昔々、「海の日」で休みになることを知ったとき
「海の日って、何の日?」
「だから、海の日でしょ」
と知らない者と分かっていない者同士で
情けない会話を交わした覚えがあります。
別に知らないからといって何の不都合もなかったため、
それっきりその意味を調べることもなく何年かが経ちました。
その間、何回も7月20日はやってきましたが、
いつもその日には日本にいない、ということもあり、一度として
この日のことを調べようという気も起こさなかったのです。
そしてある日、当ブログ記事のために海軍について調べていたとき、
その流れでわたしは初めて「海の日」の何たるかを知ったのでした。
つまり、このブログをやっていなければ、
今でもこの日に関して何も知らなかったでしょう。
驚いたことは「海の日」というのが新たに設定された祭日ではなく
戦前の「海の日」を復活させたものであったことでした。
「海の日」は昭和16年(1941)近衛内閣の逓信大臣村田省蔵の提案によって
終戦までの5年間「海の記念日」とされていた祭日が元になっています。
なぜ逓信大臣が海の記念日を提案したか、ということから説明すると、
この村田省蔵は、議員になる前は大阪商船(商船三井の前身)社長であり、
近衛政権下では、日中戦争勃発に際して海運の戦時体制確立を主張し、
海運自治連盟を結成して、みずから理事長を務めた人物だったからです。
それがなぜ7月20日だったのか。
それは、明治9年(1876)6月2日、明治天皇が東北・北海道を
ご巡幸あらせられたことに端を発します。
御生涯の大半を御所で過ごされた江戸時代の天皇とは対照的に、
明治天皇は各地へ行幸されました。
明治5年から18年にかけて行われた巡行行事を六大巡幸といい、
この北陸・東海道へのご巡幸はその2番目に当たっています。
埼玉、茨城、栃木、福島、宮城、岩手、青森。
この各県をご巡幸のち、7月16日、お召し艦にご乗船され、
函館を経由して横浜にご帰着されたのでした。
そして、横浜にお召し艦が到着したのが7月20日だったというのです。
この昭和16年はそれからちょうど50年目だったということもあるでしょう。
「それはわかった。
しかし、それから50年も経った昭和の世になって、
ご巡幸のお召し艦が、横浜に着いた日をわざわざ祝日にして
国民のお祝いにするのはどういう意味か?」
この説明を読んでそう疑問を持ったあなた、そうですよね?
ご巡幸だけで6回も行われているので、
「天皇陛下が無事ご巡幸からお戻りになった日」
を記念するならそれだけで6日の祝日が必要です。
この横浜帰着の日を海の記念日にした、ということだけは
Wikipediaにも書かれているのですが、このように考えると
「なぜその日を選んだのか」
という疑問がわいてきます。
そして案の定その疑問に明確に答える資料は見つかりませんでした。
しかし、もう少し念入りに検索ワードを変えて探してみると、
まず明治神宮の機関報が引っかかってきました。
この函館から横浜までのお召し艦航行中、海上は荒天で
強風のため「明治丸」はまる3日間というもの時化に煽られ、
お迎えのため横浜港で待ち受ける人々は青くなっていたところ、
予定を大幅に遅れて帰港した「明治丸」からは
端然とした様子の明治天皇が降りて来られ、一同は
胸を撫で下ろした、ということがあったのだそうです。
それがマスコミによってセンセーショナルに報じられ、
明治天皇のご無事を寿ぎ安堵し、少なくとも昭和15年までは
忘れ得ぬ事件として民衆が認識していたということもあるでしょう。
勿論、それは民衆にアピールする理由であり、
この制定には実は政治的な意図がありました。
ここでもう一度「海の記念日」を制定した逓信大臣、
村田省蔵の経歴に目を戻してみましょう。
日中戦争に伴って、海運の戦時体制の確立を主張した人物です。
海の記念日の成立に当たっては、やはり逓信省局長の尾関將玄が
「徹底的なる戦時態勢を必要とし、なによりも国力を充実すべきである。
海の記念日はかやうに、堅実なる国力の充実をはかるための契機たらんとする」
と述べており、これが戦争の遂行上重要となってくる海上輸送において、
船員や船舶の徴用と調達を海運関係に協力要請するとともに、
その認知を国民に対して広く行おうという意図があったわけです。
このときに明治天皇のお召し艦となったのがそれまでの軍艦ではなく
初めて「明治丸」という民間船が使われたということも、
「民間船舶の戦時体制への協力」
という、この記念日のテーマにぴったりだったからともいえます。
その後、民間船が「戦時徴用船」となり、輸送船団が攻撃を受け、
敗戦時には民間の船舶はほとんど壊滅といっていいほど残らず、
徴用された民間の船舶関係者はその多くが戦死することになった、
というのは原爆投下や空襲、あるいは沖縄での犠牲と共に
非戦闘員の命が戦争で失われた悲劇として、わたしたちが
いつまでも忘れてはいけないできごとです。
それにしても、戦後の日本に吹き荒れたGHQの思想統制と
あるいは旧軍パージ を考えるとこのような経緯を持つ
「海の記念日」が戦後復活したこと自体、少々奇異なことにも思われます。
この日を祝日として復活させようと言う動きは昭和30年ごろからあり、
その推進を熱心に進めていたのがあの笹川良一氏でした。
笹川良一、というと「右翼」の一言で片付け、そこで思考停止して
この件に関しても「右翼だから」と単純に納得する人が多いかもしれませんが、
わたしはこの人物は一言では語れない清濁併せ持つ人物だと評価するゆえに、
この件にも何か表に出て来ない「理由」が・・・・・、
たとえば笹川氏が尽力した戦犯救出や戦犯裁判の処刑者の遺族会とか、
戦争に関係した「誰か」との約束とか・・・、
笹川氏が「墓場まで持っていった秘密」にその真の理由があるのではないか、
と若干「判官贔屓」のような気持ちから空想しています。
笹川氏がどのような力を行使したのかはもう知る術はありませんが、
ともあれ1995年(平成18年)の7月20日から、
「海の日」は施行されることになりました。
その初施行を二日後に控えた7月18日、笹川氏は95歳でこの世を去りました。
戦時体制推進に発祥の由来を持ち、しかも世間的には
「右翼の大物」が推進して決めた「海の日」。
こんにち広く説明されている「海の日」の意義とは
「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願い、
海の環境や資源について考えたり、海に親しむ契機にする」
というものですが、それはさておきこの由来に異を唱える人はやはりいて、
今回これを書くために目を通した情報の中には、
「海の日そのものは歓迎だが、戦前の祝日だったのが気に食わない」
として、案の定これを制定した戦前の日本(軍部じゃありませんよみなさん)
に始まって笹川良一の非難からこの件も「黒」とする意見がありました。
あの「赤旗」に至っては明治天皇のご巡幸に対しても
「明治新政府の地租金納制や徴兵制にたいする不満が強かった
東北の民衆の感情を抑えるためだった 」
などと否定的なニュアンスだったりします。
いや・・・・これ、おかしくないですか?
ご巡幸はさっきも書いたように6回行われているんですが?
だいたい民衆の不満をなだめるためだったとして
そのためわざわざ天皇陛下がご行幸されることの、どこがいかんのかね?
ちなみに共産党ですが、「海の日」が7月20日だった頃は
上記の理由によりこの祝日に反対していたのだそうです。
しかし、2003年になって「ハッピーマンデー法」が施行され
(なんちゅう法案名だ)20日ではなく7月の第3月曜日、となり、
「 従来からの党の主張に合致するうえ、連休・3連休の増加は
労働者にとって強い要求であること、
レジャー等の関連団体の合意も得られていることなどの理由で」
反対するのをやめたということです。
労働者のための制定なら由来は見逃す、ってことですか。
それをいうなら明治天皇のご巡行も、
庶民のために行われたんじゃないのかなあ。
さて、取ってつけたように冒頭画像の説明ですが、
これはご巡幸のときにお召し艦となった「明治丸」。
この「明治丸」は灯台巡視船として日本政府がイギリスに発注したものです。
当時の新鋭艦で優れた性能を持っていたため、
お召し艦になりご行幸に採用されました。
写真は、1910年、台風一過のあと岸に打ち上げられた明治丸ですが、
この後補修をし、関東大震災(1923年)や東京大空襲(1945年)において
多くの罹災者を収容するなどの活躍をし、現在は国立海洋大学が保存しています。
それだけに留まらず、この明治丸は歴史的に大変貴重な役割を担った船なのです。
現在の日本の海域(FEZ)はこの明治丸が決めたということをご存知ですか?
明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、
日本政府の調査団を乗せ英国船より早く小笠原諸島に達し
調査を開始したことにより、小笠原諸島領有の基礎を固める役割を果たし、
小笠原諸島はわが国の領土となりました。
明治丸の活躍がその後、日本が世界第6位の排他的経済水域
(EEZ)を持つ海洋大国となる礎となったのです。
(海洋大学HPより)
なお、海洋大学では明治丸の修復費用を
「明治丸海自ミューゼアム事業募金」
として募っていますが、まだ基金が目標に達していないとのこと。
一度はお召し艦にもなり、明治からの歴史を見つめてきた船、
ぜひ未来にこの貴重な遺産を保存していただきたいと思います。
さて「海の日」制定施行を二日後に亡くなった笹川良一氏の話を最後に。
左翼は7月20日が「海の日」施行であることに反対していましたが、
その後、休日法の改正で第3月曜日に変わったことで納得し、
今では反対の立場を取っていない、という話をしました。
この改正法によって毎年「海の日」は日付が変わることになりましたが、
何年に1回かは、笹川氏の命日である18日になるのです。
理由は分からないものの笹川氏に取って悲願ともいうべきこの祝日施行でしたが、
こればかりはご本人も全く考えも付かなかった「ご褒美」かもしれません。
そして「明治丸」ですが、もし笹川氏が生きて権勢を振るっていれば
何らかの方法で、保存のための出資に乗り出してくれたにちがいないと、
—あの二式大艇のときにそうしたように—わたしは考えています。