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化学兵器は「ただちに」廃絶することができるのか〜大久野島 毒ガス工場跡

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大久野島休暇村の、いかにも60年代に建てられたホテルの
典型的な和室での一夜は一人で宿泊したこともあって怖かった、
と書いたところ、unknownさんが

「こんないわく付きの廃墟の島でお泊りしたら怖いでしょう」

とコメントして来られたわけですが、わたしはこれを読んで、
あっ、とあの訳の分からない恐怖の原因に合点が行ったのです。

全く自慢にならないのですが、わたしは何をするにも事前に下調べをして
これからの体験に備えるというまめなことを一切行いません。

何も知識のない真っさらな感性のアンテナが新しく体験する事象、
あるいは物事に触れる時に生まれる何かを大切にしたいから・・・

というのは全くの嘘で、基本無精者だからです。

今回も、島の歴史は勿論、実際にどんなことがあったのかについて、
島の大きさすら、wikiを見ることすらせず現地に赴きました。

到着するなり毒ガスについての展示を丹念に観て、その結果
ここがどんなところであったかが初めてわかってきたのですが、
それでもその夜、一人で床の間の和室でパソコンに向かいながら
何やら得体の知れない気味の悪さを終始感じていたのにも関わらず、
今ならはっきりと感じるであろう、この小さな島に漂う
毒ガス製造に携わって不慮の死を遂げた人々の怨念については
不思議にその気味の悪さと結びつけて考えることをしませんでした。

帰宅後こうやってここでご報告するために調べるにつけ、
じわじわと遅まきながらその凄惨さに気づくことになり、

「よくまああんなところに一人で泊まったなあ」

と自分の無精さにむしろ感謝している、というのが正直なところです。
無知とはなんと怖いもの知らずであることよ。

今では跡形も無くなっていた病院跡を通り過ぎると、
もう既に廃社になり、御神体の無くなったらしい神社の跡でした。

ちなみにこれが更地にされていた病院全体の建物です。
左に灯台に続く山道の階段が見えます。
建物の前庭が真っ白ですが、これは進駐軍が撤収後、まず
病院を「無毒化」するためにさらし粉を撒いたのでしょう。
おそらくこののち建物は倒壊処分にされたのだと思われます。

さて、神社の鳥居前には

「皇化隆興」「萬邦威寧」

皇国の隆盛がいや増し、全ての地が
天皇陛下のご威光によって安寧でありますように。(たぶん)

という石碑が建てられています。

毒ガスを作るための工場しかなかったこの小さな島に、
いや、だからこそ祈りの場が人々には必要だったのでしょう。

現地の説明には、

毒ガス工場が開所された際、従業員が社殿を修復して「大久野島神社」とし、
1932年に現在地に移転しました。

とだけありますが、これではあまり意味がわかりません。
それまで神社はどこにあって、なんという名前だったのでしょう。

鳥居の注連縄はもう右側が外れかけているのですが、
何も対処している様子がありません。

「忠海兵器製造所 従業員一同」

と鳥居の寄進者名が刻印されています。
毒ガス工場の正式名称は

陸軍造兵廠 火工廠 忠海兵器製造所

でした。

昭和八年二月吉日、と寄進した年月日が反対側に。

陶器で作られたらしい狛犬は完璧な姿で残っています。
備前焼のような土の色をしていますがどうでしょうか。

参道をまっすぐ進んでわたしは思わず息を飲みました。
神社がここまで廃墟になってしまっているのを初めて見ます。
いつ崩落しても不思議ではない状態なので、立ち入り禁止になっていますが、
どうして取り壊しにしないのでしょうか。

拝殿は閂をかけ、扉を閉めていたものと思われますが、
雨風に打たれて扉は破れ、天井の板が剥がれて落下しています。
破れた扉越しに見える本殿の銅製の階段だけが当時の形を残しています。

 

かつてここに工場があった頃には、神職が神事を執り行い、
元旦には島に住む人々が初詣にやってきた神社。

説明には

境内では様々な行事(毎月8日の大詔奉戴日、四大節、式など)
が行われました。

とあります。

戦中は大東亜戦争が始まったのが12月8日であることから
毎月8日は「大詔奉戴」の日として神事が行われていたのです。

また、四大節とは元旦、紀元節、天長節、明治節。
式というのは学童の入学式、卒業式です。

 

神社が正式に取り壊されなかった理由とはなんだったか考えてみましょう。

敗戦となり、工場の関係者と陸軍軍人たちが最初に行ったのが
製造していた毒ガスを主に海に投棄することで、その後は
進駐軍が毒ガスの廃棄作業、そして朝鮮戦争の期間、実に十年も
ここにいたわけですから、その期間を通じて誰かがこの神社の
御神体を持ち出したりすることなど全く不可能だったことは確かです。

ただ、進駐軍は研究所や発電所などを残して他の建物を毒ガスと一緒に
焼却処分にしてしまったものの、流石に神社に火を放つことは、
おそらく畏れもあってそれを行うことはできなかったのでしょう。

ということは、この神社は本殿のご神体ごと、ずっと放置され、
長い年月そのままになっていたのではないでしょうか。

島が日本人の手に戻った時、ご神体をどこかに合祀した、
という話は今回どこを検索しても出てきませんでした。

鳥居を奉納した一ヶ月後、全従業員の名前を刻んだ石碑が建てられました。

裏表合わせてだいたい150名くらいの名前が彫られています。
工場が稼働を始めた最初のメンバーの有志だと思われます。

神社の境内に当たるところに殉職碑があるのに気づきました。
こちらも神社と同じく、今ではその役割を失ってしまっているようです。

神社はわかるとしても、殉職碑まで・・・・。
奇異な思いを抱きつつも思い切って後ろにまわってみました。

殉職者の名前が刻まれているでもなく、ただ

昭和十二年三月建之(これを建てる)

とだけあります。

おそらく最初に死者を出したのは、最も危険だったイペリットの
製造工場だったでしょう。

毒ガス資料館のパンフレットより。

製造工員はゴム製の防毒マスク、衣服、手袋、長靴などで
体を防護して作業を行いましたが、イペリットガスはその隙間から浸透し、
皮膚、目、咽頭を犯して結膜炎、肋膜炎、肺炎、気管支炎を引き起こしました。

しかし、当時は有効な治療法を持たず、火傷の手当と同じことをしていたそうです。

赤と言われたくしゃみ剤は名前はいかにも軽微なようですが、
これを吸入すると血液中の酸素吸入機能が麻痺してしまうのです。

緑である塩化アセトフェノンは吸い込むと肺組織をおかし、
肺水腫状態となって死に至るというもので、比重が重いため、
窪地や洞穴に流れ込んで人体に深刻な害を与えました。

昭和15年には、特殊工を養成するため技能者養成所が島に開校しました。
この入学式が行われたのも神社の境内です。

写真は昭和18年、青年学校修了者と養成工の合同卒業式の様子です。

挨拶しているのは陸軍軍人。軍人は右手に階級順に並んでおり、
左の椅子に座っている紋付の一団は家族であろうと思われます。

工員服の青年と一緒にいる女子卒業生たちは、おそらくこの後
風船爆弾の気球部分を作らされたと思われます。


神社の参道から海を望む景色は、昔のままに違いありません。

慰霊碑が放置されていたことに不思議な思いを抱きながら
歩いていくと、「本物の」慰霊碑が現れました。

昭和60年になって新たに建立された慰霊碑は、元の慰霊碑で
鎮魂されていた死者を含め、戦後にガス障害で亡くなった
全ての死没者の追悼のために建立されたものです。

竹原市長の「化学兵器廃絶宣言」兼慰霊文です。

化学兵器は無差別かつ広範囲に人間を殺戮することでは
核兵器・生物兵器と同じであるから、直ちに廃絶されねばならない。

「直ちに」という言葉になんかものすごい嫌な思い出があるのは
わたしだけではないと思いますがそれはさておき、これを、

「現実世界においてこんなことをここで言っても全く意味をなさないんじゃ」

と思ってしまうわたしってひねくれ者?
広島の原子爆弾犠牲者慰霊碑の、

「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」

に通じるものを感じます。

 

現状としては、CWCの禁止条約が締結された後も、

イラン・イラク戦争中に、イラクが、マスタードやタブン、サリン16を使用

クルド人に対する弾圧の手段として、化学兵器が使用される

シリア・ダマスカス郊外において、サリンが使用された

北朝鮮はCWCに加盟せず、現在も化学兵器を保有している

地下鉄サリン事件

米国における炭疽菌入り郵便物 リシン入り郵便物事件

金正男氏の殺害事件ではVXが検出された

など、主にテロ組織側によって化学兵器は非常に「魅力的な」
兵器であることが窺える事案が相次いでいます。

ちなみに大久野島の資料館では、イランへの医療支援として、
イラン・イラク戦争での毒ガス後遺症治療にあたる医師・看護婦を
そのノウハウを持つ広島の医療機関が受けいれたことが縁で、
その関連資料も展示しているということです。

新たに建立された慰霊碑の銘文は広島大医学部の教授によって書かれました。

西本幸男氏は第15代学部長であり、専門は呼吸器内科学。
難治性喘息や気管支喘息の重症化要因を研究テーマにした学者です。

戦後は広島大学が中心となった組織が、毒ガス障害者への健康診断や
後遺症の研究を継続して行っているということです。

昭和17年に陸軍造兵廠忠海製造所従業員診療所だった
呉共済病院忠海病院は、被災者の指定医療機関となっています。

いわゆる「平和学習」で千羽鶴を持ってくる学校が多いのでしょう。
専用の「千羽鶴奉納所」が設けてあります。

「これからも戦争について学び、平和の大切さを僕たちから広めていきたいと思います。
そして争いのない平和な世の中を作っていきます。」

そうですか。

「それでは平和とはなんですか」

と聞くと、多分この子からは、

「戦争しないこと」

という答えしか返ってこないんだろうと思われます。

決してバカにしていうのではありませんが、自分のその頃を思い出しても
子供の考える(学校で考えさせられる、ということもできる)平和なんて、
まあせいぜいこんなものでしょう。

ただ、慰霊碑に刻まれた竹原市長の碑文がこれとほぼ同じレベルである件。

おそらくこういうのって、

「戦後日本人の考える平和の希求のあり方」

のスタンダードなんだろうな。
間違っていないけど、具体的なことは何も言っていないというね。

崖の上に、誰でも見たらわかる「危険」という看板を立てるのは日本人だけ、
と先般書きましたが、こういう当たり前すぎて意味のないことを子供から大人まで
異口同音に公言する傾向にあるのも、世界で唯一日本だけのような気がします。

なんて言ったら真面目な人たちに非難されちゃうかしら。

昨日見送った「ホワイトフリッパー」が突堤に到着するところを目撃しました。
朝早いのにたくさんの人が乗り降りしていましたが、この一団は
ほとんどが休暇村で働いている人たちのようです。

島に一つあるインフォメーションセンターの近くまでやってくると、
「自動交換機室跡」とだけ説明のある防空壕的な建築がありました。

何を自動交換するのかの説明がなかったのですが、電話かしら。

レンガで脚を組んだ藤棚は一部倒壊の恐れがあるらしく
内部に立ち入り禁止の札がかかっています。

wiki

毒ガス資料館の前を通り過ぎ、休暇村が見えるところまで帰ってくると
そこには毒ガス工場時代の研究所だった建物がありました。

実はこの建物があまりに近代的なので、わたしはてっきり
休暇村建設時代のものかと思い写真を撮らなかったのを後悔しています。

この内部の写真も検索すれば出てきますが、昭和2年に作られたとすれば
当時としては超ハイテクモダーンな建築様式だったはずです。

毒ガスの研究と薬品庫として使われていました。

その隣にあったのがこちらは昭和2年と言われても全く驚かない、
検査工室。

毒ガスの製品検査をする施設があった、ということはここで
動物実験などが行われていたと考えていいのかと思います。

同じ検査工室の建築中写真。
山の斜面を大幅に切り開いてその場所に作ったことがわかります。

それから90年が経ち、山肌は鬱蒼とした木々で覆われています。
驚いたのはこの建物と休暇村の間の空き地が自転車置き場になっていて
休暇村で働いている人が普通に周りに出入りできるらしいということです。

建物の脇には当時からあったらしい「歩行中禁煙」の木の注意書きが見えます。
進駐軍はなぜか検査工室を焼却処分にせず、何かに利用していたようです。

右手の山肌の見えている斜面の麓に今休暇村があります。
三軒家工場群では「あか」(くしゃみ剤)が製造されていました。

激症を引き起こすイペリットが製造されていたのはこの山の
向こう側の中腹あたりになります。

チェックアウトは10時。
歩いてフェリー乗り場まで行くとちょうどフェリーが到着しています。
前で切符を見せているのは昨日同じフェリーに乗っていた人だと思われます。

この人も休暇村で一人宿泊したんですね。

島で最後に撮影した大久野島うさぎ。

ところで大久野島シリーズの2回目以降のタイトルである疑問形は
この歴史の証言者となっている島に滞在して沸いた様々な心の声です。

「疑問」=「不思議」→「不思議の国のエリス」\(^o^)/
と言いたくてわざわざ疑問形のタイトルにしてみました。

その答えが得られたものもあり、永遠に解決されないと
わかって書いているものもありますが、何れにせよ、
「不思議の国のアリス」のように、うさぎに導かれてここにきた人々もまた、
各自の感受性の程度や方向性の違いこそあれ、この島に滞在して
何の疑問も感じずに帰っていくということはないと思われます。


元来わたしは「平和」「人権」などと大声で叫ぶある種の層に対して
徹底的な不信感と胡散臭さを感じるという、自他共に認める捻くれ者ではありますが、
人類が兵器を持つことを止める未来など決して来ないとわかっていても、
たとえそれが大海に投じる一滴の真水のようなものであっても、
声を上げ続ける大久野島のような「犠牲者」が有る限り、人類の終末は
少しでも先に延ばすことができるという希望を捨てていないのもまた事実です。

(お断りしておきますが、それは『平和』とは別次元の話です)

というわけで、

「平和」「化学兵器廃絶」

などという左翼ワードをポエムのように瀬戸内海に向かって叫ぶ、
などというヌルいやり方ではなく、化学兵器の違反使用国はバシバシ制裁する
役割を持つと言われるOPCWで、もっと「被害者」としての立場から
ガンガン声を上げ、テロリスト側を締め上げていく方向に向けた「具体的行動」を、
活動家のみなさんには心から期待しつつ、大久野島シリーズを終わります。



「大久野島~不思議の国のエリス」シリーズ 終わり

 

 


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