■ ”ビッグウィーク”1944年2月20-25日
1944年2月、アメリカ空軍とイギリス空軍は、
ドイツの航空産業とドイツ空軍に対して全面的な作戦を展開しました。
この欧州戦略爆撃作戦とは、第八空軍と第十五空軍の重爆撃機が、
昼間は航空機、エンジン、ボールベアリング工場に打撃を与え、
イギリス空軍の爆撃機が夜間に攻撃するという一連の流れを持つものです。
計画立案者らは、ドイツ空軍を決戦に誘い込むために
ドイツの航空機産業を攻撃し、ドイツ空軍に甚大な損害を与え、
連合国空軍が制空権を獲得することで、
ヨーロッパ大陸侵攻の成功を確実にしようとしていました。
■イギリス空軍の立場
ところで、第一次世界大戦時に生まれた戦略爆撃の定義として、
「敵の非戦闘員、特に工場労働者の戦意を喪失せしめる」
という目的を持つものがありました。
民間地域の攻撃は無差別攻撃と同義であり、
第一次世界大戦時から道義的観点から議論されてきましたが、
あだ名に「爆撃機」「ブッチャー(屠殺屋)」を持つ、
この英国空軍元帥、アーサー・ハリス準男爵という軍人は、
「戦略爆撃の意義を民間人攻撃に置くべき」と唱えた軍人でした。
敵都市破壊爆撃が勝利の鍵と考える軍人は彼だけでなく、
おそらく1942年ごろは多くのRAF関係者がそう感じていました。
しかし、ハリスの考える空爆はさらにアグレッシブなもので、
◎単一の都市に一時間半にわたり1000機もの爆撃機をなだれこませ、
都市防衛―対空砲火だけでなく、消防や救護活動をも無力化し、
爆弾と焼夷弾を集中して焼き払う
◎飛行機には容量の許す最大限の焼夷弾を積み、
2400メートルの高度から落とす
◎発生する火災現場に後から駆けつける消防夫を殺傷するために
遅発性の信管をつけた11キロ爆弾を混ぜておく
など、人道的にはそれってちょっとどうなの、という方法でした。
まあ戦争に仁義や道義などあるか、と言われればそれまでですが。
連合国側の容赦のない民間人殺戮の典型とされるドレスデン攻撃は、
このハリスや空軍大将チャールズ・ポータルらの考えによるものです。
ドレスデン爆撃では市民が25,000人程度と見積もられる犠牲となり、
この戦争である意味最も物議を醸した空襲といわれています。
(上の写真は火葬を待つため積み上げられた民間人犠牲者の遺体)
さて、どうして今この人の話をしているかというと、
「アーギュメント作戦」の立案の際(このあとのDデイのときも)、
ハリスは地域爆撃に固執する立場からこの作戦に反対したからです。
彼は、特定の石油や軍需品の標的を爆撃するようにという指令を、
上級司令部の「万能薬」(彼の言葉)であり、
「ドイツのあらゆる大都市で瓦礫を跳ね返させるという現実の任務」
から目をそらすものであるとみなす傾向がありました。
反対する彼を説得し、米軍と共同のアーギュメント作戦を実行させたのは
ほかでもないチャールズ・ポータル空軍大将でした。
有名なヤルタ会談で、チャーチルの後方(左から2番目)にいるのが
Charles Frederick Algernon Portal,
1st Viscount Portal of Hungerford, KG, GCB, OM, DSO & Bar, MC, DL
ポータル将軍の考えは、ハリスよりやや穏健というのか、
細密攻撃の重要性を認めてはいましたが、つまりは
ドイツの戦争努力と市民の士気に打撃を与えれば半年以内に勝利につながる、
というもので、そのことからドレスデン攻撃にゴーサインを出しています。
そのポータルがなぜハリスを説得せねばならなかったかというと、
ドレスデン爆撃について色々と?知らされたチャーチルが、
ポータルに地域戦略爆撃を中止せよと最終命令を下したからです。
チャーチルは、
「ドレスデンの破壊は連合軍の爆撃行為に対する重大な疑問として残る」
として爆撃から距離を置く立場を取りました。
惨劇の歴史的評価が自分に向かうことを恐れたのかもしれません。
ポータルはそれ以上地域爆撃を推し進めるわけにはいかなくなりました。
■アメリカ陸軍航空隊の立場
ドイツの航空産業をピンポイントで叩くという攻撃方法は、
口で言うのは簡単でも実際は破壊は難しいし敵は修復を容易にしてしまう。
特に資材輸送のロジスティクスを破壊するのは現実的に全く不可能でした。
アメリカ空軍は航続距離のため戦闘機の援護なしで爆撃をしていた頃は、
爆撃機に重武装させることである程度成功していましたが、
レーゲンスブルグでは対空砲と敵戦闘機の迎撃で深刻な犠牲を出します。
この頃アメリカ軍の爆撃機を研究したドイツ軍は、
戦闘機に重武装を施した双発重戦闘機を配備し、
アメリカ軍の戦闘機がいなくなってから悠々と攻撃を行いました。
アメリカ軍としてもドイツの戦闘機をやっつけたいのは山々ですが、
彼らは連合軍との真っ向勝負を避けるので、めったに交戦に誘い込めません。
そして第二に、護衛任務の間、連合軍戦闘機は、
爆撃機の編隊を守るため、緊密なフォーメーションを組んでいたので、
敵戦闘機を追撃・攻撃することもできませんでした。
そのとき、
「空中で叩けないなら工場を叩けばいいじゃない。」
と言ったのが、あのジミー・ドーリトル少将です。
というわけで立案されたのが、
「ドイツ航空機産業の完全破壊」を目的とした生産工場への精密爆撃でした。
連合国空軍の上層部は、この作戦で失われる自軍の航空機は
1日で全体の7%から18%、
作戦が6日として全航空機の42%から100%が失われると計算していました。
この作戦のために、米軍司令官フレデリック・L・アンダーソンは、
全航空機と乗組員の4分の3(つまり736機の爆撃機)
を犠牲にする用意があるとしました。
また作戦決行にあたり、連合国は、部品、エンジン、翼、
機体の生産に関わるドイツの産業のあらゆる部分、
および工場の組み立てに関する情報の収集を進めました。
そして、作戦が成功するための気候条件として、
○数日間好天が連続していること
○イギリスの上空約600~4,000mの間に雲があり
○ドイツの目標地域の上空に雲がないこと
としました。勿論このような状況は極めて稀であったため、指導部は、
予報が許容可能な飛行天候の兆候を少しでも示すと、
すぐに、とにかく作戦を実行することにしました。
コードネームは "Operation Argument "。
これはのちに"Big Week "として知られるようになります。
この頃には米空軍の戦闘機は掩護に十分な航続距離を持っていたので、
ドイツ空軍の守備隊を大混乱に陥れることになります。
米空軍はビッグ・ウィーク中、約4000機の重爆撃機を出撃させ、
2000万ポンド以上の爆弾を工業・軍事目標に投下しました。
1944年2月24日、B-24の攻撃で飛行場の完成機が爆弾で破壊され、
激しく燃えるゴータ航空機工場。
偵察機によって撮影された爆撃後のゴータ航空工場。
壊滅的な被害の跡を見せています。
二日前の2月22日にもイギリスから米軍爆撃隊が出撃したのですが、
悪天候のため攻撃を中止して帰還しています。
しかし、帰り際にオランダ国境のナイメーヘンという都市を
爆弾を捨てついでに爆撃して、数百人単位の民間人が犠牲になりました。
Gotha 航空ではゴータGo 145練習機、ゴータGo 242突撃グライダー、
ライセンス生産されたメッサーシュミットBf 110を生産していました。
以前当ブログでご紹介した、ホルテン兄弟開発による
ジェットエンジン搭載ホルテン・ホー229も作っていました。
24日の攻撃では169機のB-24がゴータを攻撃しており、
米空軍は200機以上の爆撃機を失い、約2600人の死傷者を出しました。
それに対し、ドイツは使用可能な戦闘機の3分の1を失い、
かけがえのないベテラン戦闘機パイロットの5分の1が戦闘で失われました。
続く。