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男爵夫人を”演じた”女流飛行家〜エリザ・デローシュ

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国立航空宇宙博物館、通称スミソニアン博物館には、「男爵夫人」とタイトルのある女性飛行家の写真があります。



バロネス・レモンド・ド・ラローシュ

1910年3月8日、レモンド・ド・ラローシュは
女性初のパイロット免許を取得した。
彼女は1909年にシャルル・ヴォワザンから操縦の手ほどきを受けていた。
彼女は1910年にランス(Reims)で行われた航空大会に出場し、
世界有数の男性飛行士を相手に唯一の女性として戦った。
ド・ラローシュ男爵夫人ことエリザ・デローシュが
航空大会に出て戦ったのはこの一度だけではありませんが、
功績を讃えられる割に、飛行歴は多いわけではありません。

彼女がその名前を航空史に残したのは、彼女が
「航空に参入した最初の女性だったから」に尽きます。
まず、彼女が飛行機の操縦を習ったというシャルル・ヴォアザンですが、
「フランスのライト兄弟」(わたしが勝手に命名)の弟(右)の方です。左は後に有名になる(美男でも有名だった)ガブリエル・ヴォアザン。



ガブリエル&シャルル・ヴォアザンが初期に挑戦したグライダー、シェンヌーグライダーが、同じスミソニアンに展示されています。
え?これどうやって操作するのって?

こんなのでよく事故を起こさなかったな。
もっとも、彼はこの状態で飛ぶことに危険を感じたからこそ、
グライダーを改造して水上飛行機を作り、航空界に名を残したのですが。
デローシュはじめ、多くの同時代の飛行家が事故で亡くなっていますが、
ガブリエル兄弟はどちらも飛行機事故には遭わず一生を終えました。

ちなみに、弟の死因は自動車事故で、その車に同乗していた
(運転していた?)人物こそ、本日主人公のエリザ・デローシュです。
別のフランス語の記述によると、デローシュはシャルルと関係があり、
彼をガブリエルと家業から引き離した彼女を生涯許さない、
とヴォアザンは自伝に書いているそうです。


■ 女優として

エリザ・デローシュは、1882年8月22日にパリで生まれました。
父親は革職人という説と、配管工という説もありますが、
いずれにしても労働者階級の出で、早くに女優の道をスタートさせています。
(当時、女優やバレリーナ、歌手は世間的に下流とみなされていた)

1903年、21歳の時にはサラ・ベルナール劇場での芝居に出演し、
そこからキャリアをそこそこ積み上げていきました。
歌手であったという話もあり、モデルもしていました。

1900年結婚して授かった娘レモンドを7ヶ月で亡くした彼女は、
それ以降、娘の名前「レモンド」を芸名に名乗るのですが、なぜか「ド・ラローシュ」とオリジナルの名前を貴族風にアレンジして、
さらに「バロンヌ(男爵夫人)」のタイトルまで自称するようになります。
フランスで貴族を名乗るのは犯罪ではなかったんでしょうか。
それとも、芸名ということでご愛嬌!みたいな感覚だったんでしょうか。
彼女はその美貌で女優になり、演劇界でそこそこ名を売りますが、
航空という新しい世界を見つけるとそこからフェイドアウトしていきます。
彼女は1903年に第二子である男児アンドレを設けました。
■ 愛人の事故死

なぜ女優の彼女が航空という、当時は特殊な世界に足を踏み入れたか。
それは、彼女の恋人、
フェルディナン・レオン・ドラグランジュ1872-1910
(Ferdinand Marie Leon Delagurange)
が飛行家だったからでした。

順序からいうと、彼女は1908年にウィルバー・ライトがパリで行った
飛行機のデモンストレーションに魅了され、航空界に近づいたところ、
ドラグランジュという版画家兼飛行家と知り合ったということになります。
それでも、当時の女性である彼女が実際に操縦するに至ったには、
何かそのきっかけとなる出来事があったはず。
わたしの勘ぐり、じゃなくて想像によると、それは「恋の力」、
あるいは「嫉妬」です。


版画家としてちょっとだけ有名だった彼は、1908年、同じ版画家の友人、
テレーズ・ペルティエ(写真右)を愛機に乗せて200m飛んだことから、
彼女が「世界で最初に飛行機で飛んだ女性」と呼ばれることになりました。

二人は友人だったということですが、テレーズはご覧の通り超美人です。
そして、その後操縦を学び「世界初の女性パイロット」になりました。
問題は?ちょうどこの時期、デローシュは夫がある身でありながら、
このドラグランジュと熱烈恋愛中で、翌年子供も生まれていることです。
(この息子は1919年スペイン風邪で亡くなった模様)

彼女は、1909年、子供(男児)を生んですぐ飛行のレッスンを開始し、
翌年「世界初の免許取得女性」の称号を獲得しました。
(ついでに彼女は愛人の子出産と同じ年に夫と離婚している)
以上の時系列を見る限り、彼女が航空免許を取ったのは、
愛人と親しい美人に対する競争心からではなかったでしょうか。
しかし、デローシュが免許を獲得しようとしていた1910年1月、
ドラグランジュはブレリオXIを転倒させ、37歳の若さで事故死しました。

飛行前と飛行後
事故がテレーズ・ペルティエの目の前で起こったこともあり、
これにショックを受けた彼女は、二度と飛行機に乗ろうとしませんでした。
この事故は、デローシュから最愛の人を奪いましたが、
同時に、ライバルを永遠に遠ざける結果になったとも言えます。
当時の航空機はコクピットもなく剥き出しで、ほとんど自転車のように
機体に腰掛けて操縦するもので、墜落したが最後、ほぼ命はありません。
ちなみに、下の2枚の絵に描かれた77名の人物は、
「1908年から1912年までに航空事故で亡くなった飛行家」です。
(21番がドラグランジュ)

わずか4年の間に、77人。
単純計算して、毎月一人か二人が飛行機事故で死んだことになります。
デローシュがこのリストに入っていないのは、ラッキーな偶然にすぎず、現に、レオン・ドラグランジュが事故死した、まさに同じ日、
飛行機免許の取得試験を受けていた彼女は、高度を上げるのに失敗し、
木に機体を激突させて墜落し、重傷を負っています。

しかし彼女は、全くそれに怯むことはありませんでした。
死んでもおかしくないくらいの重傷から回復すると、
何事もなかったかのようにまた飛行機で飛び始めています。

10歳の時から乗馬を始め、早くからスポーツとスピードを愛し、
その後テニス、ボート、スケート、サイクリングなどを嗜み、まだ珍しかったオートバイに乗り、車の運転もしていた彼女にとって
気球から入った航空もその延長だったということもできるでしょう。
バイクです

しかしおそらく彼女は自分自身の能力を過信していたのです。

当時多くの命を容易く奪っていた、まだまだ不完全な乗り物、飛行機も、
自分ならば制御できる、自分は絶対に死なない、と思っていたのでしょうか。

その点、あっさり身を引いたペルティエは実に賢明だったといえましょう。
ただ、彼女は「殉教」したデローシュのように、
死後、航空史に名前を残すことはできませんでした。

■ パイロット免許第36号



試験失敗の1ヶ月後、エジプトで開催された航空ショーで免許を取得し、
彼女は1910年3月8日にフランス・エアロクラブから
No.36のライセンスを授与され、これをもって
「世界で初めて特許を取得した女性」の称号を獲得します。
この免許で彼女は「Mmeマダム」となっていますが、前夫と離婚しており、
ドグランジュとは結婚しなかったことから、これは虚偽記載となります。
しかも本名でなく、芸名であった「ド・ラローシュ」を使用しています。
彼女は航空界でも最初からこの「芸名」で通しており、
1909年10月に行った彼女の単独飛行を報じた航空専門誌が、
デローシュを「バロネス・ド・ラローシュ」と呼び始めました。

そのほうが民衆に対しウケると考えたからで、実際にそうでした。
革命で貴族を根絶やしにしておきながら、なんなんでしょうねこれ(笑)
もちろん世間にそう錯覚させたかったのは誰かというと、
「ド・ラローシュ男爵夫人」と名乗り始めたデローシュ本人なのですが、この誤った貴族の称号は、世間の意識の中で彼女に付きまとい、
その端正な容姿と相まって、彼女の伝説を作り上げていきました。

現在のスミソニアン博物館ですら、彼女を「バロネス」と記載するほどに、
世間はその印象操作に容易く騙されていったのです。
かくしてド・ラローシュ男爵夫人はさまざまな航空ショーに参加しました。
フランス国内外に遠征し、ニコライ2世の前で「御前演技」した際には高度100メートルで複葉機のエンジンを切り、滑空着陸するという華麗な飛行を披露しています。
このとき、彼女はニコライ2世直々から「お言葉」を頂戴していますが、
皇帝に謁見を賜ることができたのも、
彼女が「男爵夫人」を称していたからに他なりません。

この時お墨付きを得た彼女は「男爵夫人」を公然と名乗るようになります。

しかし、彼女はその人生でたびたびアクシデントに見舞われており、
それが能力不足によるものではないかと見られる例も多々ありました。

例えば、晴天で微風の飛行場を飛行中、離陸して5メートルで墜落したこと。

1910年の航空ショーで墜落によって死ぬほどの重傷を負ったこと。


そして最も問題だったのは、1912年、シャルル・ヴォワザンを乗せて
自動車事故を起こしたということです。


この事故でヴォワザンは死亡し、彼女は打撲で済みましたが、彼の死を悲しむ間もなく、彼女は女性パイロットのレースに参加して
優勝するという野望のもと、4 時間に及ぶ無着陸飛行を成功させました。
■ 墜落
そして1914年、第一次世界大戦が始まりました。
彼女は陸軍省に入隊を希望しますが、キッパリと断られます。

彼女が航空界でチヤホヤされたのは、世が平時だからにすぎませんでした。

大戦中は飛行を禁じられたため、彼女は軍に所属して、戦火の中、
後方から前線まで将校を輸送する車の運転手をしていました。
2番目の夫ヴィアル
そして1915年、戦争真っ最中に結婚もしています。この相手、ジャック・ヴィアルとは2年後に離婚しました。
写真を見る限り、軍で運転手をしているときに知り合ったようですね。

1918年に戦争が終わると、彼女は早速航空界に戻りました。

1919年6月には、女性高度記録(4,800m)並びに
女性飛行距離記録(323km)を打ち立て、少し前に、
アメリカの女流飛行家ルース・ロウが立てた記録を破りましたが、
これらは当時の国際航空連盟からは無視されていました。
当時のFAIは1929年まで女性の記録を公式に認めなかったからです。
これは彼女が事故死する、わずか数週間前のことでした。


記録樹立から1ヶ月後の919年7月18日、
エリザ・デローシュはル・クルトワの飛行場にいました。

彼女は、初の女性テストパイロットになるという計画をもち、
この日は実験機に乗ることになっていました。



1919年、この頃の彼女は37歳で、大変失礼ながら、ご覧の通り、
かつて舞台で人々を魅了したスラリとした容姿は失われていましたから、
航空ショーだけでは(次々と女性パイロットが出現する中)
やっていけないと考え、軌道修正を図ったのかもしれません。

この事故のあった時の飛行についての詳細は残されていません。分かっているのは、実験機に乗ったのが男性の操縦士と、
副操縦士のデローシュだったこと、そして二人とも亡くなったことです。
このとき、操縦していたのがどちらかもわかっていないのです。
飛行機は着陸態勢に入ったところで急降下して地面に叩きつけられました。


この実験機の残された翼部分を見る限り、これは、
自分の作った飛行機が戦争に使用された事実に失望し、自殺した
サントス・デュモンの「14-bis」という飛行機に似ています。
この頃はすでにこのタイプの飛行機は時代遅れだったはずなので、
これが「実験機」だとする記述には疑問を感じますが、
機体そのものではなく、何かの装備の実験だったのかもしれません。

事故後救出されるデローシュの写真

彼女の最後の写真を見ていて、あることに気がつきました。



これは1910年に彼女が大会に出場した時の写真ですが、
このスーツ、よくよく見ると事故の時のと同じなのです。

フランス女性、特にこの頃の女性は服を頻繁に買い替えませんから、
これが同じ服である可能性は高いのですが、もしそうだとすると、
9年前の衣装を着続けていた(か取っておいたか)ということになります。
戦争の期間を通して、彼女が意に染まない仕事に甘んじ、
結婚してすぐに離婚するなど、決して安楽に生活していたわけではないこと、
結構苦労したらしいことが現れている気がします。


生前の彼女の業績を称えて、パリ・ル・ブルジェ空港には
彼女の銅像があり、また、彼女が免許を獲得した3月8日の1週間は、毎年世界航空女性週間と定められています。


最後に、パリのペール・ラシェーズ墓地(ショパンの墓もある)の
デローシュの墓をご覧ください。

墓碑には「ド・ラローシュ男爵夫人」としか刻まれていません。
つまり、彼女の本名はこの時に完全に「葬られて」いたことになります。

墓の左上には、彼女が最初の夫、ルイ・タドメとの間に設けた、
アンドレ・タドメの名前が刻まれています。



彼女の死の数年後に21歳で学生のまま亡くなった彼が、
母の横に葬られたことを表しているわけですが、なんと、この息子までが
父の名の後に「ド・ラローシュ」を名乗っています。
(しかも、母はDe Larosheなのに、息子はDe La Rosheとなっている)

ちなみにこのアンドレ・タドメの名前を検索すると、そこには

「彼はドラグランジュの息子ではありません」

と断りがあります。
こう断り書きしないと誤解する人が多いという証拠です。
世間の人々が、10歳で亡くなったドラグランジュとの間にできた息子と彼を、
最後まで混同していたらしいことがここからも読み取れます。

それにしても、なぜ彼にまで母親の芸名が冠せられているのでしょうか。


■「バロンヌ・レモンド・ド・ラローシュ」

最後まで、ド・ラローシュ男爵夫人を演じ切った彼女。

それが真実でないことを知りながらも、人々はその物語を受け入れ、
初期の航空界に勇敢にも身を投じた殉教者に敬意を表して、
この身分を彼女に冠することをよしとしているのかもしれません。


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