サンディエゴは港町です。
112キロに及ぶ海岸線をもち、昔から海軍と海兵隊の基地を抱えていたため、
どちらかというとリベラルが多い西海岸で保守的な土地柄と言われています。
有数の世界都市の一つでありながら、大都市特有の荒んだ部分がなく、
一年を通して穏やかな気候に恵まれたサンディエゴ。
アメリカに住んでいた時にも何度か訪れましたが、
サンディエゴが海軍の町であることを知ってからは一層、
その魅力に惹かれ、今ではすっかり好きな街になりました。
クルーズ船とカモメ、ヨット。
その光景にさりげなく空母が映り込んで来るのがサンディエゴです。
ちなみに向かいにあるナーバル・エアステーションは、
サンディエゴ湾に浮島のように下から伸びている半島の先に存在します。
海軍基地のあるコロナドとウォーターフロントの間は
ヨットで楽しむ人がいつ見てもたくさん。
USS「ミッドウェイ」が展示されているところから海沿いに歩いて行くと、
サンディエゴ海事博物館として数隻の船が展示公開されています。
サンディエゴ在住のジョアンナは、埠頭にあるレストランでランチの後、
この見学に連れていってくれました。
まずは手前の帆船から見学することに。
1863年イギリスで建造された「スター・オブ・インディア」という船です。
イギリスで建造されたとき、彼女の最初の名前は「エウテルペ」といいました。
エウテルペは音楽の「ミューズ」です。
43年間、彼女はその名前でインド航路で貿易のにを運ぶ仕事をしていましたが、
その後アメリカに売却されると同時に現在の名前になり、
石炭を積んだり、サケを取るためにベーリング海を航海するなど活躍し、
蒸気が船舶動力の主力になった時に仕事を引退しました。
そして1926年からずっとここで展示されているということです。
しかし彼女はこう見えても稼働する帆船です。
現役艦として、一年に一度、海事博物館のメンバーであるボランティアの
熟練メンバーによってサンディエゴ湾にその帆を張り、出航します。
大抵はサンディエゴ湾内から出ることはなく、一日でドックに戻るそうです。
彼女がここにやって来たちょうどその時、折悪しくアメリカは大恐慌に見舞われ、
その後は戦争に突入してしまったため、ここで繋留されたまま放置されていたそうです。
そして永らく荒れ放題になっていたこの歴史的帆船に対し、1959年、
保存作業が行われることになり、その後現在に渡ってメンテナンスは続けられています。
このパネルは
「メンテナンス工事中はこれらを見ることはできなくなります」
というお知らせですが、この日見学したところによるとほとんどが終了しているようでした。
ところで右上の写真に見られる「POOP DECK」ですが、先日「ミッドウェイ」で知った
「フォクスル」(船首楼)の反対で、船尾楼のことをさします。
poopはフランス語の「poupe」(スターン、船尾)が語源となっています。
アメリカ人なら知っているのでしょうが、「トイレ」とは関係があるようでないような・・・
(と言葉を濁す)
船内に入るといきなり「サルーン」と呼ばれる船室の見学から始まりました。
船内にいた人が皆でこちらをガン見してお迎えしてくれました。
写真右側の壁面を見ていただくと、微妙に歪んで入るのがお分かりでしょう。
この船のすごいところは、キャビンも船体も、ほぼ100パーセント
(ほぼ100パーセントってどういう意味なんだろう)オリジナルで、
例えばコンスティチューションなどのようにあちらこちらを取り替えていって
今ではほぼ100パーセント(笑)オリジナル部分がなくなっている船とは
全く違う、というところだそうです。
ということは、この歪んだ壁も建造当時の部分が多いということになります。
上下段になった船員ベッド。
ベッドの下を引き出しにするというアイデアは1863年からあったんですね。
すりガラスアート、曲線を描くカウチソファには優美な織りの布。
「ほぼ100パーセント」の「ほぼ以外」には、鏡や布などの交換も含まれているのでしょう。
それにしてもこのゴージャスさ、アラスカでサケを取っていた船の内装とは思えません。
キャビンのソファも革張りです。
イギリスで「ランチング」、つまり進水式をした日の「エウテロペ」。
186311月14日という日付けが残されています。
2009年の改装時に追加されたに違いないSOI(スター・オブ・インディア)の
姿を刻んだガラス。
金のプレートには修復に際して巨額の寄付をした人の名前が刻まれています。
今でも出航時やイベントなどではここが食卓となることもあるのでしょう。
テーブルには船が傾いた時のためのストッパーが打ち付けてあります。
現代の船であれば滑りにくい素材などを使ってテーブルを作ることもできますが、
何しろこの船は「ほぼ100%オリジナル」を謳っていますから、
昔のままの木のテーブルを維持し続けているのです。
テーブルに所在無げに座っている(笑)黒のポロシャツのお兄さん。
どうもボランティアの説明係のようですが、誰も話しかけないので暇そうです。
甲板階の中央には、かまぼこ型のガラスドームがしつらえてあり、
それが自然光を取り入れて船内が明るく見えるように工夫されています。
説明のパネルによるとここは「Surgeon Cabin」のはず。
"Surgeon"は外科医の他に「船医」の意味もあります。
松葉杖など、当時の備品が少し見えていますが、
Surgeon superintendents cabin とあり、
サンディエゴで小児科医を務めていたロバート・G・シャープ医師の子孫が
「永遠の小児科医である彼の思い出のために」
この部屋の修復に寄与したことがわかります。
シャープ医師がこの船に乗っていたのかどうかはわかりません。
ファーストクラスのパントリー、つまり食事の用意をするところ。
食器を収納してある戸棚がなんというかすごいアイデア賞です。
ここは説明によると「キャプテンズ・キャビン」、船長室ということなのですが、
どう見ても改装真っ只中。
アンティークのインテリアなどをこれから飾り付けるようです。
以上で甲板の下のメインデッキを全部見学したことになります。
さらにもう一階、セカンドデッキに降りていく階段がありました。
「世界は水(海)で繋がっている」
という看板あり。
この階にはかつて彼女が現役でお仕事をしていた時代の資料が展示されています。
「当時その国の経済発展を決定するのは海路による輸送力であり、
”シーパワー”が帝国の隆盛と没落を分けることになった」
という言葉とともに、彼女が「エウテロペ」であった頃の
海上輸送の重要さを説明しています。
七つの海を支配したスペインも、それに取って代わったイギリスも、
その発展は海運国であったからです。
今やかつての繁栄が嘘のようなポルトガルも、ブルーウォーターネイビーを保有する
フランスも、その国の発展は大西洋に面していたことと無関係ではありません。
アメリカで彼女が「スター・オブ・インディア」になってから。
彼女を購入したのはサンフランシスコにある
「アラスカ・パッカー・アソシエーション」
というサーモン専門の缶詰会社でした。
彼女が同社で稼働することになったのは、彼女が帆船だったからで、
この会社は
「スター・フリート」
と名付けられた帆船を使うことで、動力を安く上げていたのです。
「スター・フリート」は文字通り、「スター・ライン」と言われた船群のことで、
「スター・オブ・イタリー」
「スター・オブ・ロシア」
「スター・オブ・アラスカ」サンフランシスコ海事博物館蔵
「スター・オブ・イングランド」
「スター・オブ・フィンランド」
「フランス」「ラップランド」「スコットランド」「アイスランド」・・
などの「スター」がいました。
「エウテロペ」もその一つとして艦隊に加えられたので、
名前を「スター・オブ・インディア」に変えたというわけです。
「アラスカ」は「バルクルーサ」という名前で、現在サンフランシスコの
マリタイムミュージアムで公開されて降り、わたしはこちらも見学してきました。
いつになるかはわかりませんが、いずれここでお話しするつもりです。
「ベンガル」はこの中で操業中に遭難した船で、1908年、
荒天の中帆の張り方を誤り、アラスカのコロネーション島付近海域で
沈没し、膨大な価値となる積荷とともに多くの犠牲者を出したことで有名です。
この時乗り組んでいた138名の乗員のうち生存したのはわずか27人。
当時このような船には多くの東洋人労働者が乗り組んでいましたが、
この時に「スター・オブ・ベンガル」には中国人、フィリピン人とともに
日本人もいたという記録があります。
ただし、彼らの名前は現在では(おそらく当時も)明らかになっていません。
続く。