やっとUSS「スレーター」のご紹介をおわったので、次に
同じニューヨーク郊外にあった航空博物館、
「エンパイアステート航空科学博物館」
Empire State Aerosciences Museum
で見学したものについてシリーズでお話ししていくことにします。
ネットで軍事博物館を検索していて探し当てたのは、
ニューヨーク州といっても州都オルバニーをさらに
ハドソン川に沿って五大湖に向かって遡上していった、
グレンヴィルという街にある空港利用型の博物館でした。
1984年、ニューヨーク州の教育省によって企画された非営利の博物館で、
グレンヴィルに昔から存在した
スケネクタディ郡空港(Schenectady County Airport)
の一角にある土地にあります。
この「スケネクタディ」という地名ですが、最初に見たとき、
「なんて読むの?『すけ・ねくたでぃ』でいいのかな」
「変な名前」
などと言い合ったものです。
アメリカの変な地名あるあるとして、この名称もネイティブアメリカン、
つまりこの場合はモホーク族の言語です。
「松の木々の向こう側」
と言う意味なんだとか。
もともとモホーク族の土地だったところに、オランダ人が入植し、
その後原住民たちは、フランス軍と、フランス軍に協力した
他部族のネイティブアメリカンによって、多くが殺害されたそうです。
高速道路を降りて長閑な風景を見ながらしばらく行くと、
エンパイアステート・エアロサイエンスミュージアム、
通称ESAMが見えてきます。
なぜに名称が「エンパイアステート」なのかですが、博物館が
存在するのがグレンヴィル、空港はスケネクタディということで
どちらの地名も使うことができず、かといって
「ニューヨーク」という冠を被せるのはちょっと規模の割に畏れ多い、
ということでこのイメージ的な名称になったと想像します。
実際に訪問してみて、規模といい展示といい、
博物館として立派なものだと思われましたが、営業は毎日でなく
金土の10−16時、日曜は正午ー4時までのみ。
非営利ではないので、従業員の確保が難しいのかもしれません。
ちなみに画像の国旗が半旗になっていますが、これは
この年にジョン・マケイン議員が亡くなったからです。
ところでこのメインハンガーですが、現在はESAMの所有で、
かつてジェネラル・エレクトリック社がスケネクタディ空港から
貸与されていた土地に建てたものです。
素材の中心はコンクリート。
右側の写真は1946年に行われたエアショーの様子で、左下には
ウィルソン大統領、GGのお偉いさんと共に、あの
ドーリトル爆撃の指揮をとったジミー・ドーリトル准将が写っています。
当時の最新武器だったヘリコプター、シコルスキーR-5の姿もあります。
1943年にGE社レーダーと武器統制システムを研究する実験室を
ここで操業していました。
1945年には航空実験部隊がGE社の一環として創設されたため、
それにともないこのハンガーが建造されたのでした。
戦後1946年から1964年までは、
GEスケネクタディ・フライトテストセンター
として、30タイプの基本形から60タイプの派生系に上る
飛行機が40種類のプロジェクトによってここから生まれました。
テストされた機器は、ジェットエンジンからミサイル誘導システムまで、
テスト結果は世界中および世界中の他の現場にもたらされました。
ほとんどのプロジェクトは軍事用で、その目的は
ソ連との冷戦に投入されるためのものでした。
さて、それでは中に入ってみることにしましょう。
チケットは大人8ドル。
非営利型の博物館でも、維持費のために入場料は取ります。
入ると最初のバリアフリー型エントランスは、このように
まるで滑走路のような雰囲気を醸し出しています。
スケネクタディ空港初期、複葉機時代の資料、
そして気球などが最初の部屋に見えてきました。
フロアには第一次世界大戦時の戦闘機、天井にもたくさん展示機が。
最初の部屋でまず目に着いたのは、女流飛行家
アメリア・イアハートのマネキンと彼女の愛機ロッキードでした。
彼女が最後に挑戦した「世界一周」の航路が地図で示されています。
女性飛行家として数々の快挙を成し遂げたイアハートは、
1937年5月21日、赤道上世界一周飛行に飛立ちました。
ご存知の通り、それが彼女にとって最後の飛行となるのです。
わたしが昔見学したことのあるオークランドの飛行場から
(ここも航空博物館を持っていた)東回りに、マイアミから
南アメリカに飛び、アフリカ大陸、そしてインド洋沿岸を周り、
○で囲んだ27番、ニューギニアに到着したのが6月30日。
2日後、彼らは「28」のハウランド島を目指して出発しましたが、
数時間後の無線通信を最後に連絡を断ち、永遠に姿を消しました。
彼らの乗っていた機体は残骸も見つからず、いまだに彼女の死は
航空史上の大いなる謎の一つとなっています。
1994年、ダイアン・キートン主演で
「最終飛行(ザ・ファイナル・フライト)」
というテレビドラマになっていました。
で、どうしてこのポスターがここにあるかといいますと・・、
ここにあるロッキード・エレクトラのモックアップは
上記の「ザ・ファイナル・フライト」の撮影に使われたものです。
カリフォルニア州からここスケネクタディまで空輸されてきたのだとか。
左の電話を耳に当てると解説が聞けたようです(が聞いてません)。
モックアップは前の部分だけ。
ナビゲーターのフレッド・ヌーナンが座っていた席。
テーブルの上には地図や製図器など、足元にはカバン。
「Western Electric」(ウェスタン・エレクトリック)の木箱は
通信機器が入っているという設定でしょう。
アメリカにかつて存在した電機機器開発・製造企業で、
1881年から1995年まで、AT&Tの製造部門でした。
現在はノキアが事業を後継しています。
壁に女性3人の飛行士の写真がありますが、一番左がイアハート、
そして真ん中は、彼女の同時代のライバルだったルース・ニコルズです。
ニューヨークの名家に生まれ、ウェルズリー大学を卒業後は
メディカルスクール(医学部)も出ているのに、空への夢捨て難く、
水上機の免許を取得した世界最初の女性となった人です。
お嬢様だったため、あだ名は「空飛ぶデビュタント」。
2度にわたる航空事故でその度重傷を負いながらも飛び続け、
57歳の死の2年前、TF-102Aデルタダガーに同乗し、
時速1600km、高度15,545mという新記録を樹立しています。
翌年、つまり死の前年になりますが、彼女はNASAのマーキュリー計画の
宇宙飛行士テスト、遠心分離、無重力試験を受け、パスはしませんでしたが
女性の宇宙飛行士への適合性については期待を裏切らない結果を出しました。
しかし、その翌年、彼女は極度の鬱に苦しみ、バルビツール酸の過剰摂取で
亡くなり、法律上彼女は自殺をしたことになっています。
ロッキードL-10エレクトラは全金属レシプロ双発機。
「エレクトラ」とはプレアデス星団にある星の名前から取られています。
イアハートが乗ったのはそのうちの10Eで、15機製造されたうちの1機でした。
ロッキード社に保存されていたらしい航空機の
所有証明書(エアクラフト・レジストレーション)。
これによるとシリアルナンバーは1055、
エンジンモデルはWasp S3 H1、
取得日は1936年の7月24日。
最後の「最終機位」についての文章を訳しておきます。
「ナビゲーターのフレッド・ヌーナンを同行し、37年7月2日、
アメリア・イアハートは、ニューギニアのラエを、ハウランド島に向け
午前10時に2550マイルの航路を出発した。
携行したのは1100ガロンの燃料、75ガロンのオイル。
消費燃費は1時間に約53ガロン。
ハウランド島までの到着予定時間は20時間16分であった。
操縦者は「残り燃料30分」という通信を最後に消息を絶った。
航路を見失い、海に墜落したものと考えられている。」
彼女が消息を経ったのは日本軍に捕らえられて処刑された、
というまことしやかな噂はいろんなところから出てきていましたが、
ひどかったのは、ヒストリーチャンネルが、入手した一枚の写真の
どこかの埠頭に写っている男女をイアハートとヌーナンだと決めつけ、
なぜかそれを日本軍が彼らを拉致した証拠とした事件です。
連行された彼らを遠くから撮ったもの、という結論ありきの推理でした。
これが全くのデマであることは、一人の日本人が国立図書館で
観光案内として掲載されていた全く同じ写真を見つけ、
その本の発行がイアハート事件より10年も前だったことで証明されました。
この方には同じ日本人として心からお礼を申し上げたいですね。
捏造といえば、イアハートのいとことかいう人物も、
「日本軍に捕らえられ、ヌーナンは斬首されてアメリアは獄死した」
と何の根拠もないのに言っていたそうですが、それにしてもその時期、
日本軍が民間飛行人をこっそり処刑する理由がどこにあるんだか。
手回し式ジェネレーター(発電機)。
プロペラモーターと赤灯用だそうです。
ここにあるクランクを回せば、後ろの小さなプロペラが回り、
右側のライトが点灯するのでしょう。
当ブログでも紹介したことがある映画。
ヒラリー・スワンクがアメリア・イアハートを、
干される前のリチャード・ギアがイアハートの夫を演じました。
人気絶頂で彼女をコマーシャルに使った企業の製品は
「アメリア・イアハート効果」と言われるほど売り上げが上がりました。
最後に、 ニュース映像を混えた彼女の「ラストフライト」について
映像を上げておきましょう。
Amelia Earhart's Final Flight
おや、この人物は、あの
チャールズ・リンドバーグ(1902−1974)
ではありませんか。
「リンドバーグがやった!パリまで33時間で、1000マイル、
雪とみぞれの中、フランス人は飛行場で彼に歓声を送る」
というニューヨークタイムズの新聞記事ヘッドラインがあります。
なぜ彼らに言及しているかというと、これらの飛行家たちが
一度はここスケネクタディ空港に着陸したことがあったからです。
まず、1929年に、アメリア・イアハートは、「史上初の女性の乗客」として
リチャード・バード機長の操縦する飛行機でここに降り立ち、
歴史的快挙を成し遂げたのち、ラジオ放送を行いました。
また、リンドバーグはこの2年前の1927年、82都市をめぐる
ツァーの一環としてここに着陸を行っています。
「ラッキー・リンディ」を一眼見ようと、そのときスケネクタディには
2万5千を超えるファンが詰めかけたのでした。
ところで、当航空博物館では、日曜日の朝食を用意して、
楽しく皆で食事をした後に元パイロットや航空機についての識者、
歴史家、航空ジャーナリストと言った人々の話を聞き、
そのあとはヘリコプターに乗ったり、館内ツァーをしたりする
名物イベントが長きにわたって開催されているそうです。
楽しみにしている地域の常連もたくさんいそうですね。
続く。