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帝国陸軍気球部隊〜エンパイア・ステート航空科学博物館

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ニューヨーク北部グレンヴィルにあるスケネクタディ空港、
その一角にある航空博物館、
「エンパイアステート航空科学博物館」ESAMの展示物を
ご紹介しています。

まず冒頭の写真は、

Curtis Model D Curtis Pusher

通称カーティス・プッシャーと言われる初期の動力飛行機です。
この名前には当ブログ的にめっぽう聞き覚えがあるわけですが、
それもそのはず、

「最初に飛行機で甲板から飛び立ち、最初に甲板に降りた男」

として何度かここで紹介した、

ユージーン・バートン・イーリー(1886-1911)

はこのカーティス・プッシャーに乗っていたからです。
しかし、昔わたしが彼について書いたときには
日本語で彼について言及した資料が一切なく、
彼の名前「Ely」をどう読むのか(エリーかイーリーか)
あちこち調べなくてはいけなかったものですが、
あれから時がたち、いつのまにか日本語のwikiができていました。
いやめでたい。

当ブログでは、彼の海軍でのテスト飛行における栄光と死を

天空に投錨せよ〜アメリカ海軍航空隊事始

として紹介しました。
しかし、こうやって実物を見ると、こんな布と竹で作った飛行機で
よくも甲板への離着艦などやろうと思ったものだと、
その無謀さにはつくづく感心してしまいます。

イーリーはこんなものを操縦して曲芸飛行もやっていたと言いますから、
怖いもの知らずというか文字通りの飛行馬鹿だったのでしょう。
もちろん、何人もの飛行馬鹿のおかげで、飛行機は
短期間に凄まじい発達を遂げ、今日の姿があるわけですが。

イーリーは民間人でしたが、海軍軍人として初めて空を飛び、
ついでにイーリーと同じく空で死んだ

”スパッズ”・セオドア・ゴードン・エリソン中尉

も、このカーティス・プッシャーに乗っていました。

天空に投錨せよ〜アメリカ海軍航空隊事始その2

もう一つついでに蘊蓄話を書き加えておきますと、
日本の航空史において最初に国内の航空機事故で亡くなった人も
このカーティス・プッシャーに乗っていました。

武石浩玻(たけいし・こうは)1884-1913

アメリカに渡り、職業を転々としながら放浪を続け、
イェール大学に入学するも中退。
現地で行われた国際飛行大会でフランスの飛行家
ルイ・ポーランの姿に感動し、飛行家を志しました。

グレン・カーチスが経営する飛行学校で操縦資格を得て
ここでもお話ししたことがある滋野清武近藤元久に次ぐ、
日本の民間人として三番目の飛行家となりました。

1913年(大正2年)現地で購入・改造した飛行機と共に日本に帰国し、
愛機で兵庫県の鳴尾競馬場から京都への都市間連絡飛行に挑み、
久邇宮邦彦王をはじめ数万人が注視する中で深草練兵場への着陸に失敗。

享年28。合掌。

ちなみに同門だった近藤元久はその前年度の1912年、
彼に先駆けてアメリカで航空事故死し、
「最初の航空事故で亡くなった日本人」
の称号を得ることになりました。

1910年の「パイオニア時代」の飛行機のモックアップには
なんと実際に腰掛けてみることができます。
往年の飛行機の操縦席を体験してもらうために、わざわざ
博物館が模型を作ったようですね。

このカラフルでポップな色使い、コロンとした可愛い機体、
遊園地の飛行機型ライドでしょうか。

と思ったら、これには

13 Link Trainer (リンク・トレーナー)

という立派な名前がついていました。
リンクというのは会社の名前で、トレーナー、つまり
これは飛行士養成用のフライトシュミレーターであると。

「ブルーボックス」"Blue box"とか「パイロットトレーナー」"Pilot Trainer"
とも呼ばれていたようで、開発したのはエドウィン・リンクという人。

1929年に技術が発明されてのち、このシミュレータは、
第二次世界大戦中のあらゆる参戦国のほぼ全てが
パイロットの操縦訓練の補助器具としてこの装置を使用しました。

リンクはもともとオルガンとジュークボックスを作っていた人です。
それらに必要なポンプ、バルブ、ふいごに関する知識を利用して、
パイロットの操縦に反応し、装着された計器を正確に読み取るという仕組みの
フライトシミュレータを思いついたというわけです。

50万人以上のアメリカ合衆国のパイロットがこれでで訓練を受け、
オーストラリア、カナダ、ドイツ、イギリス、イスラエル、
そして日本、パキスタン、ソ連へとこの仕組みは伝播しました。

日本ではフライトシミュレータメーカーの東京航空計器(現TKK)が
ライセンスを受けて製造を始め、最初の推定製造数は40 - 50機。

戦時中は陸軍、海軍に「地上演習機」として納入しました。
海軍予科練では「ハトポッポ」と可愛らしい名前で呼ばれていたようです。

戦後同社は1970年まで陸海空自衛隊、航空局、航空大学校に納入していました。

ちなみに御本家のリンク・フライトトレーナーはアメリカ機械工学会により
歴史的機械技術遺産(A Historic Mechanical Engineering Landmark)に選定され、
現在はL-3 コミュニケーションズ社の一部となり、
宇宙船用のシミュレータを造り続けているということです。

L-3って、リーマンブラザーズのことらしいんですが、リーマンが倒産しても
この名前は変えてないようですね。

ここで唐突に現れる南極観測隊シリーズ。
NYANG Ski-doo というスノーモービルの製造会社は
今でもバリバリのスノーモービルメーカーです。

なぜ航空科学博物館にこのようなコーナーがあるかというと、
何かのつてでこのスノーモービルが寄付されたからじゃないでしょうか。

氷を模した壁まで作って本格的です。
この人たちは今から家を作るんじゃないかな。

ここに、「知っていましたか?」としてこんな説明がありました。

●南極のドライバレーでは100年以上雪が降ったことがない

●南極の氷のマントルの大部分は水の下にあるが 
南極の氷と雪の大部分の下には土地がある

●大陸分裂前、緑豊かな植生と先史時代の動物が南極大陸に存在していた

●南極のマウント・エレバスは活火山である

●南極には海の魚を食べるペンギンを除き動物はいない

●氷河は氷が十分に厚ければこれを遡ることができる

●南極の氷は一年に30フィートずつ南アメリカの方向に動いていっている

●南極は隕石を発見するのに最適の場所である

●ペンギンは海の水を真水に変えることのできる臓器を眼の上部に持っている

すべてわたしの知らないことばかりでした。
なぜ航空科学博物館でこの展示を?という気もしますが、
この部分を持って「科学」のパートということにしているのかと。

 

アメリカの南極観測隊が滞在するのはマクマード基地です。

1956年にアメリカ海軍が設営したもので、現在は
アメリカ国立科学財団南極プログラム(USAP)が保有し、
レイセオン・ポーラー・サービス社によって運営されており、
南極点にあるアムンゼン・スコット基地への補給中継点となっています。

レイセオンというのは、もちろんあの武器会社の関連企業です。

さすがはアメリカの施設だけあって、マクマード基地の規模は南極でも最大。
建物は100以上あり、夏季1000人、冬季200人の駐在員を収容します。
海側にあって港を備えているほか、3本の滑走路があります。

中心となるのは鉱山技師たる科学者ですが、彼らをサポートするために
アメリカではあらゆる職種の駐在員が送り込まれています。
調理人はもちろん、床屋や掃除人、運転手も専門職ですし、
新聞記者やジャーナリストなどのメディアも駐在します。

写真のパラシュートは、上空から物資を調達するためのもののようです。

この一室には航空黎明時代、第一次世界大戦時の航空、
そしてアメリア・イアハートを中心とした女性飛行家、
そしてなぜか南極探検コーナーがあるわけですが、
その黎明期時代のジオラマがケースの中にありました。

説明の写真を撮るのを忘れたのですが、これは
気球にガスを注入している作業の様子を表しています。

南北戦争のときに気球隊を創立したタデウス・ロウは
軍事用気球のために携帯用の水素ガス発生器を開発させました。

馬で息せき切って駆けつけている人がいるのですが、
伝令が何か戦況をもたらしにきたのかもしれません。

こちらは陸軍の気球部隊。
そのころの格納庫というのは気球を安置するため、こんな縦長で、
しかも天井から吊り下げていたということを初めて知りました。

ヨーロッパでの気球航空部隊について書いたことがありますが、
日本にも「気球連隊」と言われる陸軍部隊があったそうです。

ほえええこんなかっこ悪いものを・・・。
しかし当時から日本の航空識別マークはこれだったんですな。

日本陸軍でも倉庫は呆れるほど背が高いですね。

日本で最初に軍用気球が飛ばされたのは、1877年(明治10年)、
西南戦争でのことで、薩軍に包囲された熊本城救援作戦に投入するため
実験を行ったときのことですが、実戦には間に合いませんでした。


1904年(明治37年)、日露戦争の際には戦況偵察の目的で
旅順攻囲戦に投入され、戦況偵察に役立ったので、その後陸軍は
気球隊を創設したという流れです。

1937年(昭和12年)には南京攻略戦に参加。
その後タイ、仏印、シンガポール作戦にも使われましたが、
航空機にその存在意義を奪われていたところ、終戦間際に
アメリカ本土を攻撃するための風船爆弾の計画が持ちあがり、
気球聯隊を母体とした『ふ』号作戦気球部隊が編制されたのでした。

いわゆる風船爆弾です。

 

人員は3000名に増員され、3個大隊で編制された気球部隊は、
茨城、千葉、福島から1944年11月から半年の間に
約9300個の風船爆弾を太平洋に向けて放っています。

そのうち、アメリカ本土に到達したのは1000発前後と推定され、
アメリカの記録では285発とされています。

戦果といっていいのか、ピクニックに来ていて、木にひっかかった
風船爆弾の不発弾に寄せばいいのに触れたため、爆死した
オレゴン州の民間人6人だけが、風船爆弾による被害者となりました。

ただし、日本軍の方も実質的な戦果を期待したものではなく、
目的は心理的な撹乱効果を起こし、パニックを起こすためであった、
というのが本当のところです。

アメリカ軍は日本側の意図を読み、パニックの伝播を恐れて
徹底した報道管制を布き、被害を隠蔽したため、
この「戦果」が日本に伝わることもありませんでした。

風船爆弾のせいで起こった山火事や停電なども実際にはあったらしいのですが、
あまりにも厳重に秘匿されたため、日本はもちろんアメリカ人の間でも
その存在すら知られていなかったということです。

第一次世界大戦時、陸軍の気球隊の目的は偵察でした。
航空隊司令部の隷下にあったとはいえ、気球のサービスは
編成された企業によって運営されていたということです。

ここに登場する人々は全員が陸軍の軍人に見えるのですが、
ということは彼らは軍属のような立場だったのでしょうか。

それにしてもこの手前に立っている人が斜めなのが気になります(笑)

 

続く。

 

 


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