広島県は瀬戸内海に浮かぶ小さな島、大久野島が
「うさぎの島」として脚光をあびるようになったのはごく最近、
2015年頃からのことです。
前回も書いたように、うさぎは昔からいましたが、
近年大久野島は完全に寂れた観光地となっていたのです。
わたしも今回初めて休暇村という名前のホテルに泊ってみて、
明らかに昭和30年代のセンスが随所に窺える建物内部、
昔は大学のサークルが合宿などで訪れた名残らしいテニスコート、
温泉浴場の天井がカビで黒ずんでいるなど、
没落の痕跡が隠しようもなく残っているのに気がつきました。
テニス合宿をあてにしたらしい人工芝のコートもご覧の通り。
この島が「うさぎ島」として注目され、今や海外からの観光客も訪れる
ちょっと特殊な観光地になったきっかけはやはりソーシャルメディアの発達で
うさぎだらけ画像が世界にばら撒かれたことにありました。
卯年だった2011年にメディアが紹介し、旅行会社が商品を売り出したこと、
(卯年にうさぎに会いにいく旅とかなんとかいうツァー)
海外のメディアが取り上げたことでちょっとしたブームが起こり、
外国からも物好きな人たちが訪れるようになったのです。
わたしが訪れたこの時も、アジア系はもちろんのこと、
欧米系、インド系などの海外からの客の姿が見られました。
この動きを受けて、島は少しずつ観光客向けに再整備を行なっています。
ブルーシートの向こうは護岸工事中。
そのほかにも最近整備されたらしいところ(沿岸線中心)がありました。
さて、わたしは島を左回りに一周することにしたわけですが、
フェリー乗り場を通りすぎて数分行くと今度は桟橋が現れました。
現地の看板も新しいのに変えていただけると助かるのですが・・・。
雨ざらしになって劣化した画面が見にくいですが、これは
写真の桟橋を逆の角度から上っていく人たちの後ろ姿が写っています。
大久野島に毒ガス工場が開所したのは昭和4年でした。
開所式に出席する陸軍軍人の後ろ姿、堵列を作って
敬礼しながら来賓を迎えている兵たちの姿が確認できます。
この桟橋は、日本が日清戦争後、来るべき日露戦争に向けて
対ロシア海軍用に急ピッチで島を要塞化した時に整備されました。
毒ガス工場開所の日はこのように人が上陸していますが、
その後はほとんど資材の陸揚げのためにしか使うようになりました。
ただ、この桟橋の位置は本土に面していて良く見えたので、
毒ガスの材料など秘匿しなくてはいけない搬入作業のために
大三島からも本土からも見えない位置に桟橋を建設しています。
桟橋から上がっていくと、まっすぐこのトンネルをくぐる道に繋がります。
建物が島の外側から見えないように前部を小高い丘で覆い隠しているのです。
トンネルをくぐろうとしたら門番のように黒いうさぎが出迎えてくれました。
「ククク・・ウェルカム・トゥ・ザ・ダークサイド」
みたいな?
説明によるとここには発電所があったということですが・・。
トンネルの中には「喫煙許可」の文字があり。
「落書スルコト」というのはおそらく「禁ズ」という赤文字が
消えてしまったのだと思われます。
よくよく見ると、「落書スルコト」の下に、うっすらと英語で
「SMOKING PERMITTED IN THIS AREA」
と書いてあるのが見えるではないですか。
わたしの想像ですが、この喫煙許可のサインは、終戦後毒ガス処理に進駐した
アメリカ軍とイギリス連邦軍、そして日本人作業員が
その移住場所として発電所を利用したときに書かれたのではないでしょうか。
ガス処理という作業上、建物内でも喫煙は固く禁じられていた彼らが
一服できる唯一の場所が空気の貯まらないここだったのでは・・・・。
「おおお〜・・・・」
思わず声が出てしまったほど見事な廃墟。
窓ガラスのほとんどは割れて逸失し、ドアも残っていません。
そしてわたしの目は壁にうっすらと残る
「MAG2」
の文字に吸い寄せられました。
「MAG」とは間違いなく軍用の弾薬庫を表す「マガジン」。
やっぱりここは米軍の弾薬庫になっていた建物なのです。
それと、2があるってことは1もあるよね。どこか別のところに。
わたしはこれを見るまで、アメリカ軍がここを接収後、
昭和30年まで軍用施設にしていたことを全く知りませんでした。
そして例の左翼くさいメッセージを掲げた資料館を具に見学した時、
わたしはなんとなく胡散臭いものを感じたのですが、ここにきて
その正体が見えてきた気がしたのです。
資料館では、元の所有者こそ日本軍だけど、結論として誰が棄てたか
はっきりしていない中国の遺棄毒ガスによる人的被害だけは
妙に克明に展示をしてありました。
それはまるで大久野島の毒ガスだけが中国に遺棄されたような書きぶりでした。
ところで中国での遺棄された毒ガス問題ですが、
西村氏の説によると、当時の村山政権(プラスあの河野外務大臣)が
事実を明確にしないまま政治利用して中国に媚びた、というものです。
その考え方の是非はともかく、わたしとしては、
ここ大久野島の資料館は日本が加害者となる問題にはやたら熱心な割に、
アメリカ軍がここに貯蔵した爆弾を朝鮮半島で使用していた、
という史実に全く触れていないということに意図を感じました。
つまり、アメリカ軍の軍事利用などは
「日本が悪うございました。懺悔いたします」
という資料館のテーマから外れるから触れる必要はない、ってこと?
辛うじて木製のドアが形をとどめている例。
三階建ての高さがありますが中は全くの吹き抜けとなっています。
発電所として使われていたときの内部の様子を見ると、
当時からガラス窓はほとんどが割れていたらしいことがわかります。
明治時代、あるいは毒ガス製造し始めた頃建てられた普通の建物から
発電所になった1929年の段階で床を取り去ってしまったのかもしれません。
この写真に写っているディーゼル発電機は重油を燃料にしたもので、
全部で8基設置されていたということです。
あれ?立ち入り禁止のはずなのに内部は落書きだらけ・・。
呉高専の古川さんとか、広島県三原市にある益谷建設(株)の
社員さんなんかが立ち入り禁止の構内に入って落書きしたわけですね。
後世に馬鹿を晒してどうするよって話ですが。
ところでこの「広三塗装」という文字の部分見ていただくと、
「EXIT」が「非常口」より上に書いてある、
明らかに進駐軍時代のペイントがうっすら見えます。
発電所の敷地内にあった蔦の絡まる小さな建物。
何に使われていたものかは説明がありませんでした。
金属が腐食して外れてしまった窓枠がなぜかぶら下がっています。
肉眼で見ただけではどうしてこんな状態なのかわかりませんが、
写真を拡大してみたら、内側から窓を開ける支え棒だけ残っているためと判明。
こちらも同じ仕組みで落ちずにぶら下がっています。
島内のそこここにはボランティアの人たちが用意したらしい
うさぎ専用の水飲み桶がありました。
その一方、行政側が立てたらしい
「夏は蚊が発生するので水は置かないで」
という立て札もあったのがなんとも不思議です。
もし水飲み場を無くしてしまったらうさぎは川も池もないこの島で
どうやって水を飲むのか、って話ですよ。
ボランティアは蚊が発生しないように毎日水を取り替えていたのかな。
どちらにしてもそういう活動をボランティア任せにせず、
もう少し行政の方でなんとかするべきなんじゃないのかしら。
うさぎあっての大久野島なんでしょう?
山頂や火薬倉庫に続く参道はことごとく通行止めとなっていました。
あとでホテルの人に聞いてみると、水害発災以来、環境省の指示で
安全調査が済むまで立ち入り禁止となっているとのことでした。
山頂の中部砲台跡、火薬倉庫、展望台。
これらを見ずして帰って来なければならないとは・・・・。
もう一度行く理由ができてしまったじゃないかー。
海岸に沿った岩壁の上を通る道は舗装されています。
あまり人通りがないのですが、ここのうさぎたちも近づいてきます。
違う毛色のうさぎが四種揃って撒いた餌を食べているところを上から。
人を見ると逃げるうさぎもいます。
餌はどうしているんだろう。
人情として、人通りの多いところより、こんなところで会ううさぎにこそ
餌をあげたいと思うのですが。
そういえば夏目漱石の「三四郎」にそんなエピソードありましたよね。
「乞食もこんな賑やかなところにおらず、
山中の寂しいところにいたら可哀相に思って皆ものを恵むだろうに」
「その代わり1日待っていても誰も来ないかもしれない」
みたいな。
ツーフェイスうさぎ。
「このこ靴下穿いてるね^^」
とみんなに餌をもらっていた灰色うさぎ。
島の北部の高台に到着しました。
ここには北部砲台観測所跡があります。
加農砲、というのは「キャノン砲」のこと。
斯加式十二糎速射加農砲(しかしきじゅうにせんちそくしゃかのん)
は帝国陸軍が1890年から輸入したシュナイダー製砲で、
斯式=シュナイダー式 加式=カネー式
という意味です。
シュナイダー社のギュスターブ・カネーが開発したので
斯加式、というわけですね。
ちなみに山側の地下兵舎跡付近も立ち入り禁止でした。
地図によるとこれが砲側庫。
砲側って何かしら。
陸自の装備に「87式砲側弾薬車」なるものがありますが、
弾薬と人員を運ぶというものなので、もしかしたら砲員のこと?
中はドームになっていて、天井に空気穴が空いています。
雨水が入り込むので、少なくとも弾薬庫ではないと思うのですが。
斯加式十二糎速射加農砲跡。
地面には、砲座を移動させたらしいレールの跡も見えます。
アメリカで砲台跡を今年たくさん見てきたわたしですが、
どうして日本にはこういう遺跡が残っていないのだろう、などと
思ってしまってすみません。
立派な砲台跡がほとんど手付かずで残っているではないですか。
こんなところにもうさぎ穴が(笑)
芸予要塞として砲台が稼働していたのは22年間です。
廃止の理由はまず要塞砲の機能が向上して射程距離が変わったこと、
第一次世界大戦で初めて戦争に航空機が登場したことにより、
国防方針が変更になって新たに大分の豊予海峡に要塞ができたことでした。
大正13年(1924年)、芸予要塞は一度も用いられないまま廃止となりました。
北端を歩いていると、うさぎがはっとこちらに気づき・・・、
早速駆けつけて靴を舐めます(文字通り)
そうか、そうまでして人間から餌が欲しいか!
駆けつけてきた一族の中に黒うさぎの双子がいました。
うさぎの家族意識とか対兎意識ってどんなんなんだろう。
群で暮らし集団行動を取ると言っても、実はうさぎ、
結構縄張り意識が強く、親族以外のうさぎに対しては
あからさまに敵対意識を持って攻撃もするんだとのこと。
道の脇にこんな感じのものがゴロゴロしてるんですが、これって
毒ガス作っていた施設の一部なんじゃないのかしら。
続く。