エンパイアステート航空科学博物館の展示をご紹介しています。
航空黎明期の気球の資料を案内するコーナーには
「コントロールイズエブリシング」(制御が全て)
としてこのような展示がありました。
まず一番左のロープについては「ドラッグロープ」(引綱)として
以下の説明があります。
引綱は初期において気球の自動操縦の一つの形態と見做されることがあります。
長時間の飛行で低空の場合、安全な高さをキープしていることを
確かめながらバラストやガスの排出が行われているか確かめるため、
航空士の訓練にしばしば長いロープが使用されていた時代がありました。
気球から垂らしたロープの一部が地面にあるときは普通にこのシステムは働き、
気球が浮きすぎても空中のロープの重量によりうまく沈んでくれます。
これはなかなか良いシステムで水上ではうまく機能しましたが、
陸上ではご想像の通りロープが何かしら物体に巻き込まれることもありました。
その右は「錨」(The Anchhor)です。
気球の着陸は飛行で最も危険な瞬間です。
無風、微風では難なく気球を着陸させることができましたが、
風速20mphもあると、気球と籠はその影響をもろに受けることになります。
着地の瞬間籠の前方への動きは一時的に停止しますが、
ガスバッグは放り出され続け、バルーンが収縮するまで引きずられます。
これを解決するにはどうしたらいいでしょうか。
前進を止めるには牽引したフックが引っかかればいいのですが、
その際フックは籠ではなくガスバッグを囲むネットに
結び付けられていると有効であるとされました。
そしてその横のゴンドラに乗ったロングスカートの女性です。
彼女の名はメアリー・ブリード・マイヤーズ(1849ー1932)。
プロの気球乗りで、
「レディ・エアロノー・カルロッタ」
として知られていました。
気球そのものが珍しかった時代、女性の航空のパイオニアとして
気球で単独飛行を行い、多くの記録を樹立しました。
写真には彼女が当時のメディアに
「The Intrepid Lady 」(勇敢な淑女)
と讃えられたということが書かれています。
彼女は夫と共に旅客用の気球を製造販売するビジネスを営んでいました。
彼らは自社製品に搭載した空中ナビゲーションでいくつかの特許を取り、
各地で展示デモを行うことで宣伝を行っていたのです。
日本でもどこぞのホテルチェーンでは嫁が宣伝をして有名ですが、
実はこの「女流バルーニスト」はあの女社長のように、いわば
イメージガールの役割を演じていただけで、彼女の栄光のほとんどは、
この夫のカール・エドガー・マイヤース(1842−1925)
の実力のおかげといってもよかったようです。
ドイツ系のマイヤースは小さい頃から発明に没頭し、独学で
科学的原理を学び、趣味の発明でベンチャー企業家となりました。
配達代理店、請求書収集家、銀行員、大工、化学者、電気技師、
ガスフィッター、整備士、写真家、配管工、プリンター、電信士、
そして作家と、名乗った肩書は数知れず。
銀行で働いていた時には偽札に興味を持ち、研究して偽造技術を学び、
偽造貨幣の鑑定の専門家になったりしています(笑)
この鑑定方法は現在の鑑定手法の基礎になっていると言いますからすごいですね。
写真ギャラリーを経営していた25歳の時にメアリーと出会い、
結婚してから、彼は水素ガスと気球に俄然興味を持ち、
嫁を助手にして研究、製造そして販売を一気に開始しました。
気球に水素ガスを用いることを最初に実施したのは何を隠そう彼らです。
気球の布素材の研究、水素ガス製造装置の開発によって、
マイヤーズは
「フライング・ダッチマン」
というあだ名で呼ばれていたそうです。
彼はドイツ系でありダッチとは何の関係もなかったのですが。
そのうち彼は空中散歩のできる飛行船『スカイサイクル』を開発し、
それを嫁に操縦させて、一気に有名になりました。
嫁、空中散歩中。
彼女は操縦可能な飛行船に乗った最初の女性となり、
「カルロッタ」の名前で有名になりました。
ところで、当ブログとしてはマイヤースと軍の関係にも触れておこうと思います。
マイヤーズはヨーロッパの気球技術が米国よりもはるかに進んでいて、
欧州のいずれかの国がもしその気になれば、ニューヨーク、
または米国北東部の主要都市を全滅させることができると主張していました。
彼は次の戦争は空が舞台になると予言していたのです。
(予言は当たることになりますが、主役は気球ではありませんでした)
マイヤーズは、欧州の主要国が全て秘密裏に航空機器を
兵器に用いるために研究をしているとした上で、政府にこれを認識し、
この潜在的な脅威に対して適切に準備するよう奨励していました。
そして、これを迎え撃つための発明に取り組んでいることを強調したのですが、
メディアは彼を「ジンゴイスト」(自国の国益を保護するためには
他国に対し高圧的・強圧的態度を採り脅迫や武力行使を行なうこと(=戦争)
も厭わないとする極端なナショナリスト)だと非難の論調だったということです。
1902年、彼は海軍の軍事演習のため11個の水素気球を作りました。
10個は偵察目的、 111番目の大型気球は乗員2名、観測機器を搭載し、
敵軍艦を監視する高高度観測プラットフォームとして信号隊によって使用されました。
この気球は、海軍船につながれて持ち運ばれ、これを用いて
敵の情報を収集し、これを陸軍に伝えることができました。
のみならずマイヤーズは、敵艦隊、要塞、または軍隊を破壊するための
「戦争船」を作ることできると主張していました。
彼は、もし国家からその資金が提供されるなら、それが地球を支配すると予測しました。
つまりこういうものですね。
飛行船が魚雷を投下しているの想像図。
マイヤーズの予想は、1903年にライト兄弟が発明した動力付きの
飛行機によって、空想のままに終わることになりました。
気球そのものを武器として敵の爆破を曲がりなりにも行ったのは
彼の国ではなく、東洋の敵国日本だったというのは
彼にとって何とも笑えない皮肉という気がしますが、
幸い彼も妻のカルロッタも、それを知らずに亡くなりました。
さて、次のコーナーにあったこの女性は、
映画脚本作家でもあった女性パイロット、
ハリエット・クインビー(Harriet Quimby)1875−1912
で、彼女はドーバー海峡を横断した最初の女性となりました。
ちょっとこの絵では彼女の魅力が伝わりにくいので(失礼)
写真を挙げておきますと、
おお、なかなかの別嬪さんでいらっしゃる。
彼女は企業のイメージガールをしたこともありますし、
サンフランシスコでジャーナリストをしていたり、
劇評家であり映画脚本も書くなどの才女でしたが、
その映画に自分も女優として出演しています。
彼女の飛行家としてのスタイルは、常に女性らしさを強調したもので、
そのため、大衆からは大変人気があったということです。
カナダのフランス系飛行家ジョン・モアザン(モアソン?)と
親しくなったことから、彼の飛行クラブでライセンスを取り、
最初にパイロットライセンスを得たアメリカ女性となりました。
わたしは、過去このシリーズを当ブログで取り上げてきて、
『最初に免許を取ったアメリカ人女性』について何回も書いた気がするのですが、
免許を最初にとった女性は何人もいても(笑)
最初にドーバー海峡を横断したのは彼女だとはっきりしています。
ただ、彼女に撮って不幸だったのは、
彼女の挑戦が1912年の4月16日だったことでした。
その前日の4月15日、世界最大の客船タイタニック号が沈没したため、
彼女の快挙は誰にも顧みられることはなかったのです。
そして、そのわずか2ヶ月半後の7月1日、彼女はボストンで行われた
航空大会で300m上空を飛行中、機体がピッチングを起こし、
240mの高さから同乗者と共に空中に投げ出され、死亡しています。
享年37歳。合掌。
この写真、見覚えありませんか?
そう、当ブログでも「お転婆令嬢」として紹介した
ブランシュ・スチュアート・スコット(1885-1970)
じゃーありませんか。
自分の記事を探し出して読んでみたら面白かったので、
これも再掲しておきます。
なんてこった、この人も当ブログで取り上げたことがありますよ。
おそらくその日この博物館を訪れた客で、彼女らの名前を知っていたのは
米人外国人含め、わたしだけだったんじゃないかって気がします。
エリノア・スミス(1911−2010)
展示ではまだ生きていることになっていますが、彼女は
99歳没と長生きだったので、同年代の彼女のライバル、
ボビ・トラウト(1906-2003 )
と、「まるでこの世の滞空時間を競っているようだ」
ということを締めに、彼女らの関係性を語ってみました。
このときにもお話しした、エリノア・スミスの
「ブルックリンブリッジ始めニューヨークの4つの橋の下を飛ぶ」
というチャレンジの絵が描かれていますね。
ノーマ・パーソンズ 州兵中佐
1956年8月1日、空軍第106戦術病院で看護師の資格を取った彼女は、
エア・ナショナルガードに加わりました。
ニューヨーク議会が、看護その他の医療分野で働く場合にのみ、
女性が士官として州兵軍に参加することを認める公法845を制定したのは
その二日前のことで、彼女は初めての女性州兵士官となったのです。
空軍に入隊する前、パーソンズ中佐は、中国-ビルマ-インドで
陸軍と空軍に勤務し、また朝鮮戦争が始まると、
韓国空軍の看護師として勤務していたということです。
で、どうして航空科学博物館でパイロットでもない彼女が
紹介されているのかといいますと、若干こじつけっぽいのですが、
空軍の看護師として、彼女の「飛行時間」が3,000時間を超えたからだとか。
彼女との関連でこれも航空博物館とは関係ありませんが、
1941年から終戦まで存在した
United States Women's Army Corps
のポスターが貼ってありました。
この行進は、USWAC創設3周年記念に、パリのシャンゼリゼで
1945年5月14日、無名兵士の墓に敬意を表して行われたものです。
「無名兵士の墓」は、第一次世界大戦で死んだ身元不明のひとりの兵士を
戦死した全ての兵士の象徴として凱旋門の直下に葬り、
祖国フランスのために命を捧げた人々の共通の記念碑としています。
その流れで、ここには「女流飛行家紹介コーナー」がありました。
言わずもがなのアメリア・イアハート、そして、
ここで何度もご紹介している
ジャクリーン・コクラン(1906-1980)
彼女の履歴は、ここにあるような上っ面だけのものではなく、
自分で言うのも何ですが、その出自から語った当ブログの方が
よくお分かりになると思います。
3人とも当ブログで取上げ済みです。
キャサリン・チャン「Great Expectations」
こちらは宇宙飛行士の女性3人。
サリー・クリステン・ライド(1951−2012)
1983年女性としては初のスペースシャトル乗組員に、そして
テレシコワ、サビツカヤに次ぐ3人目の女性宇宙飛行士になりました。
米国人女性としても初の宇宙飛行士であります。
シャノン・マチルダ・ウェルズ・ルシッド (1943ー)
アメリカの生化学者であり、NASAの 宇宙飛行士。
アメリカ人だけでなく女性による宇宙での最長滞在期間の記録保持者です。
1996年のミール宇宙ステーションでの長期ミッションを含め、
彼女は5回宇宙飛行を行っています。
科学者としても実績を持ち、2002年、 Discover誌は
彼女を科学分野で最も重要な50人の女性の1人として認めました。
ニコール・マーガレット・エリングウッド・マラホフスキ(1974ー)
元アメリカ空軍将校であり、「サンダーバーズ」として知られている
USAF航空デモ隊のメンバーに選ばれた最初の女性パイロットです。
彼女のコールサインは「FiFi」。
デビューは2006年、彼女はダイヤモンドフォーメーションの
第3ウィングを機を務めました。
CNN - Nicole Malachowski
航空自衛隊のブルー・インパルスに女性飛行士が加わる日は
来るのだろうか、とふと考えました。
オフィスの壁には第二次世界大戦時の「公債を書いましょう」
とか、戦意高揚ポスターが貼ってあります。
ここスケネクタディ空港が戦争中稼働していた頃、
男性が戦地に出てしまって、女性がかつての男性の仕事、
航空管制や見張りなどを行うようになりました。
この事務所の屋根から顔だけ出して見張りを行っていたようです。
続く。