国際観艦式参加外国海軍シリーズ、前回はブルネイ海軍について取り上げてみましたが、
今日はブルネイ海軍のKDB「ダルレハン」の隣に
仲良く係留していたインドネシア海軍の軍艦についてです。
前回、BAEにフリゲートを注文し、進水させ、完成してから
仕様が要求基準を満たしていないと豪語して受け取り拒否したという
なかなか強気なブルネイ・ダルサラーム王国ですが、
こういう態度に出られるのも、金持ちだからだと軽く予想してみたところ、
それがあながち間違っていないらしい数字を目にしました。
なんとブルネイ、国民一人当たりのGDPは世界5位だったこともあります。
昨年度は32位となり、日本の27位より下位ですが、
この事件の時にはまだ産油国としてブイブイだった時なので、
えらく強気だったんだろうなあと思います。
今ではどうか知りませんが、教育・医療は無料、税金なし。
ほとんどのブルネイ人はアメリカ並みの大きな家に住んで
車を2〜3台所有するのがスタンダードらしいです。
ちなみに戦時占領国と被占領国という関係でありながら、
日本とブルネイの関係は大変良好です。
その理由は、前回も少しご紹介した、ブルネイ県の知事となった
木村強という日本人が、たった一年の任期の間に、相手を尊重する統治で
ブルネイの人々の心をがっちり掴んだからという話があります。
統治下で行ったインフラ整備も、どこかの旧統治国と違い、
ブルネイの人々はその後も感謝をしてくれているようですね。
国際観艦式インドネシア・ブルネイ 2隻 船越に入港 2022年11月1日
さて、どうやらそのブルネイ海軍の「ダルレーハン」
(動画ではダルエーサンとなっていますが)とインドネシア海軍の
「ディポヌゴロ」は、一緒にやってきたようですね。
そして同じところに並んで係留していると・・・。
おそらくインドネシアとブルネイは、同じ島にある国同士、
友好な関係を保っているのだろうとこのことから確信できました。
念のためもう一度
■ インドネシア海軍
【終戦後〜独立まで】
インドネシア海軍の歴史が始まったのは、1945年、
インドネシア国民革命が勃発してからです。
1945年8月22日に近代インドネシア海軍の前身である
人民海上保安局(Badan Keamanan Rakyat Laut/ BKR Laut)
が設立されました。
当時保持していたのは木造船とわずかな上陸用舟艇、
日本軍が残していった(譲渡した)武器のみ。
構成人員というのがまた複雑で、
オランダ植民地時代にオランダ海軍に所属し、
軍事占領時代に日本と戦ったインドネシア人水兵
日本軍に協力した現役民兵
日本海軍の元インドネシア将校・大佐
が入り混じるという、それ一緒にして大丈夫か?な陣容でした。しかし、その後組織は
インドネシア共和国海軍
(ANGKATAN Laut Republik Indonesia / ALRI)
という名前で、無事に海軍としてスタートします。
1970年にこの名称は、
Tentara Nasional Indonesia Angkatan Laut (TNI-AL)
に変更され、現在もインドネシア海軍は
TNI-AL
(TNIだけのこと多し)と表記されます。
海軍が活動を開始すると、海軍基地が列島各地に設置され、
同時に、新共和国に残っていた旧日本海軍の艦船が取得されました。
ちなみにこの時、日本に駆逐されたオランダが日本の敗戦で帰ってきて、
再びインドネシアはオランダ領となっていました。
(映画『ムルデカ17805』で描かれたように、インドネシア独立には
日本の残留兵が多く参加していたことが有名ですが、
旧海軍軍人の革命への関与についてはわかりませんでした)
この時インドネシアの海軍は、オランダの海上封鎖を突破するため、
バリ、シボルガ、チレボンで、オランダ海軍と対峙し交戦を行いました。
しかしながら、新生海軍力の限界は如何ともし難く、ほとんどの船が沈没し、
ほぼすべての基地がオランダ軍と連合軍によって壊滅しています。
インドネシア海軍の士気はそれでも決して衰えることはなく、
国民革命期の苦しい時期にも、海軍は艦隊(CA)、
海兵隊(Corp Mariniers/CM)教育機関などを結成し将来に備えました。
【東南アジア最強の海軍になったわけ】
独立戦争が終わると、ARLIは近代海軍を目指し、軍艦などの各種戦備と、
それを支える海軍基地などの施設を手に入れ、
戦力と能力の増強させ成長をしていきます。
国が崩壊の危機から立ち直り始めた1959年、海軍は
「Menuju Angkatan Laut yang Jaya」(優秀な海軍を目指して)
というプログラムを立ち上げました。
その後インドネシアは、ワルシャワ条約機構(NATOへの対抗で生まれた)
に賛同することで、東欧諸国からの様々な 海軍戦闘装備を手に入れました。
お好きな?方のために書いておくと、それらは以下のようなものです。
「スベルドロフ」級巡洋艦
「スコリイ」級駆逐艦
「リガ級」フリゲート
「ウィスキー」級潜水艦(東南アジアでは初)
「コマール」級ミサイル艇
全てソ連製の軍備で、海軍航空隊は、
イリューシンIL-28長距離爆撃機
また陸軍も、
PT-76水陸両用軽戦車
BTR-50 APC
BM-14 MRL
(東南アジア初のMRLシステム運用)
をガッツリと手に入れることになりました。
このおかげで、当時のインドネシア海軍は「東南アジア最大の海軍」、
アジア太平洋で最強の海軍と呼ばれ、
軍備と名声において近隣諸国を凌駕するまでになりました。
つはものどもが夢の跡「ウィスキー」級潜水艦KRI「パソパティ」
【西イリアン領土紛争と国民的英雄】
この時代海軍を発展させたのは、旧宗主国との領土争いでした。
独立後も、植民地としてインドネシアを占有し続けようとした
オランダとの間に引き起こされた西イリアン紛争のことです。
インドネシア海軍は、高速魚雷艦を前線に配置して、
オランダ海軍の兵力と交戦を行いました。
「Vlakke Hoek事件」
と呼ばれるアラフラ海の海戦ではついに戦死者を出しています。
ヨス・スダルソYosaphat "Yos" Sudarso 中将(享年36)
当時若い副参謀長スダルソ代将が指揮を執っていた
KRI「ハリマウ」(ハリマオ?)は、オランダ軍の駆逐艇に攻撃を受け、
スダルソ代将は3名の乗員と共に戦死をしました。
この写真は亡くなる2年前のものですが、まだできたばかりの若い海軍で
36歳にして既に代将であったスダルソは、死後特進して提督となりました。
この海戦では犠牲を出し、作戦そのものは失敗だったものの、
海軍はその後もオランダに交渉への復帰を迫り、最終的に
西イリアンのインドネシアへの返還を合意させることに成功しています。
スダルソ提督は現在でも国民的英雄としてその名を讃えられており、
戦死した日(11月24日)は「海の犠牲の日」となっています。
また、その名前はいくつもの地名や軍艦に遺されました。
ヨス・スダルソ提督戦死の瞬間を描いた記念切手
【マレーシアとの紛争】
横須賀第二区でのこのグループの係留岸壁をご覧ください。
ブルネイとシンガポールの間には歴史的問題はなく、
今回の来日も仲良く一緒に来て、同じところに係留してありますが、
微妙にマレーシア海軍だけが、隣に1隻はぶんちょされております。
3隻纏める必要は全くないとはいえ、この組み合わせは、
微妙にこの三国間の関係を反映していると思われました。
というのは、ブルネイとマレーシア、ブルネイとインドネシアの関係は
問題がないのですが、マレーシアとインドネシアは
やっぱり歴史的に揉め事、案の定領土問題が過去あったのです。
オランダとの紛争が終わってから、インドネシアとマレーシアは
岩礁のような小さな島の主権を争って揉め始めました。
オランダに返してもらった時にどちらも領有を主張したということですが、
どこかの日本海の島にも似たような話がありますよね。
この場合は、国際司法裁判所案件となってマレーシアが島を獲得しました。
あちらの件も、日本は国際司法裁判所への提訴を呼びかけていますが、
法的に負けが明らかなあちらは全く応じるつもりはないようです。
また、スカルノ大統領は、マレーシア連邦結成のための
シンガポール、マラヤ、サバ、サラワクの合併に非難を唱え、これを受けて
シンガポールで多数のテロ事件が起きたということもあります。
まあ、そんなことが重なり、両国の関係はあまり良くはありません。
表立っての紛争はないものの、国民感情的にも
お互いを好いていないというところだろうと思います。
それはともかく、わたしが思ったのは、海上自衛隊の皆さんのご苦労ですね。
そういうことまで係留位置に反映させないといけないのですから、
いきおい海上自衛隊のそれを決める担当部署の方々は
歴史的な出来事を含め、国際関係に対する情報について
たいへん気を遣って配慮しておられたに違いありません。
【1980年代以降】
1960 年代から海軍の装備の中核をなしていた東欧製の艦船は、
この頃には海軍のニーズの増大と変化に対応するには適さなくなりました。
スカルノ政権後はインドネシアとソ連の関係が悪化し、
ワルシャワ条約機構との軍事協力が停止されたため、
海軍は戦力の近代化をヨーロッパとオーストラリアに頼ることにします。
🇳🇱オランダ
「ファタヒラ」級コルベット
「アフマド・ヤニ」級フリゲート
🇩🇪西ドイツ
「カクラ」級潜水艦
🇦🇺オーストラリア
GAFノマド哨戒機
また、旧東ドイツ海軍からは、
「パルチム」級コルベット
「フロッシュ」級揚陸艦戦車(LST)
「コンドルII」級掃海艇
を大量に譲り受けて増強を図りました。
また、海軍は海路でしか行けないインドネシアの様々な遠隔地で、
人道的奉仕活動などの非戦闘的軍事作戦を展開しています。
活動の中心は、保健サービス、公共施設の建設とリハビリテーション、
保健・法律・民間防衛の各種カウンセリングなどということです。
「ブン・トモ」級のKRIブン・トモ(357)、KRIウスマン・ハルン(359)。
現在のインドネシア海軍の規模について。
士官・下士官・兵 75,000人
予備役534名
ニックネーム:TNI-AL
モットー Jalesveva Jayamahe
サンスクリット語で「海の上の勝利」
63 航空機
33 ヘリコプター
4 潜水艦
7 フリゲート
10 コルベット
14 ASWコルベット
24 ミサイル艇
159 哨戒機
9 掃海艇
21 戦車揚陸艦
6 水陸両用輸送ドック
フラッグ
海軍旗
■ KRI「ディポヌゴロ」
インドネシア海軍(Tentara Nasional Indonesia-Angkatan Laut, TNI-AL)
の艦艇はすべて、
KRI(Kapal Perang Republik Indonesia)
が接頭語として付けられます。
ちなみに、"kapal"は”vessel”=船
”perang"=戦争のインドネシア語です。
KRIで「艦艇・共和国・インドネシア」の順番ですね。
また、小型で軽武装の艦艇には通常、
海軍 艦艇=Kapel Angkatan Laut
を意味するKALという接頭辞が付きます。
KRI 「ディポヌゴロ」 365
「ディポヌゴロ」級ミサイルコルベットは、1800年代に
オランダからの独立を指導したディポヌゴロ王子にちなんで命名されました。
ディポヌゴロ王子
2005年起工
2006年進水
2007年7就役
排水量 1,692トン
全長 90.71メートル
幅 13.02 m
喫水 3.60メートル
速度
最大 28ノット(52km/h、32mph)
巡航時 18ノット(33km/h、21mph)
エコノミー:14ノット(26km/h、16mph)
航続距離
巡航速度18ノット(時速33キロ、時速21マイル)
20〜80名の乗員を収容
【潜水艦『ナンガラ』沈没】
「ディポヌゴロ」には特に目立った艦歴は記されていませんが、
2021年4月21日、インドネシア海軍の潜水艦KRI「ナンガラ」が
訓練のための潜航中消息を断つという最近の大事件で
KRI「ラデン・エディ・マルタディナタ」、
KRI「グスチ・ヌグラ・ライ」と共に現地に配備され、
潜水艦の捜索を行なっています。
沈没原因は、水圧に耐えられず海中で大破したことと推測され、
乗員53名は全員が死亡し、艦体も深海に沈んだため断念されました。
KRI Nanggala-402: The men on eternal patrol
乗員の子供が任務に行くのを止めたという話が辛すぎる・・・。
沈没の原因として、海軍内部は2012年に韓国で行われた改装が
適切に行われなかった可能性があるとしています。
改装後の魚雷発射テストに失敗し、3人の死者を出す事故も起こしていたこと、
それからこれは改装とは関係ないのですが、沈没時、
設計上の定員38人を超えて53人が乗っていたことも問題視されています。
なお、2ヶ月後の2021年6月27日、遠洋練習航海中の海上自衛隊練習艦隊の
「かしま」「せとゆき」は、「ナンガラ」の沈没地点で
洋上慰霊祭を実施したということです。
続く。