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オールド・アイアンサイズに捧げる詩〜帆走フリゲート「コンスティチューション」

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「コンスティチューション」は「ナショナル・シップ」として、
そしてかつて敵を沈没させたことのある世界で一つの現役艦として、
永久保存されることが議会で決まり、さらには1960年に
国の指定歴史建造物となっています。
従って、この船を多くの著名人が公式に訪問しています。

この写真は1976年、7月11日、当時の「コンスティチューション」艦長であった
タイロン・マーチン少佐が、エリザベス二世陛下を甲板でお出迎えする様子。
この後「コンスティチューション」は女王陛下をお乗せして航行し、さらに、
海軍長官のJ・ウィリアム・ミッデンドーフは、1970年代初期の改修の際に
船穀から取り出した当初材を使って制作した私物箱を陛下にプレゼントしています。

かつて「国王陛下の船」をコテンパンにやっつけた船に乗船して、
その末裔である女王陛下がどのようなことをおっしゃったのか知りたいものです。

しかもこのときにはアメリカ独立200周年記念だったという・・・(笑)



1931年、甲板の上のフーバー大統領夫妻。
艦長らしき軍人は当時の制服を着ています。
まだこのころは1812年のコスプレ(プレイじゃないけど)をするべし、
ということは海軍では決められていなかったようですね。



はい、これが誰かお分かりですか?
あのダグラス・マッカーサー元帥の1961年の姿です。
日本での統治中、朝鮮戦争をきっかけにトルーマンから解任されて、
あの「老兵は死なずただ消えゆくのみ」という演説を最後に
引退してから10年が経っていました。

このころマッカーサーはケネディと会談しなぜか意気投合しています。
おそらくケネディは理想から、そしてマッカーサーは経験から、
マクナマラのドミノ理論に反対する立場は同じであり、マッカーサーは

「アジア大陸にアメリカの地上軍を投入しようと考える者は
頭の検査でもしてもらった方がいい」wiki

といっていたくらいですから、お互い意見の一致を見たのかもしれません。
この写真が撮られた翌年の1962年、元帥は人生最後の演説を
母校のウェストポイントで行い、候補生たちに最後の別れを告げ、
3年後に84歳で死去しました。



日本人にはあまり知られていないこの船の存在ですが、アメリカでは
子供でも(学校で習うので)その名前とその存在を知っています。

ディズニーが「コンスティチューション」を題材にして
「オールド・アイアンサイズ」という映画まで作ってしまいます。

いまいち駄作だったらしく、今日なんの資料も残っておりませんが。



メカニック雑誌の表紙になった「コンスティチューション」の模型。

「’オールド・アイアンサイズが再び蘇る」

という特集は、この模型の制作についてでしょうか。
その下の

「あなた自身のスイミングプールを作る」

という内容の方が気になるのはわたしだけ?



生活の中の「コンスティチューション」。
この船をモチーフにした絵を施した商品はもちろん、1812年の
勝利に寄与した艦長の肖像までが英雄としてあしらわれました。

当時のインテリがこぞって「コンスティチューションをうちに!」
と提唱したのもあって、ブームが巻き起こりました。
彼女を讃える歌、詩、そして多くの絵画がこの時期たくさん制作されたのです。



歴史的人物と彼女の写真が多く残されているのもこれ全て
「コンスティチューション」が「国の船」であるからですが、
そんな彼女も一度は解体されそうになったことがあります。



海戦からわずか18年後の1830年、最初の解体案が出されました。
その理由は修復にお金がかかりすぎたからです。
その噂を聞き、心を痛めたハーバード・メディカルスクールの学生、
オリバー・ホルムズが、こんな詩を書きました。

”オールド・アイアンサイズ”

アイ!彼女のぼろぼろの旗を下ろせ
かつて高みになびいたその旗を
多くの眼差しがその旗を求めて踊った
空になびくその旗のもと、戦いの叫びがうずまき、
そし大砲の轟音が破裂した
海の上に見る流星は、もうこれ以上雲を払わない

その甲板はかつて英雄の血で赤く染まった
打ち負かされた敵がそこにひざまずいた
風が大急ぎでそこに波で覆わせても
そして波が白くその下で砕けようとも
もうこれ以上勝利の足音を聞くことも
敵を打ち負かしたという知らせを聞くこともない
渚のハルピュイアが海原から鷲をもぎ取ってしまうから

ああ、それならいっそ彼女の体を
波の下に沈めてやってくれ
彼女が立てる轟音が深い海の底を揺り動かすだろう
そこにこそ彼女の墓はあるべきなのだ
そのマストに彼女の神聖なる旗を釘付けにせよ
そして擦り切れた帆をすべてマストに張ってやろう
そして、嵐の、雷の、強風の神に彼女を捧げよう


ところどころ苦しい翻訳ですがまあこんなところで(; ̄ー ̄A 

この詩は世間に大きな感動と関心を呼び、これがすべてではありませんが
一つのきっかけとなって解体を免れたのでした。

合衆国議会は「コンスティチューション」の再建予算案を可決し、
1835年に彼女はなんと7年ぶりに再び就役を果たしました。

その後、地中海と南太平洋で旗艦として従軍し、1844年から
30ヶ月かけて世界周航も果たしています。



再び「コンスティチューション」の第二甲板に戻りましょう。
かつて士官たちが食事をした船尾の特等室には、このような
銘板が飾ってありました。
一つ一つのプレートには個人名が書かれています。

おそらくですが、前回の修復に当たって大口の寄付をして
永劫この艦内に名前を残すことにした人たちの名前でしょう。



名前を残すといえば、永遠に現役艦である「コンスティチューション」の
艦長は、このように名前を記されて永久に人々に記憶してもらえます。

先ほどの1828年から1835年の間のように、解体の危機のときには
その間艦長の名前がありません。

それ以外は切れ目なく艦長がいましたが、大きなブランクがあるのが
1881年から1931年までの50年間で、この期間、「コンスティチューション」には
またしても解体の危機が訪れるのですが、愛国者たちの寄付によって救われ、
1931年、修復ののちアメリカ大西洋岸、メキシコ湾岸および
アメリカ太平洋岸の90の港湾都市を3年かけて回航して回りました。
(このときの艦長ガリバー少佐の任期は3年です)



そのときの写真。
ニューヨークの港に到着した「コンスティチューション」の姿です。
引き船に曳航されての船旅だったと書かれていますが、
これによると自力で航行しているように見えますね。 


1941年にはクラレンス・マクブライドという中尉が艦長になります。
けっきょくこの中尉が戦争中ずっとここの艦長をしていたのですが、
いかに国の船といえども港にいるだけの船の艦長に
働き盛りである少佐を当てるほど米海軍も余裕はなかったのでしょう。

戦争が終わっても「チーフボースン」、
すなわち掌帆長が文字通りの艦長にあてられたりしていました。
艦長が元の通り少佐になるのは1961年以降です。

東西冷戦を視野に入れてのことだったのだと思われます。
1961年に艦長職が少佐に戻ったのには、いわゆるベルリン危機で
冷戦が暫定的な解決を見たということと関係があるかもしれません。



さて、ここからは実際に「コンスティチューション」にまつわるものなど。



「コンスティチューション」は、イギリスのフリゲート艦「ゲリエール」と戦い、
圧倒的な強さで勝利したわずか4ヶ月後、やはり英海軍のフリゲート
「ジャバ」と遭遇して、3時間におよぶ戦闘ののちこれを打ち負かしました。
この戦闘で「ジャバ」は修復もできないほど破壊されたといわれます。

この戦闘のあと、「コンスティチューション」乗り組みの士官候補生、
デュラニー・フォレストは、降伏後の「ジャバ」に乗り込み、
戦利品としてチェストの中からこの写真の聖書を持って帰ってきました。

その日すぐに書き込んだらしい裏表紙には、

「この本はコンスティチューションに降伏したジャバから
勝利の記念に持ち帰ったものである」

という文章とともに、1812年12月20日の日付が書かれています。


1813年、コモドア、つまり代将ウィリアム・ベインブリッジの名で
基金集めのために行われた「海軍ディナー」のチケット。
砲を撃っている「コンスティチューション 」が描かれています。



ディナーに使われた豪華な銀器の数々。

手前には金でできたメダルも。



あまり語られることがありませんが、この時代、軍艦に乗って戦争をする
海軍の男たちの妻たちについても少し展示がありました。

写真は、「チェサピーク」の乗組員だったハル大尉の妻、アン。
彼女の肖像と、実際の持ち物であったイヤリングと髪飾り、
そして夫のアイザック・ハル大尉の肖像画が展示されています。


1813年には圧倒的な海軍力を誇るイギリス海軍は、
アメリカ沿岸の港に対する封鎖をおこないました。
コネチカットのチェサピーク湾も封鎖された地域です。

チェサピークに居を構える軍人たちの家族は、ときには夫や父の船が
イギリスの軍艦にやられ、捕虜になるのを沿岸から見ることになりました。

「敵の砲撃する弾などが皆家から見ることができました。
弾が飛んでくることはなくても、わたしたちに戦いの用意はできていました」

とある妻は語っています。

妻たちにとって、英国との戦争は自宅のすぐ近くで起こっていたのです。
「コンスティチューション」で勝利を経験したパーサー、トーマス・チュウは
そのあと「チェサピーク」に転勤になっていました。

「パーサー」とはこの時代の「准尉」という立場だと思われます。
1813年の6月1日、彼の妻は彼にこんな手紙を書きました。

「ローレンス艦長があなたを尊敬していると知って、
それがわたしの慰めと満足になっています。
艦長を敬愛しているとお伝えくださいませ。
天があなたを見守ってくださいますように。
そしてあなたがあなたを愛する妻の腕の中に戻ってきますように」

皮肉なことに彼女がこの手紙を書いた同じ日、ボストン湾を就航した
「チェサピーク」はHMS「シャノン」に捕捉され、目撃者によると
アメリカ海軍にとって最も屈辱的な負けを喫したのでした。
(チェサピークの士官候補生が負傷した艦長を命令なしに安全な場所に運び、
その結果敵艦の攻撃を受けて他の士官は全員戦死している)

 

チュウの妻がその名前を挙げた艦長のジェームス・ローレンスは狙撃手の弾を受けて負傷し、

「船を諦めるな!沈むまで戦え」
( Don't give up the ship! Fight her till she sinks.)

と言いながら死んでいきました。
その後「チェサピーク」は戦利品として「シャノン」に曳航されて
ノバ・スコーシアまで運ばれています。

チュウは生き残り、妻との間に7人の子供をもうけましたが、
長男に「ジェームス・ローレンス」という名前をつけたそうです。
8年後彼は海軍を退役し、さらに4半世紀後まで生きました。



続く。


 


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