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THE SKY SPIES 航空偵察の歴史〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館プレゼンツ、「軍事偵察の歴史」、
このコーナーには本日タイトルの「The Sky Spies」が冠されています。

意味はそのまま「空のスパイ」ですが、「SPY」という単語は
日本語の「スパイ」の他に「みつける」「見張る」という意味もあります。前回の「鳥の目」のように、高いところから偵察を行うとき、
新しい方法として航空機が使われるようになったのは当然の成り行きでしょう。
航空機より一足早く人類が手に入れた写真という手段と
航空機が組み合わされ、偵察が行われるようになります。

軍事情報の収集としての航空写真の命はなんといっても正確性にあります。
その意味で偵察パイロットはもちろん、
「Photointerpreter」の技量は重要な役割を担っており、その結果の成功か失敗、
正確か不正確か、準備ができているかどうかの分かれ目を決めます。
というのがスミソニアンの説明なのですが、この「Photointerpreter」
(Photo+interpreter)は直訳すれば写真通訳者となります。

この言葉は1940年代に生まれた造語で、
「航空写真の解釈を専門に行う人」
であり、黎明期にはそういう名称はなかったものの、そういう人がいたようです。

つまり、パイロットが撮ってきた写真を現像し、
そこに写っているものをアナライズするという専門職があったようですね。
■ 初期の航空偵察技術とその機材


スミソニアンの「スカイスパイ」コーナーには、実物大展示として
前回の気球のカゴから写真を撮る人と、この
de Havilland DH-4
から航空写真を撮っている人がいます。
【第一次世界大戦の写真偵察機DH-4とL-4カメラ】


まず、このデ・ハビランドの汎用機「DH-4」ですが、
軍用機としても民間機としても多くの役割を果たした機体でした。

第一次世界大戦では爆撃機の任務を負っていたDH-4は、
観察と写真偵察のための航空機でもありました。

1917年4月6日にアメリカが第一次世界大戦に参戦したとき、
陸軍信号部隊の航空課は戦闘に耐えうる航空機を保有していなかったので、
国内で生産するため、前線で使用されている連合軍の航空機を調査します。
そして検討されたのは、フランスのスパッドXIII、イタリアのカプローニ爆撃機、
イギリスのSE-5、ブリストル・ファイター、DH-4などでした。
どれも当ブログでは紹介済みですし、これも繰り返しますが、
第一次大戦ごろのアメリカの航空技術は、欧州、ことに
イギリスやドイツと比べると大人と子供レベルで遅れていたのです。
(さらにソ連はというと、そのアメリカのレベルにも達していないくらいでした)

DH-4が選ばれたのは、構造が比較的シンプルで量産性に優れていたことと、
アメリカ製400馬力リバティV型12気筒エンジン
の搭載に適していたからです。
アメリカ人の好きな「リバティ」なんとかがここにも・・・・って、
リバティ・エンジン、リバティ・プレーン・・・
これ前にもご紹介していますよね。

そのときの展示室にはリバティエンジンはありましたが、
DH-4はこの模型だけでした。


ちなみにこの左側にあるのがリバティエンジンです。
その時の項にも書きましたが、おさらいの意味でもう一度書くと、
機種は決まったものの、アメリカの量産方法を採用するためには、
イギリスのオリジナル設計からかなりの技術的変更が必要でした。

アメリカ製はパイロットと偵察員の間に燃料タンクがあってコンタクトしにくく、
墜落した時危険という設計上のミスというか問題点がありましたが、
「リバティ・プレーン」と呼ばれて1918年にフランスに送られることになります。
余談ですが、アメリカのカルチャーというのか、アメリカ人はよく、
自国の軍事行動に「リバティ」「フリーダム」の冠を被せたがりますね。

ちょうど我が家が西海岸に住んでいた頃、イラク戦争が起こりました。
フランスがそれに反対したことでアメリカ人は怒り、なぜか
フレンチフライに八つ当たりを始め、
フランスけしからんから「フリーダムフライ」と呼ぶお!となった、
という「ニュースが」流れました。
そんなある日、カリフォルニアのフリーウェイでロスアンジェルスまで行く途中、
ランチを取るために入ったメキシコ料理店で、隣のテーブルが
ちょうど注文のフレンチフライを食べながら、父親が息子(小さい)に
「なんかこれ、これからフリーダムフライになるらしいよ」
と笑いながら説明しているのを見たわたしは、むしろ、
メディアとそのやらせ以外でどこのだれがフリーダムフライと呼んでいるのか、
と疑問に思ったものです。

そして、どうして他国に攻撃をかけることが「リバティ」「フリーダム」なのか、
わたしはマイケル・ムーアは嫌いですが、彼が発したこの疑問だけには
全く同じ疑問(というか懸念)をいまだに感じ続けています。

理屈がわからん。
そして、あの日から今日まで、フレンチフライのことを
フリーダムフライと呼ぶ人や店を一例たりとも見たことがありません。
さて、約100年後、フレンチフライにまで目くじらを立てることになる
そのフランスに、アメリカは、DH-4を1,213機送りました。
そのうち進攻圏に到達したのは696機です。

DH-4の戦闘期間は4ヶ月に満たなかったが、その価値は証明されました。
第一次世界大戦中に飛行士に授与された6つの名誉勲章のうち、
4つはDH-4に搭乗したパイロットとオブザーバーが受賞したものです。

つまり、その真価は攻撃より偵察で発揮されたと言ってもいいでしょう。

第二次世界大戦になってもDH-4は「リバティ・プレーン」として、
森林警備や地質調査、陸軍航空局の航空地図、
写真撮影用の標準機として10年間使用されています。


ここにある航空宇宙博物館の機体は、この中で最初に製造されたものです。

さて、その偵察についてですが、DH-4に搭載された空撮カメラは、
手持ち以外に、後部コックピットの内側または外側に取り付けることができました。

展示されている機体には、コックピット内に
コダックのL-4カメラが設置されており、
床の小窓から写真を撮ることができます。


四角い穴と丸い穴が機体の底に空いていますね。

DH-4のマネキンが持っているのは、A-2カメラといって、
コダック社が開発したカメラで、第一次世界大戦の航空写真に使用されました。

Kodak製A-2カメラ
オリーブドラブ色に塗られた金属製のカメラで、木製のハンドルが付いています。

第一次世界大戦中、アメリカ陸軍航空局がオープンコックピットの航空機の側面から
斜め方向の写真を撮るために使用したコダックA-2ハンドヘルドエアリアルカメラ。

カメラには2つの4x5プレートマガジン、「アイアンサイト」、
ストラップが付いています。
A2型は陸軍航空局が使用したもので、海軍はA1型を使用していました。



ここには、イーストマンコダック製が第一次大戦時に
偵察のために設計したK-1カメラ実物が展示されています。
15センチのフィルムを使用し、フィルム用マガジンが内蔵されています。


初期の航空カメラは、垂直方向の映像を得るために、この写真のように
飛行機の外側に固く取り付けられていた時期がありました。

しかし、これ、問題がありますよね。
飛行機の振動です。
そりゃま機上で手持ちよりはマシだったのかもしれませんが、
細かいエンジンの振動がブレを産むことの方が多かったでしょう。

だからといって、垂直方向にこの大きなカメラを手に持って
機体から乗り出すのは、あまりにも危険な気がします。
まあ、この方法だと少なくともカメラを取り落とす心配だけはなかったかと。
【フェアチャイルドの空撮飛行機と空撮カメラ】

むむ、まるで映画俳優のようなダンディ氏、これは誰?
その名も、シャーマン・ミルズ・フェアチャイルド(Sherman Mills Fairchild)。

その名前からも想像がつくかと思いますが、名門の生まれであり、
当たり前のように実業家・投資家として成功した人物で、
フェアチャイルド・エアクラフト、フェアチャイルド・インダストリーズ、
フェアチャイルド・カメラ&インストゥルメントなど70以上の会社を設立し、
航空業界に多大な貢献をし、1979年には全米航空殿堂入りを果たした人物です。

資産家の息子で、28歳にして父の数百万ドルの遺産を手にし、
父が保有していたIBMの株式も相続し株主になり、いきなり人生イージーモード。

これもごく当たり前のようにハーバード大学に入学し、
1年生のときにカメラの同期シャッターとフラッシュを初めて発明しています。
その後、アリゾナ大学、コロンビア大学で学び、企業家になることを決意。

こんな名門超金持ち高学歴高身長(最後はたぶん)のイケメンですから、
さぞモテたと思うのですが、いかんせん彼は生涯結婚しないまま通しました。
(LGBT関係であったという噂もなかったようです)
そして会社の経営以外に建築、料理、ジャズ、ダンス、哲学、テニスなどを楽しみ、
写真には特に造詣が深かったようです。
カメラの性能を地図作成や航空測量にまで拡大したいと考えた彼は、
1921年、フェアチャイルド航空測量社を設立し、
第一次大戦で余っていたフォッカーD.VIIを購入して航空写真の撮影を始め、
写真地図作成や航空測量を受けを行うをための会社を設立。

地上調査より航空写真の方が早くて安価で正確であるという評価を得ます。


フェアチャイルドFー1航空カメラ



F-1は、フェアチャイルド社が第二次世界大戦中に開発した航空カメラです。
手持ちで斜めからの写真を連続して撮影することができるため、
軍事施設の高所撮影に多用されました。


フェアチャイルド社製F-1によるニューヨークの空中写真

空中撮影を行ううちに、フェアチャイルドは既存の飛行機では
空撮で頻繁に遭遇する状況には適していないことに気づきます。
そこで1925年、フェアチャイルド・アビエーション・コーポレーションを設立し、
正確な航空地図の作成と測量のための専用機、FC-1を製造しました。


FC-1

この時期、フェアチャイルド社は航空業界で圧倒的な存在感を示し、
米国最大級の民間航空機メーカーにまで成長していました。

この後継となるFC-2は後にチャールズ・A・リンドバーグの
アメリカ横断旅行に使われることになります。

フェアチャイルド社はわずか9カ月の間に、
初期生産から世界第2位の航空機メーカーになったのでした。
しかしその後いろいろあって、ファチャイルドが亡くなると
会社も吸収合併を繰り返したすえ、跡形も無くなってしまうわけです。

ちなみに彼は亡くなったとき、50人以上の親戚、友人、
元従業員一人一人に遺言をのこしていったそうです。

2億ドルを超える遺産のほとんどは、彼が生前に設立した2つの慈善財団に寄付され
その他病院、救世軍に20万ドル、アメリカ動物虐待防止協会、
また、母校のコロンビア大学への新校舎の寄付にと見事に使い切った形です。

私見ですが、こんな逸話から彼が孤独だったような感じは受けません。
あまりにやりたいことが多すぎて、家庭を作ることまで時間が至らなかった、
という感じなのかなと思ったりします。

さて、そんなフェアチャイルドが若き日に生み出した
「K-3」は、画期的な航空カメラでした。
電気駆動のK-3は、新しいシャッターとマガジンを搭載し、
航空写真の技術を向上させることに成功しました。



カメラマンが高高度で斜度撮影を行うために
焦点距離61cm(24インチ)のK-3カメラの準備を行なっています。

戦間期(第一次と第二次世界大戦の間)に、
長距離航空写真の実験に使用されたK-3カメラ。

手持ちの空中斜度用カメラ、K-5。

航空機からの撮影の歴史について、もう少し続けます。


続く。

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