彼女の生まれた年1903、という文字をタイプしながら、
黎明期の女流飛行家と言われる人にこの年の生まれが非常に多い、
ということにあっと気がつきました。
というのは、この1903年の12月17日、他でもないライト兄弟が、
固定翼機による動力飛行を行っているのです。
人類はおそらく人類としての歴史が始まるとともに
「なんとかして鳥のように空を飛べないものか」
という探求を続けてきたのではないでしょうか。
紀元前4世紀には、蒸気式の飛行体をギリシアの学者が飛ばしたらしい、
という話もありますし、3世紀には諸葛孔明が天灯という熱気球を飛ばした、
という話も伝わっています。
ですから、ライト兄弟が「人類として初めて空を飛んだ」ということは全くないのですが、
それまでの飛行方法から一気に今日の「飛行機」に躍進するきっかけが、
ライト兄弟の「ライトフライヤー号」だったわけです。
そしてこの年、1903年にこの世に生を受けた女性の少なくない人数が、
空を飛ぶということに人生を賭けたのは、決して偶然でも因縁でもなく、
それは空に乗り出す最初の女性になるべしとの「啓示」のごとく思われ、
進路を空に向けたのではないかという気がしてなりません。
まあ、簡単に言うとちょっとした世代の「ブーム」という説もありますが(笑)
操縦桿を使う最初の操縦者が出現するのが1907年。
1908年には次々とライト(弟)が飛行実験を成功させ、アメリカ陸軍が飛行機を採用し、
初めての「航空機事故で死んだ人間」の栄誉?を獲得しています。
1910年になると、この流れはビッグウェーブとなり、世界中で飛行機開発が
こぞって行われ、世界最速記録(時速106キロ!)も生まれるのですが、
なんと、この年には女性パイロットだけによるレースも行われているのです。
レースが行われた、ということは、それまでにも何人かの女性が
飛行機にチャレンジしていたということで、つまり女性パイロットというのは、
殆ど男性のそれと時を同じくして出現していたということにもなります。
「女たちは飛ぼうと思わなかったのだろうか」
と、以前作成した朝鮮人飛行家の朴敬元の伝記を書いたフェミニストは、
しょっぱなでこのように嘆いてみせましたが、もちろん飛ぼうとしたんですよ。
ただ、その絶対数が語るに足るほど多くなかった、ということです。
現在でもパイロットという職業はほとんどが男性で占められている、というのと、
実質的にその理由に変わりはなかったという気がしますがね。(嫌味)
ところで、この「世界初の女性パイロット」が生まれたのはどこだと思います?
意外とそれは飛行機王国となったアメリカではなく、フランスなのです。
この、レイモンド・ド・ラロシュという女性は、元々気球を操縦していました。
女優であったため(たぶん)男性の飛行士からの申し出で、
ヴォアザンという飛行機の操縦を習うことにしたのですが、
最初のタキシングのあと、制止されるのを振り切っていきなりスロットルを全開にし、
勝手にテイクオフしてしまいました。
というわけで、彼女が「最初に飛んだ女性」となったわけです。
1910年のことでした。
「今飛べば、わたしが世界初の女性だわ」
と内心彼女は「狙っていた」疑いが濃いですね。
ヒラー航空博物館で紹介されているのはほとんどがアメリカ人女性飛行家でしたが、
ライト兄弟の国にしかこういった女性は生まれなかったわけではもちろんありません。
黎明期の「初記録」には、アメリカと並んでフランスとベルギーのパイロットが
多くの名前を残しており、裾野も広かったということがわかります。
フェミニスト作家が「飛ぼうと思わなかったのだろうか」と嘆いた日本ですら、
1913年には初の女性飛行士(南地よね)が出現しているのです。
さて、本日の画像に描いたフランス美人、マリーズ・イルズ。
彼女の持っている「初」記録は、わたしたちにも関係があって、
「パリ—東京—パリを飛んだ最初の女性」
というものです。
この他、
「パリーサイゴン間の最速到達(4日)」
「パリ—北京間を飛んだ最初の女性」
「プロペラ機で1万4千310mの高高度到達した最初の女性」
という記録も持っていました。
マリーズ・イルズ、本名マリ−アントワネット・イルズは、
飛行士の免許を取るために、スカイダイビングで資金を稼いだという「ますらめ」です。
21歳の彼女は航空ショーで落下傘降下を何度も行い、その際、
しばらく翼の上に立つなどして聴衆を沸かせました。
この経歴は、後の1936年、女性最速記録に挑戦しているときに機が失速し、
パラシュートで脱出したときに生かされました。
彼女はまたメカニックを使わず、機の点検はすべて自分一人で行いました。
写真に残るマリーズは、ご覧のように大変エレガントな雰囲気の美人です。
物陰で着替えをする彼女の姿が残されています。
今から飛行服を着ようとしているのか脱いでいるのか、
それはわかりませんが、スーツの下はどうみてもワンピース。
このころは「モガ」ファッション全盛で、女性用のズボンなど、
ディートリヒやキャサリンヘップバーンなどが穿きだしたばかり。
ですから彼女のこのいでたちも不思議ではないのですが、
どちらかというとこれは、彼女がこの後、すぐに男性と会うため、
あえてこのようなものを着込んでいる気がします。
白い襟に腰にはベルト。
とても飛行服の下に切るのにふさわしいスタイルには見えません。
このようにわたしが勘ぐるのも、彼女について書かれたフランス語のサイトで、
日本のWikipediaには載っていない、彼女の恋についての記載を見たからです。
「1930年の初頭、彼女はパイロット仲間である
アンドレ・サレルとの情熱的な不倫に落ちた」
いやー、さすがはアムールの国フランスのwiki。
飛行士の経歴に不倫の恋なんて書いてしまうんですから。
フランスは偉大な哲学者を生んだこともあり、国民総哲学家みたいなところがあります。
何でも哲学してしまうあまり、サルトルとボーボワールのような関係、
つまりお互い自由意志に基づいて事実婚をしながら第三者との恋愛はOK、というような
すかした恋愛を偏重するきらいがあるようですが、また法律に捕われない恋愛、というのは
彼らにとってごく普通のことと捉えられているように思えます。
驚くほど事実婚、結婚前の同棲をするカップルが多く、気軽に結婚して気軽に離婚する
アメリカと比べると、離婚率も故に少ないのではないかと思われます。
マリーズは独身だったので不倫、ということは、相手の男性には妻がいたということなのですが、
wikiに残るくらい公然とした仲ではあっても、彼らは全く結婚を考えなかったらしい。
そして、どちらもが危険のない平穏な生活のためにキャリアを捨てることはもちろん、
法的に結ばれることすら全く望んでいなかったようです。
この恋愛関係はきっちり三年続きましたが、テストパイロットだった男性の事故死で
終止符が打たれることになります。
サレルは、1933年、フランスのファルマン航空機という会社のF420というタイプをテストしていて、
メカニックとともに墜落、殉職したのでした。
このタイプはそのせいなのかどうか、製品化されずに終わっています。
1941年から彼女はレジスタンスに加わり、レジスタンス空軍のパイロットとなります。
そのミッションの一つにはトルコのあるアルスーズに強行着陸するというものもありました。
戦後、シャルル・ド・ゴール政権で、第二次世界大戦中マリナ・ラスコヴァが作ったような
女性飛行隊を作ることが決まり、国内一流の女性パイロットが集められました。
このときにメンバーには、カンボジア方面司令となったマリーズ・バスティ、
初めてフランスで戦闘機パイロットとなったエリザベト・ボセリなどがいます。
この空軍は「試作」として、訓練が続けられていましたが、1946年、
軍備大臣が反対派だったため、あっさりと廃止されてしまいました。
しかしながら、空軍はこのときのリストから「使えるパイロット」を何人かリストアップ、
マリーズ・イルズとエリザベト・ボセリが選ばれ、特にボセリはA24ドーントレスから、
戦闘機パイロットに配置されます。
しかし、すぐに女性パイロットを空軍で活用するという試みは頓挫することになります。
もちろん予算の問題もあったようですが、原因は他でもない、マリーズ・イルズの墜落死でした。
1946年1月、悪天候のため彼女の乗ったSiebel24は地表に激突、
マリーズは中尉として、43歳で殉職します。
彼女の鎮魂のために、ル・ヴァロア・ペレのある公園には、
翼の形を象ったモニュメントが建てられています。
不倫の恋に身を焦がしてから死までの23年の間に、彼女が一度も恋をしなかった、
などということはその情熱的なことから考えてもありえないでしょう。
しかし、彼女は生涯結婚をしないままでした。
フランス人らしく恋愛至上主義であればこそ結婚という制約に縛られない愛の形を
常に選んだ結果だったでしょうか。
いつも空を飛びながら命の限界を見てきた彼女は、恋というものが命以上に儚い、
しょせんこの世のうたかたであることを達観していたのかもしれません。