さて、咸臨丸がサンフランシスコに訪れ、当時の人々、ことに彼らを
立場上近くで見る機会のあったアメリカ人たちに、
「あの時の日本は世界的に後進国であったが、彼ら訪米団の
アメリカでの立ち居振る舞いや態度には、この国がいずれの日にか
大国になる萌芽が表れていた」
という印象を残したらしいことがわかった、というところで前回を結びました。
訪米団の礼儀正しさや吸収力などは、アメリカ人の目から見ると
明らかに他の後進国の一行とは趣を異にするものではあったでしょうが、
流石に彼らもそれからわずかその44年後、彼らがやってきた極東の小国が
支配国側だった白人の大国ロシアと戦って勝つとは夢にも思わなかったでしょう。
1860年にはアメリカにやってきて見るもの聞くもの珍しく、
文字通り世界規模でのお上りさんに過ぎなかった日本。
その後恐るべき速度で文明開化を成し遂げ近代国家に生まれ変わり、
軍備もあれよあれよと増やしていってこの結果です。
世界が日露戦争の衝撃的な勝利に目を見張る一方、アメリカ人たちは
咸臨丸の日本人たちの、特異ではあるが誇りに満ちた態度振る舞いを思い起こし、
「やっぱり日本人というのは最初から他の民族とは違っていた」
と頷きあったのだと思うのです。
出る杭は打たれるという諺がよその国にあるのかどうかは知りませんが、
特にアメリカは、白人との戦争に勝った新参国に同時に警戒を抱きました。
それがいわゆる「オレンジ計画」そして36年後のガチバトルに繋がっていくわけです。
そして、その戦争で連合国側は日本を叩きのめしたかに思われました。
しかし、敗戦国日本を煮ても焼いても自由、ということになったときも、
アメリカは日本を植民地にすることはできませんでした。
大東亜戦争で日本が立ち上がったことがきっかけで、戦後世界では
次々に植民地が被支配から独立し、「時流にそぐわない」ということもありましたが、
何と言っても実際に戦争してみてつくづく日本人というものの底知れなさ、
恐ろしさをアメリカ自身が思い知ったからではないでしょうか。
「武力で人心まで押さえつけられる民族ではない」
「追い詰められたら何をやるかわからない」
(その捉えがたさの源流を、占領軍は「神道」のせいにし、
神職を排斥してみたりしましたが、それは全くの勘違いでした。
そもそも日本人は一神教ではなく宗教原理主義とは対極にいる民族です)
しかし彼らの日本という国に対する密かな「畏れ」というものは、
干戈を交える前から連綿と続いており、その源流をたどれば
この時の遣米使節から始まっていたとわたしは思うのです。
さて、メア・アイランド博物館の展示に戻りましょう。
この景色は遣米使節がサンフランシスコ訪問をした頃のヴァレーホです。
対岸から川越しに半島となっているメア・アイランドを見た角度となります。
このリトグラフで家がポツンポツンと建っているこちら岸は、
現在完璧に護岸工事されて公園になっており、レストランが立ち並びます。
この絵の中には当時のドックに建造中の帆船がいるところが表されている他、
ホイールシップや蒸気船の姿も描かれています。
さて、咸臨丸のトップは、前回もご紹介した木村摂津守です。
木村がメア・アイランド司令官であったカニンガムに当てた手紙がありました。
(おそらく翻訳して渡されたのだろうと思われ)展示されていました。
この日本語?を翻訳してみます。
1860年3月4日(Luna Calender)
アメリカ合衆国海軍 カニンガム司令官
親愛なる司令官:
我々の蒸気エンジン戦艦咸臨丸に修理の必要があることを知り、
閣下にその手配をお願いいたしましたところ、
閣下は我々の願いを快くお聞き入れくださった上、
全く遅れることなく作業を完了させてくださいました。
閣下がお取りくださった措置に対し心からお礼を言うとともに、
マクドゥーガル大佐、そしてその他の閣下が指揮された
士官の皆様にも厚くお礼を申し上げます。
あなた方の為した作業が大変満足いくものであったことは確かです。
私は、修理やそのために必要となった機材や道具など、様々なものが、
おそらくは大変な経費を必要としたことを理解しております。
それにかかりました金額は全てお支払いさせていただくつもりですので、
あなたの部下の士官に、合計金額を明らかにしていただき、
いくらお支払いしたらいいか、わたしに教えていただければと思います。
わたしは(I am)
アドミラル 木村 摂津守
どうですかこれ。
お礼をきっちりと言いつつも、それは儀礼として謝礼を述べたのであり、
手紙の本題は、「いくら払ったらいいのか教えてくれ」ですよ。
丁重に礼を言いつつ、しかも相手に請求させる前に、
「こちらはどんな高くとも払う用意があるので、いくらか言ってくれ」
と自分から申し出ているのです。
まあ、同じ日本人からすれば、きっと我々でもこう言う風に書くだろう、
と言う文章そのままで、なんの違和感もありませんが、世界的にはそうでもなく、
アメリカ側は日本人の礼儀正しさに感嘆したのではないかと想像されます。
ところで、メア・アイランド海軍工廠は当時のアメリカでも最新の設備、
ドライドックを備えていました。
咸臨丸のメンバーにとって、もっとも刮目して見たのは、
わたしの予想ですが、このドライドックの仕組みだったのではないかと思われます。
その後すぐさま、日本政府はフランスから技師ヴェルニーを招いて、横須賀に
日本第一号となるドライドックの建造に着手しますが、それもこれも
この時の見学が土台になっていることは間違いありません。
この時に咸臨丸にドライドックで施された修復内容については、
ここメア・アイランドの資料にはちゃんと残されています。
それによると、船体に施された銅には全く問題はなかったが、
いくつかの部分で修理が必要であった、ということで、
まず帆を全部張り替え、外殻と内側の塗装を全部施し、
二本のマストを新しく付け替えた、ということです。
ところで、手紙で木村摂津守が聞いているところの修理代です。
この時、咸臨丸はメア・アイランド海軍工廠にいくら払ったのでしょうか。
これについては驚くべき一言が資料に付け加えられていました。
メア・アイランド海軍工廠は修理を無料で行なったというのです。
そしてその理由とは、木村摂津守の手紙にも出てくるカニンガム司令によると、
「わたしは日本との間に友好な関係を築きたかったからだ」
ということでした。
穿った考えかもしれませんが、日本全権団の礼儀正しさ、
修理代を先回りして聞いてくるような心遣いに、カニンガム司令も感じ入り、
アメリカ軍人として敬意をもって応えたのではなかったでしょうか。
さて、この少女とおっさんの写真、どこかで見たことある方はおられますか。
なんと、右側は当時25歳の福沢諭吉です。
左の少女はセオドラ・アリス。
ここには何の説明もありませんが、写真屋さんの娘だったらしいですね。
サンフランシスコで写真を撮りに行ったらそこに可愛い少女がいたので、
一緒に撮ろうよ?ってことになったんじゃないでしょうか。
どちらも真面目くさった顔をしているのでなんともわかりませんが。
福沢はここでウェブスターの英語ー中国語辞典を手に入れています。
それで彼は英語を本格的に勉強し、のちに彼自身の英日辞典を著しました。
日本人一行は二つの煉瓦造りの建物に分かれて住んでいました。
一つは庭に囲まれていて、提督と彼の側近などが、片方は
水兵たちの宿舎となっており、それは画面右側の二階建てのアパートでした。
士官や水兵たちは大変活動的ににここでの余暇を過ごしていたといいます。
例えば日曜になると、彼らはメア・アイランドの周囲を走り、
美しい野生の花を愛でたり、対岸のヴァレーホに行ったりしました。
彼らのレセプションは 当時、サンフランシスコのジャクソンストリートにあった、
(モンゴメリーとカーニーの間)できたばかりの、エレガントな
「インターナショナルホテル」で行われました。
日本人たちはアメリカ人が高価な絨毯を床に敷いているのにも関わらず
その上を靴で歩くことに驚いた、とこの説明にあります。
この「インターナショナルホテル」は、その後その名の通り移民が住み着くようになり、
(創立時はそういうつもりで名付けたのではないと思いますが)
1977年の都市再生計画で結局取り壊しになりました。
立ち退きを迫られた居住者がデモを起こし、警察に排除されるという騒ぎになったといいます。
ポウハタン号 USS POWHTTAN
ポウハタン号はサイドウィールの蒸気フリゲート船です。
このちょっと変わった名前はヴァージニアに実在した
ネイティブアメリカンの酋長の名前で、アメリカ海軍にとって
最後のパドル式フリゲート艦でした。
ノーフォークの海軍工廠で当時の78万5千ドルで建造され、
起工は1852年、1886年の除籍後はスクラップとなりました。
「ポウハタン」は1854年、ペリーが艦隊を率いて東京湾に入った時、
旗艦を務めた船です。
その後日米親和条約(Convention of kanagawa)が締結されたのは
皆様もよくご存知の通りです。
万延元年の遣米使節のメインは、実は咸臨丸ではなくてこちらだったのです。
この全権団の正使であったのがこの写真の新見正興(にいみただおき)です。
咸臨丸はいわば、「ポウハタン号」に何かあった時の保険として
随行したらしい、というのが現在明らかになっています。
咸臨丸が日本に帰国した後も使節団一行は日本からアメリカまで同行した
「ポウハタン」号でパナマへの親善のため航海を続けました。
全権団一行はできたばかりのパナマ鉄道で大西洋側まで抜け、
船をUSS「ロアーノク」に乗り換えてワシントンDCに到着しました。
一向到着後、ホワイトハウスでの晩餐会始め、いくつかの歓迎会が持たれました。
その時のホワイトハウスの主は、ジェイムズ・ブキャナン大統領です。
使節団はその後ニューヨークに向かい、大西洋からインド洋を経由して
日本への帰路に着きました。
ニューヨークを発ったのが6月30日。
一行を乗せたUSS「ナイヤガラ」は
ポルトグランデ、カーボベルデ島(アフリカ)
サン・パウロ・デ・ロンデ(現在のルワンダ)アンゴラ、
バタビヤ(ジャカルタ)、ジャワ、香港
を経由し、ついに11月8日東京湾に帰港することを果たしました。
鮮明な写真がwikiにあったのでこちらをどうぞ。
この写真は前にもこのブログでご紹介したことがあります。
前列右から三人目の新見正興があののちの絶世の美女、
柳原白蓮のおじいちゃまであったというネタで(笑)
新美は遣米使節の功績を認められて取り立てられたものの、
42歳で何をやったのか知りませんが、伊勢守を免職になったため、
娘のうち二人は芸者になって身を立てました。
柳原前光伯爵に妾として囲われたそのうちの一人の娘が
白蓮の母親だった、というわけです。
ところでこの写真の前列右から二人目はあの小栗上野介忠順です。
(横須賀的にオグリンといわれています)
このオグリンについては当ブログでも何度も書いてきたので
ここではどういう人物かは省略しますが、みなさん、
この写真のオグリンをよ〜〜〜く見てから、この下の写真を見てください。
こんな写真でもイケメンな新見正興ではなく、オグリンの姿勢にご注目。
どうも右に傾いてしまう人だったみたいですね。
ちなみにオグリンは、この時に行われた日米通貨交渉で、
不平等な通貨比率をなんとか是正すべく、孤軍奮闘しました。
彼の主張は全く正当なもので、アメリカ側は彼のタフ・ネゴシエイターぶりに
内心感嘆したといわれています。
結果としては合意に至りませんでしたが、冒頭の修理の件に加え、
小栗もまたアメリカ人の日本人に対する評価を高めたことは間違いないでしょう。
海外在住の日本人ならもしかしたら皆一度ならず経験することかも知れませんが、
わたしもまた、アメリカ滞在中、日本人であるというだけで安心されたり、
信頼されたり、褒められたり、災害のお悔やみを言われるようなことがあります。
その度に、わたしは日本国の先人たちの高貴な振る舞いをありがたく思い、
彼らの評判の恩恵をこうむる自分もまた日本人としてかくあろうとするのです。
先ほど、アメリカ人が最初に接した日本人である咸臨丸の人々が
彼らにとっての「畏れ」の源流となったのではなかったかと述べましたが、
それはまた言い方を変えれば「信頼の源流」でもあったのです。
今日日本人の受ける信頼の連鎖をもし逆に手繰っていったとしたら、
その一番最初には、彼ら万延元年の日本人たちがいるのではないでしょうか。
続く。