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映画「不沈艦撃沈」〜開戦

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映画「不沈艦撃沈」、最終回です。

実は前エントリの最後、実写映像の空母の写真を撮りそこなったため、
それをアップしていないのですが、それは
この時期に生き残っていた空母のどれかだったのだろうか、
と本文中書きました。

状況証拠からの推測ですね。

ところが、頂いたコメントによりますと、
このときの写真には少なくとも翔鶴か瑞鶴が映っていたようです。

何がいいたいかと言いますとね。

海軍はこのときすでに沈没してしまっていた艦の
実写映像をしれっと映画会社に供出してたってことなんですよ。
写真を撮り損なった空母もすでに現存していなかった可能性高し。



さて。


「沈黙の海軍が沈黙を破ったらお目にかかろう」

中学時代の恩師に弱腰の海軍の姿勢をなじられ、
唇を噛み締めた軍令部の栗山大佐。

艦制本部の藤原少佐から攻撃隊の殉職者を出すほどに
激しい訓練の結果

「プリンスオブウェールズに飛びかかる自信がついた」

と聞き、うなずきます。

 

残念ながら画像が粗くて肝心の内容が読めません(笑)
が、この艦政本部からの通達でわかったことがあります。

昭和精機は「二本木」に工場があるということ。
つまり、新潟県上越市です。

「海軍は腰抜けか」

と言うためにわざわざ上越新幹線もない時代、
東京までやって来る大川父って、どんだけー。



さすがは新潟県、あたり一面の雪です。
季節は12月。
そう、1942年12月8日です。

「場見さん」ら工場の勤労者が駅で帰宅のため汽車を待っていると、
突然え汽車のスピーカーが臨時ニュースを告げます。



「大本営陸海軍発表。
12月8日午前6時発表。
帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋に於いて
アメリカイギリス軍と戦闘状態に入れり」



静まり返る人々。

「やったな」
「・・・・やったね」

場見さんが唇を噛み締めてつぶやき、
相方の工員Dがささやくように応じます。



「勝つわね」「勝つよ」
「負けられん」

お互いに確認するかのように皆が声を掛け合い・・、



その緊張を破って場見さんと相方が大声で

「ばんざーい!」

皆もそれに唱和するのでした。



駅に向かう途中で放送を聞いていた組も万歳です。

そして、全員が「こうしちゃいられない!」と
踵を返し、工場に戻り出しました。



雪道を皆で走っています。
彼らが乗って帰宅するはずだった汽車が、
誰も乗せることなく駅を通過していきました。


負けられぬ戦争を自分たちも戦おうと
一致団結して全員で夜業をしようとしているのです。
何かしたい、自分に出来ることを。

そう思ったとき、彼らは自分たちの戦いが工場での勤労
そのものだと初めて気づいたのでした。

雪の中を転がるようにして走り工場に戻る皆に、
工場長は涙を拭いながら敬礼し

「ありがとう!ありがとう!」

と叫びます。



皆が真剣な表情で働いているバックには、大本営発表の
真珠湾攻撃における戦果が発表されます。

「一、戦艦2隻撃沈、戦艦4隻大破、
大型巡洋艦約4隻大破、異常確実。
他に敵飛行機多数を撃墜撃破せり。
我が飛行機の損害は軽微なり」



「二、我が潜水艦はホノルル沖にて航空母艦1隻を撃沈せるもの如きも
未だ確実ならず。

「三、本8日早朝、グアム島付近において軍艦を撃沈せり。
四、本日敵国商船を捕獲せるもの数隻。
五、本日全作戦において我が艦艇に損害無し」




この映画はほとんどインターネットでも資料が見つからず、
しかもようやく一つ見つけた感想においてはそれが

「一体何を意味していたのだろうか」

というものでした。

今日の感覚で判ずればおそらく「何を意味するのか分からない」
というレベルでの感想に終始してしまうのも「分からないでもない」
のですが、当ブログ運営者のように恒常的に寝ても覚めても「戦争」
関係の資料を見漁っているがごとき人間が見ると、
この映画の意図は手に取るようにわかりやすいものです。

このシーンのバックには、行進曲「軍艦」が流されます。
そう、つまりこれが彼ら労働者の「戦闘」なのだ、と
改めて啓蒙し、その姿を讃えているわけです。



駅から工場に向かう工員達の群れに逆行して、汽車に乗り、
東京の栗山大佐邸をまた再び訪ねる大川父。

栗山大佐が数日来帰って来ないと聞くと、
奥さんに手をついて平謝り。

「奥さん、大川大輔は老いぼれておりました!
世界一の海軍を見損なってあんな・・。
まさに万死に値する罪じゃ!
どうかこの歳に免じて許して下さい!」

これだけ言いに上越新幹線もないのに東京までやってくるなんて
どんだけー。

まあ、いいんですけどね。

この激しい爺さんが、この後日本がジリ貧になって、
ミッドウェーでは大敗し、聯合艦隊が壊滅したときには
やはり新潟からわざわざ東京まで文句を言いにやってきたのか。
そして日本が負けたときに、果たして栗山大佐にどういう態度を取ったのか。

それを考えただけで身の毛がよだちますね(笑)



そしてその栗山大佐のいる軍令部。
軍令部総長に戦果報告です。
軍令部総長ってことは永野修身ってことですね。
この永野を演じている井上正夫という俳優なんですが、ご存知でした?

わたしは今日の今まで全く聞いたこともなかったのですが、
この人物は松山の産んだ偉人で、映画界に取っては

「活動写真を映画にまで高めた功労者」

として、俳優として、そして監督として、ついでに書家としても
大変功績を残した人物であるらしいことが分かりました。
つまり大御所というやつです。



三船敏郎や大河内伝次郎などがそうですが、大御所というのはただ黙って
そこにいるだけでOK、みたいな尊大かつ省エネな演技をするものです。
わたしはこの井上正夫が大御所だとは夢にも知らなかったので(笑)
出て来るなり仏頂面で椅子に座り込み、ふんぞり返って
マレー沖海戦での戦果報告を聞き、立ち上がって一言

「参内」

というだけの簡単なお仕事をしているこの老人俳優は
もしかしたらエキストラかもしれないと思っていたくらいです。
後で確かめたら、クレジットの一番最初に名前がありました。


写真はまたもや鳴り渡る「軍艦」をバックに廊下を歩く永野修身。

そしてマレー沖海戦の戦果がまたもラジオに乗って報告され、
それをバックに工員達が働くシーンがまたもや。

全く同じ趣向ですが、まあいいでしょう。



放送を聞き、喜び合う病院の大川と医師。



増産に反対して事故を懸念していた大川、
そのしつこいほどの反対があったからこそ、
事故の損害は軽微で10割増産のめどがついたことを
報告しにきた宮原はあらためて仲直りを。



ついでに大川の妹が宮原とのことをからかわれて

「やだわ兄さんたら」

それしかいうことがないのか。

このとき、大川と宮原は

「僕たちは日本人だ。
それがこれほどまでに凄まじい働きをするとは思わなかった。
こんな奇跡をらくらくと産むんだな」

「もし我々の作っている魚雷が本当に敵艦にぶつかっているのだとしたら、
20割だって不可能ではない気がしてきましたよ」

 などとその感激を口々に語ります。

この映画が作られた19年4月にも、同じ感激を持って
彼らが仕事に当たっていられたかどうかは、
後世の我々がなにより良く知っているわけですが・・。



そんな工場に栗山大佐が自らやってきました。
皆の作った魚雷が不沈戦艦と言われたプリンスオブウェールズ、
そしてレパルスを撃破した、と熱く語ります。

大佐の皆に対する口調はあくまでも丁寧で真摯です。

「皆さんが、皆さんがその手でお作りになったX62だったのであります!
良く作って下さいました!」



互いに顔を見合わせる工員達。


そして、この数ヶ月、海軍が皆に増産を強要したことを
改めて謝罪する栗山大佐。

「海軍に腹を立てたこともございましょう」

そう言われてうつむく人間の中には、いつの間にか
東京から帰ってきた大川の父もいます。

演説に熱が入った栗山は壇上を離れ、ステージを右に左に行き来します。
この演説シーンはなんとラストまで丸々8分続くのです。




工場にだけ無理を強いたわけではなく、海軍もその訓練で
幾人もの尊い犠牲を出したことなどを語りつつ、
皆の精神力と奇跡の生産を誉め称えますが、その一方

「これでやっと同じ地点に立てたに過ぎないから、
これからは今まで以上に努力をお願いしたい」

ということも(こちらが本音)ちゃんと伝えております。

「前線の者は爆弾を込めるとき、その爆弾をなでたりさすったり、
頬ずりまでして当たってくれよと生きているものに言うように
送り出すのです。

将兵の手を離れた瞬間、魚雷はあなた方なのです。

あなた方が敵艦にぶつかっていくのです。
あなた方がプリンスオブウェールズを撃沈したのです!」



大佐の熱弁にすすり泣きが工員達の間から漏れます。
皆が泣いている中、一人

「すんません!」

と謝っている場見さん(笑)
そしていつもこういうときに音頭をとる場見さんが
手を挙げて「やります!」と叫ぶと、何人もがそれに調和し、
大佐は感激の面持ちでありがとうを繰り返すのでした。



そして「かしこき当たり」からのお褒めの言葉を
軍令部総長から皆に伝えるように言われたとし、
最後に日の丸に皆で礼をして映画は終わります。




基本的な疑問ですが、海軍省がこの時期、
わざわざ開戦時の昔語りを映画にした目的はなんでしょうか。

最初に書いたように、このころは飛行機が不足し、
空母は失われ、海軍乙事件で海軍の重要人物が戦死し、
明らかに日本軍は手詰まりというかジリ貧状態でしたが、
最後まで負けるなどと夢にも思っていなかった、という日本人が殆どでした。

そもそも「この戦争は負ける」などというのは
口に出すことも憚られていたわけですから、ごくごく一部の、
インテリだけがそういう認識でいたにすぎません。


しかし、 何としてでも戦意を高揚せねば、人々は肌で感じる戦況から
雪崩を打つようにやる気がなくなっていきかねず、
実際にも全ての娯楽が禁じられたことで、ただ事ではない、
というのは全ての国民の感じるところではあったのです。

そこで、海軍としては大戦果をおさめ、
軍事的には大成功であった真珠湾攻撃とマレー沖海戦のとき、
一億国民がどのように歓喜し奮い立ち、 やる気に燃えたかをリフレインし、
初心に帰ってネジを巻きなおしましょう、という政策意図でこのような
「銃後の人々の覚悟」を説く映画を作らせたのではないでしょうか。 


あまりにも説教臭いとさすがの戦時下の国民にもそっぽを向かれるので、
名匠マキノ監督に、マキノらしい諧謔をふんだんにちりばめさせ、
エンターテインメントとしても鑑賞に堪えうるものを作ろう、
とした、という意図までがはっきりと見て取れます。

意図が意図だけにその諧謔部分が若干浮いている、
という感もなきにしもあらずですが、とにかく娯楽作品としても
抵抗なく観られるものに仕上がっているのはさすがに
マキノ監督のプロ意識を感じる部分だと思います。



ところで、最後に涙の大演説を熱演した小澤栄太郎。
これこそ名優小澤栄太郎の本領発揮、と言いたいところですが、
小澤は実はもともとプロレタリア運動の活動家で


「左翼劇場」

への入団後、この映画の撮影の12年前には、

治安維持法違反で

当局に検挙され、1年3ヶ月入獄していた過去があるのでした。

うーん・・・・小澤、どんな気持ちでこれを演じていたのか。
プロに徹底してこの瞬間海軍軍人になりきっていたのか。

もし、内心バカバカしいと思いながら演じていたのだとしたら、
逆にその演技力は別の意味ですごいものだと感心せずにはいられません。

というくらい、この演説は真に迫っています。


もしかしたら、海軍省後援の映画に出演したら兵役が免除されるかと
期待して、心ならずもこの役を引き受け、後はプロとして完璧に演技した。

・・・・・のではなかったかと考えることは穿っているでしょうか。

どちらにしてもこの翌年の昭和19年、小澤栄太郎は応召され、戦地に赴き、
昭和20年の秋に、おそらく外地から復員しています。


俳優小澤栄太郎の戦後の思想活動について述べる資料はありませんでした。
しかし、多くの映画人のように、生きて帰ってきた小澤が、その後
バリバリの左派になっていたとしてもわたしはまったく驚きません(笑)



「糸冬」




 


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