フォールリバーで展示艦となっている戦艦「マサチューセッツ」には
広いスペースを利用してたくさんの戦時に関する展示があり、
セカンドデッキの艦首側のスペースには、これからお話しする
「アメリカ軍に参加した女性の歴史コーナー」
がありました。
冒頭ポスターの写真では、
「あなたは心に星条旗を持った女性ですか?」
という決め文句でワック、つまり陸軍への入隊を勧誘しています。
陸軍では何千もの職種があなたを必要としている、とありますね。
海軍ではもう少しプラクティカルに、
「 WAVEがもらえるお給料って?」
という感じで、入隊から下士官になるまでの給与体系をズバリ
このような表にしてリクルートに繋げようとしております。
この表はシーマン・リクルートと呼ばれる二等水兵のあと、Seaman Apprentice (SA)
(一等水兵)からPetty Officers(下士官)までが記されています。
ちなみにシーマン・ファーストクラス(上等水兵?)を例にとると、
基本給 66ドル
食事手当 54ドル
住居手当 37.50ドル
合計月額 157.50ドル
となっており、月額は現在の円で換算すると約25万円の高給取りです。
しかも軍では階級に即して給与が決まっていて、性差はなかったので、
単に就職先として考えても大変人気のある職場だったかもしれません。
下士官は169.50ドル(29万円)から217ドル(35万円)と
幅がありますが、これは三等兵曹から先任伍長までを表しますから
開きがあって当然です。
このように書くことこそ、女性が昇進していずれは先任伍長になることも
制度として可能であった、ということに他なりません。
1930年代初頭から旧陸軍省は女性搭乗員を軍に採用することを検討していましたが、
陸軍の方ではこの案を「全く実現不可能なもの」、なぜなら
「女性は感情的すぎて非常事態にも冷静になれず飛行機の操縦には向いていない」
とにべもなく却下したことから、第二次世界大戦が始まり、輸送路線が海外に拡大して
国内輸送を行う搭乗員の数が足りなくなるまで、女性の登用はありませんでした。
その後二つの女性搭乗員部隊が結成されることになり、千人以上の女性が
軍人パイロットとしてその活躍の場を空に求めていきます。
彼女はアメリカ軍で初めて大佐となり、司令官となった女性です。
カリフォルニア大学バークレイ校を卒業して1942年に結成された
女性の輸送補助部隊に入隊した彼女は、陸軍で初めての女性士官となり、
六千名の女性士官、下士官兵からなる空輸部隊の司令官になりました。
そして、アメリカ全土と海外の任地での女性兵士の状況について
視察を行い、その向上のために提言を行うなどしました。
戦争において必要とされた女性部隊が、戦後も廃止されず、そのまま残されたのにも、
彼女がその時に司令官であったことが大きく関与しています。
WAFS (Women's Auxiliary Ferrying Squadron)女性空輸補助部隊と
クィーン・ビーと書かれた機体、とくればこれは、
WAFS女性部隊の司令官となったナンシー・ラブを思い出してください。
(以前のエントリのために描いたイラストを引っ張り出してきました)
陸軍上層部の「万が一敵の捕虜になるようなことがあっては大変」という考えから
彼女らの任務遂行範囲は北米大陸を出ることはありませんでしたが、
もともと陸軍航空士官を夫にもち、自分の会社を持って操縦を行なっていた彼女は、
WAFSのコマンダーとして
ノースアメリカン P51マスタング 戦闘機
ダグラス Cー54 スカイマスター輸送機
ノースアメリカン Bー25 ミッチェル中型爆撃機
の空輸のための操縦資格を取った最初の女性でした。
もしハップ・アーノルドという偉い人に止められなければ、
彼女はBー17フライングフォートレスを操縦して大西洋を渡った
史上初めての女性となっていたはずです。
このほかにも陸軍航空にはのちに「レディ・マッハ・バスター」とあだ名された
「女版チャック・イェーガー」が、女性パイロットの訓練学校の司令をつとめ、
彼女ら民間パイロットを戦時に招集する道筋をつけました。
WAFSとこのWFTD( Woman's Flying Training Detachment)は統合され、
WASP(Woman's Airforce Service Pilots)となりました。
さて、陸空海とくれば(正確には陸軍航空ですがそこはひとつ)海兵隊です。
ロレイン・ターンブル一等整備兵は、千人もいる海兵隊の一人にすぎませんが、
特筆すべきは彼女が女性であったということで、さらには
特に選抜されて本土以外での任務にあたったという優秀なメカニックでした。
彼女はハワイのエバにあった海兵隊航空基地に配属になり、
航空整備士として男性と全く同等の仕事をこなしました。
そして「第4の軍」である沿岸警備隊です。
”スペア(余り物)にならないで・・・SPARになりましょう”
まあダジャレの域ですが、SPARとは
Semper Paratus
=Always Ready
「センパー・パラタス」という歌を以前ご紹介しましたが、
そのラテン語の頭文字と「オールウェイズ・レディ」の計四文字で「SPAR」。
SUPAR、沿岸警備隊に入りましょうとお誘いしている女性は、
アメリカを擬人化したアンクル・サムとまるで花嫁の父のように腕を組んでいます。
しかしもしこの「スペア」が「結婚できない人」という意味だとしたら、
アンクルサムとともに彼女が歩いていくのは未来の花婿のもと・・・、
つまりこの場合はお相手は「沿岸警備隊」ということになりますね。
「売れ残りになるくらいなら沿岸警備隊にこない?」
という意味がかくされている、に1ドル50セント。
コーストガードの素敵なネイビーカラーのコートが展示されていました。
やはり女性を集めるには制服がお洒落できてみたいと思われなくてはね。
さて、最初に沿岸警備隊の女性用制服を着ることになったのは、
双子の姉妹でした。
ジェヌビエーブとルシール・ベイカー姉妹は海兵隊の予備部隊から1918年に転籍し、
書記下士官を意味する「ヨーマン」の女性複数形である
「ヨーマネッツ(Yeomanettes)」
の愛称で知られる存在でした。
まあ、それだけ女性が軍籍にあるのが珍しかったということでもあります。
1939年、個人所有のボートなどを使って沿岸のパトロールを行う
民間人で構成された沿岸警備予備隊が編成されました。
それには女性も含まれていましたが、彼女らは自分たちでヨットや船を所有する
典型的な富裕層であったことは興味深い事実です。
第二次世界大戦が始まり、大々的にマンパワーを戦争に導入されることになった時、
沿岸警備隊は「SPARS」という名称の女性部隊を編成しました。
彼女らの多くが海軍の WAVESからの転籍で、初代司令には
が任命され、 SPARSの名称も彼女が考案したということです。
フロリダのパームビーチにあったホテルを改装して作られた
通称「ザ・ピンクパレス」という施設で彼女らは訓練を行い、
1944年にはアフリカ系アメリカ人女性が初めてこの部隊に加わりました。
その後、ニューロンドンにコースとガードアカデミー(わたしが見学したあれ)
ができた時、ここに入ってきた女性たちは、
史上初めて軍学校に入校した女性
というタイトルを得ることになりました。
ほとんどのSPARSはオフィス勤務でしたが、1944年にはアラスカやハワイに派遣され、
そこで募集窓口や勧誘、店舗などの経営などに携わり、
少数ですが、パラシュート整備や航空管制、無線通信任務やメカニックなどもいました。
厳選されたごく少人数は、東海岸のLORAN ステーションと言って、
ボストンのチャタム灯台の監視業務に当たることもありました。
男性も第二次世界大戦時にはアフリカ系からなる航空隊、そして陸軍部隊があり、
いずれも優秀であったことで有名でしたが、このころは要するに、
人種隔離政策というか、黒人は黒人部隊、日系人は日系人部隊、と
人種ごとに部隊を分けていたということになります。
つまり人種差別や偏見というものがベースにあったことは否めませんが、
それでもアフリカ系女性は率先して陸軍に志願しました。
アリゾナ州の陸軍駐屯地フォート・フアチュカには第二次世界大戦中
アフリカ系女性だけの軍用郵便物の配布業務を行う部隊がありました。
「シックス・トリプル・エイト」と呼ばれた黒人女性だけの部隊、
6888郵便大隊を観閲する
チャリティー・アダムス・アーレイ中佐(1918−2002)。
1942年にWAACに入隊後、黒人女性として初めて士官に昇進しました。
彼女らの郵便大隊もまた後方支援業務として、前線での任務を行いました。
先ほども書いたように、当時のアメリカ陸軍では民族ごとの分離部隊があり、
アダムス中佐も南部に生まれ差別されてきたアフリカ系として、この
「セグレゲーション」(Segregation)
に苦しめられてきた者として、軍での民族分離には反発し、
それを言明することを彼女は決して恐れませんでした。
それは彼女の一生をかけた民族闘争でもあったのです。
例えば、黒人女性だけの新しい訓練部隊を編成する計画ができた時、
その司令官に打診された彼女はこの昇進を断っています。
赤十字が分離部隊用のレクリエーション施設を寄付すると申し出てきたのに対しても、
彼女は「白人用を一緒に使うから全く必要ない」とこれを拒否し、
またある時は、上層部から白人の中尉を監督のために司令にすることを告げられ、
「わたしの屍を越えて行ってください(Over my dead body, sir.)」
と言い放ったこともあるそうです。
前線においても、戦地から帰ってきた白人男性と彼女の部隊の女性兵士たちが
交流し、民族的な対立や緊張が起こらないような雰囲気を作るのも、
戦地の住民との融和を図るのも、彼女は積極的に取り組んだテーマでした。
彼女は戦後、ペンタゴンのオファーを受けて勤務し、さらにそれから
大学で心理学の学位を取って、余生を教育に捧げました。
ラブやコクラン、メイらの軍における最初の女性とともに、
アフリカ系女性の軍における地位獲得にその一生をかけたアダムス中佐も、
また偉大なる「トレイルブレザー」(Trailblazer・先駆者)であったのです。