三井造船において行われた潜水艦救難艦「ちよだ」進水式。
一番大事なことを書くのを忘れていましたが、進水の瞬間、
呉音楽隊が演奏したのは行進曲「軍艦」でした。
そしてその瞬間、沖合には花火も上がったことを書いておかねばなりません。
当たり前といえば当たり前ですが、世の中にこれ以上の曲があろうか、
というくらい、「軍艦」は、色取り取りのテープを靡かせ紙吹雪を撒きながら
「鋼のその城」が滑り出していく瞬間に相応しいと思いました。
ところで、海保や民間船の場合はどんな音楽が進水式に使われるのでしょうか。
いくつかの動画を当たってみたところ、 「錨を上げて」がポピュラーですが、
特に何にするかについてはっきりと決まっているわけではないようです。
北日本造船の「ジェニューイン・ビーナス」はなぜか「軍艦」でした(´・ω・`)
さて、進水式が終わり、華やいだ気分のまま、参列者はそれぞれ
バスに乗って、式典の後の祝賀会会場へと向かいました。
迎賓館となっているこの建物は、入ってすぐに映画館のようなクロークがあり、
皆そこで荷物を預けてパーティに参加します。
自衛隊関係者が集まるので壁際には「帽子置き」と書かれたテーブルが。
いつ見てもこの正帽は、色も形も千差万別だと思います。
右のほうに陸自の地元駐屯地の司令の帽子がありますが、
ならんでいる二つの帽子にはあまり違いがないように見えます。
その後ろには空自の帽子がひとつだけ。
これは他と比べようがないのでなんとも言えませんが、
これほど個体差があるのは海自だけではないかという気がしました。
刺繍の金色の色調とか、錨の部分の刺繍の濃さ、縁飾りの密度、
どれひとつとして同じように見えるものがありません。
手作りならではですが、なぜ海自だけがこうなのかはナゾです。
この迎賓館は内部が大きく二つに分かれており、左の部屋には
招待客の中でも議員とか三井造船の経営陣などの席です。
前回わたしは畏れ多くも偉い人にくっついてここに紛れ込み、
若宮けんじ氏の挨拶を真横で聞いていたりしたわけですが、
今回は知り合いの偉い人は式典に参加せず、ついでにTOも
その人と一緒に別の会合に行ってしまったので、会場では
一人で話す相手もなく、こちらでおとなしくしておりました。
皆が揃ったころ、奥から本日の命名者、防衛政務次官の宮沢氏が、
海幕長と一緒に入場してきたので、皆拍手でお出迎えです。
この方の風貌と「宮沢」という名前から、宮沢喜一氏の関係者かと思ったのですが、
全く関係ありませんでした。
宮沢博行
レストランの厨房、貿易会社の営業、塾講師、工場の派遣社員等、
多様な職種を経験した
とありますが、わたしそういえば、東大を出て某放送局に入るもやめて、
パチンコ屋の店員になって、床にこびりついたガムを剥がしていた、
という人を一人知っていましてね(笑)
その人はその後弁護士になり政界に進出し、今は某市の市長さんです。
そんなことはどうでもよろしい。
やはり皆さんには、この日のお料理をお見せせねば。
進水式の写真を撮れなかった分、張り切ってテーブルのご馳走を撮ってきました。
まず、前にもご紹介した国旗と海上自衛隊旗がクロスした
テーブルの上専用の飾り。
これは、戦前からここにあって、海軍の艦艇が進水や引き渡しされたとき、
同じ旗が立てられて卓を飾ったのと同じものはないかとわたしは思っています。
ビールはサッポロ。
お酒を飲まないから知りませんが、アサヒでもキリンでもないというのは
やはり大人の事情でそういうことに決まっているんでしょうか。
向こうのローストビーフは大変結構なお味でした。
手前の帆立貝のグラタンも一つ頂いてみましたが、
こちらは暖かかったらもっとおいしかっただろうなと思いました。
前回は気が付きませんでしたが、灯籠を設えた庭があって、
タバコを吸いながら談笑したい人たちが外に出ていました。
館内は控え室も含めすべて完全禁煙です。
屋台のうどんが出ています。
これも本館を出た外の屋根の下にありました。
雨が降っても一応営業できる場所です。
揚げたてのてんぷらが食べられるコーナーも。
うどんを頼んで、ここでてんぷらを乗せてもらい、「てんぷらうどん」
にしている人がいて、おお!と感心したのですが、わたしは食べませんでした。
実は胃の調子があまり良くなく、今週に胃カメラを予定しているのです。
夏みかんを大量にいただいたので毎日一つ食べていたら、
ある日胃が痛くなってしまい、それ以来時々それがぶり返しておりまして。
みかんの酸って胃壁に悪いんですってね。
伊勢海老の爪の部分がありましたが食べている人はいませんでした。
わたしも基本甲殻類は苦手なのでこれもスルーです。
そのとき、上座で宮沢政務官のスピーチが始まりました。
その中で、面白いお話があったので少し書いておきます。
船には全く関係ないのですが、ここが岡山ということで宮沢氏は
この話題を披露することを思いついたのでしょう。
ライト兄弟が1902年に人類による動力飛行を行うより前、
あらゆる方法で人々は空を飛ぼうとした、という話については
このブログでも何度か扱った記憶がありますが、その一人が
なんと、ここ岡山出身の日本人であったというはなしです。
サンマテオのヒラー航空博物館には、この絵のような飛行機が
実物や復刻版を含めて多数展示されており、それによって
命を失った人少なくなかった、という内容でここでも書いたことがありますが、
この飛行機はまさにこれはヒラーに展示してあったのと同工異曲のもの。
しかもこの飛行機の原型、ヒラーにあったどの飛行機よりも
昔に発明され、実際に空を飛んでいるのです。
ある一人の愛すべき「丘の上の愚か者」"Fool On The Hill"の手によって。
彼の名は鳥人幸吉。
本名を浮田幸吉といい、1757年、ここ備前に生まれました。
幼い頃から空を飛ぶ鳥に興味を持っていた幸吉は、
鳥が空を飛ぶメカニズムを熱心に研究し、
「鳥の羽と胴の重さを計測しその割合を導き出す。
それを人間の体に相当する翼を作れば
人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」
と結論付け、奉公先の表具店の道具を使って翼を作りました。
絵を見ると、障子のような翼ですが、彼が飛ぶために奉公先を
ここに決めたのか、それともただの偶然かはわかりません。
1785年夏、幸吉28歳。ついに川にかかる橋の欄干から初飛行します。
風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したともwikiにはありますが、
地元に伝わる伝説はこれと少し違っていて、
「ちょうど宴会をしているところに空から降りてきて、
皆が逃げたあと宴会の料理を飲み食いして顰蹙を買った」
どうもこちらは眉唾っぽいですが、ちゃんと飛べたということみたいです。
気の毒なのはこの後で、幸吉はこの後藩士(武士)によって取り押さえられ、
世間を騒がせた罪で「所払い」(ところばらい)の処分になってしまいます。
つまり県外追放ですね。
「そのあと幸吉は、わたしの出身地である駿河の国、静岡に行きまして」
さすが政治家、すかさず自分の選挙区をアピール。
八浜というのはここ玉野にあり、いまではこのように
「鳥人幸吉の里」
として観光資源にもなっているようです。
鳥人間コンテストも本来ここで始めるべきだったのかも・・。
幸吉の最後はよくわかっていません。
ここでも空を飛んで死罪になった、という噂もあるようですが、
亡くなったのが90歳らしいので、その可能性は薄いでしょう。
さて、こういう昼の宴会は概してダラダラ行わないもので、
小一時間後にはおひらきになり、皆はバスに乗り込みました。
黒塗りの車も連れ合いもいなくなってしまい、このあといったいどうやって
岡山空港まで行こうと途方に暮れていましたが、なんと、
出席者のためにバスが岡山駅と空港にも行ってくれるとのことです。
バスは約1時間で岡山駅前に到着しました。
ここでわたし以外の客が全員降りてしまい、慌てました。
たった一人残っていた三井造船の社員さんらしき方に、
「皆降りてしまいましたが、わたしも降りた方がいいのでしょうか」
と聞いたところ、
「大丈夫ですよ。私も空港ですから」
たった二人を乗せた大きなバスは空港に向かいました。
岡山空港には台湾や中国、韓国からの乗り入れをしているので、
そのせいで市内にはアジア系、とくに中国人のの観光客が多いと感じました。
昔なら外国人客などまず見ることもなかったであろう児島のホテルすら
インド人や中国人、白人系の外国人客がいたので少し驚いたものです。
「いせ」に乗った時に、着岸に思ったより時間がかかり、飛行機に遅れそうになって
呉から空港までタクシーに乗ったことがあったので、
今回は余裕を見て最終便を押さえておきましたが、さすがに空港に着いたのは2時。
4時の飛行機に繰り上げてかえることにしました。
ついでにプレミアムクラスが空いていたのでこちらも繰り上げ。
小さなサンドイッチにサラダといった軽食と焼き菓子は持って帰れます。
夕焼けが照らす雲の下に瀬戸内海の島が見えています。
おまけ:
この日自衛隊の方からいただいた記念品を自慢してしまいます。
メダルとともにうちの家宝決定。
初めての進水式は、色々な意味で大きな収穫を得ることとなり、
まさに至福の体験と成りました。