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鹿屋航空基地〜大鷲の系譜

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鹿屋航空基地所属、第一航空隊(鹿屋が第一なんですね)は、
海上自衛隊最初の航空部隊として1961年9月に編成されました。
2008年3月に第7航空隊と統合し再編成。

P-3Cで哨戒を行う主力部隊です。



鹿屋航空基地の広大な敷地には、史料館だけでなく
その周りに今まで自衛隊が使用してきた航空機が展示され、
ちょっとした「エアーメモリアル」となっています。

史料館の見学を終えた後、ここを一周して写真を撮りました。



R4D-6Q 多様機「まなづる」


この名前からはピンときませんが、ダグラス社の民間輸送機の傑作、
D3-C/C-47の流れをくむ航空機です。



C-47。
愛称スカイトレイン。
連合軍の欧州司令官だったアイゼンハワーは、

「C-47とジープとバズーカ砲があったから連合軍は勝てた」

と言ったそうな。
ノルマンディ上陸作戦では、兵力の輸送をし、その他にも物資輸送や
空挺作戦にも従事する活躍で、絶大な信頼性がありました。

その頃一方我が日本では。

日中戦争の拡大と、落下傘部隊の輸送のため、海軍は
本格的な輸送機を必要としたため、ダグラスDC-3に白羽の矢を立て、
三井物産経由で製造権を獲得します。

DC-3

そして1937年から昭和飛行機によってライセンス生産されていました。
その後、昭和飛行機の生産力不足を補うために中島飛行機が、
エンジンを三菱の「金星」に変えて零式輸送機(L2D2)とします。



このエンジン採用のおかげでカタログ上のスペックはC‐47を
性能において上回っていたということですが、本当でしょうか。

写真を観ていただけると分かりますが、やはり基は同じ、
みな形が同じですね。(当たり前か)
因みに、米陸軍仕様がC-47、海軍向けがR4Dという名称です。


戦後、昭和33年から34年にかけて、日本自衛隊はこの海軍型のR4D‐6を
アメリカから4機購入して輸送任務に利用していました。

そしてこの4機のうち1機をR4D-69Qとし、ECM訓練、つまり

電子戦のための訓練専用機

として使用していました。
それがここ鹿屋に保存されている機体です。

ECMとは電子支援手段
(ESM:Electronic Support Measures)
のことで、電子戦機とは
敵レーダーなどに対してジャミング(電波妨害)を行う航空機のことです。


つまり当時の最先端を行く科学兵器であったということですが、
こうしてみると今は昔、レトロな感じは否めません。



機体のレドームとアンテナカバーがおわかりでしょうか。
これは電子支援機だけに追加された装備です。

黒のカバーがミッキーマウスの鼻って感じで愛嬌があります。



まるで戦時中の戦闘機のようなこの黄色い航空機。
SNJと称する中間練習機です。
海自ではパイロットの訓練段階に応じて

初等練習機=KM-2
中等練習機=SNJ
高等練習機=T-33

という段階ごとに使用航空機を変えていたのですが、
このSNJだけが初等と高等用の機の「前輪式」に対し、
「尾輪式」であったことから、合理的ではないという理由で
1960年代にはT-1に後を譲って引退しました。

「まるで戦時中のような」と書きましたが、
このT-6テキサンは、単発低翼のレシプロ機として、
非常にオーソドックスで汎用性のある機体であることから、
ちょこちょこと改造されていろんな映画に「出演」しています。



ウィキペディアより。

映画「トラ・トラ・トラ!」
で零式艦上戦闘機に扮したT-6テキサン。

うーん・・・・これは・・・・。

(テキサンの飛行機が零戦に云々というシャレ自粛)

ご存知21型零戦なのですが、この色。
よく「飴色だった」といいますが、これは、どちらかというと灰色。
なんか、こうじゃなかったんじゃないかな、って気がします。

だいたい、飴、ってどんな飴よ。

21型の零戦の色は、いまだに確かな実証のないものらしいですね。
色の記憶、というのは年月が経つと曖昧になりますし、
なんといっても口では表しようのない事柄でもあります。

「零戦の飴色って、どんな色だったんですか」

と聞かれた元搭乗員が

「これだよ、こんな色」

とそこにあったカーテンだかクッションだかを指さした、
という話を聴いたこともありますが、
このように、白黒写真の頃の色の記憶というのは、
それを知る人の脳裏にのみ残るもので、彼らがいなくなった日には
それはいかなる方法でも再現できないものになってしまうのです。

多くの人が「零戦の飴色」にロマンを感じるのもむべなるかな。


さて、閑話休題、
T-6が演じたのは零戦が一番多いようですが、その他

「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」
→(九七式艦攻)

「遠すぎた橋」
→(P-47B)

など、各種戦闘機に扮しています。

航空機界の名エキストラといったところですね。



P2V−7「おおわし」

昭和29年、日本はそれまでの保安隊から海上自衛隊に
改変発足したわけですが、
使用する機はすべてアメリカ海軍からの「おさがり」でした。

ロートル飛行機を廃棄一掃処分市として払い下げられたわけです。


この米軍機はアベンジャーやロッキードハープーンなどでしたが
「遅れてる」感は半端なく、しかも敵国だったアメリカ仕様で
使いにくく、修理もしにくい。

保安隊からなった当時の自衛隊員は帝国軍人として
日本機を操縦したことのある者ばかりだったわけですから、
さぞいろんな意味で歯がゆい思いをしたことでしょう。

実際、当時の海自は機を飛行させるので精一杯であったということです。

1956年(昭和31年)になって、ようやく米海軍から最新鋭機であった
このP2V−7(対潜哨戒機) が2機供与されることになります。

おそらく喜び勇んで(かどうかはわかりませんがたぶん)海上自衛隊は
初めて得たこの実用的な哨戒機に「おおわし」という名前を付けます。

アメリカでの愛称「ネプチューン」をそのまま使わず「海鷲」「荒鷲」を思わせる
「おおわし」に変えたところに、当時の海自の心意気が覗えます。




只今お色直し中。

ここにある二式大艇についても
「世界的にも貴重な人類の遺産であるのに、
雨ざらしなんて酷過ぎる。せめてドームをつけろ」
という声がたくさんあるわけですが、ご存知の通り、
これは海上自衛隊の所有物でありますからして、
このようなものの保存に大金をつかうなんてことはありえないのです。

なぜなら、そんなことをしようものなら、必ずアレな人たちが
大騒ぎするからですね。

で、このように時々塗装を塗り替えてメンテナンスしているのです。
うう・・・泣ける・・・。

そしてこの機の後継機となったのが・・・



P-2J「おおわし」

これもおおわしです。
海自はこの「おおわし」と言う名称に非常なにこだわりがあったらしく、
後継機として改良したこの哨戒機にも全く同じ名前を与えました。

前回鹿屋基地について書いたときに、読者の鷲さんが
この機で訓練を受けた、というご報告を下さいましたが、
鹿屋航空基地には、当時第203教育航空隊 鹿屋教育航空群
があり、ここにこの機が配属されていたわけですね。


このP-2Jは米海軍のおさがりであった先ほどのP2V-7を改良したもので、
改良とはいえこれが記念すべき最初の国産哨戒機となったわけですが、
あらゆる点が格段に向上しており、当時米海軍で使われていた
P-3Bと比べても遜色なくほとんど性能は同じだったということです。


この飛行機の改良点というのはそれまで立って機内を歩けなかった(!)
P2V‐7の狭さを改善し、床を下げることで空間を確保し、ついでに?
冷房と冷蔵庫を備えたことでしょう。

ところでみなさん、哨戒任務って、何時間続くと思います?
一回のフライトが10時間超えるんですよ。
10時間ったら、朝の9時に始まって終了は夜7時。
お腹も空くし喉も乾きます。

おまけに海の上を哨戒しているときと言うのは高度が低いので
熱気が物凄いのだそうですね。
そんな過酷な状況において狭くて暑くて飲み食いもままならないなんて、
そんなことでは隊員の士気にも影響が出かねません。

ですから、この環境改善は実に大きな一歩であったということなのです。


そして、機内が広くなったので操縦席以外に「戦術航空士」(TACCO)が
乗り組むためのスペースができ、より任務が効率的にこなせるようになりました。

このtactical coordinator、TACCOは我が海上自衛隊のオリジナルです。
タコとかタコーと言います。(シャレ自粛)
一言で言うと
TACCOは機長も務める対潜水艦戦の指揮官です。

この「戦術航空士」ですが、基本的には航空学生から選抜され、


1、第201教育航空隊(小月航空基地)で初等操縦訓練
  単独飛行ができるようになるまでの訓練をここで行う。

2、第205教育航空隊(下総)で航空士基礎訓練を受ける

3、第203教育航空隊でP-3Cによる実機訓練を受け部隊配属となる


こういう過程を経てそう呼ばれるようになります。

この203教育航空隊ですが、今は下総にあるようですね。
P-2Jがまだ使われていた鷲さんの教育隊時代には鹿屋にあった、
ということだったのでしょうか?

いくら調べても確認できなかったのでそうじゃないかと思ったのですが。



TACCO に話を戻しますと、第203航空隊で訓練を終了すると、
修業者は金色のウイングマーク(航空徽章)を授与されます。

このシステムはこのときP-2Jのために生まれたものですが、
もちろんのこと現在もP-3Cに受け継がれています。




ちなみにこのP−2Jは1981年にP-3Cが導入され始めてから
1994年にかけて全機が退役しましたが、
生産、配備された83機全てが、一機も事故を起こすことなく、
無事にその任務を終えたそうで、これは軍用機としては
非常に珍しいことなのだそうです。




鹿屋には2機のP-2Jが野外展示されています。
これらは鷲さんがかつて訓練で乗った機かもしれませんね。


ここの売店でいくつかお土産を買いましたが、
その一つがこのTシャツ。(背中部分)




鹿屋に展示されている航空機についてもう少し続けます。












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