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令和四年最後の京都旅〜無鄰菴と龍安寺

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いつの間にか令和四年最後の日になりました。

前回から我が家の年末旅行についてゆるーく語っています。
いつもはお正月に旅行をすることの多い我が家ですが、
今年はMKの学校の始まりの関係で年末に出かけることになりました。

泊まりたいホテルはお正月はもう予約いっぱいで、
さらにどこもお正月特別料金で高いという理由もありましたが。


旧任天堂本社ビル跡の丸福楼ホテルをチェックアウトし、
次のホテルにチェックインするまでの時間、山縣有朋の京都での住居跡、「無鄰菴」(むりんあん)に行ってみました。

山縣有朋は長州出身の明治政府の立役者で二度内閣総理大臣を務め、
日本陸軍の中心人物として軍備の充実にも携わった政治家でしたが、趣味人でもあり、築庭においてはここ無鄰菴だけでなく、
今ホテルとなっている東京目白の椿山荘他の庭にも関わったそうです。


まずは山縣有朋閣下が京都滞在の時に生活していた家屋部分から入ります。
靴を脱いで上がると、その後ずっとその靴を入れたビニール袋を持ち歩き、
帰りも捨てる場所がないので持ち帰らなければなりません。
1986年に完成したという家屋は、120年近くの時を経て木が歪み、
完璧にパースがあちこち狂っていました。



四角い坪庭を四方から眺めることのできる回廊式の作りです。



10分間の解説とお茶菓子というコースを申し込みましたが、
始まるまで時間があったので先に庭を見学しました。



かつては生い茂っていた木が朽ちて、残るは石の柵のみ。
このような時の流れを感じさせずにいられない遺構にこそ心惹かれます。

この庭を手がけた庭師(7代目小川治兵衛)は作庭家として有名で、
解説によるとその当時まだ30代だったということです。

若いですが、昔は修行を始める時期も早かったため、
小川治兵衛が襲名したのはまだ19歳のときといいますから、
30代は庭師としてはむしろ脂の乗り切った時期だったかもしれません。



庭の一角にある煉瓦造りの洋館に要人との会見が行われる部屋がありました。

日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日、ここで行われた
「無鄰菴会議」では、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、
総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎の四人が
その後の日本の方針について会議を行なっています。
洋館が完成したのは、このわずか5年前だったということです。

そんな重要会議を行なったにしてはあまりに小さな椅子とテーブルですが、
まあ本当にこの家具が使われたかどうかについてはわかりません。

当時、ロシア帝国は強硬な南下政策をとっており、桂は、

「朝鮮における日本の権利をロシアに認めさせる、
これを貫くためには対露戦争も辞さない」

という方針に対する同意を伊藤と山縣から取り付けようとしたのです。この時に決定し御前会議に出された方針は以下の通り。露国が満州還付条約を履行せず、満州より撤兵しない時には抗議する

満州問題を機として、露国と交渉を開始し、朝鮮問題を解決する

朝鮮問題に対しては、我が優越権を主張し、一歩もロシアに譲歩しない

満州問題に対しては、露国に優越権を認め、朝鮮問題を譲歩させる
国内には当時すでに「露国討つべし」の世論が高まっていましたが、
元老と政府首脳陣はまだ外交交渉によって戦争を回避しようとしていました。


こちらは山縣有朋愛用の書見台付き椅子。


こちらの長椅子、家具も本物。
カーテンは長さが合ってないし多分後からつけたものではないかと。



石炭式のストーブも本物です。
京都の底冷えする気候にあって、石造りの洋館の床は
靴を脱いで歩いていると、まるで氷を踏み締めているようでした。

「ストーブを焚いたくらいじゃ意味なかったかもね」

というと、

「さすがに靴履いてたんじゃない」

とMK。
そりゃそうだ。
このときの無鄰菴会議のメンバーにしても、


当時総理の桂太郎はドイツ留学経験者


小村寿太郎はハーバード大学に留学


ご存じ長州ファイブの一人だった伊藤博文はイギリス留学(後列右)

山縣有朋も西郷従道と一緒に海外留学をしていますから、
洋館では普通に洋風の慣習に倣い靴を履いていたことでしょう。



お庭を見ながらガイドの説明を聞き終わったあとは、
カフェで抹茶とロシアケーキをいただくという趣向です。

このロシアケーキですが、ケーキと言いながらどう見てもクッキーです。
Wikipediaによると二度焼きしたクッキーにジャムなどを塗ったりしたもの、
ということで、ロシア人の洋菓子職人が伝えたという以外ロシア要素なし。

ロシア人もロシアケーキの存在は知らないだろうということです。
イタリア人がナポリタンを知らないみたいなもんですかね。



この日の宿泊は岡崎にできたホテルオークラです。

卯年を迎えて盛り上がる岡崎神社(狛犬ならぬ狛ウサギがいる)の横にあり、
丸福楼と祇園白梅の「つなぎ」として二日目に予約したのですが、
予約後になんとこのホテル駐車場がないことを知りました。

「車で来た人はどうするの」

「近くのコインパーキングに停めてくださいだって」

「それは・・・珍しいホテルだね」
写真はホテルのエントランス、車寄せというところですが、
普通のホテルにある地下への通路などは無論ありません。

ホテルマンは車から荷物を下ろすのを手伝いますが、
客がその後自分で車を外に停めにいくのを黙って見送るのみ。

しかも、岡崎神社前のコインパーキングは年末年始特別料金で
40分六百円という謎の料金設定となっており、
ホテルはパーキングとの提携は一切していないようでした。

つまり、土地が貸借地で、地下を掘ることができず、
しかも景観規制で3階以上の高さにすることもできないので、
何を削る?そうだパーキングだ、ということになったようです。
知らんけど。

いやそもそも何だってそんな条件の土地にオークラなんぞ作ったかな。
と最初から最後まで不思議で仕方ありませんでしたが、
今にして思えば、車を持たない外国人観光客をターゲットにしたのでしょう。

その後コロナのせいで全てのアテが外れ、現在に至ると。

エキストラベッドを入れると、もうほとんど足の踏み場なし。

窓の外はバスが通る道に面した低層だし、
照明は洗面室もどの鏡の前も真上から強烈な光がまっすぐに落ち、
顔に濃い影を作って誰でももれなく凶相に見えるという仕組み。

少なくともこの部屋の設計者は、間接照明で人の顔を綺麗に見せる、
などという気遣いの感性を全く持たなかったに違いありません。



窓の外の眺めはほとんど東本願寺岡崎別院の借景です。

このホテルのオークラブランドとしての売りは何、
と思わず問い質したくなっていたわたしですが、
アメニティはバムフォードだし、スイートルームなら庭に向いていて、
シモンズベッドで快適だしと、サービスそのものは悪くはありません。



朝食はさすがのオークラという豪華さ(入れ物が)でした。
これはアメリカンブレックファストで、
和朝食みたいなお膳風の木の重箱に並んだものが出てきます。

わたしはポーチドエッグを頼んだのですが、間違えて茹で卵が出てきました。
面倒なので黙って出てきたものを頂きましたが。


この頃、京都はどこも人がいっぱいで、夕食の予約に苦労しましたが、
なんとかおなじみの鶏料理八起庵のカウンターを取ることができました。



鶏料理の梅コースには、鶏南蛮の小鉢が付いてきます。
コースの最後には小さなご飯の卵かけご飯が食べられるのですが、
わたしはパスし、TOとMKは頂いていました。

店主の名物親父さんは、TOが京都に行くたびに寄るので、
MKが留学していることも知っていて、奥から出てきたとき、
アメリカで日本食を食べたりするのかと聞いて来られました。

MKが、美味しいのは高いしたいてい美味しくない、というと、

「昔アメリカに店を出すのに憧れて、伊藤忠が話を持ってきた時
その気になったんんですが、結局出しませんでした」

と言っておられました。
向こうで鶏肉を扱うのが難しかったというのもやめた理由の一つだったとか。

確かに、京都で丹波鶏を使って作るからこそこの味になるのであって、
向こうで同じ味を再現しようと思ってもまず鶏が違うし、
輸入したら採算の点でいろいろと障害がありすぎたかもしれません。



MKが、「日本の作務衣風のジャケットが欲しい」と言い出したので、
京都ならそういうのもあるかも、とネットで調べてお店を回りましたが、
彼がアメリカで見つけたようなフュージョンっぽいものではなく、
お寺さんの御用達の作務衣を売っているところばかりでした。

何軒か見て諦めたところで近くに龍安寺テンプルがあったので、
一度も見たことがないというTOとMKのために行くことになりました。



いつ来ても、その割にあまりに小さいので軽く驚きます。
幅25メートル、奥行き10メートルですから実際にも小さいのですが、
そこに配置された15個の石による枯山水は、その広がりが
世界の思想家に小宇宙を感じさせるとまで言わしめました。

この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えません。
これはある石に別の石が重なるよう設計されているからです。


腰掛けて庭を眺めることができるように、
縁側には一段低く足を置く場所が設けられています。

この日もいろんな国の人々が思い思いに時間を過ごしていました。

前に来た時には世の中に存在していなかった携帯でパノラマ写真を撮る。確かにこれで確かめても、一番西側の島にあるはずの3個のうち
1個の石がどうしても見えません。
ちなみに、左から石の配列は、5、2、3、2、3だそうです。


石庭を臨む座敷に展示されていた古文書は、
それぞれが龍安寺について言及されたものとなっています。



知足の蹲踞(つくばい)と呼ばれるものです。

-蹲踞は茶室に入る前に手や口を清めるための手水鉢のことで、これは
水戸藩主徳川光圀の寄進によるもの(の精密なレプリカ)です。

蹲踞の上部に「五・隹・疋・矢」という文字が四方に書かれ、
これに四角くくり抜かれた水溜めを「口」編と見立てると、それぞれの字が

「吾」「唯」「足」「知」

となります。
この4文字をつなげて、

「吾れ唯だ足るを知る」
と読むのだそうです。


順路に従って池に沿って庭を左回りに回っていくと、
納骨堂と「パゴダ」が現れます。

「ビルマ派遣軍自動車廠戦没者英霊の碑」
と案内がある石段を上がっていくと、パゴダは現れます。
パゴダはビルマ風の名前であり、実際にもビルマ風です。

「先の第二次世界大戦にてビルマ派遣軍自動車廠参戦した
龍安寺第58代松倉紹英住職等の発願により
尊い生命を捧げた亡き戦友達の慰霊の為に
無事復員した戦友一同の募金により
このパゴダが昭和45年8月に建立された」

とパゴダには記されています。

どこを見てもこれ以上の説明はどこにもありませんので、
書かれている通り、龍安寺の住職が出征し、無事に帰国してから
龍安寺の境内に戦友の霊を慰めたい、という思いから
ここに納骨堂を建立する運びになったものでしょう。




こんな立派な納骨堂もありましたが、
関係者以外は立ち入り禁止とされていました。




それではみなさま良いお年を。



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