レイテ島におけるブラウエン降下作戦に投入された高千穂部隊の隊員たちです。
おそらく猛訓練の後、あるいは映画か写真撮影のついでに撮られた記念写真で、
隊長である竹本中尉を真ん中に囲んでいます。
若々しい筋肉の付いた身体、引き締まった表情、
まるでスポーツ合宿の合間に撮られたかのような全員の快活な微笑みの表情。
全員が神々しいくらいの美男に見えるのはわたしだけの思い込みではありますまい。
彼らはこの直後この作戦でブラウエンに落下傘降下し、
全員が生きて戻ることはありませんでした。
前回、海軍に続いてパレンバンに降下を行い、
精油所を奪取した陸軍の「パレンバン空挺作戦についてお話ししました。
今日は、1944年から終戦までに行なわれた空挺作戦を取り上げます。
その前に、ここ習志野駐屯基地の資料館「空挺館」には、
海軍落下傘部隊の資料がほとんど無い(『もう一つの』扱い)ので、
少しだけ海軍落下傘部隊について触れておきます。
【海軍特別陸戦隊】
海軍の落下傘部隊は、1940年11月に実験部隊が設置され、一度お話ししたように
翌年1月15日には実際の人間で落下傘の降下実験に成功します。
陸軍もそうですが、このころの落下傘は緊急脱出用のものを使用しました。
海軍では慣例的に編成地となった基地の名前が部隊に付けられます。
(ex.上海陸戦隊、台南航空隊)
よって、海軍落下傘部隊の名称は
「横須賀鎮守府第一特別陸戦隊」
というものになりました。
2年以上の軍務経験を有する30歳未満の志願者1500名を隊員とし、
1941年の6月から始められ11月末までに 訓練完了を目標に、
こちらもハードなスケジュールが組まれます。
いずれの訓練生も、一週間から二週間の準備期間、
体操2時間、ブランコと跳び出しの練習1時間、落下傘の整備3時間、
そして降下に関する理論実習を1時間、という訓練を行ない、いきなり実際の降下訓練。
陸軍第一部隊の18日には到底及ばぬものの、どう考えても無茶な促成ぶりです。
自分で折り畳んだ傘にダミー人形をつけて降下させ、不安を払拭する、
という最低限のケアが あったのは救いと言えば救いだったでしょうか。
この訓練は、現在海上自衛隊館山基地のある千葉県館山で行なわれましたが、
海に面し、風が強い地形のため、数名の訓練生が強風にあおられて墜落したり、
あるいは海に墜ちるなどして殉職しています。
【滑空歩兵連隊】
さて、陸軍に話を戻しましょう。
陸軍は滑空機を使用した空輸部隊を持っていたことがあります。
日本国際航空クー七真鶴試作輸送滑空機。
Gunder、雄のガチョウ転じて間抜け、とアメリカ軍にコードネームをつけられた
このグライダーは、双胴型を採用したことにより大きな四角い貨物室を確保することができ、
これにより32名の兵員か7,600 kgの貨物、又は軽戦車さえ搭載することができたそうです。
見かけによらないですね。
ク-7は強力な曳航機を必要とし、これには百式重爆撃機や四式重爆撃機が充てられましたが
じっさいにはこれらの機体は配備数が少なく、エンジンを装着した
「キ-105 『鳳』」
が二機だけ製造されました。
陸軍は、敵陣への強襲作戦のために、兵員と軽戦車を搭載したクー7を目的地まで曳航し、
ワイヤを切り離した後、滑空機だけが目的地に強行着陸する、
という方法を模索していたようですが、実現には至りませんでした。
【昭和19年11月26日 薫空挺隊】
以前、台湾の先住民族「高砂族」からなる遊撃隊、
「薫空挺隊」(かおるくうていたい)
についてお話ししたことがあります。
落下傘を使った空挺作戦ではありませんが、これについても少し述べます。
薫空挺隊は、勇猛果敢なことで知られ野外での行動術に長けた
高砂族の志願者に、陸軍中野学校卒の隊長を冠したゲリラ部隊で、
1944年、昭和19年の11月にレイテ島のブラウエン飛行場強襲に投入されました。
上の写真は、疾走する高砂兵。
彼らは、やはり作戦に投入された高千穂部隊の精鋭がとても及ばぬ程、
とくにジャングルでの動きが俊敏であったと言われています。
もともとの写真が白黒で大変分かりづらいのですが、これは、
日本軍の兵士の切り込みを描いた油絵です。
なんと、作者は藤田嗣治、レオナール・フジタ。
ご存知かもしれませんが、藤田は陸軍美術協会の会長でもあり、
戦争中は中国戦線にその任務で取材に行くなどし、多くの戦争画を描いています。
戦後、これがため戦犯呼ばわりする世間と画壇、何より
GHQの執拗な追求に嫌気がさした藤田は日本を捨て、フランスに行ってしまいます。
つまり、戦後日本社会のバッシングゆえに、世界的な画家、
「レオナール・フジタ」は生まれたと言えないこともありませんが、
結果的に藤田はこれがため日本を捨て、フランス人になってしまったのですから、
本当に左翼の軍パージってつまりろくなもんじゃないなあとしか言いようがありません。
それはともかく、この分かり難い絵ですが、真ん中で敵を突き刺している人物は
白たすきを胸前でバッテンにかけており、これは薫部隊の将校であること、
そして右側の兵が持っているのは高砂族特有の蛮刀、義勇刀であることから、
このときの作戦の様子を描いたものだと言われているそうです。
しかしながらこの作戦は、彼らを運んだ零式輸送機4機のパイロットが
おそらく機位を失い目標とは違う場所に着陸してしまったことから、
まとまった作戦行動がとれず失敗に終わったとされています。
このとき日本軍がレイテを強襲することになったのは、その一ヶ月前の
10月26日、レイテにアメリカ軍が上陸したのを受けてのことです。
薫空挺隊の失敗にもかかわらず、なんとしてでもレイテを制圧したい日本軍は、
再び飛行場の奪取を計画します。
【昭和19年12月6日 ブラウエン・和号、テ号作戦】
搭乗直前の高千穂部隊降下隊員。
カメラのレンズに気づく様子もなく、あらぬ方を放心したように見やる隊員。
確実に迫り来る死の運命を悟り、すでに彼の心はこの世にないかに見えます。
彼の背負っているのは最新式の四式落下傘。
パレンバン降下作戦のとき、人員降下と物料の投下を別にしたため、
武器を手にすることが出来ず拳銃と手榴弾だけで突入した隊もあったことから、
この作戦では人員が武器と物料とともに降下するということになりました。
彼の足許に見える長い袋の包みは2式テラ銃といって、分離可能になっており、
この写真でもわかるように彼らは
二つに分け包んだ銃を両足に縛り付けて降下しました。
携行する装備の重さは50キロに及び、一人では輸送機にも乗れなかったそうです。
装備には爆薬や、防毒マスクも加えたため、予備傘も無しでかれらは降下したのです。
物料降下用のパラシュート。
パレンバンで用いられたタイプであろうと思われます。
落下地が背の高い草地だったため、この回収ができず蒲生小隊は苦戦を強いられました。
出撃直前、内地に帰る新聞記者に託す手紙をしたためる高千穂部隊の兵士。
向こうの三人の前にはビールらしき瓶が見えます。
前回「空の神兵」というタグで空挺館についてお話ししたとき、
空挺館の階段踊り場にある
この「神兵」の像があまりにも静謐な様子を湛えているので
いったいこのブロンズ像はいかなる経緯で製作されたのか、と書いたのですが、
あのエントリを制作してからすぐ、遊就館に立ち寄った際、
わたしはこれより少し大きめの、全く同じ造形の作品を見つけました。
像に付された作品名は
「特別攻撃隊空挺隊員の像」。
寄贈は竹田恒徳氏、となっており、これは恒徳王であった竹田宮のことでしょう。
竹田氏は、特別攻撃隊慰霊顕彰会の会長であったので、
おそらくその関係でこの像を所持していたのかと思われます。
「特別攻撃隊」となっていますが、空挺作戦の特攻というのは作戦としては存在しません。
しかし、パレンバンやメナドはともかく、このレイテにおけるブラウエン降下作戦は、
隊員たちに取って実質特攻であったといえます。
この彫塑は、まさしく高千穂部隊隊員の姿を表したものと見て間違いないでしょう。
この像の「仏像のような穏やかな表情」は、
すでに彼の魂が現世を離れ幽界に彷徨い出していることを表すのでしょうか。
そして全く同じ「無」とでも呼ぶべき一種の解脱を、
上の写真の輸送機に乗り込む直前の降下兵にも見ることが出来ます。
ブラウエンで守備に当たる米軍第11空挺師団の頭上に、テ号(挺進の”テ”)作戦の
日本軍の輸送機が姿をあらわしたのは12月6日の1800のことでした。
飛行場の上空で次々と落下傘が開花し、彼らは滑走路の連絡機に到達して
手榴弾を投擲し、物資集積所に火を放ちました。
しかしこのとき降下して戦ったのが空挺を専門とする第11師団であったことは、
高千穂部隊にとって相手が悪かったとしか言いようがありません。
一時的に飛行場を制圧したものの、米側の援軍が到着し、ここで半数の兵力は失われます。
このときブラウエンに60名を率いて降下した白井恒春隊長。(中央)
最終的に残った10人の隊員とともにカンキボット山中の軍司令部にたどり着きますが、
1月末、黄疸を発症していた白井少佐はそこで病死しました。
右側にいるのは副官の河野大尉。
降下後も白井隊長と行動を共にしていましたが、
他の高千穂隊員を捜しに5名の部下を連れて出たまま不明となります。
このときの戦闘の様子は戦時中には不明となっていましたが、白井少佐は
戦闘行動の合間に手記をしたためていたため、戦後それが明らかになりました。
カンキポットには、薫部隊の生き残りや落伍兵などを加え、
挺進兵は1月の時点で400名はいたということが伝えられていますが、
その後セブに大発で移った司令部を除き、高千穂部隊の隊員は100名が
レイテに残ることになり、誰一人として戦争を生き延びることはありませんでした。
セブには56名が渡り、生きて終戦を迎えたのはそのうち17名です。
高千穂部隊の竹本中尉による遺書。
冒頭写真の真ん中で腕を組んでいる人物です。
23歳とは信じられないくらいの鮮やかな達筆で、家名を汚さないように戦う覚悟や、
姉の結婚相手に誰がいいとか、祖母にはこのことは言わないで欲しいとか、
あるいは「自分は死んでも時計は残るから」と遺品について述べたりしています。
さらにこれを具(つぶさ)に見ると、
「有り難くも特攻隊滑空部隊の桜剛隊と言ふ隊名を戴いて出ます」
という文言が目につきます。
特攻隊全史などをあたったり、この言葉を検索しても、
この遺書にある隊名は特攻隊としてどこにも見当たりません。
おそらく、公式なものではなく(公式にも特攻ではないのですから)、
作戦関係者の中から彼らへの激励と慰撫の意味を込めて生まれた
名称であるのかとも思われます。
「新聞ラジオが報道するだけの戦功を立てねばなりませんから」
あるいは
「新聞ラジオで見た人に(私が?)桜剛隊ということを言って見るよう頼んでおきなさい」
という文には、彼が自分の死後、自分の名とともにこの特攻隊の名が
「新聞ラジオで」華々しく伝えられることを夢見ているらしい様子が窺えます。
死に往く彼らに取って、それが大いなる慰めと励ましになったのでしょうか。
高千穂部隊が出撃していった後、彼らの駐留していたレイテ島
サンフェルナンドの宿舎の壁には、このような句が書かれていたそうです。
花負いて 空射ち征かん 雲染めん
屍はなく 我等散るなり