さて、平成29年の一般幹部、並びに飛行幹部候補生の卒業式が
滞りなく終了し、大講堂から外に出てからの続きです。
館内にいた時のままのモードで撮ってしまった写真。
普通の学校であれば掃除道具などが収納してあるような小屋ですが、
さすがは幹部候補生学校、これは「火薬類貯蔵所」とのことです。
おそらく昔からそういう用途で使われてきたものらしく、
鉄の扉に鍵はいかにも頑丈そうなものが取り付けられています。
ここで使う火薬というと、やはり射撃練習で使う銃のものなんかでしょうか。
昼食会場になっている学生館の食堂に行くのに、
前回マイクロバス移動であったため、グラウンドを通って行くことができました。
招待状の地図によると、ここは第3グラウンドというそうです。
学生たちが朝乾布摩擦を行うのが、今はこのグラウンドとなっています。
「おおお〜!」
エスコートの大尉殿がいるのにもかかわらず、ヲタモードに突入するわたし。
海軍兵学校同窓会の時には教育参考館の一端にある音楽ホールで
呉音楽隊のコンサートが行われた時、遠目に見ただけだった
理化学講堂の近くに来ることができたのですから、仕方ありません。
この理化学講堂は、明治21年(1888年)に建造されたということです。
もちろんその名の通り、科学・化学系の講義、実験が行われました。
この年の兵学校の当時の記録を見てみますと、
四月 江田島に新築中の建物、物理講堂、水雷講堂、運用講堂、重砲台、
官舎、文庫、倉庫、活版所、製図講堂、雛形陳列場、柔道場等落成す
という記述があります。
つまり、この年に、海軍兵学校は築地からここに移転して来たのです。
同時にこの年兵学校には、官制により、少将たる校長、大佐たる次長、
そして大尉の副官、教頭は大佐、などという配置が定められています。
政令を発したのは、総理大臣である黒田清隆、当時の海軍大臣西郷従道でした。
今のアルファ・ブラボーである幹事付の原型らしき
「生徒分隊長 若干人 大尉 教官を以って之に兼補す」
というのもこの年からの取り決めとなっています。
例えばあの広瀬武夫中佐は明治22年の卒業ですから、
ピカピカの新築校舎で一号生徒時代を過ごした期生となりますね。
余談ですが、広瀬武夫の卒業時の成績が
「 80人中64番(49番という説もある)」とという具合に
正確なところがわからないらしいのはなぜか今回推理してみました。
わたしの所持している海軍兵学校編纂による学校の資料によるとこの年の卒業生は80名。
江田島に移転したことと関係あるのかどうか、それは判然としませんが、
なぜか広瀬中佐の学年だけ、卒業生が
「一号生徒64名」と「甲号生徒16名」
に分けられており、それぞれの成績順で並んでいるため、
全体のハンモックナンバーがわからなくなってしまっているのです。
広瀬は一号生徒64名のうち、45番目に名前が書かれていますので、
これに甲号生徒を交えると、それ以上にはならないことだけははっきりしていますが。
ついでにもう一つ、広瀬と同期の財部彪は卒業の時首席で、この資料にも
「卒業者中学術試験に最高点を得たる財部彪は機関砲一班を、
岡田啓介は水雷一班を講演せり」
とあるのに、財部も岡田も名簿のトップに名前がありません。
(財部は2番、岡田は23番)
つまり、海軍兵学校のハンモックナンバーには武道などの科目も関わってきて、
この頃の名簿には総合点での順位順で書かれていたことがわかりました。
さらに広瀬の入学した明治18年の試験及第者は57名しかおらず、
財部の名前はどこを探しても見つけることはできません。
まあそれはよろしい。
とにかく、広瀬以降の兵学校出軍人の全ては、この理化学講堂で学んだということです。
昔は出入り口であったドアには、いつの頃からかダクトが埋め込まれました。
赤煉瓦の生徒館よりはレンガの質は上等ではないのかもしれませんが、
それでも130年経過していると信じられないくらいその形を保っています。
壁のレンガが5段おきに切れ込んだようになっているデザインが素敵。
アメリカ、ことに東部にしょっちゅういくわたしには、100年くらい超えた建物は
特にボストンにはその辺にあるので、見慣れています。
彼らは、そんな建物の内部だけを改装して、普通に使い続けています。
わたしの住んでいた街では、サッコとバンゼッティが死刑になった年に
建ったビル(年号が刻んであるのでわかる)にネイルサロンが入っていたりしました。
使い続けていれば、建物は保つことができるので、ここもなんとか
保存を目的に使用し続けてほしいものですが・・。
おそらく昔、もやいの結び方を練習したらしきこんなものも。
随分年季の入ったもやいですが、今も使われているのかどうかは謎。
ちなみに、前回生徒館の写真を上げた時に言い忘れたのですが、
生徒館の床は初代金剛の甲板をそのまま使っていると言われているようです。
この丸い三つ単位の木片が、リベットの跡だそうです。
「金剛」はあのエルトゥールル号事件の生存者をトルコまで送ったことがあります。
その時秋山真之が乗艦していた、という話をご存知の方がおられるかと思いますが、
これ実は、「金剛」は「比叡」とともに遠洋実習航海でトルコに寄港し、
そのついでに?生存者たちを送り届けたらしいことが今回判明しました(わたしの中で)。
秋山は遠航が終わっても数ヶ月「比叡」に乗っていたようですが。
明治22年、広瀬らの海軍兵学校15期卒業生たちは
「四月二十日 一号生徒及甲号生徒の卒業証書授与式を施行せられ
卒業者は直に少尉候補生を命し金剛比叡の二艦に配乗せらる」
とこのように卒業の日を迎えています。
つまり、「金剛」は当時の練習艦となっていたということです。
秋山真之はこの年二号(3年)の学術優等賞授与者に名前があります。
ここで疑問なのですが、「金剛」が解体になったのは明治43年。
この甲板を生徒館の床に使ったというのは時系列としておかしいんですよね。
生徒館が落成したのはその17年も前の明治26年です。
その年生徒館は改装して床を張り替えたのか?とも思ったのですが、
少なくとも当時の記述には生徒館の改修工事が行われたという記述はありません。
まあそれはよろしい。よろしくないけど。
食堂に階段を上っていくと、場所は前回と同じでしたが、
卒業生と家族、幕僚長ら幹部は別の会場で会食していました。
おそらく海軍兵学校の同期会でお昼を食べた食堂だと思われます。
こちらの会場では来賓の挨拶など様子がわかるように、
ちゃんとモニターでメイン会場の様子を放映してくれました。
ここでわたしを見つけて声をかけてきたのがみね姉さん。
さらに驚くことに、彼女はわたしのエスコート係の大尉殿と
つい一週間前ある場所で出会ったばかりという奇縁でした。
本当にこの世界、狭いです。
メイン会場では候補生が揃うまで時間がかかっているようでしたが、
こちらでは到着した人から独自にお弁当を食べ始めています。
海自のイベントでお弁当が出るのは今のところ幹部校だけ。
食堂から下に降りたのですが、まだ時間が早くてお迎えはいません。
うろうろしていると、女性自衛官が学生舎の談話室らしきところに通してくれました。
応接室戸娯楽室の間のような部屋です。
何にせよ、ここに今日卒業していった学生が昨日までいたことは間違いありません。
鉄火お嬢さんからまた激しく指摘されそうですが、2階に通されたのをいいことに、
洗面所に行くついでに空室となった学生の部屋をつい覗き込むわたし。
今日ここを巣立って行く彼らが、今朝、最後のベッドメイクをし、
きっちりとたたまれた毛布と枕が、人気のない部屋の暗がりに見えました。
どんな気持ちでこの部屋を後にしたのでしょうか。
部屋のプレートには4枚ずつ名札を入れる場所があります。
幹部候補生だけあって、防衛大学校よりは少人数の寝室です。
彼らが身だしなみを整えるために使った海自の必須品、
アイロンとアイロン台、選択ピンチに靴べら、ホコリ取りブラシ。
ロッカーの扉が開きっぱなしになっているのが、
いかにもさっき出ていったばかり、という様子。
週番の学生が毎日書くらしい「天気概況」にはこうあります。
江田島気象台発表
校内の桜は本日1000に第67期一般幹部候補生桜、
第69期飛行幹部候補生桜とともに昨日の候校生総員による
隊歌訓練の歌声と威容に一気に蕾を膨らませ、
3月20日の春分の日を前に一斉に開花し見事な桜となるでしょう。
初任幹部の皆様の遠洋航海でのさらなるご活躍、そして
練習艦隊の安全な航海、無事の帰国を祈念いたします。
応接室からは理化学講堂が見下ろせます。
クーラーが設置されていることを見ても、戦後しばらくは使われていたのだと思いますが、
窓にかかったカーテンもどうやら経年劣化で破れている模様。
二階のある窓を望遠レンズで狙って見ました。
どうも洗面所らしく、開きっぱなしの個室のドアが見えます。
あれは広瀬中佐以降の軍人たちが使ったに違いないトイレ・・・。
などと考えて思わずしみじみしてしまうわたしは、やっぱり筋金入りのオタですか。
メイン会場の会食はまだ時間がかかりそうなので、教育参考館をまた見ることにしました。
みね姉さんは「最近来たばかりだし」と最初言っていたのですが、
わたしが行くというと付き合ってくれました。いいやつだ。
この後ろの丸いドームはプラネタリウムらしいんですが、
兵学校時代のプラネタリウムってことでおk?
日本では最初のカール・ツァイス製のプラネタリウムが大阪の科学博物館に
初めて設置されたのが1937年だったと言いますが、
先進先取の兵学校がこの雛形を取り入れていても不思議はありません。
ただし、兵学校のプラネタリウムについてはなんの資料も見つかりませんでした。
今度暇な時に兵学校の当時の記録を探してみます。
特殊潜航艇の展示の前では、陸自の自衛官にエスコートされた人たちが
説明をしてもらっています。
何度かここに来ていますが、スケルトンになっているのに初めて気がつきました。
こちらは真珠湾の特殊潜航艇。
教育参考館の入り口の脇に設置してあります。
忘れちゃいけない93式酸素魚雷も。
ところで、学生舎をでて理化学講堂の前に来たとき、海自の自衛官がいたので
「ここは今使われていないんですか」
と聞いてみたところ、
「倉庫になっています」
と教えてくれました。
とりあえず何かに使われているうちは取り壊されることはないでしょう。
ホッとしていると、その自衛官がこれを見せてくれました。
「占領時代に進駐軍がここを使っていまして」
”CAMP POST OFFICE”とペンキで書かれたのを苦心して消した跡があります。
「 ・・・・郵便局にしてたんだ・・・・」
いや、郵便局でもなんでもいいんですが、なぜ看板を作らない。
思わず、
「この歴史的な建築物に、ペンキで・・・#」
と呟くと、自衛官は苦笑しながら
「彼ら何にでもペンキ塗っちゃいますからねー」
どうやらアメリカ人、江田島で他にも色々やらかしているようでした。
続く。