1942年2月19日、それは真珠湾攻撃の報を受け、暗然として
我が身の行く末を案じていた日系人たちに取って悪夢の始まりとなりました。
フランク・デラノ・ルーズベルト大統領が、
「軍事活動に重要とみなされる地域からいかなる人物でも追放できる権限」
を軍に与える大統領発令9066号に署名したのです。
日系人の追放が始まりました。
前エントリ最後にも書いたように、政府の報告書では、日系人たちは
「開戦したとしても危険性はなく、とくに2世は合衆国への忠誠を誓っている」
とされていたはずなのですが・・。
これはアメリカ陸軍省と西海岸の政治家たちからの圧力があったためでした。
報告書にもあった日系人の忠誠心はここではなかったものにされ、
彼らは一様にその危険性だけを強調し、
「この地域からすべての日系人を排除することが軍事上必要である」
として、大統領発令の1ヶ月後には追放が始まりました。
今まで住んでいた土地を追われ、彼らは収容所に送り込まれました。
日本国籍のままの1世はもちろん、2世も、まだ子供である3世も、
日本人の血が流れる者は、アメリカ国民であろうがなかろうが、
全てがその対象となったのです。
まるで家畜のように貨物列車に乗せられ、彼らは収容所に収監されました。
アメリカ政府は「アメリカ国民」である日系人についても、
後ろめたさからか「非外国人」(NON-ALIEN)という言葉で欺瞞したのです。
" all persons of Japanese ancestry, both alien and no alien, will be evacurated"
日本人を祖先に持つ、全ての者は、外国人、被外国人を問わず、
ここにはそのように書かれています。
これを見ると、どうしてもドイツに置けるユダヤ人の強制収容所を思い出します。
最近は「ホロコーストはなかった」という説を信じる人たちもいて、
つまりナチスもユダヤ人を絶滅させようとしたのではなく、
アメリカにおける日系人のように、人種政策によって「追放」が
法律的に決まったため、一所に集めていたのだけど、衛生状態が悪くて
結果的に伝染病のため大量死させてしまった、というのがその弁明です。
つまり、迫害はしたが、絶滅計画はしたことがない、と。
ナチ「ガス室はなかった」
日系人の強制収容は戦後アメリカ政府によって謝罪と人権の復活があり、
今日そのことを問題視し騒ぐ日系人はいません。
なぜ同じような目的の収容所であったのに、片や大虐殺となり、
片や誰も死なない平和な監禁のように認識されているのか。
それはなんと言っても、それが敗戦国で行われたことか、
戦勝国でのできごとだったか、に尽きると思います。
わたしはガス室の有無についてはあまり関心がありませんが、
日系人たちとユダヤ人、どちらもが国家によって弾圧を受けていながら、
戦後それを行った政府への評価が全く逆のようになっているのには、
そこはかとない薄気味悪さのようなものを感じずにはいられません。
そして慰安婦問題や南京など、「無かったことをまるであったかのように」
国を挙げて非難するうちに、既成事実化しようとする動きが現実にある以上、
これもまた「勝者による情報コントロール」の一環だったのではないか、
ナチスが絶対悪だとする戦後の「常識」というのは、神の視点で見ると
決して公平ではないのではないだろうか、と今では疑っています。
彼らのまず収容されたのは「集合センター」と名付けられた、
バラックで出来た掘建て小屋です。
その後、人里離れた場所にある常設強制収容所に移されました。
緑が収容所、黄色は陸軍、オレンジは司法局の場所です。
収容所は全部で10カ所。
収容人数は12万人にも上りました。
わたしに説明をしてくれたボランティアの男性の両親は、
どちらも収容所に収監されているときにそこで出会ったのだ、
と言いました。
典型的な収容所の水道。
人々はここで洗濯をし、顔を洗い、野菜を洗いました。
ワイオミングにあったハートマウンテン・リロケーションセンター。
広大な土地にバラックが建ち並んでいます。
ヘイワードで収監を待つ祖父とその孫。
連邦政府は彼らに対し忠誠登録を行いました。
収監がいつまでも続かないであろうことを見越して、
このような資格によって解放するという動きを見せたのです。
しかしこれはかえって日系人たちの間に齟齬を生むことになりました。
自身のアイデンティティとアメリカへの忠誠を、
これによって疑われたと感じた日系人が多かったということです。
収容所の中で、彼らは生活の改善のための作業が許されていました。
このあたりは、ユダヤ人の強制収容所にはなかったことかもしれません。
しかし、収容所は常にこのような見張り塔の上から銃を持った
陸軍兵によって見張られていました。
脱走を企てない限り生命の危険がなく、生活にも楽しみがあったとはいえ、
日本人の血が流れているというだけで自由を奪われていることに
彼らが苦しまないわけがありませんでした。
収容所の中ではあらゆる職業の者がいましたから、家具を作ることも
難なくやってのけました。
女性が作ったブローチなどのアクセサリー。
「手慰みというか時間つぶし(kil the time)の意味が大きいですね」
ボランティアはそのように言いました。
全部で10カ所の収容所の名前とトランクが
キルト作品になっています。
マンザナ、ツールレイクなどは皆さんもお聴きになったことがあるでしょうか。
トパーズの収容所は、ここを舞台にした映画が撮られています。
「AMERICAN PASTIME」(邦題:俺たちの星条旗)
という映画で、日本からは中村雅俊とジュディオングが出演。
(この邦題は、中村雅俊のかつてのヒットドラマ
『俺たちの旅』から来ているのかも)
この映画についてはまた別の日にお話ししようと思います。
ポストン戦争強制収容センターはアリゾナ州ユマにあった収容所。
ここには、彫刻家のイサム・ノグチが収監されていたそうです。
ノグチは母親がアメリカ人でロスアンジェルス生まれでした。
地面に掘りごたつのように掘られた居住スペース?
アリゾナ州フェニックスにあったヒラリバー収容センター。
わたしが話をしたことのある映画俳優のパット・モリタは
ここに収監されていたそうです。
アメリカという国の嫌らしいところは、人道的に決して虐待していない、
これは戦争しているから仕方なくやっているけれども、連邦政府は
決して日系人たちを根本から否定するものではない、ということを
こういう形でわざわざアピールすることでしょう。
大統領夫人のエレノア・ルーズベルトがなんと慰問に来て下さってます〜!
黒人ばかりの飛行隊「レッドテイルズ」にもここぞと現れたり、
まあ、大統領夫人による内柔政策、というやつですね。
でも、なぜ日系人がここにいるかというと、お宅の旦那がサインしたからですけど。
わかってるのかなこのおばちゃんは。
さて、皆さん。
わたしは個人的に大変盛り上がってしまったのですが、この収容所では
なんとモデルシップの制作を請け負っていたという事実があります。
しかも、玩具なんかじゃないんですよ?
依頼していたのは他でもない米海軍だったというのです。
「軍艦識別プログラム」のために必要であった
モデルシップを、ここでは海軍のために作っていたというのです。
今のモデルでも面倒くさがりのわたしには展開図を見ただけでお手上げですが、
当時のモデルは今よりずっと制作に手間がかかりそうです。
しかし、その手間のかかる作業を、日本人ならではの器用さで
緻密にやってのける能力が買われたものと思われます。
というわけで、詳しい方にお聴きしますが、この日系人が作っているのは
いったいどこのフネですか?
驚いたことに、海軍からは青色設計図をそのまま渡され、
それを元に模型を作っていたようです。
敵国民であると認識していたら、まずこれはないような気がします。
因みに、日系人は有名な442部隊で9,486名が戦死し、
どのアメリカ人部隊よりも勇敢に戦った英雄となり、賞賛されました。
そして、戦争中、日系人によるスパイ行為や破壊活動は
ただの一件も報告されていません。
仕事か、時間つぶしか。
見事な彫刻を木に施す一世。
ビクターの「ヒズ・マスターズ・ボイス」の犬のよう。
飼い主はこれからヒラリバーの収容所に送られます。
最後のお別れに、愛犬の手を握る飼い主、ヘンリー・イシノ。
映画「アメリカン・パスタイム」でも、中村雅俊とジュディオングの
二人の息子のうち一人が、442部隊に志願します。
写真のタカハシ家は、息子のチェットが陸軍に出征するため、
最後に記念写真を撮りました。
母親は目を伏せています。
マーガレット・フロスト先生は、ツールレイクとミネドカの収容所で
子供たちに勉強を教えていました。
シアトルにある小学校では、日系の子供たちが去った後、
下のように殆どの机が空いてしまいました。
収容所に日系人を乗せたバスが到着しました。
この中の一人がこのときのことを書き遺しています。
「シアトルタイムズのカメラマンがわたしたちに言った。
『笑って!』
言われるがままに笑ったら、写真にはこんなキャプションが付けられていた。
『東京に帰ったときのために笑う練習』」
有名なマンザナー強制収容所。
強制収容の最も非人間的だったこととして、彼らがその財産資産を
全て没収され、それが国に奪われたことがあります。
マンザナーでは1942年12月6日に暴動も起きました。
そのときに歩哨が銃撃した犠牲者の二人の慰霊塔が写真左下に見えます。
マンザナーはシエラネバダ山脈を望む地にあり、
非常に冬の寒さが過酷であったとされます。
マンザナーにはドイツ人も収監されていました。
テキサスにあったクリスタルシティ。
なぜポパイかというと、ここの農園ではほうれん草を作っていたからです。
ホウレンソウの生産量は全米一の地帯でした。
ここではスポーツも盛んで、ドイツ人チームとの間に
対抗試合が行われていたそうです。
誰が描いたか、ポップなクリスタルシティの地図。
カメレオンや亀が可愛い。
ジャーマンセクションというのは、ドイツ人のインタニーの居住区です。
右下には「ホスピタル」という部分も見えますが、
ここではなんと日独混合医療チームが治療に当たっていました。
なんだかすごく信頼の置けそうな病院ですよね。
ツールレイクでの男性収監者の扱い。
「監禁の際にはまるで動物のように扱われた」
と書いてあります。
IDの写真が若いときのままの老女。
移送されてきた日系人たちが収容所の門をくぐるところ。
忠誠登録をするためにはたとえば
「アメリカ軍に参加するか」
「天皇への忠誠を破棄するか」
このような質問に答えなくてはいけませんでした。
その二つに「NO」「NO」と答えた日系人は「ノーノーボーイ」と呼ばれ、
アメリカ政府に不忠誠と見なされて、監視度の高いツールレイクに
移送されることになったのでした。
ノーノーボーイたちはアメリカ国籍を破棄し、
戦後、荒廃した日本に送り返されるという目に遭います。
写真の4人は、アメリカ政府によって出された「排除法」に
訴訟を起こし、最高裁まで争った「抵抗者」です。
ヒラバヤシ、ヤスイ、コレマツの3人はこのときの判決により
「政府の命令に従わなかった」として有罪になり、
女性のエンドウの訴訟は、最高裁の判事によって
「いかなる政府も国家に忠実な無実の市民を拘束する権利はない」
という判決が出され彼女は釈放されたのですが、
同時に判決はアメリカ政府が違法であるとはしませんでした。
このときの判事が、司法の中立と国家からの圧力の狭間で
出来るだけどちらにも忠実であろうとした結果だと思われます。
サンフランシスコピア37から船に乗って日本に向かう日系人たち。
しかし、彼らのほとんどは戦後アメリカ国籍に再び戻りました。
荒廃した戦後の日本には彼らの居場所はすでになかったともいえます。
収容所の中の「最右翼」であったWRAの居住所。
アメリカ政府に不忠誠を表明し、日本へのみ忠誠を誓い、
朝の5時に日本の軍歌を歌ったりして、収監者には嫌われていたようです。
彼らをモデルにしたらしい一派が、
映画「アメリカンパスタイム」に登場します。
収監者を紊乱せしめたという理由で、「どこか」に送られたという設定でした。
実際はそういう「危険人物」は、監視の厳しい
ツールレイクに送られたそうです。
日系人で初めて閣僚まで上り詰めたノーマン・ミネタ。
彼の名を冠した空港がこの近くにはあります。
ミネタは1988年に日系人の強制収容に対する、アメリカ合衆国政府による
公式の謝罪及び賠償を規定した
Civil Liberties Act(市民の自由法 )
の成立の立役者となりました。
法案が成立し、1988年、当時の大統領ロナルド・レーガンが、
サインをしているのを見守る日系議員たち。
その法案は強制収容された日系アメリカ人に謝罪するもので、
現存者に限って1人当たり2万ドルの損害賠償を行い、
また、強制収容についての教育をアメリカ国内の学校で行うために、
総額12億5千万ドルの教育基金が設立されました。
レーガンの左側にいるのがミネタ、後ろに立っているのが
やはり日系議員のボブ・マツイです。
続く。