練習艦隊の出港に当たって、
「鹿島立ち みよ若桜 身を尽くし」
と発光信号で皆にメッセージを送った練習艦隊司令官の真鍋海将補から
その少し前にいただいた手紙の一説には
「私共練習艦隊もいよいよ出港となります。
日本を反時計回りに一周した後
横須賀から遠洋練習航海に向け出国します。
次代を担う幹部自衛官となるよう しっかりと鍛えてきます」
と鮮やかな達筆で書かれていました。
時計を反対周り、というのはこの後柱島、三机に停泊した後、
艦隊は一旦神戸に赴き(3月21〜23)、そこから反対周りして
3月26日(日)~3月29日(水) 佐世保
3月31日(金)~4月 2日(日) 中 城
と九州方面の基地隊にめぐり、さらには
4月 9日(日)~4月11日(火) 大 湊
と日本海側を東北まで行くということになろうかと思うのですが、
その後
4月12日(水)~4月14日(金) 小 樽
4月17日(月)~4月19日(水) 舞 鶴
小樽には海上自衛隊の艦船がよく一般公開で停泊していますが、
そこから舞鶴まで戻るのにはさすがに時計回りでしょう。
さらに舞鶴からは
4月21日(金)~5月 5日(金) 呉(かしま、やまゆき)
また呉に戻るんですかそうですか。
5月 7日(日) 鳥 羽(かしま、はるさめ)
伊勢神宮参拝のための寄航ですね。
5月 8日(月)~5月13日(土) 晴 海
5月13日(土)~5月22日(月) 横須賀
艦上での出向行事などは晴海で行うということでしょうか。
この日程を見てあっと思ったことがあります。
少なくともわたしの知る限り、練習艦隊は国内の巡行で大阪に寄港し、
それをあの籠池理事長の塚本幼稚園の園児が旗を持ってお迎えし、さらには
艦内を見せてもらうのが恒例となっていたと思うのですが、今年の寄港地に
大阪がそもそも含まれていないのです。
これは、防衛省が追及側に対しある種の「忖度」をしたのでしょうか。
今回の事件が世間を揺るがす大騒動になってから、村川海幕長が記者会見を開き、
過去海上自衛隊が三回感謝状を籠池理事長に出していることについて、
「事実関係を確認し、適切に対応したい。
感謝状を渡したのが正しかったのかどうかも含めて検討する」
などと表明したというニュースを読んで、わたしは思わずなんじゃそりゃ、
と呟いてしまいました。
村川海幕長のこの発言が果たしてこの通りだったのかも、白を黒と言い換えて
政府と安倍夫妻の批判にして来たマスコミを見ていると疑わしいですが、
(例*松井知事が『忖度はあったけど問題ないんだから首相もそういえばいい』
といったのを、『松井が安倍を忖度したと非難した』としたこと)
仮にこれが本当だったとして、海幕長はおそらく
「マスコミと野党の追及が及ばないように慎重に発言せざるを得なかった」
ということだとわたしは思いました。
もちろん子供が旗を持って艦隊をお迎えしてくれることに感謝状を出して何が悪い、
というのが大方の日本国民(野党とマスコミ、ぱよく除く)の感想だと思いますが、
残念ながら自衛隊というのはこういう時に忖度するしかない立場でもあります。
野党とマスコミが倒閣に利用して魑魅魍魎(というか餓鬼跋扈)だと思っていたら
強力なブーメラン発動で辻元清美が仕掛け人であることがわかってしまい、ついでに
民進のメディアアンダーコントロールを国民が知ることとなった今回の森友学園問題。
新左翼の一豊中市議が「右翼幼稚園潰し」(本人談)に動き、
それを朝日が火付けしておおごとにしたというのが発端だったみたいですね。
ちなこの豊中市議というのは辻元清美の元秘書だそうです。
籠池氏の立場に立って見ると、世間、というかマスコミの総バッシングに、
すがる思いで首相夫人を通じて助けを求めたら、何もしてくれないどころか、
「しつこい人だ」とまで首相に言われたのですから絶望しかありません。
逆恨みしているところを首相と大臣の首を取りたい野党4党に付け込まれ、
「首相に100万もらったと国会で証言すればメディアに攻撃させない」と密約を交わして
参考人招致に出ることを承諾したものの、これにブチ切れた自民が証人喚問にしてしまい、
その証言の真偽があやふやなのを国会で明らかにされてしまいました。
今や籠池氏は偽証罪で告訴されるかどうかという瀬戸際まできています。
発端は籠池さんが新左翼議員に狙い撃ちされたことですが、ご本人にとっては
苦し紛れに飲んだ毒杯がすぐに効いてしまったわけで、実にお気の毒だとは思います。
この件で余談ですが、わたしが昔「かしま」艦上レセプションで見かけて、
「なんでこんなのがいるのか」と思わず汚いものを見る目で見ていたら、
それを本人に見られてしまった、あの白眞勲議員。
今回の最終質疑で、
「昭恵夫人は講演料をもらわなかったというが、普通は受け取るものだ。
それが当たり前なのにもらっていないというのは嘘ではないか」
と質疑して、安倍首相に哀れみの目で
「予算審議の国会で、そんな質問しかないんですか」
と呆れられた上、
「もらいません。それで収入を得ているわけではないので」
とバッサリやられていたのはなかなか痛快でした。
ご本人が常日頃議員というのは「講演料」「お車代」をもらうのが当たり前、
と思っているので、安倍首相が嘘をついていると思い込んでいたんですね。
まさに己を映す鏡のような質疑だったというわけです。
さて、不愉快な話題はそこそこにして。
幹部の乗り込んだ「かしま」「やまゆき」「はるさめ」「ふゆづき」は
旗艦の「かしま」を先頭に九十九瀬戸に向かって運動一旒で航行していきます。
飛行幹部を乗せた「ふゆづき」が列の最後に続きます。
艦隊がほぼ一直線になりました。
そこでふと桟橋に目を戻してみると、いつのまにかお立ち台は片付けられ、
お召し船(幹部が無理無理外側に立っていたのと同じタイプ)に
たった今、女王殿下が乗り込まれたところのようでした。
防衛大臣旗が立てられ、若宮防衛副大臣がお辞儀をしています。
女王殿下の乗船を見送っているのでしょう。
同時にもやいを外し始める乗員。
九十九瀬戸に出るためには少し面舵をとるようです。
江田島の向こう岸には坂道に沿って民家が点々とあるようですが、
艦隊の出港がよく見えるであろうに、外で見ている人はもちろん
家からも人がこれを見物している様子はありませんでした。
海上自衛隊幹部学校は江田島とともにあり、シンボルともなって
今日あるわけですが、
「今日は卒業式で陛下がおいでになるから、畑仕事をせずに
子供達には晴れ着を着せて静かに出港まで過ごす」
というような地元民は、さすがに海軍時代だけの話になってしまったようです。
女王殿下とは聴いておりましたが、この写真を見てお出でを賜ったのが
二人の女王殿下のうち彬子女王殿下であったことが初めてわかりました。
彬子女王は先日も「金剛」(初代)の話が出た時に触れた、
エルトゥールル号の遭難に関する追悼式典が行われる時には、
日本トルコ協会の総裁というお立場から、これに出席されておられます。
また、女性の皇族としては初めて、海外の大学(オックスフォード)から
博士号を取得されておられる「学者女王殿下」でもあります。
そしてこれはみね姉さん情報なのですが、彬子女王殿下は今回
なんと!「そうりゅう」の内部を視察され、中でカレーを喫食されたとか。
「そのためそうりゅうの乗組員は、一週間カレーを食べさせられたそうですよ」
「毎日がリハーサルってことですかー」
いかに彼らがカレー好きでも、同じ具のカレーを一週間はきつかったでしょう。
ちなみに今回、飛行幹部の航海には「ふゆづき」に練習潜水艦である
「みちしお」が随行することになっています。
この場には現れませんでしたが、江田内には潜水艦は入れないので外で待機していたとのこと。
飛行幹部といえば、先日神戸での「せきりゅう」の引き渡し祝賀パーティで、
わたしはP−3C出身という幹部とご挨拶したのですが、その方は
「潜水艦については全くわからないし知らないんですよ」
とおっしゃっていました。
「P-3Cにとってはある意味敵ですもんね」
と言って笑ったのですが、この一佐の教育時代と違い、
もしかしたら近年の飛行幹部教育には、「敵を知れ」という意図のもとに(?)
潜水艦についての初歩を学ぶことが義務付けられているってことでしょうか。
まるで殿下を守るクッションのように人がてんこ盛り(笑)
女性を含めSPらしき人ががっつり海側を固めているようですね。
船の上で写真を撮っているのはあの「愚直たれ」ポスター制作の人です。
そしてランチ出港。
カバンを持ち白い飾緒をつけている自衛官は副官たちです。
若宮副大臣と村川海幕長は岸からお見送りする模様。
わたしたちが一生懸命手を振ると、女王殿下はこちらに手を振られました。
ランチが掲揚しているのは呉地方総監を意味する海将旗です。
その時、どこからともなくラッパの音がしました。
「え?どこどこ」
皆が首を巡らしていると、後ろにいた大尉殿が
「右手の練習艦からですね」
表桟橋から見て門を出たところに小型の艦船がいて、
その艦橋の上から卒業生を見送っているのが見えました。
こうしてみると喇叭手は海曹、見送りの二人はいずれも海士です。
彼らはこの練習艦の乗組員として、卒業生の訓練を見てきたのでしょう。
この後、女王殿下の乗られたランチが海峡で艦隊を追い越す様子を
お節介船屋さんに教えていただいたので貼っておきますね。
海峡には旗を持って見送っている人たちがいます。
若宮副大臣、村川海幕長らはランチが見えなくなるまで見送るようです。
これをみる限り真殿校長の姿がないようですが、校長も座乗したのでしょうか。
「もうそろそろ行きましょうか」
あんなにたくさんいた父兄や来賓の姿は、かき消すようにいなくなっていました。
いつまでも二人が埠頭を離れようとしないので、大尉殿はさぞやきもきしたでしょう。
歩いて行くと、若宮氏が車に乗り込むのを発見。
お迎えの運転をする海曹にも丁寧にお辞儀する若宮さんです。
「若宮さんって自衛隊好きなんでしょうね」
「もうわたし、それこそ最近は毎回自衛隊関係でお見かけしますけど、
いつ見ても義務だからやっているって風には見えないんですよね」
「なんかいいですよね」
そんな適当なことを喋りながら、車に向かって一応熱烈に手を振っておきました。
今回はあまり近くで演奏を聴く機会のなかった呉音楽隊。
本日はこれでお仕事終了、お疲れ様でした。
歩いて駐車場まで向かいながら、大尉殿がわたしに
「おっしゃっていた海友舎のことですが、道が狭くて入れないそうです」
「あらー、じゃ歩いて行かなきゃダメですか」
「しかし飛行機の時間もありますので・・・」
海友舎と言いますのは、わたしが江田島の地図を見ていて見つけた海軍の遺産で、
海軍兵学校がここに来ると同時に、兵学校で働く兵士や下士官用の娯楽兼福祉施設として、
学校から歩いて2分くらいのところに建てられた集会所の跡です。
戦後、健康器具販売の会社を立ち上げた元海軍士官のが購入し、
戦後しばらくは、戦争未亡人のような地域住民への職業普及事業の一環として、
洋裁教室の場としても使用されたといいます。
2012年9月、海友舎を使用してきた事務所が撤退した後、
地元の有志がこの空襲さえも免れてきた歴史的に貴重な木造建造物を残すため、
管理団体を立ち上げ、一般公開しながらイベントを行なっているということです。
今回、卒業式の後、ぜひそれを見て見たいものだと思っていたので、
事前に大尉殿にご相談していたのですが、学校を出る時間が押して、
そこに寄っている時間がなくなってしまったというわけ。
「残念ですが、今日は諦めます」
また江田島に来ることがあったら、今度は必ず訪れてみるつもりです。
続く。(えっ)