サンディエゴで展示公開されている「生ける帆船」、
「スター・オブ・インディア」についてお話ししています。
「スター・オブ・インディア」は港町であるサンディエゴの、
ダウンタウンにあるノース・エンバルカデロという埠頭に、
サンディエゴ海自博物館の展示船の一つとして公開されています。
これは「スター・オブ・インディア」船上からみた埠頭前の様子です。
右側に「スター・オブ・インディア」。
その向こうには海自博物館所蔵の船舶が見えています。
右側の帆船は「HMS サプライズ」という復元船で、左の潜水艦はなんと
ソ連の攻撃型潜水艦B−39です。
このBー39も見学してきましたので、そのうち取り上げるつもり。
このほかにもの潜水艦「ドルフィン」なども公開展示されていました。
「スター・オブ・インディア」は実際に可動するだけあって
手入れが行き届いていましたが、潜水艦はどれも放置されていてボロボロでした。
さて、「スター・オブ・インディア」の説明に戻りましょう。
「スター・オブ・インディア」は、アメリカに渡ってその名前になる前、
「エウテロペ」時代に、英国からニュージーランドへの移民を運んだことがあります。
このコーナーは、そんな中の一家族の残された日記から
彼らにスポットライトを当ててみたもので、
ステッド・エリスとその家族(子供6人)
について説明されています。
イギリスからニュージーランドまでの5ヶ月の航海の間、エリスは
奇しくも同名であるネイ恋ブログの主も顔負けの詳細な日記をつけ続け、
航海中の天候や家族の健康状態に始まり、操船のあれこれについても
記録を残し続けました。
ニュージーランドに無事入植後、エリス氏は教育委員会の事務局長となっています。
写真は、新天地に到着し全員で写真を撮るエリス家のみなさん。
ニュージーランドに到着して2〜3年後に撮られた家族写真。
いつのまにか子供が3人増えて9人になってるんですが・・・。
到着した後は生き生きと子供を増やし新天地に増殖することに
成功したエリス家ですが、それでは「スター・オブ・インディア」での
半年はどのようなものだったのでしょうか。
当時(1879年)の帆船で、5ヶ月の船旅。
これはよほどの覚悟と気力、何より健康に自信がないと不可能だったのでは?
ここに、当時を再現したコーナーがありました。
薄汚れた(展示しているうちに埃が積もったという説もあり)洋服に
伸び放題の髪と髭。
ベッドには生気なく横たわる妻の姿が。
あまりの揺れに起きていられないという状態だったのかもしれません。
しかも夫婦だけならともかく、彼らには子供が6人もいたのです。
展示場所とご予算の都合で子供の姿は一人しかここにはいませんが、
実際にもエリス家の子供は不安で退屈な日々をこのように過ごしたのでしょう。
「ひどく寒い朝、海は黒い氷のように見え、雪混じりの風が吹き渡っていた。
今日のリジー(妻)はとても具合が悪く、ベッドから頭を起こすこともできない。
赤ん坊が泣いたりするので夜中彼女は休むことができないのだ。
あまりに寒いので3人でバンクの隅にひとかたまりになって寝た。
狭くて彼女の腕を退けねば息子を置く場所がない。
なのに、船が時化で揺れると、バンクは広すぎて皆が転がってしまう。
狭いバンクで少しでも快適に過ごそうと思えば、体を縛り付けるしかないのだ」
彼らの名前をとって、ここは「エリスのキャビン」と名付けられているそうです。
全く関係ないですが、なぜか親近感が湧きます。
エリス家は二等船客として船会社に25ポンド(現在の2748ドル)
を払い、ニュージーランドまで行ったということらしいですが、その船賃で
家族全員がベッドと食器、什器、リネン類を貸与されました。
彼らのように数ヶ月かけてニュージーランドにこの船で入植した人数は
400人に上るということです。
「朝食は、スプーン2杯の煮た米に、モラセスか砂糖、
コーヒー、バター付きパンというものだ。
夕食には牛肉か羊の缶詰にポテト、週に一、二回ピクルスがつく。
望めば週に三回か四回、ボイルした塩漬け肉を食べることができたはずだが、
なぜかその機会はあまり訪れなかった。
私の丸い布袋腹はすっかりどこかに消え失せ、
それがいつも何かを欲しがっているような気がした」
そんな数ヶ月をおしてまで、どうして彼は移民したかったのか・・・。
寝て起きて食べ物を求めるだけの生活にはとても耐えきれない、
と思ったエリス氏は、「パッシングタイム」(暇つぶし)のために
日記をつけるだけでなく皆に配る読み物を発行しようと考えます。
「エウテロペ・タイムズ」と名付けたニュースをインクとペンで書き綴り、
他の乗客に読んでもらうことで、人を楽しませることを思いついたのでした。
賛同したもう一人の人物と共に発行したそのニュースには、
詩、随筆、スポーツニュース、地理や自然についてのトピック、
そしてローカルニュース(船の中の?)などが掲載されていました。
ますます同名のブロガーとしてはエリス氏に親近感が湧くところです。
過酷な船内生活を少しでも人間らしく過ごしたいというのは皆同じ。
夜になると、弦楽器や空き缶などで深夜まで賑やかに演奏が行われたりしました。
ある乗客はこんな風に日記に書き記しています。
「もしこんなことを陸にいるときにやったなら、
我々はどんなに無教養で粗野だと思われていたことだろうか」
ちなみにここにある楽譜は「エウテロペ」という曲名で、
ピアノのために書かれた平凡で(ごめんね)ロマンチックなワルツです。
発行元がニュージーランドなので、おそらく移民が
無事に入植したあと、思い出のために楽譜を発行したのかもしれません。
Chantey、シャンティとは水夫が船の作業をしながら歌う歌。
このほかにも「フォクスル・ソング」という、オフの時に歌う歌もありました。
内容は有名な海戦だったり、ラブストーリーだったり。
人魚伝説もそんな中から生まれてきたということです。
ここにはバンジョー、フィドル、ハーモニカ(バンジョーの上)など、
実際に船上で使用された楽器が展示されていました。
最初にボトルシップなる模型をこの世に生み出したのは、
実は余暇を持て余した海の男であった、とここには書かれています。
船底を仕切りを通して覗くことができたので、カメラを出して撮りました。
昔からここにあったらしい樽と、電気コードが混在しています。
さて、ここでまた再びエリス氏親子が登場してきました。
サニタリーコンディションズ、つまりトイレ事情です。
"Disgracefully Constructed" (恥ずかしい設計)
とタイトルがあり、エリス氏がトイレット、イギリス人のいうところの
W.C (ウォッシュ・クローゼット)について不満たらたらで
このように書き残していたことが説明されています。
どう恥ずかしいのか。
つまり穴の空いた板の上に座り、下の桶でそれを受ける。
非常に原始的な仕組みであったわけです。
ところで、日本でトイレのことを昔「ダブリューシー」と
称していたこともあったわけですが、イギリス式だったんですね。
ボースンズ・ロッカーと称された区画は立ち入り禁止になっていました。
Boatswainと書いて「ボースン」と発音するこれは帆、索、錨、などを
扱うオフィサーのことを称しました。
この区画はオフィサーの監視下において扱われる索具などに
必要となる作業をするところであり、道具の収納場所でもあります。
錨鎖のロッカーはこの階下に位置しました。(先ほど覗いた部分)
錨鎖の鎖一つの重さは35パウンドでした。(6.8kg)
というわけで船内の見学をすべて終わり、再び甲板に上がってきました。
説明がないのでわかりませんが、JOHN H WILSON & Coでググってみると、
1800年台後半に船のためのホイストやクレーンを作っていた
リバプールの会社だとわかりました。
つまり、これは「エウテロペ」時代からここにあったことになります。
工作室のようにも見える一室は雑然といろんなものが並んでいます。
艦橋の操舵室は改装工事中らしく見られませんでした。
船首部分にたどり着きました。
もやいの巻きつけ方がいい加減だと思うのはわたしが日本人だから?
これももしかしたら本来の用途ではないのかもしれないと思ったり。
というかこれなんでしょうか。
甲板下の階の空気抜き・・?じゃないだろうし・・。
「スター・オブ・インディア」を次世代に残すために、150年そのままだった
甲板を張り替えることにした、というお知らせ。
しかしそんなプロジェクトも資金がなくては動きようがありません。
というわけで、船上ではいつもこうやって寄付を募っています。
企業や団体がこういうことに理解を示すアメリカにおいても、
民間レベルでは歴史的遺産を残すことにやはりそれなりの苦慮があるのかもしれません。