さて、メンフィスベルの紹介から始まって、第二次世界大戦における
アメリカ空軍のヨーロッパ爆撃についてお話ししてきました。
紆余曲折あって、1944年には連合軍は空爆作戦を
なんとか勝利の見えるところまで持ち込めそうになっている、
というところからの続きです。
冒頭写真は、1945年4月、ドイツのドナウヴェルト(Donauwörth)の
線路に爆弾を落とす第8空軍のB-17編隊。
下方に見えているスモークは爆弾投下を知らせる目標です。
1機のB-17からは爆弾が二個ずつ12個投下されているのがよくわかります。
1944年秋までに、アメリカ空軍は
数千機の重爆撃機と長距離戦闘機の活躍によって、
敵の重要な輸送と石油部門に打撃を与える態勢を整えていました。
1,000機以上の重爆撃機を擁する編隊は、目標を意のままに攻撃し、
ドイツ全土の石油精製所、合成油プラント、橋、
鉄道操車場を徹底的に破壊しつくしたのです。
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貨車によって運搬中、線路を狙い撃ちした爆撃により、
被害を受けたフォッケウルフFw 190戦闘機(カバー付き)。
オーストリアに行ったことのある人には馴染み深い、
チロル地方特有の冠雪した山脈が後ろに見えていますね。
ここはチロルのハル(Hall)の操車場(marshalling yards)。
この戦闘機は使用不可能になりました。
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第8空軍の攻撃で炎上するドイツのモーンハイム製油所。
モンハイム製油所の攻撃は、第二次世界大戦中の、いわゆる
「石油キャンペーン」
の一つとしてそのリストに名前が上がっています。
ドイツの製油所はおもにハンブルグとハノーバーに集中しており、
周辺国はあの「プロイェシュティ攻撃」(黒い日曜日)で有名になった
ルーマニア、ハンガリー、ポーランド、オーストリア、
チェコスロバキアなどに点在していました。
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ドイツのヴァルネムンデにあるハインケル工場。
2回目の爆撃の跡が無数に残されています。
戦略爆撃作戦は、数ヵ月にわたる執拗な攻撃の末、
1945年初頭までにドイツの輸送システムを破壊し、
石油生産量を劇的に減少させるに至りました。
この破壊によって、ドイツ国防軍(ドイツ軍)は
物資と燃料の不足から著しく弱体化していくことになります。
空軍が敗北し、インフラが完全に破壊されたナチス・ドイツは、
1945年5月、東西からの連合軍の地上進攻についに屈しました。
「私の意見では、戦争は航空攻撃によって決着したと思う。
それは、わが国の合成油プラントに対する大規模な攻撃と同時に、
通信に対する攻撃が同時に始まることによって起こった」
ドイツ空軍軍需部長だったエアハルト・ミルヒ将軍の言葉です。
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ミルヒは飛行学校出のパイロットで、第一次世界大戦後、
ルフトバッフェがヴェルサイユ条約で飛行禁止になっていた間、
ドイチェ・ルフト・ハンザの設立にも関与しています。
その後ゲーリングにスカウトされてドイツ空軍の発展に携わり、
戦争が始まると軍需生産と航空軍備の中心にあったので、
空軍の戦争における趨勢というものをよく知る立場でした。
余談ですが、彼は半分ユダヤ系の血を引いていたため、
ドイツ軍に彼を引っ張ったゲーリングは、出自を誤魔化すため、
登記所に彼の出生届を改竄する命令を出したものの、
戸籍局が改竄指示に従わなかったという噂があります。
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爆撃前の1944年(左)米空軍と空軍の重爆撃機による数回の攻撃後の1945年1月(右)
ドイツのジーツ(Zietz)にあるブラバグ(BRABAG)合成油工場は、
工場の建物とともにシステムが破壊されました。
この工場は通算5回も空爆に遭っています。
BRABAG は正確には「Braunkohle Benzin AG」といい、
BRABAGは亜炭とベンゼンの頭文字から取られた名称です。
1934年から1945年まで創業していたドイツの会社で、
買ったんから合成航空燃料、ディーゼル燃料、ガソリン、潤滑油、
パラフィンワックスなどの蒸留を行っていた会社です。
戦争遂行のためにナチス政権によって綿密に運営された産業カルテル企業で
第二次世界大戦前と戦時中、ドイツ軍に不可欠な製品生産を行いました。
それだけに連合軍の石油キャンペーンの標的となり、
終戦までには工場の施設の破壊によって生産は困難になり、
会社も終戦と同時に破綻しています。
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ズタズタになったBRABAG工場のパイプライン。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/6a/1a56e4e360517fb3142e63bc3238bdee.jpg)
1944年8月から12月にかけて35回の戦闘任務に就いた
第91爆撃群爆撃手ポール・クリスト中尉が所有していた地図。
任務それぞれの飛行ルートが地図に描きこまれています。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/cd/00cf2ceaa12686770f664c5c0d1176b7.jpg)
とんでもなく几帳面だったらしいクリスト中尉が書き残した
ミッションごとの記録。(公式なものではない)
左下には、18回目の任務で
「1944 !HALF WAY THRU- AMEN !」(半分過ぎた-アーメン!)
35回任務終了のあと、
「THAT'S ALL, BROTHER-"HAPPY WARRIOR"-
(終わったぜ! ”ハッピーウォリアー”兄弟)
AUGUST 3rd TO DECEMBER 25th 194435 MISSIONS-187,350 lbs. BOMBS DROPPWE-93½TONS」
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/59/618f697e9085b64f4b6fb4594fa5a313.jpg)
任務中のクライスト中尉
彼は戦後このように語っています。
12週間の爆撃と、6週間のDRナビゲーションを終えて帰国した。
飛行中一番恐れていたのは、ナビゲーターの隣の小さなハッチから
ベイルアウトしたとき左の昇降舵の前縁にぶつかって死ぬことだった。
万が一生きて地上にたどり着いたとしても、
次の心配はドイツ民間人に殺されることだった。
たとえ殺されずに収容所に入ったとしても、
当時僕の体重は125ポンド(約56キロ)しかなかったので、
わずかな配給では決して生き延びられなかっただろう。
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クライスト中尉(おそらく56キロになる前)
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/b2/e0f32811b184c47741eb805ece4f72d4.png)
1944年12月12日、ドイツ、ハナウ(Hanau)上空で
対空砲の直撃を受けた第8空軍のB-24。
石油キャンペーンの頃、戦闘機の脅威は低減していたとはいえ、
依然として敵の対空砲火は危険でした。
このB-24「パッツィー(Patsy)」は、ハナウの操車場爆撃任務で
フリーガーホルスト・カゼルネ上空を飛行中攻撃によって墜落、
マイロン・H・キーガン大尉以下10名の乗員は全員死亡しました。
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以前も掲載したことのあるMe262の野外最終組み立てラインの写真です。
ここはオベルトラウブリング近郊の森林地帯。
連合軍の集中攻撃を逃れるため、ドイツはこのように
生産工場を地下や森林地帯に分散させていました。
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野外のMe262に肘を置いて何かを考えている連合軍兵士
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/81/a45b70f98d4637da90f311b9b7bdc4bf.jpg)
時計がちょうど5時を指している
続く。