呉の海上自衛隊総監部に表敬訪問に行った日、
帰りの新幹線待ちの時間を利用して、大和ミュージアムに行きました。
前にも一度見学し、その様子をここでもお話ししましたが、
あれから2年くらい経っているわけですし、その間、
こちらの知識もちょっとはレベルアップしている(はずな)ので、
今の視点で見ると、また違った発見があるに違いありません。
駅前に荷物を預け、タクシーでわずか5分。
近すぎて運転手さんには悪いかな、と思いましたが、
大和ミュージアムまで乗る人はたくさんいるのだそうです。
呉という街は大和ミュージアム以前はとくに観光施設もなく、
昔から「海軍の街」であったため、その名残を求めて立ち寄る人が
いる程度でしたが、ミュージアムが出来てから、
これが思いもよらぬ「観光資源」となり、人が集まって来るようになりました。
呉の人々に取っては「大和ミュージアムさまさま」というわけです。
わたしは、呉駅の発射合図に「宇宙戦艦ヤマト」のメロディが使われているのに
帰りのホームで気づき、この駅への大和の「貢献度」を改めて知りました。
さて。
今回、大和ミュージアムの前に降り立ち、わたしは人知れず快哉を叫びました。
「進水式展」
特別展示として、このような企画が行われているではありませんか。
常設展展示は写真撮影禁止ですが、この特別展は写真可です。
しかしこの、写真の許可不許可というのは何処で決まるのでしょうね。
特別展の中にも「これは撮らないで下さい」というものがありましたし、
流れているビデオも撮影不可でした。
展示は、まず「進水式は何か」の説明から入ります。
しかし、「進水式とは何か」の前に(笑)進水式が
船の完成仮定のどこに入って来るものか、という説明があります。
現地でじっくり見ている時間はなかったので、
わたしも帰ってきてから初めてこの言葉の定義について知ったのですが、
進水式とは、
船の命名を行い、船が海上に浮かぶかどうかの実験と、
誕生を祝う式典を兼ねたもの
です。
すごく基本的なことなんですが、進水式のときに全ての船はそれまでの
陸上から、初めて海の上に浮かべられることになるわけですから、
もしかしたら浮かないかもしれない、という可能性もあるわけです。
それにしても、あったんでしょうか。進水式での沈没。
まさかそんなことが、と思ったんですが、あったんですね〜。
3年前の2011年、中国の黄河で、豪華客船「酒鋼号」進水式のこと、
群衆が見守る中、突如船尾から沈んでいき、船首を30度立ち上げて
綺麗に「タイタニック式沈没」をしてしまったということが。
当局の説明によると「操作ミス」だったというのですが、
後から説明するように、進水第から滑り落とすだけの操作の
一体何をミスしたら船尾から沈んでいくというのか・・。
中国4千年の謎です。
まあこれは特殊な例だと思うのですが(思いたい)、
沈没まで行かずとも、進水台から滑り落ちる際、台が破損して
その木片が飛んできたり、といった事故は結構あるようです。
さて、そう言った話は後回しにして、呉大和ミュージアムの
特別展、「進水式とは」のコーナーに戻りましょう。
呉海軍工廠では、1897年(明治30)年、通報艦(というのがあったのですね)
『宮古』の進水式が最初に行われて以来、終戦の8月20日までの間に
未製艦6隻を含めて139隻の船が進水式を行いました。
その中の一つ、戦艦「陸奥」の設計から竣工までの過程です。
お恥ずかしいことにわたしはこれを見て初めて知ったのですが、
進水式というのは偽装前に行うものだったのですね。
言われてみれば当たり前なのですが、艦橋やら煙突やらが
設置された状態で、進水台を滑り落とすというのは無理です(笑)
あくまでも進水式は船が浮かぶかどうかの実験であって、
もしそこで何かあったら上に色々乗っける前に対処しなくてはいけません。
というわけで、おつぎは進水の方法です。
「陸奥」は後ろから滑り降りていったようですが、進水式、
で映像を探すと、横向きに落ちるタイプもあります。
後ろ向きに落ちていく方法が最もポピュラーで、これを
船台進水
といいます。
傾斜を付けた台の上で建造をしておいて、滑り落とすというわけ。
支台の中央には盤木という支えがあるのですが、進水式直前に
これは全ての支柱とともに取り外されて、
「トリガー」
という金属の滑り止めで船体を一時的に留めておくのです。
進水式で
「支鋼切断」
がされると、船が滑り落ちる仕組みです。
支鋼切断については説明をまた後に譲るとして、
呉海軍工廠で行われた船台進水の二例をご紹介しましょう。
いずれも明治時代に行われた進水式で
戦艦「安芸」ならびに戦艦「摂津」のものです。
この他、呂号潜水艦などもやはり同じように船台進水を行ったようです。
もう一つの方法は
横向進水
というもの。
船が海水面に対して並行に置かれ、横滑りして進水します。
これを行うと、水面に落ちた後もあまり船が動かないので、
場所があまりない、たとえば河川添いの造船所で行われます。
呉海軍工廠では横向進水も行われたようです。
水雷艇「雲雀」。これも明治年間の進水です。
日本ではあまりありませんが、海外では横向きがスタンダードです。
アメリカのウィスコンシン州で行われた進水式の様子で、横向きです。
木片がカメラマンに向かって飛んで来る怖いビデオですが良かったらどうぞ。
この人、無事だったんでしょうか・・・。
進水の方法にはもう一つのやり方があります。
船渠進水
といって、船を滑り落とさず、ドックに海水を注入すると言うやり方。
これだと事故は起こりませんね。
巨大な空母や戦艦大和などはこの方法で行われました。
航空母艦「赤城」、同じく「蒼龍」。
この他戦艦「扶桑」、水上機母艦「千歳」もこの方法です。
「ふゆづき」の進水式を見た方が、進水台から滑り落ちるときの、
まるで雷鳴のような轟音を聞いて驚き感動した、と言っていましたが、
注入式ではこのようなスペクタクルは望めないので、
いまひとつ観ている方は感動に欠けるかもしれません。
さて、それでは、進水式の標準的な式次第を説明するために、
当館では1952年に呉で進水式を行った
タンカー船「ペトロ・クレ」
(クレって呉のクレ?)の進水までの様子が写真で挙げられていました。
ペトロ・クレが建造されたのは、戦艦「大和」と同じドックです。
それくらい大きなタンカーであったということで、
当時世界最大のタンカーの就航に世の中は湧きました。
命名式で名前を述べているのは、昭和天皇の第4女、
池田厚子さんです。
支鋼切断も池田厚子さんが行いました。
このときの進水式には大変多くの人が集まり、
船の安全航行を願いました。
この展示では、ここで進水式を行った船にまつわる資料の、
貴重な現物が惜しげもなく公開されていました。
また折りに触れて他の展示をご紹介していきたいと思います。
続く。