために付いているかというと、「いざという時」。

これを使うときは戦闘機が空中戦を行う時に限られるのです。

ちなみに「アフターバーナー」は実はGEの商品名で、一般名称は

オーグメンター(augmentor 推力増強装置)

というそうですが、こんなの誰も知らないよね。

15分というあっという間の飛行展示を終わって帰る時、

「F-15二機は、これから帰還し15分で基地のある宮崎に到着します」

とアナウンスされると、会場はどよめきました。


近くにいた2歳くらいの男児は、親に連れて来られたものの、
この暑さが気に入らないらしく、泣きながら「お家に帰りたい」を
繰り返していましたが、なぜかここで買ってもらったらしい
F-15のおもちゃだけは握りしめたままでした。

「絶対にこれ手放さないんだよなあ」

親が呆れたように呟いていました。

こちらのお子さん(別の家族)もF-15握りしめ派。
勿論男の子です。
こんな小さい時から女の子と男の子は依存するものが違う・・。
当たり前のことのようですが、よく考えると不思議です。

FLW-ME・・・詳細はわからないまでも、空自らしい?

続いて第6飛行隊、F-2の飛行展示です。

会場では、F-2がアメリカのF-16を原型として日米の技術を
集結させた戦闘機であることが紹介されていました。

速度約800キロで会場に侵入してくると、皆はその速さに沸き立ちました。
戦闘機の速さというのは本当に見た人にしかわかりません。

この後、F-2の速度は900キロまで上がりました。
一体中の人にはどんな重力がかかっているのか・・・。

イメージ的にF-2はF-15より小型という気がするのですが、実は
翼の大きさを比べると25%も大きいのだそうです。

これは、低速でも大きな揚力が得られるということであり、
しかもコンピュータ制御によるフライトコントロールシステムによって、
低速での飛行も安定して行うことができるということでもあります

この日展示を行ったF-2は築城基地からやってきたこの一機だけです。
操縦しているパイロットは3佐だと紹介されていました。

 

F-15と違い、ヴェイパーは翼の付け根からも発生しています。

F-2の海洋迷彩は、具体的には島嶼部の偵察などを行う際、
上空からの敵からの発見が困難になるようにデザインされています。

本当に目立たなくするつもりなら、F-35のように日の丸も青く、
迷彩にしてしまいそうなものですが、流石にそれは行いません。

もしかしたら「いざという時」には日の丸を塗って出撃するのでしょうか。

展示飛行では200キロという超低速(新幹線より遅い)で
会場を横切った後、アフターバーナーを使って
急激に上昇するという動きも披露されました。

アフターバーナー使用中なう。

得意技は急上昇。
着陸したと思ったらそのまま一気に空を馳け上がります。

演技最後に空中で大きな旋回を描くF-2。
アナウンスで、

「馬力にすると鉄腕アトム0.8人分です」

(つまり8万馬力)と紹介したとき、会場から笑いが起きました。
手塚治虫先生がアトムを創造したとき、こんな小さな機体が
8万馬力のパワーをもつ未来の実現をどこまで予測しておられたでしょうか。

最後に、バンクというにはあまりに大きく翼を振って、
さようならの挨拶をしながら会場を去るF-2でした。

さて、午前中のプログラムはこれで終わりです。
午後のブルーインパルスまでの間に、何か食べておかなくては。

ツァーのみなさんのところに戻ったら食べるものがありそうでしたが、
せっかくなので何か屋台のものを食べてみることに。

芦屋基地名物(なのかどうかは未確認)シーフードカレー。

いやまあ、入間で散々、空自の食べ物についてはそのレベルについて
悟ってきたので今更何も申し上げるつもりはありませんが、特にカレー。
何しろ海自カレーに慣れるとそれなりに口が肥えてしまいましてね・・、

多くは言いませんが、具のシーフードは全てゴム状の歯ごたえで、
ご飯はパッサパサ、なんといっても量が試食用くらいしかなく、
なのに値段が700円、と、あまりに悲しいカレーでした。

え?十分言い過ぎだって?

座るところもないので立ったまま食べ終え(量もなかったけど)
午後の見学場所を探すため会場に向かうと・・。

朝管制塔と見間違えた芦屋ボートレースの宣伝スペース。
駐車場を貸す代わりに宣伝ブースを出すバーターをしたんだなきっと。

地本コーナーには空自に海上自衛隊がでみせを出していました。
どうよこの身体を張った宣伝活動。

このSH-60帽子はなかなか好評で(多分)、お兄さんは今から
子供にこれを被らせてあげようとしています。

なぜヘリを帽子にしたか、その経緯をぜひ聞いてみたいものです。

会場の装備展示も見て歩きました。

サンフランシスコでナイキミサイルサイトを観たとき、
日本のミサイル導入について調べて知ったばかりの

MSLホークミサイル

第3高射特科群の装備です。
ミサイルといい部隊の名前といい陸自風ですが、空自の装備です。

上の写真はアメリカのマクレガー射場における対空実射です。

この辺一帯にある装備1セットでペトリオットシステムだと思います。

空自の軽起動装甲車、LAVは陸自の迷彩に対しOD一色塗りです。

地球防衛協会軍団はこの格納庫下のハンガーステージの近くに
ブルーシートを敷いて休憩していたようです。
一度だけ見に行くと、おやぢどもがシートで横になって爆睡していました。

空自の移動式簡易トイレも陸自のそれと同じく超近代的。
手を洗おうとしたら、タンクが空になったらしく水が出ません。
仕方なく持参していた消毒シートで手を拭いていると、
そこにタンクの水を補充しに隊員が颯爽とやってきました。

水がなくなってすぐさま補充しにきたようです。
作業開始と同時に待ち構えていた皆が並んで手を洗い出しましたが、
その人たちに水がかからないようにと、細心の注意を払って
丁寧に作業をする自衛官たち。

商業施設でもないのにこれだけ行き届いた「サービス」を
きめ細かく行うのは自衛隊ならではです。

このお断り看板を見て初めてわかったこと。

まず、この日はC-130Hのキャビン公開をする予定だったのが、
インドネシアのスラウェシ島に起きた地震災害に伴い
国際緊急救助活動を行うために機体が派出されていて、
それができなくなった、ということです。

他のことならともかく、国際援助に緊急出動という緊急事態なのに、
もしかしたら楽しみにしていた人がいるかもしれないということで
わざわざこうやってお断りしているわけです。


基地公開に訪れると、ほんの小さなことからこういう気配りまで、
その全てから、自衛隊が誠実さをもって国民とともにある姿を
何かにつけて目の当たりにすることになり、わたしはその度に
この組織が真に「国民の宝」であることを再確認するのです。

戦闘機やブルーインパルスのパイロットは勿論素晴らしいですが、
コクピットでにこやかに写真を撮る自衛官や、皆が待ちかねている
手洗いの水を迅速に補充する自衛官に対しても、わたしは同じように
いつもありがとうございます、と心の中で頭を下げずにいられません。


続く。

 

 


救難訓練展示とブルー・ウォークダウン〜平成30年 芦屋航空祭

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前回、芦屋基地航空祭のご報告で、構成上の都合、戦闘機の展示の後
一気にお昼ご飯を食べたところに行ってしまいましたが、
実は午前中の最後に行われた救難展示についてまだお話ししていません。

救難展示を行うのは救難ヘリUH-60です。

「ブラックホーク・ダウン」で有名になったように、アメリカ軍では
ブラックホークと呼ばれており、自衛隊では救難専用に独自改良した
UH-60Jの公式愛称を同じく「ブラックホーク」としたそうですが、
上の決めた公式愛称は絶対に現場に採用されない、という鉄則の通り、
隊員たちはこれを簡便に「ロクマル」と呼んでいるそうです。

この救難ヘリを運用しているのは芦屋基地所属の芦屋救難隊。

わたしの到着前に終わってしまった救難展示に登場したという
U-125Aを遭難捜索機、UH-60を救難ヘリとして運用しています。

これから飛行展示を行うUH-60が離陸しました。
ダウンウォッシュが作り出した白い線の模様が写っています。

ちなみにダウンウォッシュはウォッシュといっても「水」とは関係なく、
ヘリコプターが揚力を生成する時、ローターブレードの運動によって
起こる、空気力学的作用による空気流の方向の変化そのものをいいます。

上空のヘリからは救難員が落下傘降下。
2名が救助のために地上に降りるという設定です。

赤い煙は「ここに要救助者がいます」という目印。
降下が目的ではなく、救助のために行うパラシュート降下ですが、
普通に難しく要資格という自由降下のためのMC-4を使っています。

もっとも救助に向かうのに、要救助者のところにピンポイントで
降りられなければ何のための救助隊だということになりますね。

着地するなり地上員が駆け寄ってきて傘を外し、畳む手伝いをしますが、
これは展示だからこその演出で、実際は全て自分で行うはず。

ヘリからは要救助者をのせるストレッチャーを引き上げるための
ワイヤーがホイストから降ろされました。
落下傘降下をした隊員がそれを受け取り、手早く用意を行います。

ニコ1の望遠ならではの超拡大写真が撮れました。

ストレッチャーには怪我人(人形)が乗っていて、
救助隊員の一人がストレッチャーを牽引しているリングに
自分のハーネスを接続して一緒に引き揚げられていきます。

身動きできない(もしかしたら意識もない)要救助者の担架が
何らかのアクシデントで傾いたりすることのないように、
ということで同行するのだと思いますが、担架で引き揚げられる時、
自分に声をかけてくれる位置に隊員がいたら、
担架に乗せられている傷病者はどんなにか心強いでしょうか。

もう一人の隊員は、担架を安定させるために、結んだロープを抑えています。

意外なくらいの速さで担架は引き揚げられました。
担架から伸びているロープの端は地上の隊員が持っています。

おそらくですが、これは最後の隊員を引き揚げるための
牽引ロープにもなるのではないでしょうか。

担架を引き上げた後、新たにロープを投下せずとも
このロープに自分を結びつけておけばあとは引っ張り上げるだけです。

ヘリの上には二人の隊員が担架の揚収のために
ヘリの床に寝転んでいるように見えます。

そしてわたしの予想通り、担架のロープをホイストに繋ぎ直し、
すでに地上で自分のハーネスをロープと結びつけていた
最後の救助員(降下した残りの一人)を引き揚げはじめました。

本当に見ていると一連の動作があっという間に行われます。

一刻を争う事態のために何度も訓練を行うことで
これだけのスムーズな行動が可能になるのでしょう。

そして隊員がヘリに収容されました。
すぐさまヘリはホバリングの状態から移動を始めます。

20分に渡って行われた救難訓練飛行は終わりました。

お昼を食べ終わって帰ってきました。
さて、どこからブルーインパルスを観ようかな?

ウォークダウンを撮るために朝一番に並んでいた人たちが
ブルー駐機場所の前をぎっしりと埋め尽くしていますが、
さすがは航空自衛隊、人垣のさらに前にロープを張って

「ブルーインパルス見学通路」

としているのに近くに行ってみて気がつきました。

なるほど、最前列は熱心なファンやカメラマンががっつり固めていますが、
後から来た人や特に子供連れなどでも、ウォークダウンまでの間、
駐機しているブルーインパルスの機体を近くで見ることができます。

早速通路を歩きながら写真を撮りました。
もちろん立ちどまっても構いませんし、もし何なら、ずっとそこで
立ったまま飛行機を眺めていても後ろから怒鳴られることもありません。

コクピット周辺のブルーの下ラインが、まっすぐ垂直尾翼と繋がっていることを
この写真を見ていて初めて気がつきました。

駐機場には左から番号順に機体が並んでいます。
コクピットに乗り込むための梯子も、機体に合わせて
ちゃんとしろと赤に塗り分けられているという芸の細かさ。

梯子はもちろんパイロットが搭乗したら外しますよね?

何年か前、安倍首相がコクピットに乗り込んだ731番の機体。
写真がメディアにアップされた途端、どこかの変な国が

「安倍首相は731部隊を礼賛している!」

と騒いで、航空自衛隊当惑、という事件がありましたが覚えてます?
しかもその騒いだ国って、731部隊と関係があるならまだしも、
その時日本の一部地方であったと言われている・・・。

旭日旗の件といい、国が全く未成熟というか何というか。

てなことを思い出してしまった4番機の関係者の皆さんすみません。

真正面から撮ってみました。
何年か前入間でバードストライクのため演技中止になったことがありましたが、
このインテイクは確かに運が悪い鳥が飛び込みがちな形をしているかもしれません。

ところでバードストライクの実験って、どうやって行うか知ってます?

精肉工場から直送の鶏肉を放り込むのです。
どんな会社もこの実験を行い、バードストライクくらいでは墜落しないように
機器を開発してきました。

もっとも最近は鮮度を管理するのが大変なので、本物ではなく
それ用に開発されたダミーの鳥模型を使うという例もありますし、
最新実験では、あらゆる鳥の重さを想定できるゼラチンのブロックを
専用の銃で発射して衝撃を計測する方法も取られているそうです。

ここまでがブルーインパルス見学通路。
そのさらに前方に、報道関係者の撮影場所が設けてありました。

早くも機材を一番近い前方角に置いて場所取りしている
熱心な報道関係者がいるようです。

わたしはブルーのウォークダウンを見ることは最初から諦めて、
駐機場よりワンブロック中央寄りの場所から見ることにしました。

前から3〜4列目くらいのところに携帯椅子を置いて座っていると、
ウォークダウンの始まる20分くらい前に、エプロン後方から
ブルーインパルスのパイロットが歩いていくのを発見。

案外みんな気づいていないというか・・・。

ブルーのヘルメットを持つその腕には・・やっぱり耐圧の時計?

気が付いた観客が手を振ると手を振って応えるパイロットたち。

わたしのところからは後ろ姿しか見えなかったのですが、
唯一このパイロットだけが振り向いて顔を見ることができました。

キャップの後頭部には自分の乗る機体の番号と、
名前が(タックネームではない)書かれています。
ブルーを引退してもこの帽子だけは記念に貰えるのだと見た。

肩に担いでいるのは耐圧スーツでしょうか。

そしてウォークダウン。

「芦屋ブルー・ウォークダウン」

パイロットは全員で8名。
6機のうち2機の後席にも隊員が乗り込みます。

1:56からはわたしがカケラも見ることができなかった
ウォークダウン、機体に乗り込んだ様子、最終点検、そして
タキシングの開始までを見ることができますのでぜひどうぞ。

これは最終点検が行われている時。

タキシングが始まったとき。
おそらくお父さんに肩車してもらっている男の子は、
全身完璧にブルーインパルスグッズで固めています。

 

これから6機はタキシングして滑走路の反対側まで向かい、
芦屋の空に彼らの「ブルー」で絵を描くために空に翔けていくのです。

 

 

ポイント・ボニータのメンデル砲台〜サンフランシスコ・ゴールデンゲートパーク

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ナイキミサイル・サイトを出発し、わたしはとにかく
ゴールデンゲートパークの一つのポイントにもなっている
崖沿いのドライブウェイを走っていくことにしました。

昔、そこから一本道の一方通行になる手前で引き返してしまい、
ちょっと後悔していたこともあり、一人で行ってみることにしたのです。

よく人に「よくどこにでも車で出かけられるね」と、
特に女性からいわれるわたしですが、進んで止まる機能が付いているなら
ニューヨークのど真ん中だろうがアラスカだろうが、道のあるところは
どこだって車があれば出かけていきます。

崖沿いの一本道だって、観光地ならなんてことはありません。

今回もロス在住の女性から、サンフランシスコの中心街とか、
東京で運転するなんてすごい、と感心されてしまったのですが、
わたしにいわせれば、ニューヨークに乗り入れる時の高速車線移動や
霧の八甲田山中と比べれば、大抵の都心なんて全く恐るに足らずです。

ちなみにそんなわたしが唯一運転しながら死ぬほど怖かったのが、
モントリオールからの帰り、スノータイヤも履いていないのに
雪の高速を延々と走らねばならず、大型車が通り過ぎるたびに
フロントガラスに大量の雪氷をぶつけられたときでした。

さて、それでは崖沿いに走るシーニックドライブウェイに突入します。

道は狭いですが、中国のみたいに舗装していない崖道というわけではなく、
アメリカには珍しく、低いとはいえガードレールもついています。

後ろから車が来ないので、停止して写真を撮ることもできました。

霧が濃いと、流石の観光客もこちらではなく、
左側のブリッジに戻る道を選んでしまうようです。

海沿いの道からいきなり左側にバッテリー、砲台跡が現れました。
砲台には手前にまるでパーキングのようなスペースがあるので、
ここに車を停めてみることにしました。

階段を上がってみる。

ここは「バッテリー・ラスボーン(Rathbone)」といい、
1905年に建造され、1948年に廃止されました。

グーグルマップによる上空から見たラスボーン砲台。
左から#1から#4まで番号が打たれており、
わたしが車を停めたのは#2砲台だったと思います。

M1900という高速砲がマウントされており、
山の斜面に乗せるのではなく、くり抜く形で設置したのは
反撃を受けた時の防御のためです。

その名前は1812年にカナダで亡くなった米陸軍砲兵隊の
サミュエル・ラスボーンから取られました。

砲台の上からは崖の斜面まで行くことができます。
日本なら崖沿いに柵を作ってしまうところですが、
ここではもし落ちたとしても「自分が悪い」で終わってしまいます。

ベンチから3mも行くと、そこは崖です。

時間があればこんなベンチに座って海を見るのもいいかもしれません。
ただし大抵ここは猛烈に風が強くて寒いです。

わたしが近寄れるのはせいぜいここまで。



砲座と砲座の間は繋がっているところもあります。
ここは通路だったと思いますが、向こう側には
パウダールーム(火薬室)や貯蔵室などに使用されていました。

ちゃんと独立した建物のトイレも設置されていたそうです。

バッテリーの名前は「ラスボーン・マッキンドー」になっています。

ラスボーン命名から100年経って第一次世界大戦の時、フランスで戦死した
兵士、マッキンドーの名前を砲台に残そうということになったものの、
いくら100年前の人とはいえラスボーンの名前を消してしまうのも如何なものか、
ということで#1 と2をラスボーン、残りをマッキンドーということにしました。

第二次世界大戦中は、

「砲台はゴールデンゲートの外側に設置された地雷によって守られていた」

と書かれています。
ここから最終的に砲が撤去されたのは1948年になってからでした。

さて、さらにそこからコンツェルマンロードという一本道を
どんどん岬に向かって走って行くと、車で行ける一番端っこに、
面妖な構造物がありました。

なんの説明もないので何に使われたのかさっぱりわかりません。
全集周りを回って見ましたが、どこからも出入りしたり
何かを出し入れするような場所が見つからないのです。

ちなみにこれがグーグルマップの画像。
世界共通で同じような字を書く落書き隊の餌食になっております。

さて、そこからは車で進めないので、適当に周りを歩いてみることにしました。

赤土の道を歩いていくと、立派な?砲台跡が現れました。
これは

 Battery Mendel

といい、サンフランシスコ、ソーサリートの西端を守る位置にあり、
これまで見たどのバッテリーよりも建物の点で大掛かりです。

今までのバッテリーの名前が基本戦死した兵士だったのに、

 George H Mendel ジョージ・H・メンデル大佐

という比較的高位の技術将校の名前が附されています。

メンデル砲台の前に立つと見える景色がこれ。
向かいにもバッテリーが一つ見えますね。

これはバッテリー・ウォラース(Wallace)といい、同じ大きさの
砲台がもう少し右に設置してあるそうです。

手前の山のせいでここからは一つしか見えませんでした。

ここも自由に立ち入りできる模様。
「off-limits」と書かれた印の下の鉄の扉は錆びて
もういたるところに穴が開いています。

リンク先を見ていただければわかりますが、これが作られたのは
1905年、つまり100年経つと金属はこうなるのです。

ここはおそらく弾薬庫かあるいは火薬庫だったのでしょう。

階段を上がってみると、砲台跡が現れました。

はて、ここにどんな砲がどうやって設置されていたんだろう。

答えはリンク先にもあった、これ。
砲撃するときだけ砲がスィング式で持ち上がる仕組みです。
しかしここに設置するくらいだから大きかったんだろうな。

と思ったら写真発見。

おそらくわたしの写真と全く同じところで撮られたものです。
ベツレヘム・スチール・カンパニー製のM1895A4、
12インチ・ブリーチ・ローディング・ライフルである、
と説明には書いてありました。

構造物の見張り所だったらしい部分に上がって行くことにしました。

横長の見張り窓にはガラスなどが嵌っていた形跡はありません。
もっとも100年経っているので元がどうだったかは想像するしかありませんが。

ところで・・・・あれ?

左側にこのブログでもお話ししたことのある「あれ」が。

キルロイがここにいた!(笑)

「キルロイ・ワズ・ヒア」のミームと落書きについては
もしご興味がありましたらこの過去ログ後半部分をお読みください。

「キルロイはここにいた」〜重巡洋艦「セーラム」

一番高いところにも上がってみました。

この木の階段はあとで観光客用に付けられたのだと思います。

砲台の最上階に上がると、そこは地面と繋がっています。
フラフラ歩いて行く人が結構いたのか、アメリカには珍しく
これ以上は崖に近づけないように柵が設置してありました。

もう一つの見張り台にはロナルドさんの名前の落書き入り。

歴史の遺跡に落書きをするなよなー。

ここがソーサリート側の最西端となります。
海の向こうは日本。

サンフランシスコの高地でよくみる鮮やかな色の草が崖を覆っています。

ゴールデンゲートブリッジの方向を振り向いたところ。

砲台をら元来た道を戻るところにあった空気抜きの土管付きの小山。

グーグルアースで確認すると、見えないところに建物跡がありました。
おそらく、この建物から入って行く土中は火薬庫になっていたのでしょう。

先ほどの二つの土まんじゅうから先端に行くとそこに灯台があります。
灯台はゴールデンゲート海峡を通る船の航行の安全のために
1855年に作られてそれ以来ずっと稼働しています。

「カリフォルニアにゴールドラッシュでやって来た人たち、
太平洋やフィリピンに戦いに向かう海軍の艦隊、
そしてアメリカにやってくる何万人もの移民たち・・・。
灯台はずっとここにあってサンフランシスコの歴史を見てきました」

かつて、この岬からは海難救助隊の船が漕ぎ出していました。

そういえば、もう少し灯台側に歩いて行った道から見えた桟橋の遺跡。
これはかつて海難救助船のステーションだったのではないでしょうか。

今ではこの場所には人が陸から立ち寄るすべもありません。

ちなみに紫の丸が、この看板の設置してあった場所です。
先日お話したナイキミサイルサイトも実はこのすぐ近くになります。

さすがアメリカ、こんなところでも携帯が使えるスポットが
ちゃんと用意されていました。

ここから先には歩いて行くことしかできません。

道も舗装されていませんが、なぜかこんなところにもベンチがあります。
灯台のための電気を送るための電柱があります。

灯台のあるところに行くにはこの橋を渡ります。
岩をくりぬいたトンネルにはなぜか扉があって、
灯台に行くにはそこをくぐり抜けねばなりませんが、
トンネルがオープンしているのは日曜の12時半から3時半までのみ。

この日も扉が閉まっていて、灯台にいる人のであろう車が
扉の前に停まっていました。

この写真に写っているゲイカップルは扉の前まで行ってみたようです。

トンネルをくぐって行く人に対して、

「我々の遺産と自然環境を守るため、
とるのは写真だけ、残すのは足跡だけにしてください。
全ての自然の、そして文化遺産を未来に残しましょう」

と注意書きがありました。

ふと崖の上の方を見ると、一部真っ赤な部分が。
先ほどの植物がここにだけ生えているのでしょうか。
それとも・・?

改めて最西端からブリッジを眺める。

ところであんなところに家と庭がありますね。

ズームして見てびっくり。
建物の柵の中に鹿がいっぱいいるではないですか。
別の日にここに来た時、ジャッカルも見たので、もしかして
これは鹿を保護するセンターか何かかな。

解像度すげー!
改めて28−300mmのレンズの優秀さを知りました。

一方通行なので、サンフランシスコ方面に帰ろうとすると道は一つしかありません。
さっき通ったナイキサイトの崖の上の陸軍砲兵部隊の隊舎跡を見ながら、
ゴールデンゲートのポイント・ボニータを後にしました。

 

続く。

 

 

ブルー・インパルス演技〜平成30年度 芦屋基地航空祭

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芦屋基地航空祭参戦記、最終回の前におことわりです。

いつもコメントをくださるunknownさんが、コメント欄に
投稿できなくなったとメールでお知らせいただきました。

なんでもgooブログのコメント投稿規定が変わっていまい、

「gooIDを持っていること」から「gooブログID」を持っていること

つまり、gooでブログをしていないとコメントできなくなってしまったのです。

未承認でコメントを受け入れることも考えたのですが、昔、
今ほど閲覧者数がいないときですら悪戯投稿がありましたし、
ある事件で悪意をもって自演の書き込みをしてきた人物がいたのをきっかけに
承認制にしたことを考えると、当方の精神衛生上、そこのところは
ディフェンシブにならざるを得ず、承認制の変更はできそうにありません。

unknownさんには毎日のようにコメントをいただき、それが当ブログの
一部を果たしていたとわたしは思っておりますし、実際に
別の読者からコメントを楽しみに読んでいる、と伺ったこともあり
残念で仕方ないのですが・・・。

この件に関して何かいい方法はないかなあと鋭意考え中です。
もし何かいい方法がありましたらコメント欄でぜひご教示・・・
はできないのか。うーむなんてこった。

以上業務連絡でした。

航空祭の花形、ブルーインパルスの演技がいよいよ始まります。

オリジナルのテーマソングの流れる中、パイロットが
名前をコールされながら自分の乗機まで行進していく
「ウォークダウン」ののち、入念な最終チェックを経て、
いよいよタキシングが始まりました。

6機のブルーが1番機を先頭に、駐機していたエプロンの右端から、
テイクオフをする滑走路の一番奥までの距離を移動します。

これもいわゆるひとつの「演出」として、わざわざ端から端まで
皆に見てもらうために移動をして見せるのだろうなと思います。

そういえば相撲の「立会い」も、本来は両者の「気が合う」瞬間まで
何度でも繰り返すうちに、一瞬で終わる勝負そのものを盛り上げていく、
というものだったようですが、ちょっとそれに似ていますか。

演技の前後の乗り込みやタキシングまで、全てを儀式化して
本番までの気分(この場合は見ている人たちの)を盛り上げていくのです。

機体が出す排気による陽炎が作る映像の歪みも、またいとをかし。

離陸を行う場所に整列すると、順番に機体から白い煙を排出しました。
スモークの点検です。

現在のブルーインパルスは白い煙だけなのでこうなりますが、昔、
カラフルなスモークだった頃には、この光景はレインボーカラーだったはず。

まず1番機から4番機までが順番に離陸。

空中で集合してダイヤモンド隊形を組み、会場に「ご挨拶」。

まだ離陸したばかりで脚を収納していない状態なので、
左右の着陸灯もまだ点いたまま。

続いて地上に残っていた5番機と6番機が並んでテイクオフ。
手前の6番機だけがスモークを出すという効果です。

ところで6番機の機体番号は666なんですね。
キリスト教圏では不吉とされ、特に命を預ける乗り物には避ける番号です。

アメリカで買い物の合計が666ドルになったとき、お店の人が
「縁起が悪いわね」といって1ドル負けてくれたことがあって、
そこまで気にするのかと驚いたことがありますが、ここは日本だから無問題。

スモークを出しながら離陸した2機のうち1機は空中で縦に旋回し、
今度は皆の前を逆さまで通過。

この逆さ飛行は、計器が全て反対になるのが難しいところだとか。
この間パイロットはもちろんベルトで中空に吊られている状態です。

この後で行われる「スローロール」という演技は特に
優れた平衡感覚を必要とする難しい技だそうです。

5機のトレイル隊形でやってきてブレイク。
この後上空で旋回を描きながらだんだん機体の間隔を詰めていきます。

「チェンジ・オーバーターン」という演目です。

旋回を行いながら間隔が縮まっていくのがとにかく神業。

5番機が1機でくるりと180度機体を裏返して飛行を行い、空中を駆け上がって
今度は連続3回、右回転を行います。
よく目が回ってコントロールを失わないものです。

ものすごい三半規管が鍛えられてるんだろうな。

続いて行われたのがこの「サンライズ」だったのですが、この演技の前、
他の航空機がパイロットから確認されたということで、
5機はそのまま演技をせず通り過ぎてしまいました。

おそらく管制塔からの指示だと思うのですが、それを受けて
リーダーが「ストップ・ミッション」の一声を直前にかけたようです。

そしてその航空機が完全に他の場所に離れるまでの間待機となりました。
少しの異変もインシデントを避けるために見逃しません。

続いて「チェンジ・オーバーループ」。
後方からトレイル隊形でやってきて、この後ダイヤモンドになり、
空中でバック転?するのですが、トレイル隊形に注目してみました。

ほらこんな。
前から2番目の機の翼だけが一瞬傾いている決定的な写真。

続いてカメラマン泣かせの「オポジット・コンティニュアス・ロール」。
左右からやってきた2機が真ん中ですれ違うんですが、とにかく撮影が激ムズ。

わたしのいる場所からはクロスしているように見えない角度でしか撮れませんでした。
ギリギリをすれ違っているようで、実は2機は奥行きを持たせて飛行しているので
頑張ってもこんな瞬間しか撮れなかったりするわけです。

まあこれを上手く撮るには腕以前にかなり運も必要かと。

もう一つの「すれ違い系」演目の撮影には完全に失敗(笑)

「4シップ・インバート」。

くるりくるりと2機ずつ背面飛行になり、4機がこの状態に。

いよいよ「キューピッド」。
2機が空にハートを描き始める瞬間です。

ハートの形は完璧で、風もなかったのですが、いかんせん雲が多すぎました。

ソロを行う5番機。

5番機と6番機は基本ソロ演技専門機なんだそうです。

「ワイド・トゥ・デルタ・ループ」。

後方から現れて、5機が上昇しながら間隔をどんどん狭めていきます。
最初200mあったデルタの大きさが最終的には40mまで小さくなるとか。

受信されたコクピットの音声を聴いていても、こういう演技の時には
ブレイクやスモークの時のような掛け声をかけていません。

無音で飛びながらにだんだん小さくなるということは、
全員が自分の感覚で操作してこのような形を作っていくのですね。

最後に6機全部でスモークを出しつつ旋回する「デルタ・ロール」。
ちなみにスモークを出すときの合図は当たり前のようですが「スモーク!」です。

公開されているコクピットの音声を聴くと「スモック」と聞こえますが。

6機全部でロールを行うのはほぼ終盤になってからです。
「デルタ・ループ」に続いて「フェニックス・ロール」が行われました。

6機でフェニックスの頭と翼と尻尾を表しているというのですが・・・。

「ボントンロール」。
なんかスィーツみたいな名前ですが、難度はかなり高いそうです。

全機がスモークを出しながら侵入してきて、合図で同時に360度ロール。
これが決まった瞬間、会場が大きくどよめきました。

5機に戻り「上むき空中開花」。

散会した全機が今度はスモークで星を描きます。

「スタークロス」。

5番機、6番機による「タック・クロス」。
2機は正面から進入してきて背面飛行に。

同時に機体をひねって。

クロスします。

そしてラストの演目、「コークスクリュー」。
まっすぐ背面飛行する1機の周りをもう1機が追いかけながらバレルロール。

ぐるぐる回っているようですが、写真を撮ったことがある方は
あっという間に終わってしまうのでご存知でしょう。
実は3回転しかしていないのだそうです。

この日はたまたま真正面から見ていたので、今までで一番上手く写真が撮れました。

3周して終わり!

今までコークスクリューの写真を失敗してきたのは、機体を大きく撮ろうとして
どちらにも焦点が合わなかったからなのですが、今年は場所が良かったのと、
最初から全体を撮るつもりでズームをしなかったのが勝因でした。(当社比)

というわけで、最初の4機が着陸してきました。
時間があれば全機着陸するところを見たかったのですが、防衛協会の
バスの出発時間があるので、わたしはこれを最後に会場を後にしました。

帰りのバスからまたもや目撃した装備体験コーナー。
お父さんと子供が二人乗ってます。

飛行機のコクピットに乗るよりもしかしたらこちらの方が子供には楽しいかも。
芦屋基地施設科、考えましたね!

これ、スターファイターですよね?
確かこれ、ソリッドモデルの模型展で見たぞ。
パンダの部隊マークに覚えがある・・・。

と思って改めて調べたら、これパンダじゃないんですって。

稲妻状のラインと熊をあわせたシルエットで「二〇三」を表すよう
デザインされている。
なお熊の配色が白黒を基調にしているためパンダと認識されがちだが間違いである。

そういえば目の周りが黒くないですね。失礼しました。
だいたい日本国自衛隊がパンダ・ハガー(笑)なわけがないですよね。

なんかこれと同じようなものを最近アメリカで見たような気が・・・。

シューティングスターにテキサン、向こうは救難ヘリのH-19Cのようです。

F-106の向こうはあのセイバーですね。

そうそう、そういえば!

先日、かつてセイバーに乗っていた元パイロットという方と、ある方を通して
お目にかかることができるかもしれないという話が飛び込んできました。

文字通り「雲の上の」方なので、まだどうなるかわかりませんが、
こんなお話が舞い込んできたのも、今回空自のイベントに参加したから
それがご縁を引き寄せたのではないかという気がしています。

何しろ機体音痴なため、航空機の形をよく誤認して怒られているわたしですが、
もしそれが実現したら、せめてその方の乗っておられた空自の装備、そして
そして旧軍機について叩き込んでからその場に臨もうと思ってます(笑)

さてどうなることやら。

 

 

芦屋航空祭シリーズ 終わり

 

 

 

緊急連絡:ブログ開設しなくても大丈夫だそうです

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ブログを開設しなくてはコメント投稿できないらしいと聞いて、
前回その旨お知らせしましたが、
つい最近、初めてコメント投稿してくださった方から

GooIDの件ですがブログを運営しなくても登録出来ますとアンノウン様にお伝えください。
新たにID、パスワードの入力を行えば大丈夫ですとお伝えください。
小生もブログは運営しておりません!

という情報をコメント欄にいただきました。
これまでのやり取りでメール交換をしていた方からは、
各々お別れの挨拶などいただいていたのですが、
そういうことですので、ぜひお試しいただきたいと存じます。

お騒がせいたしました。

あー、よかったー!

平成30年 自衛隊記念日〜殉職自衛官追悼式

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自衛隊記念日は正式には11月1日となっています。

1954(昭和27)年7月1日、その法的根拠に基づいて自衛隊が発足したとされる、

「自衛隊法」ならびに「防衛庁実施法」

の制定を記念する行事なのですが、なぜ7月ではなく11月1日なのかというと、
7月のその季節には台風などの自然災害が多く、自衛隊の派出と重なるため、
わざわざ天候の安定した季節に行事を行うことにしているのです。

しかも、行事は11月1日当日でなく、今回のようにその前後の、
仕事を休まずとも参加できる週末に大抵行われます。

行事としては陸自は中央観閲式、海自は観艦式、空自は航空観閲式と
三自衛隊が持ち回りでそれぞれ観閲式を主催するほか、各基地駐屯地で
その前後に自衛隊記念日行事が持たれるのです。

おそらく先週末は全国の基地駐屯地で、様々な催しが行われたのでしょう。

呉地方総監部では、毎年自衛隊記念日に、その前年自衛隊に貢献する
何らかの働きをした個人や団体に対し、感謝状が送られ、関係者と
自衛官の懇親の場にもなる懇親会が行われるのが恒例となっていますが、
その前日には、呉警備地区での殉職自衛官に対し追悼式が行われます。

今年もそれらの行事に参加してまいりましたのでご報告します。

この写真は呉とは全く関係ありません。
昨日お話し終わったばかりの芦屋基地航空祭の次の日、
福岡で一泊して羽田に帰る飛行機が離陸したところを撮ったものです。

いろんな地方で飛行機に乗りますが、福岡空港ほど都心部に近く、
交通が便利(電車で行ける)な空港はないかもしれません。

芦屋基地航空祭のログに写真を載せ忘れたのでアップしてみました。

呉入りしたのは殉職隊員追悼式当日です。
追悼式は呉地方総監部の赤煉瓦庁舎からまっすぐ
「正門」(つまり海に向かう港)に向かって降りていく
大階段の脇に設えられた慰霊碑前の広場で行われます。

慰霊碑の周りは菊の花で飾られ、指揮官名などが花立てに記されて、
来賓が入場する前から銃を携えた衛兵によって守られているのです。

開式前、待機する儀仗隊。

かつてこの広場にある地下作戦壕が現・呉地方総監である
池太郎海将によって整備・公開されるまでは、儀仗隊は
そこから入場し、そこに退場していたものです。

そのころはそれを見て、

「さすが呉鎮守府、あの扉から通路がどこかにつながっているのかも!」

と想像をたくましくしていたものですが、今にして思えば
儀仗隊はずっとそこで待機して出番を待ち、終わったら再びそこで
皆がいなくなるまで待っていたのです。

今はそこが地下壕であることは公開によって周知のこととなったので、
こうしてアコーディオンカーテンの「儀仗隊入り口」を設けているのです。

しかし、どうあっても儀仗隊は「ちゃんとした入り口」から入場すること、
と何かで決まってでもいるんでしょうか。

さて、国旗掲揚後、地方総監の手で霊名簿が慰霊碑前に奉安され、
追悼の儀式が執り行われました。

黙祷に続く地方総監の追悼の辞に続いては弔銃発射が行われますが、
これは海軍時代から伝わる儀礼歌「命ヲ捨テテ」の演奏に続き
同じ「命ヲ・・」の最初の2小節を超速テンポで演奏し、その後
銃発射、演奏、発射、演奏、発射と三回繰り返す慣例に従います。

 

前回、これをスマホで撮影してリアルタイムで投稿している
不謹慎者がいて、この場で苦言を呈したものですが、今年も
一人だったとはいえ、スマホを向けている人を目撃しました。

呉地方総監部の防衛モニターという人たち、いくら珍しいからって
弔銃発射をインスタに(かどうか知りませんが)上げるのはやめましょう。

さて、この後殉職隊員への献花が行われたわけですが、
わたしは前年度との大幅な変更にここで気づくことになります。

献花の順番が、

1、遺族 2、政治家(代理) 3、歴代呉地方総監

ときて、従来の防衛団体関連来賓(つまりわたしたち)ではなく

4、呉地方隊指揮官 5、呉警備地区指揮官 6、呉地方隊海曹

7、事務官 8、幹部・海曹・海士代表(3名)9、地元協力本部

と自衛官が先になったことです。
つまり、殉職者の上司に当たる指揮官、同僚部下に当たる自衛官を
来賓より優先したということになり、わたしは内心いたく感銘を受けました。

自衛隊からすれば防衛団体などの代表者は身内ではなく「客」ですが、
客より殉職者にとって自衛官の方が関係性は深いわけですから当然です。

このような行事は何事も前例主義で去年の通りにやっていれば問題なく、
あえて変更してその結果起こってくる労を、大抵の責任者は
かぶりたがらないものだと思いますが・・・・。

思い起こせば5月に金比羅神宮で行われた掃海殉職者追悼式でも、
掃海隊関係部隊の自衛官を来客より前の席に座らせ、先に献花させていましたし、
今回、この翌日に行われた自衛隊記念日の感謝状贈呈式においても、
政治家などの来賓より自衛官の一団をステージ近くに配する、という
前年度から見て大きな変化があったことをご報告しておきます。

(特に代理ばかりで本人の出席などほとんどない議員の席を
ステージ前にする必要はわたしも全くないと考えます。)

追悼式終了後、手前に座っていた遺族が大階段で
記念写真を撮るのを待っている列席自衛官と呉音楽隊。

この日呉音楽隊が追悼演奏に選んだ曲は、

「海行かば」「行進曲軍艦」

の2曲でした。

最後に遺族代表がご挨拶をされましたが、その中に

「国を守るという崇高な任務のためとはいえ、家族を亡くした私たちにとって
光明を失うごとき悲しみでございました」

という言葉がありました。

今年はこれまでのように乳児や幼児を連れて来られた遺族はいませんでした。
歴代の呉警備区における殉職自衛官は百十数柱と紹介されていたので、
この日出席されたのはそのうちのわずかな遺族だけだったということになります。

列席できる者がいなかった(あるいはいなくなった)ご家族もあるでしょうし、
こういった場に出るのが辛い、という理由で欠席される方もあったかもしれません。

続いて遺族代表の方は、

「悲しみに耐え、今日まで頑張って来れたのも、歴代地方総監を始めとする
呉地方総監部の皆様のご助力とお力添えがあったからです」

というようなことを言われました。
危険任務に携わることも多く、一般の企業より殉職者が多い自衛隊では
専門の部署が殉職隊員の家族に対するケアをあらゆる面から手厚く行なっているそうです。

追悼式終了後、わたしは出口に向かおうとして真っ直ぐ海に向かって歩き出し、

「どこ行くんですか。そっちは海ですよ」

と知り合いに声をかけられました。
いけない、ついつい・・・。

出口で門の写真を撮ったら写り込んでしまった某指揮官(笑)
こんな制服の人が自転車で走り回っている、それが呉の街です。

そして、呉は大変コンパクトな街です。(狭いともいう)

地方総監部を出ててくてくと歩いてくと、すぐに
海自資料館、通称「てつのくじら館」にたどりつきます。

一緒に歩いていた方がどこかでお昼を食べましょうというので、
わたしはここ「てつくじ」のカフェにお誘いしました。

わたしの目的は、これ。

ここ「JMDSF CAFE」(なんて直接的な名前・・)の名物、
池総監の座右の銘であり指導方針でもある「愚直たれ」から生まれた
カレー味の「愚直タレ」使用、

呉総監ドック

を再び味わっておきたかったのです。

ご覧になった方もおられるでしょうか。
なんと「王様のブランチ」で紹介されたんですね。

そして、先週、わたしも予告をいただき、苦労してビデオを手に入れました。
(出張に出ていたTOにホテルのテレビを携帯で撮影してもらった)
「Dearボス」という番組でまたしても池総監が出演し、
インタビュアーの芸人さんが食べる呉総監ドックが取り上げられたのです。

ちなみにこの芸人さんは、ドックにドバーッと「追い愚直タレ」をして、
「全然辛くない」とか言ってましたが、絶対嘘だと思う(笑)

ちなみに28日23時からBSで「ディア・ボス」の後半が放映されるそうです。
このブログをご覧の方で時間が間に合う方、ぜひご覧ください。

右上の猫(・・・ですよね?)が言っている

「色々あって」

には本当に色々な意味があるらしいです。
下の感謝状ですが、

「貴店は呉地方総監の指導方針を市民に周知させる
『愚直たれ』の提供という無理難題を快く受け入れていただき
『商売その道によって賢し』の如くまさに水を得た魚のように
愚直に『たれ』を提供され多くの市民に周知していただくことができました

その姿は想像を絶する愚直さであり
呉地方隊員の模範となるものでもありました
その労をねぎらうとともに貴店の今後ますますの飛躍を祈念し
ここに感謝申し上げます」

なんか、色々おかしい。

ちなみに「商売その道によって賢し」とは「餅は餅屋」みたいな意味で、
「こんなのできる?」とダメもとで頼んだら、頼んだ方がびっくりするくらい
ノリノリでここまで完成度の高いものを作り上げてしまった、
という意味ではないかと思います。知らんけど。

提供店認定証は海上自衛隊のマークがピカッと輝き、
さりげなく錨と鎖をあしらった格調高いデザイン。
呉地方総監の押印は、もちろん本物だと思います。

ついでなのでこのカフェの横で買えるグッズもご紹介。
すっかり有名になったらしい「呉氏」のマスコット。
ふわふわした手触りが一度持つともう放せない。

カフェのメニューもご紹介しておきましょう。

これねえ・・・。
乾パンにアイスクリームを挟んだアイスサンドなんですが、
みなさん海上自衛隊の乾パンって食べたことあります?
わたしはさる筋から裏ルートで手に入れた正規品の乾パンを
付属のジャムとともに食べたことがありますが、あれ、まじで堅いですよ?

アイスを挟むのはいい考えだと思うけど、乾パンを重ねて食べるのはどうかしら。
一枚でも難儀するのに二枚重ねて噛み砕くっていうのはかなりの・・・

と思ったら「硬サニ挑戦セヨ」とか書いてあるよ。
なんのためにこんな限界を突破しなければいけないのか。

これはいいですね。

今や呉地方隊のシンボルのようになった護衛艦「かが」のパッケージ。
なぜ中身がフィナンシェなのか、という疑問はさておき、箱だけ欲しい、
という人が結構買うかもしれません。

これは前にも見た。呉氏のアイスフロート。

「なんで色が水色なのにオレンジ味なんだ?」

と前にも同じことを書いたような気が・・。

なんてことはない普通のアイスコーヒーなんですが、あえて写真をあげたのは
こんなものにまで?自衛艦旗をあしらってあるから。

勘違いした何処かの国の人がここで文句をつけて
自衛官につまみ出されるというのをぜひ一度見てみたいものだ(嘘)

「千福」でおなじみ三宅本店の特別コラボパッケージ。
なんと松本零士大先生描くところの毛利元就公であるぞ。

って、かっこいいなあこれ。
本当に毛利元就ってこんなにかっこよかったの。

あー・・・まあ似てるかもー。ヒゲとか。

というわけで待つことしばし。
来ました呉総監ドック。
このドックのわたし的評価ポイントは、ドックの下の野菜に
さりげなく刻んだ胡桃が混入していることです。
この小さな工夫が、歯ごたえをすごく良くしているんだな。

ケチャップよりこの愚直たれドックの方が好き、という人は多いと思います。

呉総監ドックは池総監の任期中しか食べられない、ということですが、
オマージュメニューとしてなんとか今後残してくれないかなあ・・・。

同行した方がなんと「あきしおカレー」を頼んでくれました。
「あきしお」はここで「てつのくじら」と呼ばれている潜水艦です。

ご飯の潜水艦がカレーの海を航行してる!

ドックの写真がなぜ三つあるかというと、

最後まで「諦めない」 人を「欺かない」 物事を「侮らない」

という三つの「あ」になぞらえているんだと思います。多分。

 

さて、わたしはこの次の日、自衛隊記念日の式典に出席するために
愚直たれの聖地である呉に一泊しました。

ということで、この後わたしがどこへ行ったかは次回のお楽しみ。

 

続く。

愚直タレ-がんすバーガー爆誕!〜呉地方隊 自衛隊記念日行事

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追悼式の後わたしがどこに行ったかのご報告はまたの機会にして、
今日はその次の日に行われた自衛隊記念日式典の様子をご報告します。

呉地方総監部の自衛隊記念日に伴う表彰式とそれに続く懇親会は、
呉教育隊内の施設で行われます。

最初にここに来たのは、遠い知り合いに紹介してもらった
元自衛官(掃海艇の艇長で退官した方)のご案内でしたが、
あの時、まさか自分が何年か後に自衛隊記念日のために
ここにくることになろうとは夢にも思っていませんでした。

今調べてみるとそれは2012年、NHKの大河ドラマが
「平清盛」だった頃のことです。(その人のお宅で再放送を観た)

その時に感動したこの芸予地震で倒壊した建物の一部を見ながら、
なんだかんだでこんな長い間?自衛隊にまつわることをブログで
発信し続けているんだなあとあらためて考えました。

まず自衛隊記念日に行われる恒例の感謝状表彰式が体育館で行われました。
今年の感謝状は、高松の掃海隊追悼式や自衛隊艦艇の寄港などに
協力した高松市などの防衛団体代表や、クレイトンベイホテル、
呉阪急ホテルなどの協力ホテルなどに対して授与されました。

そしてこの配列をご覧いただきたいのですが、われわれの座っている
来賓席より前に、自衛官(事務官含め)席が設えてあります。

去年は事情があって来賓席に座っていなかったのですが、
今年来てみたらいつの間にか来賓と自衛官の席が前後逆になっていました。

前の集団は何かというと全員がザッと立って敬礼するので、
(後ろにいる事務官たちは30度のお辞儀)
前の様子が全く見えないまま終わってしまったわけですが、
この配置も自衛隊記念日が自衛官のためにあるということを
非常にわかりやすく表明していると思われました。

感謝状授与式の間、ヘンデルの「勝利を讃える歌」を演奏していた
呉音楽隊は、最後に二曲、「海を行く」と、呉音楽隊がこの春にリリースした
CDにも収録されている

八木沢教司氏の作品を演奏しました。

懇親会は隣の体育館に移動して行われます。
会場に入ってすぐ、自衛官の帽子置き場が設置してあったのですが、
上にまだ置くスペースがあるのにも関わらず、床に置いている人たちが・・・。
海曹だけでなく尉官の帽子もありますね。

呉地方総監池太郎海将がご挨拶。
先ほどの着帽してのセレモニーでいつもの指導方針「愚直たれ」を折り込み
「真面目な」訓示を行ったので、ここではぐっと砕けて、
今日はタレの方の「愚直タレ」を使ったバーガー、「愚直がんすバーガー」の紹介です。

この「がんすバーガー」についてはわたしは前もって予告をいただいていましたが、
「がんす」というのは何なのかが全く知りませんでした。
呉の名産だというので、前日の追悼式が終わってから
呉出身の自衛官に

「そもそもがんすって何でがんすか」

と聞いてみたところ、

「わしは呉出身じゃがそんな名前は聞いたことないけえ」(脚色してます)

という返事でした。
そこで調べてみたところ、ちゃんとwikiに記述がありました。

「がんす」とは広島県で生産されている魚肉練り製品。

かまぼこ原料のすり身に野菜や一味唐辛子などを混ぜ、
長方形に成形し、パン粉を付けて揚げたものだそうです。
パン粉をつけて揚げているため、きつね色に揚がったパン粉の香ばしさと
サクサクとした食感、野菜の甘味などが合わさって後を引く味とか。

名前の由来は、予想通り広島弁の「〜でがんす」。

広島市西区や呉市などではメジャーな食べ物だということですが、
呉出身自衛官が知らなかったということはメジャーでもないのかな。

がんすはそのまま食べるのが一般的ですが、がんすを使ったドーナツ、
(えええ〜?)がんすサンドなどがすでに存在してます。

ここに今回、呉地方隊が満を持して世に送り出したのがこの
「愚直たれがんすバーガー」というわけです。

確かこの方がその「愚直がんすバーガー」の発案者。

「バーガーを食べたら『愚直でがんす!』と言ってください!」

あれ?この人、池総監が出演した「ディアボス」で、
総監官舎で池総監自らが揚げた天ぷらを食べるメンバーにいなかった?

懇親会は色々と配慮して「乾杯」の発生なしで始まりました。
開始と同時に「がんすバーガー」の前には人が並び始めたので、
とりあえず一つ食してみることに。

バンズには下から野菜、がんす、チェダーチーズ、ベーコンが
挟まれて、全体に愚直たれがケチャップがわりに塗り込まれています。

これなかなか美味しかったですよ。
ただ、アメリカーンなバーガーに慣れている(というほど食べませんが)
わたしとしては、バンズ(パン)をもっとふわふわの、
柔らかい素地のものにすればもっとよかったと意見具申するものです。

それにしても愚直タレ、まじで何にでも合うんだこれが。

BSの「ディア・ボス」で自宅に招かれていたメンバーには
この一番左の女性海曹長もいたりしたわけですが・・・・。

今回の観閲式でも「女性自衛官の登用」がアピールされていた
日本国自衛隊ですが、今回ここ呉地方隊でも
活躍する女性自衛官たちの紹介が行われました。

部隊名だけで各自が具体的にどんなことをやっているのか
詳しい説明がなかったのは少し残念でしたが、中には
医療関係(医師やナース)の女性自衛官もいたようです。

会場には「くれっ子災害応援団」と書かれたありがとうのバナーが飾ってありました。
夏、呉地方を襲った水害に災害支援を行なった自衛隊に対する感謝の印です。

お辞儀している人はきっと感謝の意を表しているんだな(笑)

呉の子供達がボランティアで活動を行なったようですね。
自衛隊に対する感謝の手紙が添えられていました。

くれっ子応援団は地方総監部官舎で表彰されたようです。

さて、こちらは。
池総監がご挨拶の中で少し紹介していた「救助犬についての紹介」です。
観閲式会場で空自の歩哨犬を見つけて写真を撮った後なので、
この偶然にはちょっと感激しました。

海自の警備犬(呼び方が違うらしい)訓練施設は呉造修補給処貯油所にあります。

警備犬たちは今年の水害で行方不明者の捜索を行い、
防衛大臣から表彰されていました。

左端はなんと防衛大臣直々にいただいた「ご褒美」。

ってなんで今ここにあるの?
ご褒美なんだから犬にあげましょうよ。

地元新聞では連載形式で詳しく紹介されたようです。
これによると現在警備犬は16頭おり、災害に派遣された
「トド丸」「さくら」「那智」が表彰されたようです。

「妙見丸」「金剛丸」の二匹は東日本大震災への出動の功績により表彰されました。

金剛丸の褒症状。(表彰状ではないのですね)

ところがこんな本が横にあるではないですか。
え、金剛丸に一体何があったんだろう・・・。

早速amazonでこの本を取り寄せ中です。

表彰された那智号がいます。

警備犬の名前は実に適当、じゃなくてライトな感じです。
警備犬に「トド丸」はどうよ、って気もするんですけど。

トド丸生まれたて。弟はゴン丸です。
ジャーマンシェパードが赤ちゃんの時って耳が寝てるんですね。

熊本地震災害で捜索活動中の救助犬。

同じく捜索活動中。
警備犬についてもっと色々知りたいと思いました。

呉地方隊の災害派遣任務の一つに演奏支援があります。
音楽隊のメンバーが、被災者の避難所で演奏を行い、
慰安を行うというのも大事な任務の一つです。

列を作って何かを待つ人たちに聴かせるための演奏。

楽器が珍しい小さな子供には触らせてあげるなどのサービスも。
あ、このトロンボーン奏者は、不肖宮嶋茂樹カメラマンの名作写真集、
「国防男子」で紹介されていた方ですよ。

今回懇親会会場で行われていた音楽演奏にも参加しておられました。

そして呉音楽隊の歌姫の歌も披露されました。
周りのおじさまたちは手拍子を打って聴き入っています。

ちょうどわたしの知らないアイドルっぽい歌を歌っていた時、
夏に地元アイドルをパネルディスカッションに招聘した
基地隊司令がわたしの横でノリノリ手拍子を打っておられたので、

「司令、こういうのお好きでしょう」

と聞くと

「好きですね〜!」

最後に呉地方総監が本日の料理を手がけた給養のみなさんを紹介しました。

帰り際にお会いした広報係長の名札の上にはなんと、
愚直タレがんすバーガーのオリジナルシールが
名前を隠してまで貼ってあるではないですか。

さすが広報係長、宣伝する気満々だ。

 

というわけで、この日の活動紹介によって、呉地方隊が地元災害に果たした
大きな役割と、自衛隊が地元に溶け込み市民と一緒に呉の街を盛り上げていこうという
前向きでかつ直向きな姿勢をまた新たに知ることとなりました。

さらに、池総監という「ディア・ボス」を取り上げたテレビ番組も
呉地方隊を知る一助となったのですが、それはわたしだけではなかったはずです。

 

なんとなく続く。

 

平成30年度 遠洋航海練習艦隊 帰国行事

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平成30年度練習艦隊の帰国を横須賀にお迎えに行ってきましたので
その様子をご報告します。

約半年の遠洋航海を終えて、何事もなかったかのように
同じ岸壁に半年前と変わらぬその姿を見せる練習艦「かしま」。

いつものように横須賀港には昨日のうちに到着した模様です。

今まで何度か練習艦隊の帰国行事に参加しましたが、天候はいつも
快晴というべき好天に恵まれていたと記憶します。

やはりこの季節は晴れ日が多いということなのでしょうが、
5月の出航もわたしの知る限り激しく雨が降ったことがありません。
新任幹部たちの乗る練習艦隊の出入国に当たっては、まるで
天も祝福してくれているかのようです。

会場の配置は「かしま」に正対する形で来賓、向こう側に家族など。
来賓席の後ろ側には家族や水交会などの参加者が立ちます。

出航の時と同じく、テントはありません。
あまりの強風でテントが飛ばないように自衛官総出で柱を抑えた時以来、
横須賀地方隊ではこの手の行事にテントを使うことをすっぱりやめたようです。

わたしは前回の経験に照らし、今回も式典の間かぶるために
日よけの帽子を折りたたんで持参していき、ずいぶん助かりました。
自衛官は帽子着用なのであまり感じないかもしれませんが、
晴天下でただ座っているとこれは結構辛いものなのです。

前にも書きましたが、今後横須賀での出入港行事に参加される方、
特に女性はつばのある帽子の着用を推奨します。

新任幹部たちはもうすでに艦内で待機しています。
岸壁にいた「かしま」「まきなみ」各艦長が乗艦を行いました。

そして練習艦隊司令官も。後ろを歩くのは練習艦隊副官です。

岸壁に配置された横須賀音楽隊のドラム奏者が刻むスネアドラムに乗って、
遠洋航海を終えた幹部たちが「かしま」から下艦してきました。

先頭の一佐は練習艦隊幕僚でしょうか。

半年前、ここで見送った時よりも皆明らかに日焼けした顔をしています。

特に今回の練習艦隊はインドネシアやアラブ首長国連邦、
バーレーンやサウジアラビアなど日差しの強そうな国に寄港し、航海中も
訓練や実習が繰り返されたわけですから、それも当然というものでしょう。

昨日、半年ぶりに帰国し、横須賀の岸壁に降り立った時
彼らはどのような感慨を持ったことでしょうか。

女性の幹部は見たところいつもと同じような割合のようでした。
つまりあまり多くない、ということです。

今年も練習艦隊にはタイ王国からの留学生が一人参加しています。
右から二人目の女性二尉は、全体に『頭中』『休め』などの号令をかける係。
お腹の底から響くような、それはそれは迫力のある号令でした。

実習幹部の右側の一団は「かしま」の海曹・海士です。

全員が岸壁に整列を終え、「かしま」からサイドパイプの音とともに
「まきなみ」艦長、大日方二佐がまず下艦してきました。

続いて「かしま」艦長、金子一佐。

最後に練習艦隊司令官泉海将補がラッタルを降りてきます。

来賓席に向かって軽く挨拶をするように通り過ぎました。

整列が終わった後、実は結構長い時間我々は待たされました。
防衛政務官の到着がもしかしたら国会開催中の関係で遅れたのかもしれません。
待つことしばし、SH-60Kが「かしま」の向こうから姿を表しました。

隣に座っていた方(海保観閲式のチケットを下さった人)によると、
この地域のヘリは全て館山基地所属なんだそうです。

現在、到着した防衛政務官が巡閲を行なっています。
整列した儀仗隊の間を、「閲兵」する自衛隊の大事な儀式です。

「巡閲の譜」が演奏されている間、敬礼を続けます。

みんな見事に「海自式敬礼」になっています。
特に一般大学を出て幹部になった人にとっては、この半年で
この海自式敬礼がすっかり板についたことと思われます。

まあよく見ると微妙に敬礼の角度とかに個人差があるようですが・・。

やはり指揮官の敬礼には年季が入っています。
角度に迷いがないというかピタリとキマってます。

巡閲を終えて防衛大臣政務官がご来臨。
観閲式の時も式台にそのお姿を見せていた、鈴木宗男氏の娘、
鈴木貴子議員。

32歳の若さで防衛大臣政務官というのは一体どういう抜擢か、
この姿を見るとつい考えてしまいますよね。

しかもこの人、2014年には民主党から立候補していて、
その後除名されたという経歴だそうじゃないですか。

その後の挨拶ではキビキビとしたハリのある声で、

「いつも同じではない航海は諸官に時には試練を与えたでしょう。

そんな時諸官を支えたのは傑出した技術であることはもとより、
支え合い、切磋琢磨してきた仲間の存在だったのではないでしょうか」

「我が国の防衛という崇高な任務に全身全霊で挑んで頂きたい」

「かしま、まきなみの乗員の諸官、諸官らの卓越した能力と高い技術を
発揮したからこそ、実習幹部は今回の航海において
数多くの困難を乗り越え、幹部自衛官として必要な資質を身につけ無事に
帰国することができたのだと思います」

「乗員諸官により、海上自衛隊の文化、伝統、誇りたるシーマンシップが
継承されていると改めて感じるものです」

「ご家族の皆様の安心のため、幹部たちが任務を安全に遂行できるよう
体制を整えてまいりますので、何卒ご理解ご協力を賜りたいと存じます」

といった真っ当な内容の文章を読み上げ、わたしの中の好感度が
少し上がりました。(誰かが書いた内容だとはいえ)

鈴木防衛大臣政務官に対し敬礼。

佐藤正久外務副大臣もその後挨拶を行いました。
最初に

「自衛官出身の佐藤正久です」

と改めて自己紹介し、海外派遣などについての実情を述べた後、最後に

「休みの時にはしっかりと休養を取って家族と過ごしてください」

と声をかけました。
判断を過たないためにも、自衛官はしっかり休養してほしい、ということです。

水交会や横須賀市の偉い人たちから花束贈呈。
右から二人目は元海幕長です。

花束を贈る人が四人いたので、四人が受け取りましたが、
はて、一番右側の幹部が受け取っているのはなぜだっけ?

一番最後に来て一番最初に現場を去る、防衛大臣政務官。
ヘリが去るまで現場は一時フリーズです。

続いて国会議員の退出が行われました。

この日一番その出席に驚いた阿部知子議員。
社民党を最初に、それこそコウモリのように党を変えてきて、
現在のところ立憲民主党の議員ですよね?

先般JGBTへの非生産発言に揚げ足を取られ
一時渦中の人となった杉田水脈議員。

佐藤議員は来賓席に挨拶をしながらの退場です。

ここで帰国行事は終了し、解散のアナウンスが流れました。

花束を持ったまま、在日米軍のフェントン少将と
挨拶を交わす泉海将補。

ちょっと調べてみたところ、フェントン少将は

グレゴリー・J・”フェンス”・フェントン

がフルネームで(フェンスというのはAKAというか通称ね)
アナポリスでは航空宇宙工学の理学士、
米国海軍大学院の航空宇宙科学修士号を取得しています。

テストパイロットの学校にも学び、海軍で原子力についても
技術を学んだフェントン少将は、かつてテストパイロットとして
X-35に乗ったことがあるとか・・。
って、海軍軍人なのになぜテストパイロット?

わたしは自席から少将の名前を確認して、もしかしたら
「君が代」のフェントンの子孫か?と考えたのですがどうでしょう。

ちなみにフェントン少将の後ろの女性は通訳で、
挨拶などの内容を全て同時通訳して少将に伝えていました。

こんな真面目で熱心な米軍人は初めて見ます。


式典が終了したあと、来賓席は全てガラガラに。
来賓席の後ろに立っていた幹部家族たちが空いた席に移動して座り始めます。

練習艦隊司令官と艦長はまた「かしま」に戻りました。

そして実習幹部たちが「本当のかしま下艦」を行います。
横須賀音楽隊は帰ってしまったので、「軍艦」は放送で流されました。

幹部たちが「かしま」乗員に『お世話になりました』
と挨拶しながら舷側を歩き、ラッタルを降りていくのです。

自衛艦旗が見えるところでこうやって敬礼を行うのですが、
やっぱりまだ新任なので自衛艦旗への敬礼が身に染み込んでいないのか、
前の人を見ていないと敬礼せずに降りてしまう人もいて、
一人がたまたま敬礼しないとしばらく皆敬礼しない(つまり前の人に倣う)
という一瞬も見られました。

最後に女性幹部たちが降りてきます。

タイ王国の唯一の留学生も下艦を行いました。

彼が本国でいつの日か海軍将官になり、軍事交流を日本国自衛隊と行う時、
遠洋航海で同じ釜の飯を食った仲間がカウンターである可能性は
大変高いものと思われます。

そして「かしま」を降りた幹部たちと乗員の間で帽振れが行われました。

舷門には練習艦隊司令らが立って帽振れしています。

下艦していく幹部たちを見送る泉海将補と艦長たち。
その微笑みと眼差しには、半年彼らを見守り続けた指揮官ならではの
父親のような慈愛の色が見て取れます。

新任幹部たちを半年指導してきた「かしま」乗員たちも帽振れ。

そのとき、艦橋のデッキで大きな旭日旗が翻りました。

帽振れを終えた実習幹部は、今度は「まきなみ」に挨拶に向かいます。

「まきなみ」飛行甲板では幹部が二人手を叩いているぞ。

「まきなみ」の乗員に帽振れ。
艦橋デッキには「ご安航を祈る」旗を手に持っている人が見えます。

また「かしま」から乗員が降りてきました。
ここで「かしま」の任務を終了して艦を降りる乗員たちだと思われます。

見送る「かしま」乗員たちの様子もリラックスした感じ。

もう一度艦上と岸壁で帽振れが交わされます。
海軍伝統の美しい慣習、何回見てもいいものです。

デッキの旭日旗も一層大きく翻って。

その後、わたしが車を停めた場所まで歩いていると、
「まきなみ」から戻ってきた幹部たちがこちらに向かって行進して来ました。

掛け声も音楽もありませんが、歩いていると自然に足並みが揃ってしまう。
もうすっかり彼らも一人前の自衛官ですね。

先頭が止まったので列が止まると、家族が駆け寄って来て
声をかけたり写真を撮ったり。

彼らはこれから新しい配置で自衛官としての新しい一歩を踏み出します。
帰国直前発表された自分の配置が、志望通りだった人も、そうでなかった人も。

「まきなみ」の艦上の乗員たち。
彼らはこれから大湊まで帰還するという任務が待っています。
新任幹部たちを降ろした「かしま」も呉に向かうでしょう。

練習艦隊司令官はまた報告会を行う予定ですので、
ぜひお話を伺ってまたここでお話できればと思っております。

練習艦隊の皆さん、お帰りなさい。


終わり。

 


呉港めぐりクルーズふたたび〜ピンクの巨大コンテナ船

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今日のお話の前にこの写真を見ていただけますか。

予約していた不肖宮嶋茂樹氏の写真集、

「鳩と桜 防衛大学校の日々」

が昨夜手元に届きました。
一般書籍として売られているわけですが、装丁からは
まるで「防衛大学校卒業アルバム」の雰囲気が漂っています。

注文しようとして驚愕したのが9,180円也というそのお値段ですが、
このことを知り合いにいうと、

「写っている防大生の親は必ず買いますから」

なるほど、それで卒業アルバム仕様なのか・・・。

不肖宮嶋氏ご本人によると

「防衛大学にも入学要綱やパンフレットはあるが、
外国からの要人にもうすぺらいパンフを贈呈するのも
ちょっとばつ悪いときもあるかなということで、協力をいただけた」

ということです。
なるほど、防大からも要人用に購入が見込まれるということですね。


しかし、防大生の親でなくとも、不肖宮嶋氏が防大に密着して
レンズを覗き続け、撮影した防大な、いや膨大な数の写真から選ばれた
防大生たちの姿には心を揺さぶられること請け合いです。

例えば昨年の音楽まつりでわたしは儀仗隊を撮影する
不肖宮嶋氏のお姿を見かけてここで紹介しましたが、
写真集には儀仗隊の写真は一枚だけしか掲載されていないのです。

開校記念祭での棒倒しも5カットでうち2カットは応援団。

1年前の練習艦隊帰国行事にも不肖宮嶋氏は、本作出版元である
文藝春秋の腕章をつけて撮影しておられましたが、
練習艦隊下艦の時にはもう任官していて「防大生」ではないためか、
その時に撮られた写真は一枚もありませんでした。

それだけ選りすぐりの写真だけが掲載されているということは、
実際に手に取ってを見れば深く納得できる写真集だといえます。


かつて海軍兵学校の生徒を写した「ああ江田島海軍兵学校」のカメラマン、
直継不二夫氏は、そのあとがきに

「写真を撮られている時生徒たちはレンズになんらの関心も払っていない」

と驚愕したことを残していますが、この「鳩と桜」においても、
訓練中の彼らの様子からは雑念を全く感じさせないひたむきさと
ピンと張りつめた心身の緊張が痛いほどに伝わってきます。

「ああ江田島」との大きな違いは、今時らしく、恒例の
卒業ダンスパーティの写真が結構な数(5カットも)あることでしょうか。

あとは男女一人ずつ使って、結構色々ある防大の各種制服を
「制服図鑑」として紹介していることで、家族関係者だけでなく、
防大ファン(というジャンルがあるのかどうか知りませんが)にも、
お勧めの一冊であると思います。

さらに不肖宮嶋氏ご本人の言葉をブログから転載しておきますと、

「これから防衛大学への入学をめざそうとする受験生の皆さんはぜひ参考に。
現役の防衛大生、OB,OGの皆様は青春時代の思い出に。
そして開校以来65年もたつのに、あまり知られる機会が少なかった
防衛大学の日常をぜひご覧になっていただき、将来の国防を担う
幹部自衛官がどうやって育てられるか目にしていただき、
ご安心あれ。」

とのことです。

写真集装丁箱の裏側の写真で目を引くのは、
一本に続く長い長い線。
全然意味は違いますが、アメリカ陸軍士官学校の象徴的な言葉、
「ロング・グレイ・ライン(長き灰色の線)」を思い出しました。

そういえば不肖宮嶋氏がこの写真集を撮るきっかけというのも
アナポリスの写真集を手にしたことだったといいます。

 

 

 

さて本題です。
呉に来たものの、その日の午後からなんの予定もなくなった、
ということになったとき、あなたはどうしますか?

わたしに思いつくのは、大和ミュージアムか港めぐりくらいのものだったので、
「てつのくじら館」で呉総監ドックをお約束通りお昼に食べ、
さてどちらにしようかとミュージアムまでぶらぶら歩いて行くと、
大和ミュージアムの横で看板を持ったクルーズの客引きに声をかけられました。

「30分後に出航しますよ」

同乗するのが中国人だらけだったら嫌だなあと思いつつ、

「混んでます?」

と聞くと、さっきのツァーの半分もいない、という返事。
トワイライトクルーズで自衛艦旗の降下を見ることも考えましたが、
今にも雨が降りそうだったので、諦めて30分後の便に乗ることにしました。

時間にデスクの前に行くと、客引きさんが解説者も兼ねていることが判明。
わたしがカメラを持っていたせいか、

「後ろの席に座ると船の両側に移動して写真が撮れますよ」

と乗艦時に声をかけてくれました。
デッキの後方には反応してくれた自衛官に振るための旗が立ててありますが、
それとは別に添乗員が配ってくれたのがこの自衛艦旗。

「今なにかと話題の自衛艦旗ですけど」

と言いながら配り、さらには憤懣やるかたないご自身の、
この件に関するコメントズバズバ言っていてヒヤヒヤしました。
解説を聞いていて元自衛官だとわかったので、まあ
その気持ちはわからんでもありませんが、何しろ昨今、
どんな面倒臭い人が乗ってるかわかりませんからね。

5分前にデスク前に集合し、それから桟橋まで歩いて乗船し、
乗船したと思ったらあっという間に出航していました。

ところで今見えている岸壁は年代物に見えますが、
やはり旧海軍時代に建造された部分なのでしょうか。

さていよいよクルーズの始まりです。
解説は必ず最初にてつのくじらである「あきしお」の説明から。
あきしおの手前には「しんかい」があって大きさの違いが比べられます。

「あきしお」の手前に戦艦の測距儀部分のようなものが見えますが、
公園に戦艦「大和」の甲板部分と同じ大きさが再現されていて、
ちょうどここに艦橋があるという設定なのです。

昔、大和ミュージアムを観に来たところてつのくじら館と共に
休館日だったため、仕方なく息子とこの公園で遊んだので知ってるのですが。

早速JMUのドックに入渠している艦番号158「うみぎり」に遭遇。
これ、何をしているかわかります?

予想なんですけど、主砲の砲身を点検か付け替えしてるんじゃないかな。
全体をカバーで覆ってあるし、今見えているブルーの砲身は
ダミーかあるいは新しいブツのカバーじゃないかと思うんですが。

ところで、BSの「ディア・ボス」ご覧になりました?
芸人さんが突撃体験の一環としてなんと潜訓でダメコンをして、
(させられて?)マジになっていた(怒ってた?)のには驚きましたが、
それはともかく、番組中、彼らが呉港で撮影したシーンのバックに
ことごとく写り込んでいませんでした?

このピンク色の物体が。

今回呉に来て結構驚いたのが、建造中の巨大なピンクの船です。
喫水線下の錆止めの赤とのコンビがなんちゅうカラーリングや、と、実は
遠目に見た途端呆れかえったのですが、近くで見るとこれがまたすごい。

14000tのコンテナ船、「ONE GRUS(ワン・グラース)」です。

Grus、って星座の「ツル座」のことなんですって。
全長364mということなので、「大和」より100m大きいということになります。

この船について調べるとどの記述もこの色を「マゼンタ」と称しているのですが、
実際見たところ紅紫色と称されるマゼンタというより、
「濃い蛍光ピンク」にしか見えないという・・・・。

しかしこの巨大な船になぜわざわざこの色を選んだかね。

並んでいるのが同型船の「ONE COLUMBA(ワン・コルンバ)」
コルンバは「はと座」(ってのがあるんだ・・)の意味で、どうやら
この船は「ONE+鳥系星座名」という命名基準のようです。

解説の人がクイズを出しました。

「どのくらいで一隻が完成すると思いますか」

近くに座っていた女性が

「半年・・・?」

「当たりです!」

半年でこの巨大なコンテナ船ができてしまうなんてすごいですが、
わたしはまた別のことを考えていました。

「半年もの間、呉の人はこのピンクの塊を毎日見せられてるんだ・・」

目立つという意味ではこんな目立つ色もありませんが、
はっきり言ってなんというか・・・・イラっとくる色なんですよね。

一般的にピンクというのは女性ホルモンを分泌させると
医学的にも認められた色ですが、こちらは同じホルモンでも焼肉でおなじみの
「朝◯ピンク」といいますか(この意味わかる?)、
上品というよりその反対である!と裸の王様の子供のように言いたい。

鳥の星座の名前を付けるならもう少しそれらしいシルバーとか、
イメージに添った色というものがあるんじゃないかと思うんですが。

タグボートが押す場所を指定してあります。
こんなピンクの塊にたち向かっていく曳船のクルーの身になってほしい。
絶対目がチカチカするわ!

さて、という話はそこそこにして。
今回のクルーズで唯一すれ違ったのはタグボート「なさみ丸」。

三陽海事という曳船事業がメインの会社のタグだそうですが、
この三陽海事、本社が大阪駅前第2ビルですって・・。
懐かしいというか、関西にいた時のことを思い出すなあ。

客引き兼添乗員が言ったように、確かにこのツァーは人少なめ。
余裕で好きなところに吸われて、わたしはさらにカメラを持って
後部のデッキをもう一人のカメラ持ちのおじさんと一緒に
右往左往することができました。

おじさん「ここにもたれると揺れても大丈夫だよ」

わたし「すみません。ありがとうございます」

人多すぎだと、場所取りで殺気立つ傾向にあるカメラ持ちも、
これだけ余裕があれば和やかなもので、つい

「金持ち喧嘩せず」

という金言を思い浮かべたりします。

添乗員は話を聞いていると、

「三年前に退官した」「掃海母艦に乗ったことがある」

ということまではなんとなく端々からわかりました。
このツァーは元自衛官が解説を行うので、どこかの軍港クルーズのように
聞きかじりで適当なことを言わないのが大変評価できます。

ここからは自衛隊基地に係留されている自衛艦たちです。

訓練支援艦「くろべ」JS Kurobe, ATS-4202

「黒部」というと真っ先にダムが浮かびますが、訓練支援艦の命名基準は
初代の

「あづま」群馬県吾妻峡(ただしこちらはあがつまきょう、と読む)

現役で次級である

「てんりゅう」長野県天竜峡

と同じく渓谷です。

訓練支援艦とは、主に対空射撃訓練支援用に無人標的機を管制する艦艇で、
その甲板にはオレンジ色のドローンの姿が確認できました。
(焦点がどうしても手前のネットに合わさってしまいすみません)

「くろべ」はBQM-74EチャカⅢとBMQ-34AJファイアービー、という
二種類の標的機を積んでおりますが、こちらはチャカIIIの方で、
日本電気がノースロップ社と提携して作ってるそうです。


そうそう、話題はそれますがノースロップといえば!

さっき息子とサンクス・ギビングのことでスカイプしていて、
彼がボランティアで参加している大学救急隊の先輩が、この度、
ノースロップ社かロッキード社どちらかに就職が決まったという話を聞き、
当たり前なんですが、やっぱりアメリカの工科大学なんだなあと感動しました。

ちなみに息子のようなインターナショナル・スチューデントは、どんなに優秀でも
ノースロップ、ロッキード、GEの武器部門、レイセオンなど、
軍需会社に入社することはできません。(多分これからは中国系米人も難しくなる)

先輩はこの後、アメリカ国籍が正当なものであるかとか、
バックグラウンドに怪しい人物がいないかとか、
(急に中国人と結婚したりした人が親戚にいたらアウトかも)
そういう厳しいスクリーニングを経て正式に入社が決まるのだそうで、
入社のあかつきには、F-35に関わる仕事に就くことになっているのだとか。


余談ついでに、息子がボランティアをしている救急隊というのは
大学の救急車に乗って、実際に救急車に乗り込んで傷病者を緊急搬送することができる
資格を取り、そのレベルに応じて「ルテナント」「キャプテン」などの
階級も貰えるそうで、息子は参加してわずか1週間くらいで

「貴様は見所がある」(英語で)

というF-35先輩の鶴の一声によってすでに一階級昇進したんだそうです。
(ただし今階級がなんなのかはわからず)
救急隊の制服もあるんだそうですが、あまりに警官のと似ていて、
「安全上の理由で」、つまり警官と思われると不当な襲撃を受ける恐れがあるので
パレードの時くらいしか着用することはないそうです。

しかし、こんな形で我が息子が本物の「中尉」になるとは思わなんだ。

 

全く関係ない話で終わってしまってすみません。


続く。

 

 

呉艦船めぐり再び〜潜水艦の白煙

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呉港をめぐる「艦船巡りクルーズ」、続きです。

客引き兼添乗員兼解説の方の白いジャンパーは
クルーズを企画している会社の支給品だそうです。

「今はいいんですが冬もこれなので寒いです」

クルーズで解説はされませんが、こういうのにも注目してみる。
「工作部」とあるここは正確にいうと

呉造修補給所 工作部

造修補給処は英語で「リペア・サプライ・ファシリティ」。
修理し、補給を行う後方支援組織です。

「総務科」「計画調整部」「艦船部」「武器部」「資材部」

と並んでこの「工作部」があります。

工作部では各艦艇の修繕に関わるでしょうし、例えば
ここではなく江田島にLCAC専門の調整・修繕を行うところがありますが、
そこも造修補給所工作部の一部門です。

続いて見えてきたのは掃海母艦「ぶんご」。

向こう側に見えるのは輸送艦「くにさき」です。

「ぶんご」の甲板上にいた数人の乗員が手を振ってくれたので、
船の何人かが自衛艦旗を振ってそれに応えました。

「女性隊員がいますね」

宮崎で行われた掃海隊訓練のとき、艦内を案内してもらいましたが、
その時女性の幹部が指揮官配置についていると聞いたものです。
掃海艇にはまだまだ特殊(艇長がそろそろ誕生しているかもしれない)
ですが、掃海母艦には女性乗員が普通に1割くらいいる印象です。

それよりわたしが気になったのは艦腹の黒い傷跡。
何かにぶつけて擦ってしまいましたかね。
手すりに赤い旗が結びつけてあるのも気になるんですが、
この傷とは全く無関係でしょうか。

こちらも修理中らしい、艦番号3513、練習艦「しまゆき」。
2013年、海上自衛隊史上初の女性艦長(大谷美穂二佐)を
戴いた練習艦でもあります。

大谷二佐と同日、やはり練習艦(せとゆき)艦長となった東良子二佐は、
その後一佐に昇進し、現在護衛艦隊司令であるのは皆さんもご存知でしょう。

「せとゆき」の艦橋を拡大。
CIWSはじめアンテナなど、艦橋の下部分がカバーで覆われているので、
おそらく全面的に塗装を行う(行なった?)のだと思われます。

輸送艦「くにさき」が見えてきました。
人生初めて参加した観艦式で、乗っていた「ひゅうが」の隣の
「くにさき」が出航していく様子をこれも初めて見て感激したものですよ。

海軍の伝統を受け継ぐ出航の儀式、なんて美しいんだ!

ってね。(〃'∇'〃)ゝ

というわけでわたし的には非常に感慨深い思い出のある「くにさき」。
「くにさき」の横には「油ぶね」が横付けしてお仕中。

YO37は支援船第1種たる燃料補給船です。
自船の周囲にオレンジ色の浮きをめぐらせていますが、
これは万が一オイルが溢れてしまったとき、海に広がらないように。
だと思います。

「おおすみ」型輸送艦にはLCACを2隻搭載しますが、
「くにさき」にはどうなんでしょう。乗るのかな?

えーと、これはドアが両側に開いて、ラッタルが降りてきているところ?

解説の人が「一番小さな護衛艦」と繰り返していた「とね」。
ちなみに同じ名前の居酒屋が呉市内にありますが、ここには
代々「とね」艦長が写真とサインを贈呈する決まりがあるようです。

ちなみに戦前、巡洋艦「利根」というのがあって、
こちらは流石に普通の巡洋艦なので「とね」の二倍の全長でしたが、
初代の防護巡洋艦「利根」は奇しくもほぼ同じ大きさ
(利根=109.7m とね=109.0m)でした。

ちなみに今年の練習艦隊司令官である泉海将補が、かつて
艦長を務めたたことがあり、艤装艦長は、あの練習艦「かしま」の

「女王陛下にキスされて光栄に思っております」

で有名になった上田勝栄2等海佐(当時)でした。

 

ちなみにこの岸壁は有名な「大和」の写真が撮られたバースだそうです。

船はずいずいと進んで、潜水艦基地付近に差し掛かります。
「しお」型潜水艦が見えてきたぞ!
おまけに着岸してすぐらしく、背中にいっぱい人が乗ってる!

潜水艦は皆同じように見えますが、水上艦より見分け方は簡単で、
まずセイルの前部が直角なら「おやしお型」、カーブがあれば「そうりゅう型」。
後ろの潜舵がまっすぐ立っているのが「しお」、斜めのX舵なら「りゅう」型。

さらに、艦橋の小さなドアが丸いのは川崎重工製、
ドアに角があるのは三菱重工製、という区別もできます。

というわけでこいつは川崎重工生まれの「おやしお」型ということになります。

しかしこんなシーンは初めて見ます。
たくさんの乗員が全員潜舵に正対して傾斜に並んで立っているの図。

舫かけ作業の一環でしょうか。

ちなみに区別といえば、この写真で黒っぽい服を着ているのは幹部、
ブルーの作業着は曹士です。

迷彩服はどちらもが着ると思いますがどうでしょう。

なぜ岸壁に自転車があるのか。

はともかく、興味津々でこの作業を見るうちあることに気がつきました。
ダイバースーツを着た人がいる!

あーもう、後ろのピンクなんとかならないかな(イライラ)
せっかく潜水艦乗員の着岸後の作業を写真に撮れるチャンスなのに、
このピンクが写り込むせいで画面にいまいち緊迫感がな〜い!

という怒りはともかく、ここにはダイバーが三人もいることがわかります。
なんだろう。なんのためにダイバースーツを着ているんだろう。

ホースで水をかけているわけはわかりますよ。
解説の方が、

「潜水艦は港に帰ってきたらまず艦体に水をかけて、
潮を洗い流すんです」

と言ってましたから。
ちょっとびっくりしましたよ。
海に沈むものなのに、いちいち水洗いしてるんですか我が軍は?

US-2やP-3Cが海上を飛んだ後必ず水で洗うのはもっともだと思うし、
そうしないと機体が傷んでしまうというのはよくわかるのですが。

いやでもこれ、自衛隊だけでしょ?
アメリカ海軍が原潜にいちいち水をかけてるなんて想像できません。

ホースで艦体に水をかけて半世紀、この道のレジェンド、みたいな海曹。
(あくまでもイメージです)
ホースが金剛力士像のスカーフみたいになってます。

その向こうの「しお」型潜水艦はただいま充電中。
朝ここにくると、朝日を浴びながら白煙をだす潜水艦の
実に麗しい光景が見られるものですが、帰還後にもやります。

潜水艦は帰還すると艦体のハッチ部分にこのような「舷門」を立てます。
お天気が悪くても雨が艦内に入らないし、ハッチを一眼から隠せますね。

そうそう、解説の方は

「潜水艦が停泊してすぐにすることは、ハッチにカバーをかけること」

とも言ってました。
ハッチのドアの厚み=艦体の厚みなので、カバーで隠してしまうのです。

ラッタルを渡ってきた民間の作業員が、セイルを登って行きます。
もう一人の写真を撮っているおじさんに、教えてあげたのですが、
あっという間に丸いドアの中に消えていきました。

こちらは白煙を吐いている「しお」型の向こう側のやはり「しお」。
こちらの潜水艦のハッチカバーは全て黒で統一されています。

潜水艦基地のあるアレイからすこじまの海沿いには、
ご覧のような戦前から伝わる赤レンガの倉庫が立ち並びます。
いずれも現役で使われているようですが、やはり旧海軍時代から変わらない
岸壁の素材と相まって、本当に風情があります。

解説の方が自衛隊基地ではないところに泊まっている
この民間船についての説明を始めました。

「じょうみち丸」

という名前のこの船は、「イルカに乗った少年」で有名な
(というかこの歌しか有名にならなかった)城みちるさんという
地元出身の歌手の同級生が、同氏をリスペクトしてその名前を冠した
貨物船なんだそうです。

船が回り込めなかったので微かにしか見えませんが、
船橋に「イルカに乗った少年」のイラストが描かれてます。

イルカにのった少年 城みちる(1974)

城みちるさんは解説の人によると現在

「電気屋の店員をしている」「時々地元のイベントに出る」

そして、

「さすがは元芸能人、という感じで普通の人とは違うオーラがある」

とのことでした。
画像検索すると現在のお姿を見ることができますが、
「ほぼビデオのデビュー時そのまま」と言っても
過言ではありません。

某沢田研二さんにはいろんな点で見習ってほしいものです。

さて、「じょうみち丸」のところでクルーズ船は帰途につきます。
帰りにこのしお型の横を通りかかったら、甲板で幹部が
こちらを双眼鏡?でガン見しているのに気がつきました。

やっぱりクルーズ船に怪しい動きをしている中国人とかが
いないかどうかチェックしているのかしら。

文化産業遺産(だっけ)に指定された「大和の大屋根」が奥に見えます。

呉港にきて真っ先に目に留まるのはこの「大和のふるさと」の文字です。
最初にここにきた頃にはまだ「IHIマリンユナイテッド」といったものですが、
その後いつの間にかJMUという名前に変わりました。

海側から呉地方総監部の長官庁舎を臨む。
手前の地下司令室は、「ディア・ボス」でも紹介されていましたね。
TOの職場の人たちが皆で観ていて、後から

「あの地下壕、ぜひ一度見てみたいです!」

と興味津々だったそうです。

わたしは「池や」の天ぷらをぜひ食べてみたいと思いました。

というわけで、艦船巡りツァーは終了しました。
わたしはこの夜も、次の朝も呉の街を歩いてみたのですが、
またそれは別の日にお話しします。

 

呉の街を歩く〜ピンクの船に華麗に掌返し

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呉艦船巡りのレポートを読んだ方からメールを頂きました。
このクルーズを運行しているのは(有)バンカーサプライという海運会社で、
夏の呉における水害の際には、遊覧船や定期船を稼働して
被災者を江田島や離島に輸送するなど尽力されたということです。

さて、その艦船巡りを終えてホテルの部屋に一旦帰り、
しばらくPCに向かっていたのですが、ふと今日の晩は何を食べよう?
と考えた時、ここまで来たのだからクレイトンベイホテル まで
歩いていって「愚直たれ」関連メニューを頂くことにしました。

早速ホテルを出て、スマホの道案内に従って川沿いに出ます。

実はわたし、今回アメリカ滞在時に毎日歩き回ったせいで、
(アメリカはモールといっても広大なので、車で移動しても
買い物などしているとあっという間にかなりの距離を歩くことになる)
今や一日1万歩歩かないと気が済まない体になってしまったのです。
地方出張の際も運動靴を持っていく有様。

(ただし季節限定で暑くなるとやる気がなくなる模様)

今回の呉訪問でも、ほとんど初めて自分の足で街を歩いてみよう、
写真を撮りながら・・・と楽しみにしていたのです。

今までタクシーでしか行ったことがなかったので、
ものすごく遠いようなイメージがあったクレイトンベイホテルですが、
調べてみたら今いるホテルから徒歩17分というではないですか。

今のわたしにとっては17分なんて近すぎて物足りないレベル。
目標の1万歩にはとても届かないけど、歩かないよりマシです。

早速靴を変え、肩にカメラを下げてホテルを出ました。

境川の古い(おそらく海軍が作った?)パイプの鉄橋の上に、
サギさんと鵜さんが仲良く止まっていたので一枚。

川沿いを歩きながら、呉教育隊をさりげなく観察していると、
これは間違いなく海軍時代のものだと思われるレンガの建物発見。

屋根だけ葺き替えて今も倉庫か何かに使っているようですね。

鉄扉で覆われた小さな窓が一面ずつしかないところをみると、
弾薬とかそういうものの倉庫だったのではないかという気もします。

それにしても窓の右上の白丸は何でしょうか。

Googleマップがこちらに行けというのでその通り歩いて行くと、
三菱日立パワーシステムズ(株)呉工場の横に出ました。

MHPSは、GE、シーメンスと並びトップ3というくらい
火力発電分野ではシェアを占めている大会社です。

三菱と日立どっちやねん!というこの名前なんですが、実は
東日本大震災後、両社の顧客である電力会社の経営が苦しくなったため、
GEやシーメンスとも渡り合えるように統合した結果なんだとか。

工場内はまだあかあかと灯が点っています。

海側に向かって歩いていくと、いきなり現れるてつのくじらのノーズ。
よくみると艦体に不思議な形の切れ込みがたくさんありますね。
特に砲弾のような形、これは何の機能があったのでしょうか。

ついでに貼っておくと、これが「てつのくじら」あきしおを、
現在の居場所に設置した時の写真。

実は「てつのくじら」のすぐ隣のブロックに(株)日立物流、
その一軒おいて隣にエンジニアリング・ヒロという会社がありまして、
どうやらこの作業を行ったのは超近場のこの2社だったみたいなんですよね。

左上で「あきしお」を釣り上げている起重機船の名前は
このパネルによるとなんと「武蔵」だそうです。

前にも書きましたが、「あきしお」の設置に際しては、
深夜、歩道を取っ払い(段差があるとダメなので)、
信号を止めて一晩で運搬と据付を済ませてしまったそうです。

このパネルは日立物流の正門に埋め込んでありました。

二河川の河口湾に突き出る突堤に、海上自衛隊第101掃海隊があります。
呉の掃海隊基地がどこにあるのか、この散歩で初めて知りました。

基地といっても突堤に面した二階建てのこぢんまりした隊舎ですが。

第101掃海隊には艦番号730の「くめじま」、そして
この731の「ゆげしま」がいます。

この日「くめじま」は外出中だったようですね。

フリッツ・ラングの「メトロポリス」に白黒で出てきそうな光景。
三菱日立パワーシステムズの一角にあるので、工場のパイプ的なものが
全部集めてある塔だと思いますが違ってたらすみません。

二河川を渡る「かもめ橋」に差し掛かりました。
この川にはなぜか二車線の橋と歩道専用橋が二つかかっていて、
その間にブルーと年代を感じさせる茶色のパイプ橋、
これらが二本渡されているのです。

(つまり橋が各種4本架かっている状態)

最初のサギと鵜の止まっていたこの橋もそうでしたが、
呉の川にかかるこの「パイプ橋」、「水管橋」であれば水、
あるいは電力線かガス管を渡すためのものだそうです。

昔は左の歩道橋と古い水管橋が架かっていたのが、
交通量の増大で戦後もう一つ車用の橋を敷設し、さらに
水管橋も新しく作ったというのが予想される歴史的経緯です。

二河川(にこうがわ)を渡ります。

灰ヶ峰を水源とする川ですが、その姿が変わったのは1886(明治19)年、
この地に海軍区が制定され呉鎮守府が置かれることになり、
安芸郡呉港を軍港として整備することが決まったからでした。

つまり呉鎮守府一帯に安定して上水を送り込む軍用水道の水源として
大日本帝国海軍により二河川の開発が始まり、まず明治時代に
二河峡内に取水口「二河水源地」が造られ、大正時代には貯水地
「本庄水源地」が建設された、というのが歴史に残っています。

さらにいうと、河口部の現在の呉市築地町、つまりこれから行く
クレイトンベイホテルのある一帯は、1927年(昭和2年)に
帝国海軍によって埋め立て工事とそれに伴う大規模な河川改修の末、
出現した地区だったということもわかりました。

というわけなので、先ほどのこの水道橋は、当然のことながら帝国海軍が
上水を引くために昭和2年敷設したもの、ということになります。

呉という街は海軍が作ったということをあらためて実感させられますね。

さて、時は下り平成の世になって、帝国海軍呉鎮守府長官庁舎の主は、
海上自衛隊呉地方総監と名前を変えたわけですが、その総監は
海軍の作った呉という街においてこんなプレゼンスを展開しておられました。

いやー、歴代呉鎮守府長官も、次の世紀で海軍中将がこんなことをやれるほど
世の中がある意味平和になっているなんて想像もしてなかっただろうな。

 

前回このクレイトンベイホテルで、わたしは「愚直たれうどん」を食し、
それはお世辞下心忖度抜きでまことに美味しいものだったわけですが、
その呉濤(ごとう、って読むのかな)にも感謝状が飾ってありました。

しかしそれにしても・・・

「想像を絶する愚直さ」「無理難題」「水を得た魚のように」

この賞状の文章考えた人、誰?

 

実はこの晩、当ホテルのカフェで提供されている「がんすバーガー」を
一足先に試食してみようとここまでやってきたのですが、
そのカフェが会社団体の貸切になっていたため、呉濤で
まだ愚直たれうどんを提供していないか尋ねてみたのです。

「申し訳ありません。
あのメニューは期間限定でしてもう終了してしまいました」

というマネージャーのお言葉に、わたしはここで普通の
レディース御膳を頂いて帰ったのでございました。

帰りにかもめ橋の西詰で見かけて感動したこのトマソン的建築。
建物の中に階段がないので、外付けの階段で二階に上がるという・・。

廃屋なのか?それとも使われているのか?
よく芸予地震で倒れなかったなあと思われるこのデンジャラスな造形。

こういうのを見ると廃墟(じゃないかもしれないけど)好きの血が
わーっと騒いできます。

さらに角度を変えると、なんと看板が。
看貫(かんかん)という言葉は変換もできないわけですが、
サマセット・モームの「アンティーブの三人の太った女」という小説では
体重を量る、という言葉をこう翻訳していたのが記憶にあるのみです。

ここは何かを計量する場所であることはわかった。
それが「川原石」なのか?
「川原石」というのはこの計量所の持ち主の名前なのか?
そもそも計量してそれを買うのか?売るのか?

インターネットで検索してみたのですが、それらしい記述はみられず。

かろうじてマピオンで出てきた情報は電話番号と(電話はあるんだ)
ジャンル:精密機械器具 というもの。

精密機械・・・・・がこの建物の中にぎっしりとあったらすごいなあ。

ものすごく気になるのですが、どなたかこの企業?について
情報をお持ちの方はおられますでしょうか。

さて、空けて翌日。
わたしは自衛隊記念日の式典が始まるまでの自由時間を利用して、
呉の街を散歩することにしました。

今まで車で主に移動していた街ですが、歩いて見る景色は
またずいぶん違ったものになると思われます。

昨夜のトマソン的建物や水管橋みたいな発見もあるわけだしね。

ホテルを出て境川のほとりをまず歩き出しますと、
やっぱり目に飛び込んでくるのはあの蛍光ピンク・・・。

20bさんに頂いた情報によると、これがあと少なくとも
半年は続くということですが、御察しの通りで、
わたしはこの散歩によって、クルーズでは遠くに見えていた
さらにもう一隻のONEのピンクコンテナ船を確認したのですが、
それは次回にお話しします。

それより、20bさんの情報で注目したのが、このONE という会社が、

Ocean Network Express

2017年設立の日本の海運会社

川崎汽船31%、商船三井31%、日本郵船38%

という統合会社であるということです。

昨夜横を通り過ぎたMHPSもそうであったように、
外国の同種大企業と対等に渡り合うことを目的の一つとして
このような統合が行われたと考えていいのでしょうか。

そういう経緯を考えると、この蛍光ピンクには、日本の造船業界の

「まだまだ負けるわけにいけんのじゃあ!」(なぜ広島弁)

というZ旗的意味合いが込められているような気がして、
途端に手のひらぐるんぐるんに返してみるわたしでした。

Z旗的、というのは背水の陣の覚悟、つまり吹っ切れたという意味です。
そう思えば、このピンクも「ホルモン系」ではなく、日の丸の紅白を
混ぜ合わせ(てちょっと蛍光をまぶし)た国粋色に見えてきませんか?

・・・・・・・・・・・・・・。


・・・・見えませんかそうですか。

と、とにかく日本の造船業、がんばれ!

 

呉散歩編、続く。

 

 

呉の街を歩く〜入船山公園-地方総監部-JMU-歴史の見える丘

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さて、呉散歩編、「朝の部」です。
帰国以来時差ボケが今や正常化して(アメリカから帰るとしばらく早起きになる)
毎日漁師とは言わないけれど、農家の人並みに早起きになってしまったわたし、
この日も元気に夜明け前に目覚めました。

どこまで歩きに行くか、と考えた時まず脳裏に閃いたのは
自衛隊記念日の行事が始まる前に潜水艦基地を車で見に行ったことがあり、
そのときの、潜水艦が白煙をあげているあの景色です。

「アレイからすこじまの潜水艦基地まで歩いて朝の潜水艦を愛でよう」

早速所要時間を調べると、片道36分。
これなら行って帰って来られる、と判断しホテルを出ました。

グーグルの案内した経路にとんでもない「落とし穴」があるとは知らず・・・。

ホテルを出たところにある境川は朝の引き潮のせいで川底が見えています。
しょっちゅう水没しているためボロボロになった階段は、これも
おそらく旧海軍時代からのものらしく、木の骨組みが露出してきています。

流石に呉教育隊のみなさんは早起きですね。
朝の清掃タイムらしく、庭箒を持った自衛官の姿が柵越しに見えました。

左の塀の向こうは呉教育隊、右は基地業務隊などがある自衛隊の領地です。
赤い壁は、これ全て呉地方総監部の長官庁舎のレンガに合わせているのです。

自衛官(多分)がランニング通勤しているのも呉ならではの朝の光景。

呉地方隊の門は二ヶ所あって、こちらがいわゆる通用門。
昨日の追悼式などの時にはこちらから入場します。

通用門はカーブの突き当たりにあるので、公道通行車が全て
左折して行く中、呉地方隊関係者の車だけが直進してきます。

このため、「自衛隊に用がある車はウィンカーを点滅せよ」
というお達しが大きく看板に書かれるようになったと見られます。

門内に入って行く車は自衛官の出勤車だと思いますが、
どんなに見慣れた車でも警衛の自衛官は後部座席をチェックしています。

考えてみたら朝の自衛隊基地の通勤風景などを見るのは初めてです。
歩いて門内に入る人は私服がほとんどですが、たまに制服もいました。

新しく完成した呉音楽隊の練習棟。
この無機質なこと、もしこの表札がなければ工場か給食センターにしか見えません。
必要以外の機能に全力投入し、後は極力ご予算を絞ったという感じありありです。

いや別に、エントランスに(前のように)錨のマークをあしらったり、
植え込みにト音記号を作れとは言いませんが、もう少しなんというか
全体的に音楽隊がいることがわかるような工夫とか潤いというものをだな。

防音設備やレコーディングなどの装備はおそらく完璧なんでしょうけど。

入船山公園の斜面。

今いるのは数字の「487」のあたり。

終戦直後(1947年)はこうなっていました。
黄色で囲んだプールがあったらしいところに音楽隊と官舎、そして
自衛隊の援護業務隊を作ったということになります。

ここは現在「市民広場」という名前がついているらしいです。
あの「市民」のせいで、市民という言葉の印象が無茶苦茶悪いんですけど、
こんな名前がつけられたのも、元々ここが旧海軍の練兵場だったからでしょう。

終戦後にはここでイギリス連邦占領軍が式典を行ったり
演習をしたりしていたそうで、その名前も

「ANZAC PARC」

と変えられておりました。
ちなみにANZACというのは

Austrarian and New Zealand Army  Corps
(オーストラリア・ニュージーランド軍団)

から生まれたアクロニムです。
どちらもイギリスパスポート の旧植民地で地理的にも近いので
元々同盟国だった両国は、ここ日本の呉に占領軍として
合同で乗り込んできていたんですね。

(ちなみに彼らは占領が終わり帰国する際、旧軍時代の
家具や調度などを結構な数勝手に持ち帰り、さらには
勝手に長官庁舎を改装してやりたい放題だった模様)

赤で囲んだところに「十字」が上空から見える建物がありますが、
これは現在国立病院機構呉医療センターとなっています。

今は「この世界の片隅に」の「聖地巡礼」先となっている階段は
海軍病院に続く道でした。

戦時中は敵に対し、赤十字が見えるように屋上にペイントして
空爆を避けるようにと指示していたというわけです。

そして青で囲んだところは現在も残る鎮守府長官庁舎です。

そのままてくてくと487号線の歩道を歩いていきますと、
呉地方総監部の正門が現れます。

もっと真正面から撮りたかったのですが、警衛の人に見られるので
彼らが死角となるこの角度から一枚だけ撮らせてもらいました。

 

この487号線は、大変交通量の多いところです。
総監部と道を隔てて反対側に点在する官舎から、その昔は
ここを通って直接出勤できたらしい歩道橋がありました。

今は敷地内に入ることができないのはもちろん、横断歩道があるので
おそらくこれを使用する人は皆無なのではと思われます。

ふと思いついて歩道橋を上まで登って見ました。
なんと地方総監部庁舎のマーヴェラス!な眺め。

総監庁舎は2年ほど前に文化財に指定されましたが、よくぞ今まで
この美しい建物をそのまま現役で使い続けてくれたものだと思います。

道の右側をさらに進んでいきますと、そこにはJMUの正門が。
車で出勤する人も門でカードリーダーを通すようです。

自衛隊もですが、こういう企業では関係者以外の入場は厳しく制限されます。

「ものづくり日本大賞」というのは、HPによると

「新時代のものづくりに挑戦する人」

に与えられる奨励賞です。
調べてみたところこれが大変な数の受賞者で、JMUが受賞した
第7回には内閣総理大臣賞だけで7件42名。
経産大臣賞18件、特別賞15件、優秀賞18件という大盤振る舞い。

もしかしたらハズレなし?とか考えてしまったのですが、
それはともかく、JMUの受賞は

革新的構造・施工技術「構造アレスト」で実現した
安全・環境性能に優れるメガコンテナ船

に対する評価でした。
少し前まで「NYK LINE」というコンテナ船が工事中だった記憶がありますが、
それがそうで、この開発により、

「安全性能が高く、環境性能の優れた大型コンテナ船を実現した。

 このことが評価され、造船業としては異例の大量受注を獲得している。」

ということです。

ここまで歩いてきたら右側に歩道がなくなってしまったので左に移動。
見えてきたぞピンクの船が。

一番最初に出現する船渠。
今は何にも行われていません。

どお〜〜〜〜〜ん(効果音)

なんとここでもONEの蛍光ピンクのコンテナを建造中だ。
これを見るに、縦にちょっとずつつ増やしていく感じで作るみたいですね。

「大和大屋根」は産業遺産に指定されたので今後も使い続けます。

以前も同じ場所から写真を撮ったことがありますが、あの時とは
カメラの性能がずいぶん違うので、細部がよくわかります。

ふと山の斜面を見ると、五重の塔があるのに気がつきました。
真言宗萬願寺というお寺の五重の塔で、夜はライトアップされるそうです。

ここの境内から見る呉港の眺めはそれは素晴らしいとか。

Googleさんはアレイからすこじまにいくにはとにかくまっすぐ行け!
とおっしゃるのでその通りにしたら道がこれしか無くなりました。

地下道だと・・・?

なんなのこれ。
ただしこの地下道、隅っこにお掃除セットが置いてあって
チリひとつなく異様に綺麗です。

というのも、ここを通る人というのはその全員がJMUの社員で、
呉駅方面から来るバスから降りると全員がここを通り、
右に曲がって出社するためだけに作られた地下道だからでした。

地上に上がってみるとそこには逆車線のバス停があるのみ。
嫌な予感がしてバス停の向こうまで行ってみたら

歩道がありませんでしたorz

なんと、徒歩ではこの道沿いに歩いていくことはできないのです。
仕方なくわたしは今まで来た道を戻り始めました。

これはバス停のベンチのサラリーローン(死語?)の宣伝ですが、
「エリース」という名前にピンと来たので写真を撮っておきました。

戻る道沿いに、これも以前一度紹介している「歴史の見える丘」、
つまり呉中の石碑的なものをまとめて置いてしまったぜ!的な
なんでもありの一角が現れます。

この慰霊碑には、終戦直後の枕崎台風、昭和42年の集中豪雨、
平成7年の水害などが全て刻まれています。

この澤原為綱翁の像のように、戦時中金属供出で像が無くなり、
台座だけになったものも、市街地から運ばれてきています。

戦後になってもう一度澤原さんの像を作るという話にはならなかったんでしょうか。

そして「戦艦大和の碑」。
海軍墓地にも壮麗な碑があるわけですが、それだけではなく
こういうところにも建ててしまうという・・。

「大和碑」の前にあるのはただし戦艦「長門」の徹甲弾です。

反対側から見た「噫戦艦大和之碑」。
なぜ「噫」が付くのかは謎です。

この碑についてはあネットに情報が出てこないのですが、
昭和44年当時、まだ生存していた旧海軍軍人や自衛隊の海将などが
地元政財界とともに発起人となって建造したらしいです。

呉軍港の造船船渠に置かれた基礎石なども、ここにまとめてあります。
読みにくいですが、明治年間に着工された船渠の礎石。

「第6工場」「明治22年起工」などの石をまとめたタワー。
このレンガは旧鎮守府開庁当時の庁舎建材、土台の縁石は
境川にかかっていた二重橋の踏み石をそのまま持ってきたそうです。

明治27年6月起工。
これらは全て海軍工廠の礎石です。

呉地方隊の通用門まで戻ってきました。
正面をバッチリ写真に撮るのは憚られたので、少し離れてから
振り向いて素早く一枚撮ったのですが、拡大してみると
警衛の自衛官たちがちゃんとこちらをチェックしていました。

さすが怪しい動きをしている怪しげな人物を見逃さない(笑)

ホテルの近くまで帰ってきて驚きました。
1時間前まで川底が見えていたのに、溢れそうに水嵩が増えてます。

一体どういう仕掛けでこんなことになったのでしょうか。

 

というわけで二日にわたって呉の街を歩いてみましたが、
やはり車の目線とは違う発見があり、呉の街の別の面を知った気がします。

今度はなんとかして潜水艦基地まで歩いていくぞー!

 

終わり。

MiG-15と朝鮮戦争時代の航空機〜スミソニアン航空宇宙博物館

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ウドバー-ヘイジーセンター、スミソニアン別館の展示です。

入って右側のコーナーを歩き、一周してきたとき、
前にもお話ししたブラックバードSR-71の尾翼に気がつきました。

スカンク・・・・。

途端にブラックバードを開発したロッキード社のプロジェクトチームの

「スカンク・ワークス」

という名前を思い出してしまうわけですが、それにしても可愛いですね。
英語のウィキによるとロゴはこれ。

スカンクが腕組みして考えている→スカンク・ワークス

というコンセプトは同じながら、明らかに機体に描かれたロゴがキュート。
(個人的な意見です)

この名前は、プロジェクトチームの設計室が何かの工場の目の前にあって、
その匂いがあまりに酷いため、電話に出た人がつい自虐って、

「はい。こちらスカンクワークスです」

と漫画に出てくる蒸溜所の名前で答え(アメリカ人らしい!)、
それがウケたので正式名称にしてしまったという経緯があります。

ちなみにスカンクワークスはその後、あのF-117を生み出し、
今でもアメリカの航空産業の最先端を突っ走っております。


さて、今シリーズはそのブラックバードも投入された、
ベトナムー朝鮮戦争の翼をご紹介します。

  

「航空機の形の変遷」と右側にあり、先日来
「ミッドウェイ」シリーズでお話ししてきたクーガーとパンサーがあります。

左上は一足早くご紹介したB-26インベーダー、その下は
どう見ても無駄に大きすぎるコンソリのB-36ピースメーカー。

大陸間爆撃機(インターコンチネンタル・ボマー)の癖に
どの口でピースメーカー(笑)などというやら。

岸首相ではないですが、ついこう言いたくなりますね。
責めているわけではありませんので念のため。

ちなみに、「核武装は抑止力」という核保有国のスタンダードな
エクスキューズは、この頃盛んに行われていた(圧倒的な米のリードでしたが)
米ソの核開発競争から生まれたらしいですね。

そして左の一番下、これが・・・・、

ノースアメリカン F-86A セイバー

 

 ベトナム戦争時代は「ミグの小道」(MiG Alley )と呼ばれる
最危険空域に出撃しては、MiG-15と戦った戦闘機。

セイバーはアメリカで作られた最初の後退翼ジェット戦闘機です。

朝鮮戦争におけるヤルー川上空の空戦で

「偉大な戦闘機」

としての評価を得ることになりました。
中国国境を超えて敵を追跡することができないにも関わらず、
セイバーのパイロットは記録的な撃墜をMiGに対して立てたのです。

セイバーの設計者は鹵獲したドイツの空力データを研究し、後退翼は
高速時の制御が従来のものより容易であることを突き止めたのです。

このF-86Aは、朝鮮戦争でMiG-15との間に行われた空戦を知っています。
金浦にあった航空基地から邀撃に上がることが多かった、
最初のセイバー飛行隊第4戦闘機部隊のマークを付けています。

朝鮮戦争 1950−1953

これを見て、朝鮮戦争がたった3年しか行われなかった、
というのが何か不思議な気がするのですが、それはともかく。

朝鮮戦争とベトナム戦争の間の航空攻撃というのは、
従来の武器で限られた体制で行われました。

広いフォーメーションを取る第二次世界大戦の時の重爆撃機は
目標を定めるということは滅多にありませんでした。

北朝鮮も北ベトナムも、その戦略的施設は空襲に対して脆弱で、
彼らの後ろ盾となっていた中国とソ連こそが敵であるとして
アメリカはこれを攻撃することに消極的だったのです。

 

アメリカ側にとってどちらの戦争も空軍、海軍、海兵隊の戦闘機と
爆撃機の総力を上げて敵の供給ラインを攻撃したという構図でした。

ピースメーカーのような核も搭載出来る爆撃機などの航空戦力は
はっきり言ってどちらの戦争にも決定的な役割となりませんでした。

 

と書いてあります。そうだったんだー。
その割には左の写真、盛大に爆弾をバラまいておりますが。

おっとこれはあの憎っくきB-29ではないですか。
なんとB-29、ビンテージながら北朝鮮に爆撃機として投入されていた模様。

 

そして写真右側が、あの

ミコヤン・グレヴィッチ MiG−15 戦闘機

です。

ミコヤン-グレヴィッチ設計事務所は、冷戦期初頭のジェット戦闘機、
最も有名なMiG−15の主力設計者として華々しく航空界に登場しました。

初飛行は1947年、指導者であったヨシフ・スターリンの要望で
先進的かつ高高度における要撃機としてデザインされたものです。

MiG−15はそのスピード、駆動性、そして重武装が可能なことで
朝鮮戦争において劇的なデビューを果たし、
かつ西側諸国に衝撃を与えたといわれています。

ミコヤンの設計のユニークだったところは、動力にイギリスの
ロールスロイスから取り寄せた、

ニーン・ジェットエンジン

を取り寄せて、これを無許可でコピーし改良したものを積んだことです。

言いたくはないですが、こういうルール無視をするのって
共産主義国家の技術者に多いって感じがしますね。なりふり構わないっていうか。

しかも、ロールスロイスのエンジンそのものも、ミコヤンが
ロールスロイス社のパーティに招かれた時にビリヤードで勝ち、
その褒美に購入の許可をもらった、という経緯がありました。

まあしかし、くれると言っているものを貰わないのは馬鹿、
盗める技術を盗まないのは阿呆、というのがあちらの常識。

お人好しなロールスロイス社を彼らは出し抜いたと思ったでしょうし、
ソ連ではそんな彼らはヒーローだったでしょう。

おそらく、今でも。

 

朝鮮戦争の間、MiGー15はアメリカ軍のF-80シューティングスター、
そしてF-86セイバーと制空権(エアー・ドミナンス)を巡って対峙しました。

 

画期的だったのはまずこれがソ連にとって初めての
後退翼を持つジェット戦闘機だったことで、さらには
コクピットは与圧されており、イジェクトシートが装備されていました。

これらもそれまでのソ連が持っていなかった機能ばかりです。

このMiG-15は、そのシリーズが最も広く製造された航空機といわれ、
その派生形は17,000種類に及ぶと言いますから驚きます。

その十分の一の1,700でもそりゃ多い、となりそうですが。

このことを、Wikipediaにはこう記してあります。

派生型は量産されたものだけでも数知れず存在し、
西側ではいまだにきちんとした認識はされていないようであるが、
初期型のMiG-15、改良主生産型のMiG-15bis、
複座練習機型のMiG-15UTI(またはUTI MiG-15)
の三つの名称を把握しておけば大抵は事足りるであろう。

・・・事足りるって何に足りるんだろう。

というツッコミはともかく、これだけ種類が膨大になったのは、
ソ連以外の国でも生産され、それに全て改修型、派生型が生まれたからです。

アメリカ軍の航空機の進化は、兵器を装備する航空機のサイズ、
または能力に合わせた兵器の開発によって推進されてきた面があります。

朝鮮戦争ではB-29に対して行われた高周波電力伝送のメソッドを使った
短距離のナビゲーションシステムが使われ、たとえ目標の天候が悪くても
爆撃機の広範囲への攻撃を可能にしてきました。

ベトナム戦争ではますます洗練された「賢い」兵器が投入されるようになり、
その結果、過去の多くの爆弾は「アホ」ということになりました。

(現地の説明には本当にこう書いてあります。”dumb"= 馬鹿・うすのろ)

これらの新しい精密兵器は、

「戦略的爆撃は、大規模な爆撃機タンクを搭載する
大型爆撃機で行われ、ゆえに民間人の死傷者数が多い」

という従来の常識的な考え方を覆したと言ってもいいでしょう。

とはいえ嫌味な言い方をあえてさせていただくとするなら、
第二次大戦末期、アメリカ軍が東京を空爆することになったとき、
仮にこのころの技術があったとしても、それでもなおかつ
あのカーチス・ルメイがその爆撃方法を選んだかどうかは疑問です。

 


さて、このような新しい精密攻撃を行う兵器が、様々なバリエーションで
航空兵力に搭載されるようになってきたわけですが、その結果として
1991年のペルシャ湾岸戦争では巡航ミサイルが艦船ならびに
B-52爆撃機から発射され、レーザー誘導爆弾がF-117(ナイトホーク)、
A-6イントルーダーなどから落とされ・・・・いわば「新しい波」が
イラクを攻撃したということになります。

攻撃航空機のタイプによる効果の違いではなく、あくまでも
敵に与えた実際のダメージを勘案することで開発された攻撃法は、
空中または地上のターゲットを対象とした精密兵器の開発によって
一層強化されていくことになります。

ロッキード T-33A シューティングスター

シューティングスターというと、わたしなど入間での墜落事故と
その墜落機を操縦していたパイロットたちの自己犠牲を思わずにいられません。

これは「Tバード」という名称で知られていたロッキードの練習機で、
アメリカでは1947年から、偶然のようですがセスナの「ツィート」、
T-37に交代する1957年まで空軍で使用されていました。

当博物館所蔵のT-33A-5-LOは、1954年まで空軍で運用され、
その後はワシントンD.C.のナショナルエアガードのものとなり、
1987年には博物館に寄贈されていたものです。

機体を見てものすごくピカピカしていることに気づきませんか?

生まれて一度も塗装されたことのない飛行機だからなんですね。
自然の金属地は磨き上げるとここまでなるという驚くべき見本です。

練習用にしか使われたことがなく、その時に装備していた銃は
展示に当たって全て取り外されました。

 

こんなものも飾ってありました。

やはりMiG−15を運用していたポーランド空軍将校のフライトスーツです。

1953年3月5日、ポーランド空軍のフランシスチェク・ヤレツキー大尉は、
4機のMiG-15とともにポーランドのストロプ基地から哨戒に出ましたが、
レーダーにソ連軍機を発見したため増槽を落とし、隊形を崩して急降下しました。

ところがソビエト軍は彼らの迎撃をすでに予想しており、
「Oparation Krest」と名付けられた警戒迎撃システムコードを準備して
つまり飛んで火にいる夏の虫を待ち構えていたのです。

隊形を解散して一機でやってきたヤレツキー機はソ連軍に追いかけられました。

彼はデンマークのボーンホルム島にアメリカ軍がいることを知っていたので、
そこに逃げ延びて着陸することで追手から生還することができました。

このジャケットの説明の最後はこのようなものです。

「このフライトスーツはヤレツキー大尉が自由世界
(フリーダム)への必死の飛行の際に着ていたものである」

いやまー、いいんですけどね。
アメリカ基地を「フリーダム」だと思ったからそこを目指した?
流石にそこまで考えていなかったと思うけどどうでしょう。 

ここにあるヒューイはもう紹介がすんでいますが、残っていたのがこれ。

シコルスキー HO5S-1

海兵隊で負傷者救出のために投入されたヘリで、デビューは
朝鮮戦争の最後の年になります。

他のヘリのように負傷者を外付けの担架に乗せる方式ではなく、
二人の死傷者と付き添い一人を内部に乗せることができました。

フロントのバブルウィンドはそのものが開くので、
内部へのアクセスが簡単ですし、後部にマウントされたエンジンは
搭載重量の制限を飛躍的に大きくしたといわれます。

ヒンジの改良によってローターの動きに安定性が増し、
さらには夜間飛行も可能になりました。

 

このHO5S-1は朝鮮戦争に参加して生き残った数少ないヘリの一機で、
VMO-6部隊に配備され、朝鮮戦争で重症を負った海兵隊員を、
少なくとも五千人以上輸送したといわれるヘリコプターです。

戦後は民間のヘリコプター会社に払い下げられ、
エアタクシーや農薬散布、配線のテストなどの仕事をしていましたが、
スミソニアンに寄贈され、朝鮮戦争で活躍した頃の塗装を施されて
かつて戦場から人命を救っていた頃の姿を後世に残しています。

 

続く。

 

 

ジョセフ・ヒコ〜彼レ如何ニシテ亜米利加人トナリシカ

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メア・アイランド海軍工廠跡の展示には、一見海軍工廠となんの関係が?
と思われるようなテーマのものもあるのですが、それも辿っていくと
「船」や「海」に関係のあることだったりします。

「アメリカ彦蔵」と言われ、日本人で初めてアメリカの市民権をとった
ジョセフ・ヒコこと濱田彦藏の写真を見たときもはて?と思いましたが、
よく見ると、こんな・・・

 

「KANRIN MARU」コーナー?
隣にはここメア・アイランドに寄港した事があるあの
咸臨丸についての紹介があるのですが、ヒコは別に咸臨丸とは関係ないのに・・。

まあ、遠い国日本から船でやってきた、ということでまとめたのでしょう。

ここに書いてあることをそのまま翻訳してみます。

ジョセフ・ヒコ(播磨国に浜田彦藏として生まれる)は、
1837年9月20日生まれ。
自然発生的にアメリカ合衆国の市民となった最初の日本人であり、
また日本で最初の新聞を発行した人物である。

彼の父親は地方の地主で、亡くなった後彼の母は再婚した。
彼は寺子屋(temple school)で学んでいたが、12歳になった時
その母親も死亡したため、エリキ丸という貨物船に乗っていた
継父に養育されることになった。

彼らが船で江戸(東京)に観光に行ったときのこと、
太平洋で台風に見舞われ、乗っていた船が難破した。

17名が助かって海で漂流していたところ、彼らを通りすがりの
アメリカの貨物船「アウックランド」が発見し、救助したのである。

そのまま彼らはアメリカに連れてこられ、カリフォルニア、
サンフランシスコににやってきた最初の日本人となった。
時は1851年2月のことである。

貨物船の料理人だった「センタロー」という人物は、
写真を撮影された最初の日本人となった。

 

まず、彼が寺子屋で学んでいたことですが、裕福な家の子弟は
普通寺子屋に行くことはありませんでした。
これは、おそらく彼の父が亡くなり、母が再婚した相手が
船員であったことと無関係ではないでしょう。

 

それから「センタロウ」という料理人が最初に写真を撮られた日本人、
という記述ですが、これは仙太郎ではなかったという証拠が近年出てきました。

平成18年(2007年)3月27日放映の『開運!なんでも鑑定団』
にてスイスの写真研究家、ルイ・ミッシェル・オエールから
彦蔵(ジョセフ・ヒコ)の写真の鑑定依頼が寄せられたのです。

鑑定した結果、彦藏がサンフランシスコ到着後に撮影されたものと断定、
これが日本人を撮影したダゲレオタイプ写真の
最古の記録を塗り替える大発見となったのでした。

お宝データ

当時14歳の彦藏の肖像です。

しかし、濱田彦藏、決して美青年というのではありませんが、
怜悧さがその目の光に見て取れ、冒頭画像に選んだ写真でも
不鮮明ながら彼が魅力的な人物であったらしいことが想像されます。

今なら雰囲気イケメンと言われるタイプかもしれません。

関係ないですが、こんなページが見つかりました。

濱田彦藏のオリジナルTシャツ

こんなの誰が着るの。

 

翻訳の続きです。

1852年、一行はマシュー・ペリー艦隊司令官にマカオに同行した。
日本の鎖国解放交渉をする手伝いに抜擢されたのである。

ヒコはその時に出会った通訳(アメリカ人)に、一緒にアメリカに戻り、
彼の手伝いをするために英語を勉強してくれないかと頼まれた。

当時彼は15歳で、一般的にいうと、語学習得にはもう年齢が経っていますが、
おそらく滞在期間の1年で、彼は相当英語が喋れるようになっていたので、
それを見込まれアメリカに連れて帰られた、ということになっています。

しかし、これは日本語のWikipediaとは大きく内容に相違があります。
ウィキ記事をまとめると、

アメリカ政府より一行を日本へ帰還させるよう命令が出る

ペリーの艦隊に同乗し帰国することになり1852年香港に到着

しかし、ペリーがなぜか現れない

待っている間、香港で出会った日本人・力松(モリソン号事件での漂流民)
の体験談を聞き自分達がアメリカの外交カードにされるかもしれないと懸念

10月に亀蔵・次作とともにアメリカに戻る←今ここ

この時、一行の中でサスケハナ号に乗って日本に行ったのは仙太郎だけで、
ヒコ三人以外は皆香港で日本人に匿われ、のちに清国船で帰国しています。

とにかく、この博物館の説明は無茶苦茶で、彦藏が
日本に戻ってペリーの通商交渉の手伝いをしたことになっています。

しかし気を取り直して続きを翻訳します。

ヒコは1853年アメリカに到着した。
彼はボルチモアにあるローマカトリック教会の学校に入学し、
1年後「ジョセフ」という洗礼名を与えられた。

1957年西海岸に移った彼は、当時のカリフォルニア議員だった
ウィリアム・M・グィンの秘書としてワシントンDCに同行。

1858年までグィンの仕事をする中、ジェイムズ・ブキャナン大統領に会い、
日本の紹介を行なった史上初めての日本人となった。

その後彼はジョン・M・ブルック少佐に同行して中国並びに日本の
沿岸部を調査する航海にも参加している。

同年6月、彼はアメリカ市民となる権利を付与された最初の日本人となった。


さて、この部分、Wikiではどうなっているでしょうか。

サンフランシスコに帰国後、税関長のサンダースに引き取られた。

その後、ニューヨークに赴く。

んん〜?
議員秘書の話はどこに行ってしまったの?

ウィリアム・グィン

この部分は日本のwikiが無茶苦茶です。
英語のウィキではグィン上院議員のことはちゃんと書かれています。

1853年、日本人として初めてアメリカ大統領(ピアース)と会見した。

おそらくボルチモアにピアースが来た時に会ったのでしょう。

またサンダースによりボルチモアのミッション・スクールで
学校教育を受けさせてもらい、カトリックの洗礼も受けた。

1858年にはピアースの次代の大統領ジェームズ・ブキャナンとも会見した。

そして1858年、日米修好通商条約で日本が開国した事を知り
日本への望郷の念が強まった彦蔵はキリシタンとなった今では
そのまま帰国することはできなかったので、帰化してアメリカ国民となった。

 

上院議員の秘書になったという話を省略してしまうと、ヒコが
どうしてブキャナンと会見できたかわかりませんね。

最後の段では、ヒコがなぜアメリカ国籍を取ったかが説明されています。

当時日本人が渡航で海外に行くことは禁じられていました。
漂流していたのを助けられ外国に連れていかれたただけならともかく、
現地で洗礼を受けてジョセフという名前になってしまった以上、
再入国拒否どころか国禁を犯したかどで逮捕される恐れがあったのです。

これを避けるには、日本の法律が適応されないアメリカ人として入国するしかありません。
つまり、彼は、

日本に帰国するために日本人であることを捨ててアメリカ人になった

ということになります。
このパラドックスはさぞ若い彼を苦しめたことと思われます。

 

お次は英語版Wikiです。

1859年ヒコはUSS「ミシシッピ」で日本に帰国した。
彼はアメリカ領事であったE・ドアーに会い、通訳の仕事を得る。

1860年横浜で貿易商館を開き、そこで
サンフランシスコからパートナーがくるのを待っていた。

日本のウィキではこの「ドアー」がタウンゼント・ハリスとなっています。
どっちが正しいのかもうわかりません(投げやり)

 

ところで、本日冒頭に描いたヒコは、日本に帰国した頃のものですが、
何歳くらいだと思われますか?

横浜に着いたとき彼はまだ22歳。
アメリカで上院議員の秘書をしていたのはその2年前なのです。
二十歳の若者が一度ならずアメリカ大統領に謁見し、祖国について話す。

これは彦蔵が決して凡庸な人間でなかったことを意味します。

 

ところで、赤字にした部分に「パートナーを待っていた」とありますね。
(日本語のWikipediaには記述なし)はっきり書かれていないのですが、
彼が待っていた「パートナー」とは、次の記述から女性だったと思われます。

「しかしながら、その関係は1861年3月1日に解消(dissolved)された」

サンフランシスコから恋人を呼び寄せたものの、彼女は
日本の生活に馴染めず、3月1日付でお別れをしたってことじゃないでしょうか。

なんで日付まではっきりわかっているのかわかりませんが。

「失意の一年を送った後(after doing poorly for a year)
ヒコはUSS「キャリントン」でアメリカに戻る」

つまり、彼は「失恋帰国」をした、というのです。
ところが日本のwikiではこれが、

「当時は尊皇攘夷思想が世に蔓延しており、身の危険を感じて帰国」

となっています。
どちらが正しいというより、どちらも正しかったのではないでしょうか。

 

この帰国中の1862年には、なんと彦藏、ブキャナンの次の大統領、
アブラハム・リンカーンとの会見を果たしました。

政治家でもないのに、三代にわたる合衆国大統領と公式面会した日本人は、
現在に至るまで濱田彦藏ただ一人だと思うのですがどうでしょうか。

帰国後、彼は「漂流記」という体験記を日本で出版しています。
漂流したときのことのみならず、アメリカでの体験もそこには描かれていました。
そして、その流れで、彼は「海外新聞」という日本語の新聞を出版し、
これが日本における2番目の(最初はその2年前に発刊された『官報バタビヤ新聞』)
新聞となりました。

これを「国内初めての新聞」として、彼を

「本邦民間新聞創始者」「日本新聞の父」

とする向きもあるようです。
ただし、赤字だったせいで海外新聞は数ヶ月で廃刊となっています。

この数ヶ月の間にリンカーン暗殺が起こり、「海外新聞」では
このことを記事として取り上げた唯一の日本の新聞となりました。

彼はその後も京都と大阪での想い出を綴った「困難の時」、また、
1869年起こった米騒動についての見聞記も書き残しています。


33歳で造幣局の創設に関わり、35歳で大蔵省で国立銀行条例の編纂に関り、
茶の輸出、精米所経営を行うなど、語学力と人脈を生かして
公私にわたり大活躍を続けた彼ですが、もっとも大きな彼の功績は、
木戸孝允と伊藤博文に薩摩藩に非公式に呼ばれ、合衆国憲法と
英国憲法について彼らの質問に答えたことではないかとわたしは思います。

これは、大日本帝国憲法制定の20年も前から、木戸らが世界の憲法について
調べるなどしてその準備を始めていた、ということを表します。

彼らは彦藏を長崎に呼び寄せて彼をエージェントに据え、
彼は、ほぼ2年間、無償でその仕事をしていました。

しかものちに彼は伊東博文が英国に訪問することになった際、
その英語力を生かしてHMS「サラミス」の手配を行うなど、
私心のない働きを日本政府に対して行なっているのです。

HMS Salamis 

このように彼は自らの数奇な運命から得ることになった技能と経験を生かして
祖国のために粉骨砕身働き、かつ国政に限りなく近い場所に居ながら、
決して政治に携わることはありませんでした。

なぜなら彼はアメリカ人だったからです。


ジョセフ・ヒコ、濱田彦藏が心臓病のため61歳で亡くなったのは
1897年のことでした。

アメリカ市民であった彼の亡骸は青山墓地の外国人区域に葬られました。

墓石には、横書きで刻まれたアルファベットの彼の名前の下に

「浄世夫彦之墓」

と当字のジョセフ・ヒコの名が刻まれています。
彼の日本名は、墓石に刻まれている碑文の冒頭の

浄世夫彦ハ元名ヲ濱田彦蔵ト云フ

という一文に残るのみです。

アメリカ国籍を取得した時、つまりアメリカ人となった時に、
彼は日本の名前、濵田彦藏を完全に捨て去ったのです。

アメリカ人である彼は日米のどちらに住むことも可能でしたが、
両国間を往復しながらも結局日本に骨を埋める選択をしました。

日米の伝記には決して出てこない当時のアメリカでの過酷な体験が
彼にそれを選ばせたのではないかと思うのはわたしだけでしょうか。





 

 

TAPS(鎮魂喇叭)が鳴るとき〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント

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不肖宮嶋茂樹氏の「鳩と桜 防衛大学校の日々」に掲載された
防大生たちのひたむきな表情と真摯に明日の防人を目指す姿を見るうち、
またウェストポイントについて無性に書きたくなりました。

見学者のための「ウェストポイント紹介ミュージアム」展示、
前回の続きからご紹介していくことにしましょう。

このミュージアム、卒業生の寄贈によって建てられたものですが、
とてつもなくお金がかかっています。

アメリカでは事業に成功し、功なり名を遂げた卒業生が
自分の卒業した大学に、莫大な寄付を行うものですが、
ウェストポイントの場合は実業家ではなく政治家かもしれません。

特に保守派の政治家なら、アナポリスかウェストポイントを出ていることは
大変な強みになるため、ドナルド・トランプは実はこの点
密かな劣等感を抱いているらしい、という話をどこかで聞いたこともあります。

 

さて、パスポート のミュージアムの中には講演会なども行えるホールがあって、
ここでは15分ほどの「ウェストポイントの歴史」を上映していました。

南北戦争で「青と灰色を率いた」とあります。

英語の「ブルー・アンド・グレイ」にはいろんな意味があるのですが、
一般的には南北戦争における連合軍のブルー、反乱軍のグレイをいいます。

わたしがこの意味を最初に知ったのはジャズの名曲、
「オールド・フォークス(Old Folks)」の歌詞でした。

♪彼らを理解しようなんて思わないこと
ブルーとグレイ、どちらのために戦ったとか
なぜなら彼はそれは外向的で民主的だから
もうやりたいようにやらせてあげればいいんだ

毎晩夕食の後 彼のおなじみの話が始まる
あの日リンカーンのゲッティスバーグでの演説を
彼がどんな風に聴いたかなんて話が ♪

どちらのために、ってこの爺さんはブルー(北軍)だろ?
リンカーンの演説を聞いてたってことは。
というツッコミはともかく、かつての戦士も今はただの爺さん、
彼らがいなくなったらこの世界は寂しくなるね、という歌です。

自分もまたその「オールドフォークス」となる運命は無視か?



さて、この絵に描かれた二人は両軍の将と思われますが、(誰かわかりません)
「リード」の意味は、つまり北軍のグラント将軍、シャーマンはもちろん、
南軍のリー将軍もジョンストンも、全員が陸士出身だったということです。

同じ陸軍士官学校を出ていながら互いに殺し合いをしたことに対し
何か反省の一言はないのか、と思わずツッコミを入れてしまいましたが。

南北戦争についての話では、アメリカ人でない我々には全く知るすべもない
同級生同士の戦いとか、そういう「秘話」がたくさんありそうですね。

出たよ、「ロング・グレイ・ライン」。

coralさんにいただいた各国各軍隊の行進比較映像によると、
はっきりいって彼らの行進が一番「なってなかった」わけですが(笑)
こうしてみると昔ながらの灰色の「肋骨服」を未だ変わらず継承し、
深々と儀礼用帽子を被り歩く姿は、やはり凛々しくかっこいい。

以前も話題にした同名の映画、DVDを取り寄せましたので
面白かったらまたここでご紹介するつもりです。

映像ではウェストポイントの厳しい訓練の様子が次々と映し出されました。
防衛大学校では陸上要員となることを進路決定して行う訓練ですが、
こちらは最初から陸上要員なので入学するなりガンガンいきます。

まあ、厳しいってもこんな低いところなら落ちても大丈夫。
楽勝楽勝!って感じが、やっている人の表情にも感じられますね。

しかし遊びやないんやで。これは。

しかし一通りの基礎を学んだ後は同じことを高所で行います。
さすがに落下する可能性をを想定して安全ベスト着用です。

これはミュージアムの天井にあった実物大模型ですが、
これ実際にやってみるとかなりきつそうです。

次のコーナーに足を踏み入れて驚きました。
実物大の士官候補生の私室が再現されているのです。

わたしたちはその時息子を大学の寮に見送ったばかりで、
その意味でも一般大と軍学校の違いがよくわかりました。

まず・・・・広い!

クローゼットは同じくらいの大きさでしたが、とにかく
家具などを置いていないスペースが広すぎます。

こういうものも部屋に置いておくんですねえ・・。
本物ではなく訓練用の銃だと思うんですがどうでしょう。

正帽は夏冬用、儀式用三種類を並べられる棚。
学生生活に必要な全ての衣類に加え、私服(一着だけ)、
そして一番右にパジャマも掛けてあります。

ベッドがとても高くて、ベッド下にトランクなどを収納するのは一般大と全く同じ。
ベッドの毛布はOD色で、ホテル式のメーキングをすることになっており、
掛け布団は自衛隊のようにきっちりと四角く畳んでおきます。

しかし、いろんなところであの自衛隊名物「バームクーヘン畳み」
を見てきたわたしの目には、この畳み方は甘い。甘すぎる。

写真だと本物みたいですが窓の外に見える景色は写真の合成です。
実際にある部屋から見える景色をそのまま再現しています。

勉強机の上にある本棚には、

「アメリカン・ポリティックス・トゥデイ」

「ミッション」

「マイクロ・エレクトロニクス」

「エクスペリエンス・ヒストリー・1877」

「デジタル・エレクトロニクス」

などの本が並んでいます。
どれも教科書なんでしょうか。

これによると、候補生宿舎のことを「バラック」と言います。
バラックでは36名を一単位とする学生隊での生活を基本とします。

バラックでの生活で最も大切なことは、部屋を清潔に保つこと。
そして整理整頓を欠かさないこと。

これは世界的に軍隊というものはそういうことになっているからで、
埃をためないとかベッドメーキングは完璧にとか、
それらや装備や制服の手入れがちゃんとできているかどうかを
定期的に検査されるというのも防大と全く同じです。
(ベッドが外に放り投げられたりするかどうかは不明)

この「SAMI」と呼ばれる威儀清潔検査は土曜の朝に行われますが、
プリーブ、新入生にとってありがたいことに、抜き打ちではなく
日も決まっているので事前に掃除をしておくことはできます。

甘い、と防大出身者なら全員が口を揃えていうことでしょう。

チェックを行う上級生は、写真右側のバインダーを持って部屋を周り、
チェックリストに印をつけていくのです。

どれどれ、そのチェック項目とは?

「フロアに掃除機はかかっているか」

「調理道具が部屋にないか」

「カーペットに掃除機はかかっているか」

「デスクの後ろもちゃんと掃除してあるか」

って、要するに掃除してあればいいんだろ!と言いたくなりますが、
まあ要するに上級生が小姑のようにデスクの上を撫でて、
埃のついた(かどうかわからない)指にふっと息を吹き、

「ダメだな」

などとサディスティックにダメ出しをするわけですねわかります。

次のコーナーでは「カデットの1日」として、候補生生活を紹介しています。
おヒマな方は上の英文を読んでいただければわかりますが、とにかく
朝起きてから晩寝るまで、候補生の生活はみっちりとスケジューリングされ、
未来の指揮官になるために必要なカリキュラムをこなさなくてはなりません。

起床は5:15。
そんなに早く起きて何をするかというと、ランニング(など)です。
身なりを整え20分で朝食を済ませると、7:30には授業が始まります。

写真のように、最新の設備を使った科学系の授業や、
あるいは体力テストを伴う肉体鍛錬なども授業としてしょっちゅう行われ、
クラスとクラスの間の移動は早足で行われます。

アナポリスと違って地下道なんて洒落たものはここには存在しないので、
どんな天候でも彼らは移動を屋外で行うことになります。

しかし、わたしが訪問したこの夏の日、その日差しの強さと蒸し暑さは
悪名高き日本の都会と寸分変わらぬ過酷なものでしたし、
冬は冬でとにかく内陸特有の猛烈な寒さに襲われるここウェストポイント。
移動一つとっても結構大変なのではないかと推察されます。

1210、軍学校らしく皆で整列して食堂まで行進。
そして4,400人が一緒に食事をとります。

左の上から二番目は「ミッドデイ・スナック」を楽しむ候補生たち。
厳しいといっても食べ盛りの青年たちの集団ですのでおやつも必要。
おやつと言いながらピザ一切れ(アメリカのはでかい)とか、
メープルクリームがけパンケーキアイスクリーム添えを楽勝でかっくらってそうですが。

1250からの「ディーンズ / コマンダンツ・アワー」というのは
説明がないので詳細はわかりませんでしたが、学部長とか司令官とか、
とにかく偉い人の前で発表とかをさせられるんではないかと思います。

そして午後の授業は正式には1355に始まります。

面白いのは1615からの防大で言う所の「校友会活動」(クラブ活動)を
ここでは「マッカーサー・タイム」と称していることです。

検索してもなぜこれをこう呼ぶのかわかりませんでした。

夜1900、全員がフルドレスに着替えてディナーを取ります。

しかし、そこはアメリカ人、食事時間は30分で、食後は
自習したりテレビでスポーツ観戦したり、趣味の音楽演奏に興じたり、
というわずかながら楽しい自由時間を過ごすことになります。

朝5時に起きる割には就寝時間は遅く、なんと2330。
6時間も寝られないことになりますが、日中眠くないのかしら。

消灯時間のところに「タップス(TAPS )」とありますが、
このタップスというのは皆さんもおそらくご存知の喇叭譜のことです。

Taps

つい自分の趣味で海軍のタップスを揚げちゃったよ。

こちら譜面の読める人のために。

夏にアメリカで観た「ザ・ラストシップ」の最終シーズンにも、
ボロボロの艦上でタップスを吹鳴するビューグラー、という
アメリカ人にはたまらんに違いないシーンが挿入されていました。

タップスは「鎮魂喇叭」ですが、ウェストポイントではこれを
「ライツ・アウト」、つまり消灯時間の喇叭として演奏しています。

 

あるウェストポイント卒業生はこう言っています。

「2330、タップスがスピーカーを通じて構内に鳴り響く時が
1日のうちわたしの好きな時間だった。
その20秒かそこらの時間、わたしはこの国のために戦って
そして斃れていった人々のことに想いを馳せるのだ。

いつの日か、わたし自身の葬送でこの旋律が演奏されるだろう。
わたしは祈るのだ。
その時、わたしがこの旋律の表す名誉と敬意を捧げられるに
相応しい存在でいられますように、と」


続く。



GO ARMY, BEAT NAVY ! 〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント

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 アメリカ海軍について調べていると、時折目にすることになるのが
「BEAT ARMY!」という不穏な言葉です。

 

アメリカ海軍はこの「ビート・アーミー」をどこでも、例えば
日米海軍軍人の懇親会などで何も知らない日本の旧軍軍人を巻き込んだり、
レギュラスミサイルの発射管の蓋にわざわざ印刷したりしてアピールするので、
ははあ、アメリカ海軍、よっぽど陸軍が嫌いなんだなと思っていたわけですが、
ここウェストポイントに実際に来てみれば、なんのことはないこちらの方でも
「ビートネイビー」を叫んでいるらしい、ということがわかりました。

しかしわたしが当初思っていたより険悪な意味はなく、実はこれ、
陸海軍の間に行われるスポーツの試合、特にフットボールで、
ライバル同士である陸海軍が互いに相手をやっつけるぞ!
と挙げる「お約束」の気勢だったのです。

歴史的には大変古く、アメリカに陸海軍士官学校ができ、
スポーツ交流が始まると同時に

「Beat Army!」

「Beat Navy!」

が双方で叫ばれるようになりました。

その昔、ジャパンインペリアルネイビーとアーミーは犬猿の仲でした。
アメリカでももしかしたらそれ以上に仲が悪かったのですが、
アメリカのいいところは、上の方のいがみあいはさておいて、
どうせいがみ合うなら徹底的にやりあおうぜ!
と実際に「代理戦争」たるスポーツに昇華してしまうあたりでしょう。

帝國陸海軍も上の方はともかく下々だけでも野球かなんかで
徹底的にやり合うくらいの余裕があれば、もう少し戦況も
なんとかなったのではないか、と思うのですが今はさておき。

またよりによって、ボクシングの試合でネイビーの顔に
パンチが決まった瞬間を選ぶあたりにその本気度が現れています。
これにも書いてありますが、陸海軍士官学校は伝統的にライバル関係。

100年前は頭脳はもちろん肉体的にもエリートだった
カデット&ミシップマンたちは、一般大と比してもスポーツが強かったのです。
そもそも大学にいく青少年の数そのものが少なかった時代ですのでね。

しかし、今は?

猫も杓子も大学に行くことができるようになり、勉強できなくても
フットボールの有名選手なら諸手を挙げて入学させてくれる大学、
勉強せずに一日スポーツさえやっていればいい大学に
恐ろしいほどにカリキュラムが充実した士官学校が勝てるはずありません。

というわけで、21世紀となった現在、正直いって両校のスポーツレベルは
一般に比べいずれも大したことはありません。

しかし彼らのレベルが落ちたのではなく、他のレベルが上がっただけなので、
同じような条件な両者の力量のバランスはほぼ互角、
ということで今でもライバル関係は成り立っているというのです。

ネットでもいうじゃないですか。

「争いは同じレベルの者同士にしか発生しない!」(AA略)

って。


ところで左下にチアリーダーの写真がありますね。

アメリカのスポーツシーンに欠かせない華、チアリーダーですが、
陸軍士官学校にもちゃんとUSMA(陸軍士官学校のこと)
ラブル・ロウザースというチアリーダーがいる、と書いてあります。

まさかこのチアリーダーたち、カデットじゃないよね?

チアリーダーと選手の間に恋が芽生え・・・などという話も、
一般の大学では普通にありますが、学内恋愛禁止の(ただし一年の時だけ)
ウェストポイントではいろんな意味で起こりにくいかもしれません。

(もちろん可能性はゼロではないようで、学内カップルも当然いるらしい)

伝統的な陸海軍対抗試合のパンフレット各種。

両者の対抗試合にかける気合いは鬼気迫るものとなります。
他の学校はともかく、とにかく海(陸)だけには負けてはならん!
という悲壮な意気込みのせいで試合前には大変なことになるそうです。

特に一年生(プリーブ)は、試合前になると学内を四六時中歩きながら

「ゴーアーミー!ビートネイビー!」

を叫ぶことを強要され、学内がうるさくて仕方ないとか。
おそらくアナポリスでも同じような事情なのではないでしょうか。
(今度見学できたら確かめて来ます)

伝統の一戦、陸海軍フットボールで試合開始のトスを行う
当時の合衆国大統領ハリー・トルーマン。

1950年のゲームということですから、彼らはおそらく
この後朝鮮戦争、ベトナム戦争に出征したと思われます。

このゲームが、両者ともにたいした実力でもないにも関わらず
人気があるのは、彼らが軍人であり、特に上級生は
これを最後に任官して戦地に赴く運命にある、という
「イモーショナルな」ものが纏わっているからといえましょう。


アーミー・ネイビーゲームには歴代大統領が必ず観覧したり
トルーマンのようにトスを行う栄誉を担います。

海軍予備士官だったジョン・F・ケネディは1963年、その年のゲームを
観戦予定だったのですが、試合8日前、ダラスで暗殺されました。

直前だったこともあって史上初めてゲームの中止が検討されたのですが、
ケネディ夫人ジャクリーンが、

「夫は自分の死によってゲームが中止になるのを望まないだろう」

といったこともあって、予定から一週間後になる12月7日、
なぜかパールハーバーデーに合わせてこの年のゲームが行われ、
アナポリスが勝利をおさめました。

ウェストポイントのマスコットは「ラバ」です。

わたしのラバさん〜酋長の娘〜という歌がありますが、
それではなく、騾馬。ミュールです。
1899年に制定されたマスコットラバさんは、その名も

ブラックジャック。

ラバのくせに力こぶとシックスパック作ってんじゃねー(笑)

ところで・・・・ブラックジャック・・・だと?

それはもしかして、陸軍士官学校の偉大なる先輩、
「”ブラックジャック”・パーシング」から来てますか?

これ、もともと黒人部隊の指揮官だったパーシングが
「ニガージャック」と悪意を込めて呼ばれていたのを、
新聞記者が忖度してマイルドに言い換えたもの、
ってもちろんウェストポイントの皆さんは知ってますよね?

それに対し、海軍のマスコットはヤギさん。

今年の初めに掲載した「軍と動物」シリーズで、アナポリスのマスコットが

「ビル・ザ・ゴート」

であるとお話ししたことがあります。

ところでこの英文、読んでみてくださいよ。
海軍兵学校には専用の農場があってヤギが飼育されてるわけですが、
いつの頃からか、試合前になるとわざわざニューヨーク郊外から
ウェストポイントの生徒がワシントンまで出張して忍び込み、

ビルを誘拐していく

という悪ふざけが流行り出しました。

アメリカの大学生というのはよくライバル校同士で

「相手の学校に忍び込んで何かを盗み出す」

ということをやらかすのですが、(例えばMITの学生が
わざわざ大陸横断してCALTEC構内のキャノンを盗んで持って帰るとか)
このカデットによるヤギ強奪も歴史的に回を重ねているのです。

この写真は1953年、アナポリスからさらわれて来たビルと、
ビルをさらってきた誘拐犯人、いやカデット。

写真のキャプションには

 「それ以前にもこれ以降にもよくあること」

とさらっと書いてありますが、アナポリスも毎年のことなら
もう少し防衛するとか犯人を捕まえるとかせんかい。
候補生とはいえ一応軍隊なんだから。

1953年ビル誘拐時の新聞記事

アナポリスが防衛する気がないもんだから、
陸軍だけでなく空軍士官学校も調子に乗って試合前にビルを強奪、
空軍士官候補生らしく?爆撃機で輸送していったこともあるし、
あろうことか一般大学学生にも誘拐されているんですよこれが。

アナポリスがヤギ強奪を軍学校同士の「馴れ合い」として、
あー、別にビルって一匹じゃねーし、やりたければ拐えば?
と醒めた態度でいるだけなのかもしれませんが、それにしても
パンピーに領地侵入され、さらに捕虜を取られるとは情けない。

しかもアナポリス、これらの事態にも自衛手段を講じず、
なんとペンタゴンに直訴して誘拐禁止令を出させるという
あまり可愛げのない法的手段に訴えました。

んが、その後も粛々とビル誘拐は繰り返され、
YouTube登場後はついに計画から犯行現場までその様子がアップされる事態に。

Hey Navy... missing anything?

もうわたし、この1分くらいの映像を見て
久々に爆笑してしまいました。
これによると、2007年、誘拐したのは

ビル32世 ビル33世 ビル34世

の三匹。
もうはっきりいって普通に犯罪です。
しかしこれ、計画表なんか見てると結構いい作戦立案訓練になってないか?

しかし、ここでふと思いついてゲーム結果を調べてみると、

2002年から2015年までの全てのゲームで
陸軍は一度も海軍に勝っていません。

やっぱりヤギの逆鱗に触れたせいでしょうか。


ところで、両アカデミーには変わった慣習があります。
このアーミー・ネイビー試合の少し前に

「プリズナー・エクスチェンジ」

と称して留学生交換を行うのですが、まあていのいい人質ですわね。
試合前に変なことしやがったらこいつがどうなるかわかってるな的な。

互いの暴挙にブレーキをかけるためのこの捕虜交換ですが、ゲーム当日、
何もなくてよかったねということで捕虜釈放の儀式が行われます。

ところが、ある年に起きたビル・ザ・ゴート強奪事件においては、実は
ウェストポイント側のプリズナーが手引きを内部で行なったのではないか、
という黒い噂もささやかれているのだそうです。

人質として入り込み堂々とスパイを行うとは太え野郎だ。

というわけで色々と因縁のアーミーネイビーゲーム。

冒頭写真は、まだビルが誘拐の恐れもなく平和に暮らせていた頃、
1916年、ニューヨークで行われたアーミー・ネイビーゲームです。

このミュージアムの隣にはアーミーショップが併設されていて、
候補生が着るものなども売っていたりするのですが、
やっぱりありました。「ビートネイビーTシャツ」が。

個人的には「ビートアーミー」なら買ってもよかったかも・・・。


さて先般述べた理由で、一般的なレベルでの強豪とはいえなくなった
陸海軍士官学校フットボールですが、それでも何人かは
プロのフットボール選手になった人がいたというから驚きます。
不思議なことに彼らは全員がアナポリス出身者です。

水陸強襲艦「ペリリュー」に乗った後、軍籍にありながら、
ロスアンジェルスの名門、レイダースでプレイした、

ナポレオン・マッカラム(1963ー)

もその一人。
海軍はそれを禁止してはいませんでしたが、その後彼に「カリフォルニア」乗組を命じ、
彼はこれをレイダースでプレイさせないための配置だと不満を持ったようです。
その後彼は規定の年数(5年)を務めてからプロになりました。

ロジャー・スタウバッハ(1942ー)

は海軍補給隊指揮官としてベトナム戦争に参戦後プロ選手に。

フィル・マッコンキー(1957ー)

はやはり海軍のヘリパイとして4年サービスを務めてからプロ選手に。

カイル・エッケル(1981ー)

はあまりにもアカデミー時代に打ち立てた記録がすごかったので、
卒業するなりプロになったようです。
(巨額の違約金を海軍に払ったのかもしれません)

 

1890年から戦争中も一度も中止せずに行われてきた118ゲームの結果は、
2018年現在、

陸軍51勝 海軍60勝、7引き分け

ヤギ強奪の祟りのせいで(たぶん)陸軍は海軍に9試合リードを許しています。


最後に、アカデミーを卒業した陸海軍人で、老境に入っても

「ビート・ネイビー!」「ビート・アーミー!」

と書簡の最後を結ぶ人は昔から結構いるのだそうです。
きっと探せば、墓石に彫り込んでる人も一人くらいいそう(笑)

 あ、そうそう、今年の試合は真珠湾攻撃の日に行われます。
長年の低迷時代からついに巻き返したウェストポイントが勝つか、
王者の余裕海軍が勝つか 、白熱した勝敗の行方に目が離せない!!!


続く。

 

 

宣誓式とコンクリートのカヌー〜アメリカ合衆国 陸軍士官学校 ウェストポイント

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陸軍士官学校・ウェストポイント紹介ミュージアム編、最終回です。

「ゴー、アーミー、ビートネイビー!」のコーナーの次には
学生生活が次々tに映し出すカラースクリーンがありました。

これは2016年生徒、すなわち2012年入学した新候補生たちが
剃られたばかりの頭も涼しげに行進している様子です。

詳細は説明されていませんが、巷に出回っている情報から察するに、
彼らは入学が決まり新学期から候補生になる身分。

士官学校ちうのは陸海問わず、新学期が始まるまでに
その精神を叩き直す?というか身につけさせる準備期間を設けるわけです。

聞けば我が防衛大学校でも入校式より前に「着校」し、
基本以前の準備(敬礼とか、制服の着方とか)を学ぶそうですが、
なんと入校式を待たずしてこの時期に辞めてしまう者も出るとか。

この写真は昨日まで高校生だった彼らが、
頭の毛とともにこれまでの甘えを一切断ち切って
士官候補生になる準備段階です。

アナポリスとウェストポイント、どちらが厳しいか知りませんが、
少なくともウェストポイントでは卒業式までには
入学した生徒の3分の2しか残っていないということです。

えーと、これは「アーミー・ネイビーゲーム」のシーンかな?
前回因縁の陸海軍士官学校対抗戦について一項を割きましたが、
これをまとめるためにいろんな資料を見ていて一つ発見がありました。

昔の海軍兵学校のように、ウェストポイントでも卒業時の成績は
冷徹にナンバーが付けられてそれが一生付いて回ります。
有名になれば死んだ後も。

成績トップは普通の高校大学と同じく表彰されますが(後述)
なんと、最下位の生徒も特別に名前が呼ばれてしまうのです。

最下位者の発表はある意味優等生よりも盛り上がるのが普通で、
彼あるいは彼女は全員のスタンディングオベーションでその栄誉を讃えられ、
あろうことか同級生から一人1ドルずつの「お祝い」ももらえるのです。

一人1ドルと言っても侮るなかれ、ウェストポイントの毎年の卒業生は
千人いるんですから、合計で113,692円(今日現在)にはなるわけ。

で、この名誉を担う成績最下位者のことを、なんと呼ぶか。

ゴート(ヤギ)

なんですよ。
なぜヤギか?ってもちろんあれだよね。
海軍士官学校のアナポリスのマスコット、ビル・ザ・ゴート。

最初は落ちてもイテテですむ高さでやる訓練も、
色々とクリアしてきたらだんだん超人レベルになってきます。

比較するものがないからわからないけど、これ多分
結構高いところにあるバーを渡ってますよね。

防具は付けてるけど、高所から落ちると人は本能的に
手を突こうとして手首を骨折したりするものです。
(と、馬から落ちて手首を骨折したわたしが言ってみる)

やっぱり下にマットとか敷いてやるのかな・・・。

ここから先には「ファースティ・イヤー」、最上級生の
最後の一年についてが紹介されています。

4年間耐え難きを耐え忍び難きを忍んでここに至った彼らは、
士官として部下を率いるための訓練に最後の追い込みをかけるのです。

そこでさらなる指揮官としての訓練を受け、士官として
必要な資質についても戦略的な環境の中で身につけていきます。

その中で特に選ばれた30人のカデットたちは「旅団長」あるいは
部隊の「ファースト・キャプテン」として、いろんなレベルの部隊、

「プラトーン」(小隊)
「カンパニー」(中隊)
「バタリオン」 (大隊)
「レジメント」(連隊)

などの統率指揮を経験することになります。
それらの指揮官配置でファースティたちは、軍事倫理と軍人精神を
実証することによるロールモデルとしての役割を果たし、
また「優れた行動」の基準を設定し、それを推し進めることで
他の者に影響を与えることになります。

ウェストポイントでの最後の夏、ファースティはリーダーシップ訓練を通じ、
激しいストレスに晒されながら戦術的な問題を解決する中で、
これまで学んだことを統合する機会を与えられるのです。

ウェストポイントのアカデミック・イヤー(9月から6月までの一学年)
は専攻科目の学習のとともに自己反映のための時間です。

ファースティになり陸軍将校になる役割と責任を引き受ける準備が整うと、
士官の意義と指揮官の資質とは何であるかに焦点が当てられるのです。

東洋系女性のファースティ。
彼女は「プロジェクトデイ」で、学術的、軍事的知識とスキルを
教授たちにプレゼンテーションし、そのプレゼンテーション能力も含めて
評価され成績をつけられます。

先ほども書きましたが、何名かの強力なリーダーシップ能力を発揮する
優秀なファースティは、学生隊の指揮官として旅団を率います。

ウェストポイントから出土した古代の遺跡か?

とか思ってしまいますが、よくみてください。
素材はコンクリートでUSMAの文字が入っているよ。

ウェストポイントの工学専攻学生は、毎年

「アニュアル・コンペティション」

という共同制作コンペを行うことになっているのです。
そのお題には二つあって、一つは模型の鉄橋を作ること、
そしてもう一つがコンクリートのカヌーを作ることなのです。

アナポリスで一番難しい科目は艦艇設計と聞いたことがありますが、
それとは多分違う話だと思います。

とにかくこのお題の無茶なことは、このカヌーは実際に
ハドソン川に放流して浮かなくてはいけないということでしょう。
まあ普通の艦船は鉄の塊なので、コンクリートでも頭を使えば
浮くはず、ということでこの無理めなチャレンジになったと思われます。

制作は候補生たちが手作りで行い、そこで評価対象になるのは
チームワークとリーダーシップだったりします。

成形はまず芯を作ることから始まり、それにレイヤーしていって、
コンクリートをいかに滑らかに、うっすーくコーティングするかが勝利の決め手。

展示してあるカヌーはそのレイヤーを分解展示してありますが、
内側から

成形クロス(ワイヤーカッターで成形したもの)

離型剤を塗りサンドペーパーで仕上げた部分

コンクリートのインナーレイヤー部分

補強グリッド

外側コンクリート、塗っただけ

外側コンクリート、紙やすり仕上げ後

外側コンクリート、シーラント仕上げ

などと説明があります。

模型の鉄橋についてはその完成度について強度、デザイン、機能、
そして安全性と耐久性、経済性まで全てを競い合うそうです。

さあ、そしていよいよ卒業後に任官となるのですが、
彼らの配置先はこんなにありますよと。

歩兵、サイバー、経理、警衛(MPですね)、防空、
野戦特科、化学部隊、エンジニア部隊。

補給、輸送、総務、通信、火砲、医療、航空、情報そして需品。

これらの部隊全て、ウェストポイントで学んだ士官が指揮を行うのです。

そしてウェストポイントをめでたく卒業したあと、本物の士官になるために、
彼らは「コミッショニング」、宣誓式を行います。

冒頭の写真は、ミュージアムにあった実物大の模型ですが、
この宣誓の際にはこのように両親が近くに立つんですね。
(両親の模型を作るお金は節約した模様)
この説明によると、親しい友人や恩師に立ち会ってもらってもいいそうです。
婚約者とかガールフレンドなんてのはどうなんだろう。ダメなんだろうな。

「彼らの選んだ特別な場所で」とありますが、どこでもいいのかな。
自分ちの庭とか。

「ザ・ラストシップ」などや映画でもよく見る宣誓(oath)を行うと、
彼らは陸軍少尉の階級章を与えられます。

この瞬間がウェストポイントでの最高潮であり、また、
アメリカ合衆国の陸軍士官として国防の任を担うという
崇高なキャリアの始まりを意味するのです。

私服の彼らが制服を着た姿に変化していくスクリーン。
この「ビフォアアフター」、なかなか楽しいです。

世界におけるウェストポイント出身者の任務地。
丸が大きいほど基地(陸軍だから違う?)の規模が大きくなるわけですが、
これを見ると日本に展開している陸軍って結構大規模だとわかります。

そこでなぜか初心に戻って(?)初めて着校した日の写真が。
君たちファースティもたった4年前まではこんなだったんだよ。

「ウェストポイントに入るというのは変身の過程です。
若い普通の男女が候補生として肉体精神的な挑戦を行うのです。
47ヶ月の課程を通して、彼らはアカデミーの求める学術、軍事、
身体的、性格的な鍛錬を遂行することになります。
卒業までに彼らは陸軍少尉となり、部隊指揮を行うことが目標です」

しかしその47ヶ月は、アメリカ合衆国のリーダーを作り上げるのです。

卒業生は戦場における指揮官としての統率のみならず、政治や
民間団体に広くその活躍の場を持っています。

軍の任務を終えた後、彼らは学校長や大学の学長、
政府のアドバイザーや議員などにもなっています。
その活動が国内でも国際的でも、彼らは陸軍士官学校の伝統である
栄誉と栄光のもとに国を守るという精神を受け継ぐのです。

というわけでウェストポイント出身の政治家などの写真ですが、
わたしには日系アメリカ人で閣僚にまでなったエリック・シンセキ陸軍大将
(上段右から三番目)しかわからないや(笑)

出口にはこれも実物大のカデットが

「義務」「名誉」「祖国」

という彼らの守るべきものに向かって歩いていく模型が。

怖いよ君たち怖いよ。

最後に、「ロング・グレイ・ライン」メダル・オブ・オナー受賞者、
つまり特に優秀だった卒業生の名前が華々しく掲げてありました。
どれどれ、知っている名前はあるかな?

アロンゾ・H・カッシング(1861クラス)

ダグラス・マッカーサー(1903クラス)

うーん、この二人しか知らんかった。
成績優秀者が有名な軍人になるとは限らないのね。
むしろ「ゴート」の方が有名になる人が多かったりして・・・。

ちうかわたしが陸軍のことを知らないだけかな。

 

さて、この後わたしたちはバスに乗っていよいよ
ウェストポイント学内ツァーに出発しました。

 

続く。

 

 

枕の下のせせらぎの音いよいよに白梅の宿〜京都祇園

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先週末には防衛大学校で開校記念祭が行われ、
棒倒しや観閲行進を観に行った方もおられるでしょう。

わたしも防大写真集「鳩と桜〜防衛大学校の日々」を手に入れたばかりで、
さらにはアメリカの陸軍士官学校ウェストポイント見学のあと
少しながらその実情が見えてきたこともあって、今のこの目で
防衛大学校を見てみたいと思っていたのですが、残念なことに
家庭の事情で関西にいかなければならなくなりました。

今回の宿泊は、二度目となる祇園の料理旅館「白梅」です。

新幹線で京都に着いたら、最近はタクシーより電車に乗ります。
特に今回は週末の観光シーズンで、道路が混むと予想されたため、
こちらでは滅多に使わないSuicaをフル活用。

まず旅館に荷物を預けに立ち寄りました。
すると前回も遭遇した白梅の外猫ならぬ「外サギ」、
”おうちゃん”が屋根で待機しているではありませんか。

京都にサギはたくさんいますが、白梅のご飯にありつけるのは
”おうちゃん” だけ。
「選ばれしサギ」なのです。
次の朝には”おうちゃん”餌やりシーンにも遭遇しました。

京都で立ち寄る店は限られます。
一見さんでは入りにくいところが多いので、何かのきっかけで
馴染みになったところには楽なのもあって何度も行ってしまいます。

と言うわけでお昼ご飯は鶏料理の有名店、八起庵でお弁当。
お弁当に付いている鶏そぼろは、馴染み特権で(たぶん)鶏そば
(といってもうどんのことですが)に替えてもらいました。

八起庵から今日の目的である大谷本廟にも電車と歩きで行きます。
それにしても京都に来るたびに、観光客がものすごいことになってきて、
昔は誰も歩いていなかったこの一角、交通整理のために係員が出動して
ちゃんと歩道で信号を待つようにとか、赤で渡るなとか、
五条坂は道の左側を歩くなとか叫んでいるのに驚愕しました。

そしてこの写真にも見えていますが、レンタル着物屋だらけで、
町中変な着物を着て歩いている観光客だらけです。

「あんな着物着て楽しいのかしらね」

「いやー、嬉しいんじゃない?特に外人さんは」

人をかき分けるようにして何とか境内に入ると、
流石に観光客はそれほどでもなく、無事に用事を済ませることができました。

実はここにわたしの実家のお墓があるのです。

お参りを済ませた後、本当に何年かぶりで会う姉妹と一緒に
近隣の墓所のなかを歩いてみました。

さすがは京都、ここは通妙寺、實報寺、本壽寺、上行寺、
と言うお寺の墓が一帯に同居しています。

ですから、浄土真宗のお墓があるかと思えば、日蓮宗のお墓もあるという具合。

見つかりませんでしたが、この中には上海事変で英雄に祭り上げられた

肉弾三勇士

の墓碑もありますし、親鸞聖人を荼毘に付したといわれる

親鸞聖人御荼毘所

があると言う立て札を見つけたので、揃って遺跡好きの姉妹は
これを求め、墓石の中を嬉々として歩き回りました。

いつ作られ、いつ閉鎖されたのか、階段のうち一つはトマソン状態に。
この写真を撮るため立っている階段は御荼毘所に続いています。

階段を降りていったところに屋根付きの御荼毘所跡石碑が。

石碑には

「親鸞聖人奉火葬野古跡」

と刻まれているので、わたしたちは、そうかーこの場所でねえ、
と何となく手を合わせたりしていたわけです。
ところがですね。

親鸞聖人のWikipedia記述によると、どこで亡くなったかは諸説あり、
どうやら西と敵対関係にある?東本願寺にもあるらしいんですよね。

親鸞聖人御荼毘所が。

何でもこちらは新幹線のトンネルの上だとか。

しかし幾ら何でも一人の人が二箇所で荼毘に付されたわけがないので、
どちらかが間違ってるか、あるいはどちらも間違ってるってことです。

さて、用事が終わり、これからどうするかを相談しながら墓の中を通り過ぎ、

「どうする?死んだ気で産寧坂突破する?」

「いや何が悲しくて京都に来て中韓人に揉まれないといけないのか」

「じゃ東大路通の一筋内側を通っていきますか」

目的を決めず歩き始めました。
六波羅探題の跡とか六波羅蜜寺の名を残す地域を抜け、

「幽霊子育飴」

を売っている飴屋さんの前を通り過ぎます。
ところで幽霊子育飴とはなんぞや。

慶長4年(1599年)に一人の女性が埋葬された鳥辺野の土饅頭の中から
数日後、子どもの泣き声が聞こえてきたので掘り返すと、
亡くなった女性が生んだ子どもが生きていたという事件がありました。

鳥辺山というのがまさにさっきまでいた墓所のある一帯です。

ちょうどその頃、毎夜この店に水飴を買いに来る女性があったのですが、
子供が発見された日からふっつりと来なくなったので、それが
死んでも子供を育てるために飴を買いに来ていた母親の幽霊だろう、
と京都中の噂になったのだそうです。

そして幽霊が飴を買った飴屋はその噂が人を呼んで商売繁盛しました。

みなとや 幽霊子育飴本舗

ところが、さっきの親鸞聖人の話ではありませんが、この幽霊の墓所、
つまり赤ちゃんが発見されたお墓というのは鳥辺野だったという説と、
上京区のあるお寺だったという説、こちらもふた通りあるのだとか。

京都では珍しくもなんともない小路ですが、よそ者にとってはワンダーランド。
奥にあるのは小さな祠のようです。

にしても、不思議茶屋バラライカとはさてもワンダーな名前よの。

狛犬の代わりにイノシシ、つまり狛イノシシがいるお寺があったので
珍しさに惹かれて境内に入りました。

後で知ったのですが、ここに祀られている摩利支天(まりしてん)は
戦場の護神であり、しかもイノシシの背中に乗って駆け巡っているらしいのです。

そういえば来年は亥年。

「お正月はきっと初詣客でフィーバーするね」

それを見越して?か、お寺では外壁の大々的補修が行われていました。

イノシシの口からだらだら流れる水で手を洗います。

明治年間にこんな絵を奉納した鈴木さん一家。

摩利支天にとってイノシシは単なる「移動手段」のはずですが、
この絵はどこかに向かって猛進していくイノシシの大群を描き、
肝心の摩利支天の姿はどこにも見えません。

「摩利支天に呼ばれて全員でダッシュしてるんだよ」

「最初に駆けつけたイノシシが運搬役に採用されるとか?」



摩利志尊天堂の向かいにはなんともレトロな小学校が。
新道小学校は明治2年に創立された古い学校で、この建物は昭和12年に建てられました。

100年以上の歴史は近年少子化のため近隣の数校による合併で幕を閉じ、
移転して今はその名前も東山開睛小学校、中学校となっています。

この建物は児童館として使われていますが、小学校の看板は残されています。

路地に佇む不思議な廃屋に思わず立ち止まりました。

「これなんだろう」

「洋風と和風がくっついてる」

「和風部分だけ見ると料亭みたいだけど・・」

先ほどの新道小学校のような建築様式なので、おそらくこれも
大正年間から昭和初期に建てられたものだと思われます。

こういう飾り彫刻が任天堂ビルと似ています。
立ち止まって眺めていると、通りがかりのおっちゃんが自転車を止め、

「あんたら何見てんの」

「この建物なんだったかご存知ですか」

「知らん。ワシがここに来た時にはもうこうなっとったなあ」

「へえー、何年前ですか」

「えらい昔や」

おっちゃんがいつ京都に来たのかはわかりませんでした。

「まあ、いっぱいのぞいていってやー」

それではお言葉に甘えて。
背伸びして手を伸ばし、シャッターを切ってみました。

左の壁には暖炉が見えますが、外見を探したところ
煙突らしき構造物はありません。

さて、結局五条から歩いて祇園の宿まで帰ってくることになりました。
少し早めですが、部屋に入って積もる話に花を咲かせることにしたのです。

先に、姉と妹が二人で泊まる予定の部屋に通されました。
二間続きで坪庭に面しています。

ちょうどツワブキが花を咲かせていました。

この部屋には歌人の吉井勇(1886ー1960)の掛け軸があります。

「枕の下の せせらぎの おといよいよに 白梅のやど」

ここに寝ていると、ちょうど枕の下に白川の水音が聞こえてくるのです。

床の間の横にある棚には、白梅の模様の入った布をかけた
小さなテレビがありますが、おそらくここに泊まるような人は
こんなところでテレビなど観ようとは思わないでしょう。

次の朝早く、散歩に出てみると、前には気づかなかった
吉井勇の句碑が白川沿いにたっていました。

「かにかくに 祇園はこひし 寝(ぬ)るときも

枕の下を水の流るる」

ちょうどわたしたちが白梅に泊まった直前が吉井の命日でした。

「その日にはこのお部屋にはどなたかお泊まりになったのですか」

女将は

「せんせのファンやいいはるお客様が前々から予約されてはりましたなあ」

吉井が70歳の古希を迎えた時、その祝いとしてこの句碑がここに
建立されることになり、発起人には

四世 井上八千代

大佛次郎

久保田万太郎(歌人)

里見弴

志賀直哉

新村出(しんむら・いずる、言語学者)

谷崎潤一郎

堂本印象(画家)

湯川秀樹(理論物理学者)

などが名を連ね、その後吉井の命日には「かにかくに祭」という
祇園の行事が毎年行われているということです。

女将のおばあちゃまは「吉井せんせ」のことを

「いつもお酒飲んだくれてたおひと」

とにべもなかったようですが、この吉井勇の最初の妻は
あの柳原白蓮の兄の娘(自身も伯爵だった)だったそうで。
貴族軍人について調べた時に知った、

不良華族事件

の中心人物がこの奥さんで、その後離婚したという話を読んで、
あの話がここにつながるかー、と面白く思いました。

吉井勇の掛け軸のある部屋に飾ってあったスズメの親子の木彫。

「お米の季節どすさかい、お米に縁のあるスズメを飾ってるんどす。
お母さんのスズメがよう見たら虫くわえてますやろ」

内容もさることながら、女将の音楽のような京都弁を聞いていると、
自分が今、京都・祇園という日本の中でも特殊な空間にいるのだ、
ということをあらためて思わずにいられません。


「お部屋におられると時折ピシッと音がします。
京都のうちは人が中に入ると呼吸しますのや。
湿気やらいろんなものを吸うて、息をする時に音を立てます。
部屋が軋んでもそれは呼吸してるということで、
もしそれがしなくなったらそのうちはもうあきまへんのや」

はあ・・・。

到着の後、お茶と甘いものが出されました。
湯飲みの底に”おうちゃん”があしらってあります。

 

若いときにFAを経験し、英語にも堪能な女将が外国人客にも
行き届いたサービスをしていることについては、
こんな翻訳ページが見つかりましたのでどうぞ。

外国人満足度が日本一、京都祇園の「白梅」に泊まった海外からの声

 

続く。

 

 

 

鴨川沿いを歩く〜京都への旅

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前回最後に貼った「外国人の白梅に対する感想」ご覧になったでしょうか。
京都祇園の白梅の客室は全部で8室ですが、どんな予約があっても
旅館側は外国人客を3部屋までに抑えることにしているそうです。

日本人なら常識として知っている和式の家でのしきたりや
道具の使い方、料理や素材についての説明を、女将は全て
丁寧に英語で行うことにしていますが、それでも1日に
3部屋が「限界」だからだと言う説明を受けわたしは納得しました。

部屋で携帯の茶道具を持参してきた姉の点てた一服をいただき、
久しぶりのおしゃべりに興じているとわたしの部屋ができました。

今回の部屋は二階です。
窓から見下ろす白川と白川通り。

床の間の部屋では全員が集まって食事をする予定。
障子もはめ殺しの窓も「梅」の形!

こういう日本家屋は外気を防ぎにくく、冬は死ぬほど寒いのですが、
ここでは畳の下に床暖房が入っていて窓を開けっ放しでも快適です。

上から見ていると、玄関先の橋にはしょっちゅうこうやって
観光客が入り込んで撮影会をしていきます。

特にアジア系の人たちは、まるで自分がここに泊まっているように
ポーズをつけたり、欄干に座ったり。

橋の前には「泊まり客以外入らないで」と英語と日本語で
注意書き柵が置いてあるにも関わらず・・・・。

あっ、英語と日本語が読めない人たちなのか!(納得)

そしてその日の夕食。
八寸の栗きんとんの周りの「いが」と松葉は食べられます。
松葉はよくできていて、言われなければ本物と間違えること確実。
茶そばを揚げたものを何かで接着してあります。

秋の御膳ということで、鱧の土瓶蒸し。
松茸はもちろんわたしにとっても初物でした。

メインは丹波牛のすき焼き。
量的にも内容も、日本人のみならず欧米の客にも喜ばれそうです。

実はあまりのコースの重さに、締めのホタテご飯はギブアップ。
量は間違いなく外人さん向けです。

開けて翌日。
いまだに時差ボケ生活が続いているわたしとしては、呉に引き続き
京都という街を早朝散策してみることにしました。

運動靴を持って廊下を忍び歩き、玄関をそうっと出ます。

昼前から深夜まで人通りが絶えず、賑やかな祇園白川も、
流石に朝の6時とあっては人影もなく。

早起きは三文の徳という言葉もありますが、朝早く起きると
幸せホルモンといわれるセロトニンが出るとか、
朝早く起きることで鬱病も治るとか言いますよね。

まあ、後付けなんですが、この白川南通の眺めを見ただけで
その「徳=得」を実感いたしました。

地震がない京都には、ゆがんだ建築物も多く残されています。
路地にあるバー、あるいはスナックの「サガン」という名前からは
いかにも一昔前の神戸とはまた違う舶来好きの京都を感じさせます。

サルトルとかボーボワール、カミュ。
フランス文学と京都は昔から親和性が高いのです。
確かパリとも姉妹都市ですしね。
ちなみにアメリカの京都の姉妹都市はこれもイメージ通りボストンです。

大阪はサンフランシスコですが、先日解消してしまいましたね。

江戸時代から今に変わらない建物が並ぶ伝統的建造物保存地区。
(それでも戦災で一度は焼けた店もあるそうです)

日中から深夜まで観光客で賑わう巽橋付近にもほぼ人の姿なし。

鴨川の辺りを上流に向かって歩いていくことにしました。

河原のそちこちには昔の京都を写した写真があって、今と比較ができます。
これは上の写真と同じ三条通理にかかる橋。
河原に米俵を積んだ牛車が牛に水を飲ませに来ています。

丸太町まで上がってくると、この辺には行幸所などもあったわけですが、
今では普通にマンションが軒を連ねています。

画面一番右は登録文化財にもなっている旧京都中央電話局で、
外観はそのままに現在はなんとスーパーマーケットになっているとか。

鴨川は鳥の楽園でもあります。
これは、チュウサギ。

真っ白な体で冬羽になるとくちばしが黄色くなります。

脚で盛んに水をかき混ぜながら餌を探していたコサギ。
これはコサギの習性だそうです。

冬でもくちばしが黒いままで、夏には頭の後ろに飾り羽が現れます。

こちらはくちばしが黒いのでおそらくコサギだと思いますが、
コサギといえども羽を広げると大きなものですね。

マガモ三羽が揃ってお食事探し中。
緑色の頭(見えませんが)がオスで茶色がメスです。

珍しく川面で水を飲んでいた鳶。(英語名:ブラックカイト)
河原には「鳶に注意」(人間を襲うから)と張り紙がありましたが、
注意しても防ぎようがないと言うか。

鳶は本来臆病な性格なのですが、人馴れしてくると厚かましくなり(笑)
食べ物などを強奪するツワモノも現れるということでした。

そして白梅専属?の”おうちゃん”と同じアオサギ。

青じゃなくて灰色なんじゃ?と突っ込んでしまうわけですが、
まあ、灰色より青の方が綺麗に聞こえるってことなんでしょう。

胸に破線状の黒い縦縞が入り、これは個体によって模様が違うので
例えば  ”おうちゃん” を見分ける目印にもなるわけ。

この日の京都は朝震え上がるくらい寒かったのですが、そんな中
河原で石積みを熱心にする人の姿あり。

サンディエゴにもいた「ロック・バランシング」族ですね。

丸太町付近にあった写真より。
本当に丸太を扱っていたから丸太町。

こちらは第一回目の時代祭の様子。
警備に立っている警官の帽子からもお分かりのように、これは
明治28年の写真です。

葵祭(五月)祇園祭(七月)とともに京都三大祭りの一つである
時代祭は平安遷都1100年目を記念してこの年から始まりました。

平安絵巻ではなく、明治28年の第一回時代祭を描いたものです。

列の後方には肋骨服のおそらく陸軍音楽隊が演奏しながら歩いていますし、
その前にはシルクハットに燕尾服の一段(主催者?)がいます。

昔京都訪問についてのエントリで、この飛び石を渡った、
とお話ししたことがありますが、鴨川を渡る飛び石は
この他にも一〜二箇所あったと思います。

しかし、亀をかたどった石があるのはここだけ。

「かめいしを みんなでとんだ ふゆのあさ

はくいきしろく やままでしろい」

間違いなく小学生の短歌だと思うんですが、一般公募した短歌を
岩に刻んで飾るという市の企画でもあったんでしょうか。


ところで、白川もそうですが、鴨川には疎水が流れ込んでいます。
琵琶湖から鴨川に水を引く疎水事業は明治時代に完成しました。

昭和10年の豪雨による京都水害の様子です。

この時の出水で、死傷者 計83名、家屋流出 187棟、
5万戸近くが床上浸水するという大変な被害となりました。

京都市はこの時の大災害をきっかけに疎水と鴨川の河川補修を
大々的に行い、現在の状態にかなり近づいたといわれています。

その際、鴨川の世界に冠たる美しい景観を維持し、さらには
京都市民の大きな楽しみである川床が行うことができるように、
という配慮も、しっかり計画に盛り込まれたそうです。

 

歩いていて、思わずあららーと声が出てしまいました。

巨大な地元高校のポスター、学園祭用だと思いますが、どうなのこれ。

亡くなったゲルニカの人に対し不謹慎だと思わないのか!
・・と声を荒げる不謹慎厨になるつもりはありませんが、
うーん・・・ちょっと眉くらいは顰めてしまうかな。


ここは世界の観光都市京都、つまり海外からの観光客、
中には当事国から来てこれを見る人だっているわけですが、
たとえ見てもゲルニカ空爆なんて遠い昔のことなのでヘーキヘーキ、
ただのパロディだし、って感じかな?

しかし、それはわたしたちの言うべきことじゃないと思う。

例えばどこかよその国に行った時、原爆投下がパロディにされている
ポスターや漫画を見たら、自分は日本人としてどう思うだろうっていう
想像力くらいは働かせようよ。もう高校生なんだから。

先日韓国のアイドルとやらが原爆をプリントしたTシャツと、
ナチスのコスプレでなぜあんなに騒がれたかってこともね。

そもそも「ゲルニカ」はパロディのネタとしては最悪の選択で、
同じ名画からパロってくるにしても、世界には他にも色々、
いくらでも無難な絵があるわけだからさ。
選りに選ってわざわざこんな絵を選ばんでも、と思うわけです。

そこまで元ネタの事件について深く考えてなかったか、
平和ボケしていてなんでもアリのお花畑ちゃんだからか、
何れにしても悪意は全くないだけに、なんだかなあ・・。

子供のやることはある程度仕方ないとしても、この学校、
誰一人これに問題を感じる先生はいなかったんでしょうか。


ゲルニカもどきを通り過ぎるとほぼすぐ、
右からくる高野川と、左からの鴨川が合流するところに出てきました。

ここでわたしは折り返すことにし、祇園白川まで戻ったのですが、
歩いた時間は合計で1時間20分。

写真を撮りながらだったので1万歩くらいのトリップ、
肌を切るような寒さもまた京都ならではの特別な体験です。
部屋に帰ってみると慣れない寒さに鼻の頭が真っ赤になっていました。

本来11月なんてこれくらい寒かったと思うんですけどね。


続く。



 

 

祇園白川 漁夫の利ショー〜京都

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一日花二日で終わらせるはずだったのに三日目に突入してしまった
京都祇園を訪ねる旅。
その理由は、冒頭写真でもお分かりのように、今回泊まった旅館
白梅の「通い鷺」”おうちゃん” の餌やりシーンに遭遇したからです。

鴨川の河原を上流に向かって歩いていく散歩を終え、
家を出てから1時間20分で祇園新橋に戻ってくると、
白川沿いの町家が昇ってきた朝日に照らされていました。

朝食は遅めの9時に予約を入れました。

日頃は朝ごはんの代わりに搾りたての野菜&果物ジュースで
軽く済ませてしまうもので、こんなたっぷりした朝ごはん、
しかも何を食べても美味しい御膳は楽しいけれど食べるのに苦労しました。

特にだし巻き卵は卵を3つは使っているのではないかというくらい
どっしりしていて、これ一つでお腹がいっぱいになってしまいそう。

御膳の左下にあるのは嶺岡豆腐。
初めて食べたのですが、まるでチーズケーキです。

びっくりして聞いてみると、これを作らせたのはあの八代将軍徳川吉宗。

日本での酪農は吉宗が房州嶺岡で軍馬を育成するため
インドから調達した馬と一緒に連れてきた牛の飼育で始まったそうです。

ここにある日吉宗が視察に来て食事をすることになって、
いきなり気まぐれを起こし、

「わし豆腐が食べたくなった」

と言い出したわけです。
東郷平八郎がイギリス留学のとき食べたビーフシチューが
どうしても食べたくなって、

「あれと同じの作って。肉と玉ねぎと人参とじゃがいもが入ってた」

と言われた料理人が想像で作り上げた肉じゃがのように、
この料理人も、大豆もニガリもない嶺岡でこのリクエストに
なんとか応えようと、牛の乳を葛の根から取った葛粉で固め、
見た目だけは豆腐のようなものを作り上げました。

果たして吉宗はこれを気に入り、料理人はお褒めに預かりましたが、
これ要するに「牛乳かん」だよね。

「嶺岡豆腐って、どこかで買えるんですか」

「クックパッドにも載ってます」


嶺岡豆腐の作り方

女将が一人一人の客に心を込めて書く絵手紙。
味のある柿と栗の絵もですが、いまだに女将は
先生についてお習字のお稽古をしているのだそうです。

「いまだに先生には怒られてばかりです」

と仰いますが、いやいやなかなか。

ところで、白梅が養っている?鷺の”おうちゃん”ですが、
一本足で立っているので王貞治から名前を取ったそうです。

これは鴨川で見かけた同じアオサギですが、おうちゃんもまた
鴨川のどこかに住んでいて、ご飯の時(朝10時)にやってきます。

川沿いに巣を作り、子供を養うことになってから
以前よりガツガツとやってきて食べるようになったのだとか。

朝ごはんを食べて部屋に戻ると、外でぎゃーすぎゃーすと
鳴き声がしました。

「あ、おうちゃんの餌やりタイムだ!」

慌ててカメラを掴んで外に出てみると・・・。

橋のところに板さんが魚の身を持って立っているのに、
なんだかおうちゃん落ち着きがありません。

屋根からいきなりバサーっと飛び立ちました。

どうやら、いつもの食事タイムに、別のアオサギが
自分も何かもらえるのではないかとやってきたようです。

おうちゃんはテリトリーを同族のアオサギに荒らされ、激怒していたのでした。

相手が川に降りるとおうちゃんも追いかけて川へ。

羽を大きく広げて威嚇しながら別サギを追いかけ回します。
動きが激しくて、なかなか両者をカメラに捉えることができません。

敵が川に降りれば川に、そして屋根に登れば屋根に。
板さんはどちらがおうちゃんかわかっているようでしたが、
わたしたちにはあまりにも右往左往する鷺たちの
どちらがどちらなんて全くわかりません。

左がおうちゃんでしょうか。

いや、勝利の雄叫びをあげている(メスかもしれませんが)
これがおうちゃんかも?

よそ者鷺を白川のはるか向こうまで追い払い、
「ナワバリ」である白梅の屋根まで矢のように戻ってきました。

一応この頃にはよそ者を追い払うことに成功し、
鼻息荒く屋根を闊歩しているおうちゃん。

わけもなく羽を大きく振るったりして屋根を衛兵のように練り歩きます。

「これがおうちゃんかな」

独り言を言うと、板さんが、

「これがおうちゃんです」

屋根の上を行ったり来たりしているおうちゃんに、
板さんはおそらく毎日やっているように刺身を投げてあげました。

あの白梅の刺身を毎日食べてるなんてなんて贅沢者。

と・こ・ろ・が(笑)

おうちゃん、怒りのためアドレナリンが噴出状態でそれどころではなく、
刺身を屋根に乗るように投げてもらったのに見向きもしません。

いつもなら急いで食べるのだと思うのですが・・。

「あららー」

「なんで食べないのよ」

「おうちゃーん、お刺身だよー」

知らせを受けて出てきた全員が思わず声をかけますが、
そんなことでおうちゃんが刺身に気づく様子は全くなく。

それだけではありません。
板さんがもう一度刺身を投げてやったら、なんとおうちゃん、
一度キャッチしたのをプイッと川に投げ捨ててしまったのです。

なんでやねん。

こんなこともあろうかと白川を泳いでは流れ、泳いでは流れして
川面に待機していたカモさんがすかさずやってきました。

もちろんおうちゃんが川に投げ捨てた?お刺身を美味しくいただくためです。

「うーん・・・なんて本末転倒な」

おうちゃん、怒りのあまり本来の目的をすっかり忘れている模様。

しかしおうちゃんの怒りはこれをもってしても全くおさまらず、遠くに
よそ者鷺の姿を目ざとく見つけるやいなや、きえええ!
と飛び立ち、ひとしきり追いかけ回しに行ってしまいました。

「うーん・・・・」

「もしかしたらおうちゃんアホですか」


ところで屋根の上には、先ほどおうちゃんが無視した
プリップリのお刺身がまだ乗っかっているわけですね。

おうちゃんがよそ者を追いかけてどこかに行ってしまったのを
どこからか見ていたのが、カラスのみなさん。

カラスというのは本当に頭がいい鳥らしいですが、
この日、少なくとも彼らが鷺より確実に賢いのを目の当たりにしました。

ためらいなく刺身片を咥えたカラス。
写真に撮ってみて驚いたのですが、彼(彼女?)はこの時
間違いなくカメラの方を窺いながら素早く刺身を拾い、
同時に高いところに飛び立つ準備をしています。

それにしてもこの刺身、美味しそう・・・タイかしら。

「こういうのを表すちょうどいい言葉があったねえ」

「漁夫の利 」

この場合、「漁夫」はカラスと鴨ということになります。

しかしあまりに刺身片が大きくて、カラスさん飲み込むのに四苦八苦。
結局この場では食べることができず、咥えてどこかに飛んでいきましたとさ。



最後におうちゃんの「漁夫の利ショー」ですっかり盛り上がり、
心から満足して宿をチェックアウトしたわたしたちは、
四条に当てもなく歩いて行き、新幹線の時間まで、昔懐かしの喫茶店、
「フランソア」でお茶を飲むことにしました。

「フランソア」は今やただの飲食店ではなく、国の登録有形文化財です。

入店するとかかっていたのはブラームスの交響曲第3番。
昔来た時にも同じ曲がかかっていたような気がします。

この空間にブラームスの重厚な響きのなんと馴染むことか。

ここに来るたび、このメニューも、内装も、流れる音楽も
何もかもが寸分変わりないことが奇跡のように思われます。

喫茶「フランソア」は昭和9年、社会主義者の立野正一が創業し、
1940年(昭和15年)に改装されて以来今に至ります。

改装を手がけたのは当時京大にいたイタリア人で、豪華客船の船室をイメージ。
室内の華やかな彫刻、壁のピカソや竹久夢二などの絵画、
ヨーロッパの古いランプや赤いビロードの椅子も昔のままです。

かつて藤田嗣治や太宰治もここの客でした。

社会主義者だった創業者が自由な思想を語り合う拠点として
作った喫茶店で、戦争中には立野は治安維持法違反で収監され、
喫茶店は名前を変え、さらに物資の不足でコーヒーも出せなくなり、
番茶を出していたということですが、それでも建物は
何度か行われた空襲の目的地からも外れていて生き残り、
現在もそのままの姿を残しています。

わたしがここに前回来た90年代にはまだでしたが、その後、
「フランソア」の一部(写真に写っている部分)は2003年(平成15年)
国の登録有形文化財(建造物)に登録され、店内全席禁煙になっていました。

そのあとは京都駅まで行くために阪急電車に乗りました。
久しぶりに見る特急が、これも昔と全く変わっていないのに感激。
懐かしいなあ、この小豆色の車体。


それはそうと。

この日、結局鷺のおうちゃんは自分の敵を追い払うのに夢中で、
結局わたしたちが見ている間何も食べていませんでした。

おうちゃん、後からこう思ってたんじゃないかな。

 

 

京都祇園旅行シリーズ終わり。

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