サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ下に今もある
要塞、フォートポイントについてお話ししています。
南北戦争が始まる頃作られたこの要塞は約2メートルの厚さの壁、
そして何層もの砲郭を備え、沿岸地域防衛を目的に設置されました。
当時、東海岸には30を超える要塞が存在しましたが、
フォート・ポイントは西海岸唯一の要塞でした。
1861年、戦争が迫る頃、陸軍は最初の大砲を要塞の砲台に設置し、
太平洋司令部の司令官であったアルバート・ジョンストン大佐が
要塞の最初の部隊を指揮しました。
そしてその後南北戦争開戦。
1865年8月、南部連合軍の奇襲船「シェナンドー」号は、
サンフランシスコ攻撃のため太平洋を北上していましたが、
攻撃に向かう航海の途中で終戦となっています。
もし戦争終結がもう少し遅ければ、フォートポイントの兵士たちは
「シェナンドー」号を相手に月月火水木金金な訓練の成果を
発揮していたことになります。
もし戦闘になっていればどんな戦いが繰り広げられたのか、
不謹慎ですが見てみたかった気もしますね。
戦わず終戦を迎えた兵士たちはその知らせを受けたとき
やはりホッとしただけでしょうか。
ちょっとくらいは日頃の訓練の成果を発揮してみたかった、
という気持ちはなかったでしょうか。
さて、今日はその時代の兵士の生活についてお送りします。
冒頭写真は1900年に行われた兵士野球大会の勝者のようですね。
メンバーを見ると、アフリカ系の兵士が混じっているのがわかります。
「バッファロー大隊」という黒人ばかりの部隊の名をご存知でしょうか。
アフリカ系には運動能力の秀でた者が多いとよく言われますが、
彼らのずば抜けた身体能力は視力にも及びます。
米西戦争の後1904年、米陸軍がライフルでの射撃能力No. 1を決めるために
フォート・シェリダンで行った競技会で、1位から3位までの3トップは
全員バッファロー大隊の黒人兵で占められたことがありました。
ここに掲げられた写真はその時の優秀者たちのものです。
砲術軍曹だったホレス・ビビンスはその中でも特に優れた射撃手で、
ライフル部門とリボルバー部門で1890年から1910年までの間、
高いスコアでトップの座にあったということです。
また彼は1894年には歴代最高記録をマークし、1897年には1年の間に
三つの金メダルを獲得するという快挙を成し遂げました。
写真に「Marksmanship」とありますが、「射撃能力」を意味します。
「ファースト・ブラック・オフィサー」と書かれている人物は
ヘンリー・オシアン・フリッパー(Henry O. Flipper1856-1940)。
彼は黒人として初めてウェストポイントに入学し、初めて士官になりました。
卒業年度は1877年で、これに続きジョン・ハンクス・アレクサンダー1887年、
チャールズ・ヤングは1889年と士官学校を卒業して任官することになり、
また1890年台には5人の黒人牧師が士官として従軍していました。
牧師には教育を受けた人物が充てられ、神職者としての勤めの他に、
黒人兵士たち基礎的な(読み書きなどの)教育を施すのも彼らの役目でした。
国が黒人士官の養成に着手したのは、バッファロー大隊のような
黒人だけの「分離部隊」を結成し運営するのに黒人指揮官が必要となったからです。
軍隊のような大きな組織ともなると、白人の監督が上に立つだけで
黒人はどれほど優秀でも昇進することができないということになると
部隊の士気は下がり、優秀な人材を集めにくくなるという理由によるものでした。
右の、映画化されたらモーガン・フリーマンが演じること間違いなしの
アレン・アレンズワース(Allen Allensworth1842〜1910)中佐
も、当時希少だった黒人佐官です。
若い頃のアレンズワース
アレンズワースは奴隷として生まれ、南北戦争の時に脱走して
連合軍の兵士になったと言いますからますます映画化決定の波乱万丈な人生です。
ケンタッキーに生まれ、メンフィスで「出荷」されたアレンズワースは、
ルイジアナで競馬の騎手をしていましたが、南北戦争が始まり、現地にきた
第44イリノイ志願歩兵大隊の兵士と接触したのがきっかけで、
雇い先から逃げて大隊の病院隊にかくまってもらいます。
大隊の看護兵として働いているうちに、外科医に気に入られ引き取ってもらうという
幸運を得た彼は、その後外科医の協力で海軍に入隊し、ガンボート乗組となります。
その後海軍を退役して牧師の仕事をしていた彼を、陸軍が
バッファロー大隊付きの従軍牧師として採用し、そのことで彼は
最終的に大佐の地位にまで昇進することができました。
左上は
ジョン・ハンクス・アレクサンダー(Johon Hanks Alexander。
黒人で初めてアメリカ正規軍の指揮官となった人物で、
さらに史上二人目のアフリカ系ウェストポイント卒業者です。
数学と英語に優れていた彼の成績は64人中32位。
学校では優れたボクシングの選手でもありました。
卒業後はバッファロー大隊で初めて黒人として指揮官を務めました。
左下、
チャールズ・ヤング( Charles Young1864~1922)
はアレクサンダーに次いで史上3人目にウェストポイントを卒業しました。
なお、彼は黒人で初めて大佐のランクまで昇進した人物です。
地域トップの成績で入校した(2位だったが1位が辞退したので繰り上がり)
ヤングですが、ウェストポイントではひどい差別の洗礼を受けています。
まず、入学早々「The Lord Of Coal」(石炭卿)とあだ名をつけられ、
食堂では白人の候補生が
「黒人が取った後の食べ物など食べられない」
と騒いだため、彼はその後皆が取り終わるまで待つことになりました。
またウェストポイントでは互いをラストネームで呼び合うのが慣習ですが、
ヤングだけは周りから「ミスター・ヤング」と呼ばれていたそうです。
敵意をむき出しにしてこない「善意の」同級生たちであっても、
彼に対する態度は遠慮がちな、腫れ物に触るようなものにとどまり、
したがってアナポリス在学中の彼は孤独に悩まされました。
彼の同級生の一人は、ウェストポイントでの彼はドイツ人の下働きと会話して、
辛うじて人付き合いを維持していた、と後年語っています。
ウェストポイント最後の年の5年目にはその状況もかなり改善し、
彼の肌の色を気にせずに付き合う級友も何人か現れたということですが、
彼にとってここでの生活が快適なものになるほどではありませんでした。
任官してから彼は一貫してバッファロー大隊の黒人部隊の指揮官として
任務を遂行しています。
バッファロー大隊がここプリシディオにあったという関係で、
彼は司令官としてジェネラル・グラント・グローブとセコイアという
この地域の国立公園の監督に任命されています。
不思議な人事に思われるかもしれませんが、当時国立公園は軍が管理していたからで、
指揮官としてその能力を評価された彼は黒人初の監督に任命されたのです。
セコイア国立公園はカリフォルニアのシエラネバダ山脈にあり、
ジェネラル〜の方は、フレズノにあるどちらも古い国立公園です。
1901年には、ジョン・E・グリーン Johon. E. Green
という下士官が黒人として初めて士官に昇進しています。
ベンジャミン・O・デイビスBenjamin. O. Davis(1912-2002)
デイビスについては、黒人ばかりの飛行部隊「タスキギー・エアメン」を扱った
「レッド・テイルズ」という映画に実名で出てきた関係でお話ししましたが、
黒人として初めて中将となりました。
南北戦争後、黒人の入学を3人許してきたウェストポイントですが、
これ以降それは途絶え、4人目となるデイビスが卒業した時には
チャールズ・ヤングが卒業して実に45年も経過していたのです。
黒人兵士たちは、戦場での戦いとは別に軍の昇進の点でも戦いを余儀なくされました。
すらりと長身で超イケメンの黒人兵。
着ているのは絶滅したアメリカングリズリーの毛皮かもしれません。
彼もまたバッファロー大隊の兵士です。
これは、現地のインディアンたちが黒人兵たちの髪の毛が黒いことから
バッファローに似ているとしてそう呼んでいたのが語源です。
似ていたのは髪の毛の色だけでなく、彼らに取って手強い敵となった黒人兵の
ファイティングスピリットもまたバッファローを想起させるものでした。
この名称が最初に出現したのは1873年、開拓者であり陸軍軍人の妻が
「ザ・ネイションマガジン」に寄稿した手紙です。
すぐにライターやジャーナリストの間にその名称は広がりました。
兵士たちがその名称を自ら使用することはほとんどありませんでしたが、
彼らはそれを大変気に入って、最終的には第10機甲部隊のシンボルになりました。
またフォートポイントの展示室にはこんな紹介もありました。
チャイニーズ・アメリカン、中国系アメリカ人と軍という企画です。
「真珠湾戦争の10年前から中国は日本と戦争をしていました」
ここはこんな出だしで始まります。
その日中戦争に、実はすでにフライング・タイガーとかで
参加し日本と戦っていたのがアメリカなんですけど(嫌味)
あまり考えたことはありませんが、この時、中華系アメリカ人は
「中国の孤立した戦いを支援していました」
ということで、何をしたかというと
「お金を集めて資源や鉄がアメリカから日本に輸入されるのを阻止しました」
そして
「アメリカも最後には、なぜ日本が武力で占領した中国の領土
を保持しなければならないのかを知った」
だそうです。
資源国であるアメリカには、資源のない日本の意図がぴんと来なかったけど、
中華系の運動のおかげでそれを知った、ってことですか。
中国戦線でアメリカ軍人に中国風の「わな」を説明している中国軍軍曹。
おそらく現地の中華系がサンフランシスコ市に働きかけて
前回訪問の時にはなかったこのようなコーナーを作ったのでしょう。
そういえば前回来てから今回までの間に何が起こったかというと、
先日謎の急死を遂げた中国系のリー市長が就任したということですかね(棒)
「第二次世界大戦で日本と戦うアメリカに、中華系はこれだけ
協力して手を取り合い一緒に勝利を勝ち取りましたよ!」
という諂った調子で、あるいは
「日本のファシズムと戦うために」
などとアメリカ人のあの戦争を肯定したい心理をくすぐるワードを駆使し、
勧善懲悪の語調でで戦争を語っているこの展示には、
中華街に「慰安婦像」を建てて中国系の市長に先導させ
市の共有物にさせてしまうのと全く類似の「工作の匂い」を感じました。
日本人は今回の慰安婦像だけしか見えていないし、知る機会もないですが、
住んでいる、あるいはわたしのように定期的に訪れる人間には、
ただでさえ昔からここで力を持っていた中華系が、行くたびに街を占領していき、
市の太平洋側からは白人系も逃げ出していくのが手に取るようにわかります。
そして、公職に中華系が増えるのと正比例して、ここの展示のような
反日、中国礼賛といった種類のものが少しずつ、少しずつ、
目に見えない速度で増えていっているのを感じます。
リー市長も当局から疑われていたそうですが、公職の中華系は中国共産党と繋がり、
意を受けて日米の離反工作を地道に行なっているという噂を
不自然なこれらの展示が裏付けているようにわたしは感じました。
というわけで正直あまり気分が良くなかったので、展示の内容を三行でかくと、
日本と戦っている中国を中華系アメリカ人はアメリカにいながら支援した
日米が開戦してからはファシズムと戦うアメリカと協力し、一丸となって戦った
蒋介石と宋美齢は悪の枢軸の日本に一貫して戦いを挑んだ正義の人だった
続く。