イーストマン・コダック提供によるスミソニアン博物館のシリーズ、
「軍事偵察写真」のコーナーをご紹介しています。
今日は、偵察写真の歴代「名作」を取り上げます。
スミソニアンにはこのように歴代の空中写真が説明付きで展示されています。
【第一次世界大戦の塹壕】
フェアチャイルドが開発した航空機空撮用カメラで撮影された
第一次世界大戦の戦線の写真です。
至る所に這うように伸びているジグザグの線は、塹壕を表します。
第一次世界大戦が「塹壕戦」であることを何より証明するこの写真は、
おそらくこの戦争における空撮写真の最高傑作と呼ばれています。
【フェアチャイルドKー3Bカメラ】
前回まででK-2までをご紹介してきましたが、
第二次世界大戦で主要な航空カメラとなったのが1920年代に開発されたK-3Bです。
垂直・斜め方向に撮影をし、合成画像で地上写真を作成しました。
手動と電動があります。
【フェアチャイルドK-20カメラ】
K-20は、第二次世界大戦中に使用された軽量の手持ち式航空カメラです。
高速シャッターを搭載し、1941年から1946年まで使用されました。
【Dデイ〜ノルマンジー上陸作戦】
ノルマンディーの海岸で繰り広げられている戦闘のはるか上空で、
飛行機は偵察風景を記録していました。
侵攻に先立ち、敵の防衛状況を詳細に把握するため、
大規模な写真解釈作業が行われています。
【遠すぎた橋 A Bridge Too Far】
映画「遠すぎた橋」で有名になったナイメーヘンのワールリバーの橋。
1944年9月20日、多くの犠牲を払った末連合国軍によって攻略されました。
28行でわかる「マーケット・ガーデン作戦」
ノルマンディー上陸作戦後、パリを解放しベルギー領内にまで達して
順調かに思われた連合国軍は、補給拠点確立に失敗し、足が止まってしまいました。
そこで、港湾都市を確保し、英国-欧州間の兵站を早急に確立するために、英国軍バーナード・モントゴメリー元帥は、オランダへと進み、港湾施設を奪取後、
ルール工業地帯を突破してドイツの継戦能力を失わせるという作戦を立案します。
連合国軍側最高司令官であるアイゼンハワーもGOサインを出し、
ナイメーヘンを含むオランダの各都市奪取のために、
そのために空挺部隊による降下作戦『マーケット』作戦、
アーネムまで4日で進出する『ガーデン』作戦を実施することになります。
ちなみにアーネムまでは200キロありましたが、
これを4日で突破というのはなかなかにして無理ゲーだと思われていました。
おまけに、現地のこの写真には何の説明もなかったのですが、実は作戦開始直前、連合国は軍偵察により最北のアーネム郊外に
SS装甲師団が配置されていることが確認されていたはずなのに、
なぜかこの写真は破棄され、情勢が部隊に伝わらなかったのです。
案の定、空挺作戦は降下場所が目標通りでなかったり、装備を失ったり、
ミスで無線機が使えなかったり、時間通りに出発せずに予定に遅れたり、
捕虜がドイツ軍に作戦書類を渡してしまったり、という体たらく。
ドイツ軍は囮の意味でこの橋を落とさなかったため、
連合軍は待ち伏せされているところに正面突破を試み、猛攻に曝されてしまいます。
その後色々あって橋を確保できないままジョン・フロスト中佐
(アンソニー・ホプキンスが演じた)率いる部隊は弾薬が尽きて降伏。
アーネムに降下した英国空挺師団1万名のうち、7千名が捕虜になり、
全滅判定を受けることになりました。最終的に投入した3万5千名のうち、半数を戦死・捕虜で失ったことになります。
アーネム橋は作戦失敗後、連合国軍が爆破しました。
戦後「ジョン・フロスト橋」という名前で再建され、
今現在もその名前のままです。
現在のジョン・フロスト橋。
かつて先人たちが苦労した空撮も、今はクリック一つで画像が手に入ります。
【V-2ロケット基地】
第二次世界大戦中、ドイツのロケット研究の拠点となった
ぺーネミュンデを撮影した偵察写真です。
ロケットとはあのV-2ロケットのことで、戦後アメリカで
ロケット開発を行ったヴェルナー・フォン・ブラウン博士がいました。
もともとドイツは(というかフォン・ブラウンのいた民間組織は)
宇宙旅行のために液体燃料ロケットを研究していたはずなのですが、
陸軍がその民間に出資をして陸軍兵器局で研究を続けるよう勧誘したのです。
科学者ヴェルナー・フォン・ブラウン
Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun(1912 - 1977)
は陸軍のために研究と実験を繰り返し、
V2の開発に成功しますが、それを察知したイギリス軍情報部は
早速ペーネミュンデの写真偵察を行いました。
その時に撮られたのがこの写真です。
画面の左上の白い部分に矢印がありますが、
この矢印が示しているのは横に寝た状態のV-2ロケットです。
この偵察をもとに、連合軍は1943年8月から「ハイドラ作戦」によって
ペーネミュンデを数回にわたって爆撃し、研究と生産を遅延させました。
左手にギプスしているのがフォン・ブラウン博士。
みんな(´・ω・`)としていますが、それもそのはず捕虜になった後の写真だそうです。
左の帽子の人物はロケット推進者で科学者、
ヴァルター・ロベルト・ドルンベルガー(1895-1980)。
アメリカ軍の捕虜になった後、他の多くのドイツ人技術者のようにオハイオのライト・パターソン空軍基地でアメリカ空軍の顧問を務めました。
ベル・エアクラフトでは、ロケットで宇宙空間に出て
マッハ5の超音速で帰還するというX-20の開発計画相談役を務めています。
これはのちのスペースシャトル計画の先駆けとなるものでした。
そして、前にも書きましたが、ヴェルナー・フォン・ブラウンは、
ジュピターなど人工衛星打ち上げやサターンロケットの開発を行いました。
もともと「宇宙旅行のためのロケットを作りたかった」彼は
手段のためなら悪魔に魂を売り渡してもいいと思った
とナチスに協力したことをこのように言ったそうですが、最終的に
アメリカに来ることで、その夢を実現させたことになります。
【モンテ・カッシーノ】
モンテ・カッシーノは、1944年の初期に連合軍が
集中的に空爆・攻撃を行った場所でした。
当ブログでも、ナチスの略奪した美術品というテーマの時に、
連合軍によって破壊された歴史的な街、としてここを紹介したことがあります。
イタリア南西部にあるモンテ・カッシーノの大修道院が破壊されていく様子が
航空写真で克明に映し出されています。
【太平洋の激戦地】
『クワイ川の橋?』
タイのクウェーヤイ川に架かるこの橋は、
日本軍の補給路の要として捕虜たちによって建設されました。
1945年2月、アメリカ軍のB-24飛行隊によって爆撃され、
落下している様子が捉えられています。
ん?タイならクウェーヤイ川じゃなくて「クワイ河」って読むんじゃないの、
と思った方がもしかしたらいるかもしれませんね。
たしかに「クワイ河」なら、「クワイ河マーチ」なんてのもありますし、
映画を見てご存知の方も少なくはないかもしれません。
「クワイ川に架かる橋」
(The Bridge over the River Kwai)は
第二次世界大戦中、日本軍によって橋の建設を強制された
英国人捕虜の苦境を描いたフィクションですが、
これは、名前が似ているだけで全く違うものだそうです。
そもそもクワイ河という河は存在しておりませんし、
当時もこの川は「クワイ・ヤイ」などと呼ばれていたわけではなく、
それどころか「メークローン河の一部」で、固有の名前がなかったのです。
ところが、映画がヒットしたため、現地では、フィクションのイメージを
現地の観光資源にできるとでも思ったのか、
1960年になって、わざわざ「クワイ・ヤイ」と映画に寄せて命名したのです。
これが本当に「クワイ川」ならば歴史的な写真に違いなかったのですが、
いろんな点で微妙にハズしているといえなくもありません。
補給のために日本軍が設置したからこそ米軍が爆破したわけで、
捕虜を使役したのも間違っていないかもしれませんが。
ちなみに、鉄道建設中に亡くなった捕虜たちの墓も近くにあるそうです。
コレヒドール
フィリピン北部のマニラ湾口に位置する戦略的な島、コレヒドール。
米軍とフィリピン軍は1942年5月に日本に降伏し、
約3年間日本軍の駐留地となっていました。
ラバウル
南太平洋、ニューギニア島の東に位置するラバウルは、
1942年1月に日本軍に占領され、海軍と航空隊の重要な拠点となっていました。
火山に囲まれ、優れた港を持つこの日本軍の拠点は、
アメリカ軍の度重なる空爆の標的となり、最終的には無力化されることになります。
ソロモン諸島
ソロモン諸島は、ニューギニアの東に位置する南太平洋の島々です。
第二次世界大戦中、ガダルカナル島をはじめとする
ソロモン諸島の島々は日本軍に占領されていました。
ジャングルにおけるどちらにとっても過酷な戦いの結果、
1943年にアメリカ軍は島を奪取しました。
写真には島の先端に見えるのは大型の艦船でしょうか。
【アウシュビッツ】
1944年に航空偵察で撮影されたポーランドのアウシュビッツ収容所の様子。
1 処刑の壁
2「ブロック11」懲役ブロック3 受付ビル4 受付を待つ囚人の列(蛇行した線が見える)
5 収容所厨房 6 ガス室と死体焼却所
7 収容所管理棟8 収容所司令室9 収容所長の官舎
続きます。