ある古書から見つけた戦艦松島の図。
左側の文字は
敵艦隊見ユノ信号ハ忠勇ナル下士卒ヲシテ覚ヘズ快哉ヲ呼ハシム
「敵艦見ゆ」の信号を受けた松島の乗員が
快哉を叫び奮い立っている様子を描いたものです。
真ん中に出てきてなぜか取っ組み合いを始める者、
相撲の土俵入りのように四股を踏む者、
腕まくりをして筋肉自慢をする者、笑ってそれらを眺める者たち、
勿論少しクールに腕組みをしながらそれを微笑んで観る者もいます。
これは日清戦争の黄海海戦での描写になりますが、同じ「敵艦見ゆ」でも、
映画「海ゆかば 日本海大海戦」は、戦いに臨む前の兵員の様子をどちらかと言えば
「悲壮な覚悟」という色で語ることに終始していた感があります。
「鼠大明神」に生きるか死ぬかのお伺いを立てたり、
軍楽隊の演奏する音楽に故郷を思ってしんみりしたり、
あるいは音楽を聴きながら感極まって「死にたくねえ!」と号泣する砲員長とか(笑)
大東亜戦争の末期ならともかく、この頃は日本国民が皆「イケイケ」でしたからねえ。
むしろこの日清戦争の「松島」の図が、「艦隊の兄さん」たちの実態を
正しく伝えているかもしれません。
いや、しれませんではなく実際そうでしょう。
しかしながら戦争というのはいつの場合もその現実は悲惨なものです。
なんだって、こんな「使用前使用後」みたいに・・・・。
全く同じ「松島」の上甲板を同じ角度から描いています。
黄海海戦では15時30分、「鎮遠」の30.5cm砲弾が「松島」の左舷砲郭を直撃し、
集積の装薬が誘爆、このときに28名が戦死し、「松島」は大破しています。
着弾したのは砲郭でしたが、その上部にあたる上甲板も、このように甲板が割け、
この絵では誘爆の爆風が通風孔を通じて猛烈に立ち上がっている様子が描かれています。
「勇敢なる水兵」こと「松島」乗組員の三浦虎次郎三等水兵が重傷を負いつつも、
「定遠はまだ沈みませんか」と向山慎吉副長に尋ね、
向山が「大丈夫だ、これから鎮遠をやるんだ」と答えた、
というエピソードはこのときに生まれました。
この絵を制作した絵師が、全く同じ場所での戦闘前戦闘中の様子を並べたのは、
ひとえに奮い立つ兵士たち、勇敢で豪胆な笑いを見せた戦士たちが、
次の瞬間、過酷な戦いに斃れていったというドラマを描きたかったのでしょう。
このように、日清日露戦争を通じて、日本兵の士気は非常に高いものでした。
前回、日本海海戦での日本の勝因について色々と挙げてみましたが、
もっとも大きな要因はこの士気の高さであり、それを支えるのが
日本人の当時の教育レベルの高さであった、という説があります。
「久松五勇士」についてお話しした時に、
「離島の漁師が日本の国情と戦況に興味を寄せており、
その情報を海軍に知らせるべきだと判断し行動した」
というのは国民にあまねく教育の行き届いていたことの証明だ、と書いたのですが、
実際、このときに兵員の識字率が100パーセントであったことは、
(日本人の当時の識字率は75パーセント)
たとえば兵器の取扱説明書を読むことに始まって、訓練が非常に
効率的に行われることにもつながりました。
士気の高さはここからきているというのがその説です。
さて、ところで、日露戦争で捕虜になったロシア軍の将兵は陸海合わせて7万人あまりでした。
実のところ幹部以外はほとんどが文盲だったと言われるのですが、
(あ、これ使っちゃいけなかったっけ。まあいいか)
数字にすると(ちゃんと日本の捕虜収容所はこの統計を取っているのです)
57パーセントの捕虜が文盲であったということです。
ただし、これは陸海合わせた統計で、実際は日本と同じくロシアでも
海軍の平均識字率は陸軍より高いものでした。
海軍では、機関士といった技術者が必要とされたということもあり、
一般的に言って、陸軍より幾らか教育水準が高い傾向にあり、
また、教育を受ける機会が少なかったとみられる「地方出身者」の割合も、
そもそも陸軍に比べると低い傾向にあったからです。
開戦以降、捕虜となったロシア将兵が国内に移送されてくるようになります。
日本にある正教会では「俘虜信仰慰安会」を発足させました。
これは捕虜となったロシア将兵への精神的・宗教的支援を目的としていました。
日露戦争期において、戦時国際法に則って捕虜を厚遇することは、
日本の「国是」であり、外交戦略でもありました。
世界にデビューしたばかりの日本としては国際的に
「一流国として認められる」ことに何より重きを置いていたのです。
そのためには俘虜の待遇を国際法に基づいて正当に扱う、ということを
日本政府は徹底しました。
虐待や拷問、処刑などはもってのほか、三食昼寝慰安付きの好待遇です。
甚だしい例として、捕虜が地元の花柳界の女性とどうの、とかいう話さえあり、
こういう事態をして一部からは「優遇しすぎ」という声も出たほどでした。
そして、この待遇の中には「カルチャースクール」さえ含まれていました。
この教会が働きかけることで、ロシアから文盲の兵に読み書きを教えるための
教科書が送られたり、それを国内で増刷したりという準備ができ、
日本に捕虜として収容されていた文盲のロシア兵たちは、敵国であった
日本において初めてまともな教育を受けることができたというのです。
元々読み書きのできる幹部クラスの中には
「せっかくだから英語も勉強したいので、先生紹介してくれませんかね?」
みたいなことを言いだしたりして、おまえらここをなんだと思ってるの?
もしかして、駅前留学じゃなくて敵国留学してるつもり?
と、かるーく問い詰めたくなるような態度のロシア人もいたようです。
しかしこれ、ロシア人の皆さんは感謝してくれたんでしょうね。日本に。
だって、敗将ステッセルもロジェストベンスキーも武士の惻隠の情から名誉を重んじて扱い、
海戦のときはロシア艦船が退艦している間、決して相手を攻撃せず。
海戦が終われば、敵兵を救助し、
第2艦隊が救出したリューーリック号の乗員
波間を漂流する敵兵を救助する日本軍
のみならず、捕虜には至れり尽くせり、彼らの母国語を手取り足取り教えてやる。
別に感謝されようと思って日本はそうしたのではなく、当時の「国是」であったとはいえ、
やはりそこは何かを感じてくれたっていいんでない?
確かに日露戦争直後は、日本の「武士道」に感じ入り、それなりに評価し、
さらには日本軍の強さを素直に認めていたロシアですが、
その後一連の、特に終戦間際からの蛮行から見るに
こういう武士道が通じる相手ではなかったということになりますね。
いまだに「日本の侵略」なんてことを平気で口にする日本人がいるのですが、
本当の侵略とは、終戦のときにいきなり掟破りで参戦してきたロシアの
この振る舞いのことを言うんじゃないのかね?ええ?
さらに、スターリンの冷戦の時代になると、こうですよ。
「日本帝国主義者どもは、日清戦争後、
直ちに極東における勢力範囲の再分割のため、
ロシアとの戦争準備を始めた。
日本は朝鮮を、さらには清国の東北諸州(満州)をも
掠取することに驀進していた。
日本帝国主義者どもは、
ロシアとの戦争に備えて1902年に英国と同盟を結んだ。
1904年の初頭に日本海軍は、
開戦の宣言なしに旅順港のロシア艦隊に襲いかかり、
第一級の軍艦数隻を隊列から脱落させた。
ロシアの陸兵と海兵の勇敢な戦いにも拘わらず、
ツァーの陸海軍は敗北を喫した。
ポーツマス講和会議で日本は、満州や朝鮮、
さらにはロシアが清国から租借していた遼東半島を奪い取った。
それのみか、仰天したツァーは、日本の侵略者どもに
サハリン島の南半分をやってしまった」
やれやれ。
ものは言いようとはよく言ったものです。
二国間の間に同じ歴史認識など存在しようがない、ということを
このスターリン時代の白書が教えてくれますね。
それにしても、日本でロシア語の読み書きを初めて習った元捕虜が
こういう話をロシア国内で伝えてくれたという話は全くないのでしょうか。
もしこの時の7万人近くのロシア人が日本という国の正義・・・・、
とまではいかないまでも公正さを少しは恩義に感じてくれているのだったら
・・・・・・・
・・・・・・・・・あ、そういう人たちは皆、ヨシフに粛清されてしまったんですかね。