というわけで、目黒の防衛省潜入記、といっても敷地内を廻って
写真を撮ってきただけですが、続きです。
こういう写真が貴重なのは、本来ならば関係者と所用のある者しか立ち入れない
この公的施設が、ほとんど戦前の、旧軍時代に使用されていたままに
そこにあることで、わたしもここにこうやって立つことで初めてそれを知ったわけです。
戦後、ここに設置された技術研究本部は、旧海軍時代の既存施設をほとんどそのまま
基本として展開してきたからです。
目黒の海軍技術研究所が空襲に遭ったというのは確かですが、
水槽にはどうやら壊滅的な被害は受けなかったようです。
ただ、連合国に接収されている期間の約10年間、施設は放置されて荒れるがままでした。
昭和30年以降、接収が解除になると同時に日本はこの施設を復旧、修復します。
自衛隊法の施行が昭和29年のことですから、これを受けて「海軍技術」
をすぐさま復活させようと関係者が動いたというのがわかります。
すぐさま機能は完全に回復し、またその他の施設については恒久的かつ堅牢な建物で、
当面使用に耐えるものであったので、研究の必要に応じ個別的にその内部に
必要な機械を設置、あるいは所要の設備を投入してきて今日に至るのです。
いまだにこの中には時の止まったような、往時のままの景色が存在しますが、
これはここがかつて海軍の所有であり、現在は一般私企業のように
「老朽化して使い勝手が悪いから」などとという理由では簡単に費用を投じて
建て替えしてしまうことのできない防衛省の管轄であるからなのでしょう。
現在ここにある実験設備についてお話しする前に、
かつてここにあった旧軍の海軍技術研究所についてお話しします。
戦時期に入ると、海軍技本には五部門が置かれることになります。
理学部
科学部
造船部
材料部
実験心理研究部
人員の陣容については高等官・同待遇者が73名、
臨時の高等官待遇者と嘱託が計28名、
そして、雇い人、傭人、職工、が800名。
職工、職夫といっても、要するに技術者のことですから、
高等官が実際の研究を牽引することになっていても、
工員の多くは「当時の築地の工手学校,神田の電機学校,
早稲田の工手学校など今日の工業高校に相当する学校の各科卒業予定者で,
成績がトップから二番,三番までの人を試験のうえ毎年継続的に採用しており,
「技研には所員と呼ばれた高等官(大学の教授・助教授に相当)
が三十人程いて研究の中心をなしていたが,その研究の推進力は
この優秀な工員グループの努力に負う所が大であった
つまり、全体が非常に優秀な技術者集団であったということになります。
1930年に新装相成った技研に天皇陛下の御行啓がありました。
この御行啓終了後、伊藤孝次所長は所員を慰労するとともに
「当所ノ如キ研究機関ガ其ノ任務ヲ遺憾ナク達成シマスルニハ
一ニモ人,二ニモ人,三ニモ人デアリマス」
として人員の強化充実を訴えたということです。
それでは、ここではどのような実験研究が行われていたのでしょうか。
アジア歴史資料センターの、大正15年の資料から抜き書きしてみます。
このなかでも最も海軍らしい、航海兵器では
1.駆逐艦用須式(第六型)轉輪羅針儀の実験
2.潜水艦用安式航跡自画器図面板改良
3.「バリスチツク」誤差修正器試験
4.航海兵器実験研究
5.測深儀に関する研究
6.経線儀誤差の研究
7.六分儀精度に関する研究
8.内地製飛行機用速力計比較試験
9.艦船の原基磁気羅針儀装飾位置に於ける磁場指力測定用計器の試製研究
この他、めぼしいところでは
火工品として
1.煙薬類
2.艦尾波隠蔽装置
3.煙幕展張装置
4.魚雷発光器
5.潜水艦用発煙信号筒及薬包
おもしろいと思ったのはここにあった実験心理研究で
1.掌電信兵志願者適性検査ニ関スル件
2.舞鶴要港部軍需部女工採用適性検査ニ関スル件
どういう適性検査をするか、ということを研究するのも「心理関係」とされているようです。
航空機志望者に対する適性も、この時とは別に研究されていたようですが、
結局大西瀧治郎の肝煎りで、黙って座ればぴたりと航空適性を当てる、
八卦見ならぬ人相見に頼っていたというのは有名な話。
3.手旗信号法ノ研究
4.「モールス」符号ノ研究
どこの組織が「ノギトーゴー」「アーイエバコーイウ」などという記憶法を考えたんだろう、
とかねてから不思議でしたが、ここだったのですね。
わたしはてっきり、先にツートンのパターンを決めておいて、あとから
「ウメエウメエナ」「ロジョーホコー」などとうんうん呻りながら(?)
こじつけたのだと思ったのですが、実際はもしかしたら、先に言葉ありきで
ツートンが決まったのかなと、いまふと考えました。
5.操舵練習機ノ考案
6.艦船ノ機関科作業ニ於ケル疲労程度測定ノ理論並ニ実施ニ関スル基礎的研究
今でいう「産業医学」、労働環境と人体の疲労と効率の関係を
このように科学するのも、ここで行われていたようです。
7.瓦斯「マスク」ノ装着ガ機関科諸作業ニ及ボス影響ノ実験的研究ニ関シ
其ノ方法ノ案画並ニ実施ノ指導
8.瓦斯「マスク」ノ装着ガ人体機能ニ及ボス影響ノ実験的研究
こちらはどちらかというと化学的な実用実験ですね。
産業医学で言うところの「化学的環境」の研究です。
9.航空生理並ニ心理ニ関スル実験研究
航空生理学の分野については、これがどのようなものかがわかる現代の資料、
空自が出した
「航空生理訓練及び飛行適応検査の実地に関する達」
という通達を見つけたので、興味のある方はどうぞ。
減圧訓練の証明書や、航空訓練時に起きる症状、
耳痛、副鼻腔痛、腹部痛、歯痛、関節痛、低酸素症などについてのレベルや、
あるいは空自パイロットが飛行のために受ける「生理訓練」
などが書かれていて非常に興味深い内部文書です。
訓練の中には「騒音」「夜間視訓練」「射出座席訓練」などが見えます。
いちいち看板の古さに反応してしまうのですが、これももしかしたら
当時使われていた看板を新実験棟設立の際に引っ張り出してきたのかと思ったり・・・。
この耐圧実験については次回でも述べます。
こういった軍の機関による科学研究というのは、つねに国が最高の頭脳を投入して
「相手を凌駕するための」技術を得るために行われます。
この目黒海軍技術研究所の跡地には、そのまま戦後の「防衛技術」につながる
技術研究所が継続して今もあるわけですが、その片隅には、このような碑が置かれていました。
技術報国。
この文字を揮毫した都築伊七中将とは、横須賀海軍工廠で、
工廠長を務めた機関将校の一人です。
海軍工廠であるから機関将校の工廠長が多いと思いきや、歴代25人のうち
機関将校は都築中将を含めてたった三人です。
東郷平八郎が評判を落としたことの一つに、機関将校の地位を兵科将校と
統一しようとしたいわゆる兵機一系科問題のとき、
「窯焚きども風情に今後一切口を出さすな」
と言い放ったということがあるそうですが、その話はさておき、
兵科と機関科の将校の間にヒエラルキー対立が起こるまで
機関科将校は兵科将校より「下」ということになっていたため、
工廠長なのに兵科将校がほとんど、ということになってしまっていたのですね。
今考えると非常に不可思議な構図ですが、ともかくそんな実情にもかかわらず
機関将校でありながら工廠長を務めた都築中将はさぞどこからも文句のつけようのない
実力のある科学者でもあったのでしょう。
この碑は紀元2600年の記念として建てられたもののようですが、
10年間の連合国接収の間も取り壊しに遭わなかったのですね。
もしどこかに隠されていた、というのでなければ、この碑が撤去されなかったのは
技術を以て国に報いる、という言葉が、一点の曇りもない真実であったせいではないかと、
連合国の良識に対し多少の希望的推測を持ちます。
先日述べた造船官の徳川武定などもそうですが、実際は多くの技術者が
公職追放によって何年間かは技術職に就くことができなくなっていたわけです。
これもまたGHQの占領政策であったことはいまさらいうまでもないことですが。
それにしても、日本という国が独立しここまでの大国になれたのも、
すべては日本の技術者が戦後も持ち続けた「技術報国」の気概あってゆえでしょう。
かつて海軍技術研究所に働いた技術者たちは、
技術報国の精神を以て、また自らが世界一の技研であろうとしました。
なぜなら彼らの国は戦争をしていたからです。
戦争をしているからには、技術において相手に勝つことを目指すのが当然です。
しかし、平和となった現代の世にあっても、技術において勝ち続けることは必要です。
この点においては戦前戦中とまったく変わりはありません。
パワーバランスの観点から言っても、平和を行使するには、逆説のようですが「力」が必須なのです。
「二位じゃだめなんですか」
とかつて言った帰化人の政治家がいましたが、この国の技術はこの国にとって
戦時と全く本質的に変わることなく、最も強力な武力であることを、
おそらく精神的にも日本人でない彼女には全く理解できないのでしょう。
かつて世界一を目指して凌ぎを削った技術者の末裔であるからこそ、
日本の技術者は名実ともに世界のトップでありたいと願い、今日もまた勝利を目指し続けるのです。
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目黒・防衛省潜入記〜「技術報国」
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