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孤独のグルメ(帝国海軍艦長の場合)〜呉鎮守府庁舎の食卓

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入船山博物館、呉鎮守府長官庁舎を見学して出て来たわけですが、
今一度、官舎の洋風建築にあった食卓テーブルに注目してみます。

テーブルや椅子などの家具類は、なんども言いますが進駐していたオーストラリア陸軍が、
引き揚げるときに一切持っていってしまったので、これらの調度類は
小泉和子生活研究所が残された資料などをもとに復元を行いました。

そしてこの日の献立は、海軍料理研究家の高森直史氏が監修し再現されました。

時は昭和5(1930)年9月1日。
軍艦「出雲」の艦上における午餐会のメニューです。

装甲巡洋艦「出雲」はご存知「いずも」がその名を受け継いでいますが、
日露戦争ではウラジオ艦隊をみすみす逃したとして

『濃霧濃霧とは無能なり』

などと世間から嘲られたあの上村将軍が座乗して蔚山沖海戦に勝利し、
そのときに沈没した敵艦「リューリック」を救助したことでも有名になりました。

この午餐会は日露戦争に勝利した余韻も冷めやらぬころ、
「出雲」艦上で行われたもので、この時の「出雲」艦長は、
蔚山沖で敵を一隻逃したと聞いて伝言板を叩き割る上村将軍を
顔色を変えて見ていた(多分)伊地知季珍(いじち・すえたか)でした。

艦長の伊地知大佐はもちろん、もしかしたらこの午餐会には
上村彦之丞提督ももしかしたら参加していたかもしれません。

うちにある元海軍主計中佐、瀬間喬氏の編纂した

「日本海軍食生活史話」

には、全く同じ日の献立について記載されていました。
高森氏はおそらくこの書を参考にされたのでしょう。

前菜:ソモン(サーモン)とコンソメスープのテリーヌ

スープ::アスペラガース・スープ

魚:蒸したマス

肉:シチュード・チッキン(チキン) 付け合わせ 香草

肉:ローストビーフ クレソン、ホースラディッシュ添え

冷菓子:レモンアイスクリーム

雑果菓:タピオカプリン 黒豆添え

 

こちらフランス語のメニュー。
並べてありますが内容は全く別です。

コンソメスープ

マヨネーズで和えたロブスター

牛肉のエピグラム

アップルパイ デザート コーヒー

エピグラムって・・・風刺詩とかのことなんですがどんな料理?

海軍兵学校に合格した青年たち、特に地方出身の者は周りに

「白いテーブルクロースでお給仕されてフランス料理を食べるんか」

と羨ましがられたのだそうですが、その昔、海軍士官というものは

「軍服を着た外交官」

と言われ、世界各国との交際が必要とされていたため、日頃から
こういう正餐などの席に慣れてマナーを会得している必要がありました。

ほとんどの者が洋食などに無縁だった当時の日本で、海軍士官は
それだけで特権階級でありエリートでもあったのです。

練習艦隊各艦に配乗になると、最初の外国港湾に到着するまでに
候補生達は五、六名ずつ順番に艦長室に呼ばれ、フルコースの料理を
艦長と共にして、テーブルマナーの教育を受けることになっていました。

まだ最初の頃にその順番に当たった候補生は、船酔いで苦しみ、
せっかくの料理をほとんど食べられずに終わることもあったとか。

というか、艦長はこのテーブルマナートレーニングのために、航海中
しょっちゅう(200名のクラスなら40回は)候補生と一緒に
オードブルから始まるフルコースを食べなければならなかったことになります。

 

さて、当時の食事マナーについて書かれた教科書によると、

「客は着席したらまづナプキンをとつて膝の上におき
徐かにデザートナイフを執つてパン皿の縁に取り分け、パンを割るか
或いは小さく恰度軽く口に喰られる位の一片にむしり、
それにバターを塗って食べ、静かに料理の給仕されるのを待つてゐる」

「静かに待ってゐる」

というのがなんかじわじわきます。

なお、下士官もそれらの知識には士官以上に通じていなければなりません。
なぜなら彼らは練習艦隊で艦隊司令部等において外国高官、軍人を
艦内で饗応する場合、従兵を指導してサービスしなければならなかったからで、
そのために彼らもまた食卓の作法を教わり、実習を行なっていました。

これらの教則本から、「やってはいけないこと」を書き出してみます。

● 婦人は自分の席が決まったら遠慮なく着席せねばならぬ
 でないと男子方が迷惑する

レディスファーストも当時の日本にはない概念でした。
女性を先に行かせる、先に座らせる、上着を着せる、こういうマナーは
現代の日本を見る限り、全く伝わらなかったといっていいでしょう。

連れの女性に気を遣うことはあっても、エレベーターで乗り合わせた女性を
先に行かせるような男性は滅多にいません。

ちなみに若き日の山本五十六を見た幼き日の犬養道子氏は

「レディスファーストの身についたスマートな軍人」

と彼を評しています。
特に駐在武官で海外生活をした軍人は皆そうでした。

● 酒を注ごうとした時に客が欲しないと表示した場合は必ず強いてはならぬ。 
 酒に限らずすべて物を強いてはならぬ

昔に限ったことではありませんね。
でも、宴会などでお酒を持ってこられると、飲めないにも関わらず
それを断ることがわたしにはどうしてもできません。

● 塩入れ胡椒入れは少なくとも必ず客二人に対し1組の割合で、 
 食卓につけられているはずであるから、無暗に給仕人を呼び立てたり、
 隣席の客に依頼して取らないようにしなければならぬ
 何を執るにも他人の皿の上を越して手を伸ばしてはならぬ

また、給仕をする側については

● 給仕人は身体及び着衣を清潔にし、動作は懇切機敏を旨とし
会食者をして不快の念を抱かしめるようなことがあってはならぬ。
しかして給仕人は通例冬季においても夏衣をを着用するのである。

給仕人が冬服を着ない理由がこれだったとは・・。

 

さて、映画「日本海大海戦 海行かば」でも描かれていたように、
連合艦隊司令部の艦上における正餐などは司令官附として乗り込んでいる軍楽隊が
食堂(長官公室、司令官公室)の上部あたりの後甲板で演奏を行います。

その際、長官(司令官)が最初のオードブル用のフォーク、ナイフとか
スプーンとかに手をつけた瞬間、将官室従兵が室内にちょっと出て、
後甲板の将官ハッチの入り口から下を見ている軍楽隊員に合図をするので、
間髪を入れずタクトを振り音楽が始まる仕掛けになっていました。

映画では下を見ている軍楽隊員が宅麻伸、軍楽隊長が伊東四朗でしたね。

 

また、明治の頃の鎮守府司令官、艦隊司令官の食事中には、中が赤、
外が白の「食事旗」という三角旗が前檣の頂上に揚げられていたとか。
なんのために食事中を旗で知らせる必要があったのかという気もしますが、
皆もそう思ったらしく、この慣習はいつのまにか廃止されました。

艦隊の司令長官や司令官(将官)幕僚達と一緒に、公室で食事をします。
鎮守府長官も基本はそうでしょう。

副長以下大尉は士官室。
中尉少尉は士官次室(ガンルーム)。
そして准士官は准士官室で食事をします。

ところが、軍艦、そして特務艦の艦長は、なぜか艦長公室でたった一人、
従兵に一挙一動を見守られながら食事をすることになっていました。

これは辛い。

これはイギリス海軍が発祥で、アメリカ海軍もそうだったということですが、

「軍艦指揮官たるもの孤独に慣れろ」

という戒め?のために定められた慣習であったと言われています。

つまらないからといって従兵と気安く話をするなんてとんでもない。
井之頭五郎じゃあるまいし、ただ黙って孤独にご飯を食べるなんて、
いくらグルメなものをいただいても・・・・いや、たとえ五郎さんだって
箸の上げ下ろしまでガン見されながらじゃ食事を楽しむどころじゃないと思うの。

その点練習艦隊の艦長なら毎日毎日候補生と食事ということになりますが、
毎回のフルコースは、それはそれで壮年の男性には
なかなか辛いものがあるのではないかとお察しします。


アメリカ海軍は現在簡略化でガンルームとワードルームの区別がなくなり、
艦長室、士官室、准士官室という分け方をしています。
イギリス海軍もガンルームがなくなっただけでなく、准士官という階級
そのものが廃止されたので、こちらは艦長室と士官室だけになりました。

しかし、米英海軍ともに、艦長が一人艦長室で食事をするしきたりは
未だに残っています。

いかに艦長という任務が他からその権限を侵されることのない孤高の任務である、
と見なされていることの証明でもあるのですが、
戦後リベラルで、あまりに民主的になりすぎた我らが自衛隊についていうと、
たとえ将来、憲法の改正によって自衛隊が「海軍」となる日が来たとしても、
艦長が一人で食事をすることには決してならないとわたしは思います。

さて、見学が終わり、ちょうどお昼ご飯の時間です。
せっかくなので「呉地方総監の”愚直たれ”」メニューをぜひまた体験するべく、
わたしたちはここからテクテクと歩いて「利根」に向かいました。

鉄火お嬢さんが誰か呉の人にランチも営業している、と聞いてきたということで、
なんの疑いもなく行ってみたら、閉まっていました orz←鉄火orz←わたし

「利根がダメとなると・・・・」

「ここからなら森沢ホテルが近いですよ」

レストランに行ってみると、メニューに「愚直タレ」など影も形もありません。
お店の人に聞いてみると、「そのメニューはまだ始まっていない」との返事。

観桜会で発表された情報によると、タコの天ぷらに愚直タレをかける、
というものだったのですが、やっぱり昼からタコ天は出さないか。

「夜のメニューだったらあるのかしら」

「そもそもお店の人が知らないみたいですね」


「クレイトンベイホテルの愚直タレうどんなら確実に食べられますよ」

「うーん・・・ここから遠いですし」

「他にどこが提供店だったかって呉監のHPに載ってるのかしら」

「ご自分のブログをみたら早いんじゃないですか」

「そうなんですけどここWi-Fi入んなくて」


なんとか「愚直タレ丼」をやっているロック風街という店に電話してみたら

「愚直タレトンテキ丼は3時からです」

とのこと。

丼物を3時から出すってどういうお店よ。

もうすっかりやる気がなくなったわたしたち、
最後の望みをかけて呉阪急ホテルに移動したのですが、
そもそも呉阪急は愚直タレ指定店じゃなかったのよね。

結局わたしは二度目となる「うみぎりカレー」を食べましたとさ。
やっぱり愚直タレはちゃんと「認定証」を呉地方総監自ら授与し、
それをお店に飾っているところでないと食べられない、ということがわかりました。

 

というところで、長々と語って来た「いせ」佐世保移籍に伴う出航行事と
その前夜の懇親会、呉軍港の艦船ツァーと入船山見学という盛りだくさん企画、
最後の「愚直タレ」以外は全てうまくいき、充実した呉でのひと時を過ごしました。

さて、次に呉に来るときには、どんな体験が待っているのでしょうか。(予告煽り)

 

呉「いせ」移籍に伴う壮行行事シリーズ:終わり

 

 


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