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海軍兵学校同期会@江田島~呉海軍墓地「無名兵士の墓」

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ここ呉海軍墓地にあるほとんどの慰霊碑は、
戦後になって生存者や遺族が建立したものです。

戦後建てられた最も古い碑は、写真に撮ることはできませんでしたが、
昭和22年、戦後すぐ建てられた「大東亜戦争戦没者之碑」です。

各碑石の建立年月日を調べたところ、これを最後に昭和20年、30年には
唯一つの碑さえも建てられた様子はありません。

生存者も遺族も、戦後の自分たちの生活で手一杯で、
慰霊を形にする余裕が生まれたのが高度成長期後半の
昭和40年代頃であったということなのだろうと思われます。

ちなみに、「大東亜戦争戦没者之碑」以降、一番古い慰霊碑は

「伊363潜殉職者之碑」(昭和41年10月29日)
「駆逐艦島風戦没者之碑」(昭和41年11月11日)

そして先日写真をアップした

「軍艦信濃戦没者之墓」(昭和41年11月29日)

となります。

手前の「軍艦天龍遭難死者記念碑」は、戦前に建立された
11基の追悼碑のひとつで、明治31年となっています。
「天龍」は大東亜戦争に参戦し戦没しているのですが、この碑は
1897年(明治30年)11月26日 台湾方面警備に従事中に発生した
船艙火災による殉職者の慰霊のため建てられました。

つまり建立したのはまだ健在だった「天龍」の乗員だったということになります。

対してむこうに見える「軍艦鹿島有終之碑」は、建立が平成9年です。
練習巡洋艦「鹿島」は第4艦隊の旗艦を務め大戦中はずっと就役していながら
戦後まで無傷で生き残った運の強い艦でした。
「有終之碑」という碑銘はそのことを表わしています。

手前にあるのが「第531海軍航空隊慰霊碑」。



「隊歴」はこの碑に併設されたものです。
天山部隊であったこの航空隊が全機を失った後、
マーシャル諸島で飢餓に耐えながら終戦を迎えた様子が書かれています。



「秋月」「涼月」「磯風」「谷風」「雪風」「嵐」「舞風」・・。

駆逐艦の名が「阿賀野」を囲む策に記されています。
おそらく見えていない石柱の向こう側には

「輝月」「初月」「天津風」「時津風」などがあるのでしょう。



ソロモン諸島ショートランド島の生存者・遺族によって建てられた
「ショートランド島戦没者慰霊碑」。

日本軍は開戦と同時にここに泊地を創成し、
ガダルカナルの戦いに於いては駆逐艦のほとんどが
ここから出撃していきました。



呉鎮守府13防空隊、そして呉6特南海砲台員の慰霊のために
昭和46年に建立されました。



一番右は駆逐艦「陽炎」の碑。
駆逐艦は全部碑があるわけではありません。
「陽炎」は真珠湾攻撃のためにヒトカップ湾を出航していますし、
その後ラバウル、ミッドウェー、キスカ、ガダルカナルと
武運強く戦いましたが、ブインからの輸送任務の際、
米軍の機雷に触雷して沈没しました。

一番むこうにある緑の石碑は明治年間の建立で

「軍艦広丙(こうへい)遭難哀悼碑」。

黄海開戦の際、清国から接収した防護巡洋艦「広丙」は、
戦利品として日本海軍の艦籍に入りましたが、
わずか9ヶ月後、台湾沖で任務中座礁して沈没してしまいました。

イギリスから開戦当日接収されて「勝鬨丸」になったものの、
日本のものになるのを拒むように不具合を起こし続け、
ついには米軍の魚雷1発であっさり沈んだ「ハリソン号」みたいですね。 

彼女はどうしても敵国のものになりたくなかったのでしょう。 

 

前まで行けず柵ごしに撮った

「第参号輸送艦戦没者慰霊之碑」

輸送艦の碑はこれともう一つ、

「第113号輸送艦慰霊碑」

というのが2基あります。
第3号輸送艦の同型艦は全部で22隻、
113号は「103号型」といい未完成の ものを含め176隻ありました。
3号輸送艦はミンダナオで座礁しているときに、米潜水艦に発見され
魚雷を受けて戦没しています。


 
駆逐艦綾波戦没者之碑。

「綾波」は吹雪型駆逐艦の11番艦。
第3次ソロモン海戦の夜戦において、ちょっとした手違いで(笑)
たった一隻で米艦隊に突入していった「綾波」は、
砲撃をことごとく敵艦に命中させ、米艦隊に大打撃を与えました。
自らもこのとき沈没したのですが、大戦果に高揚していた乗員たちは
海に漂いながらも軍歌を歌い続けていたそうです。

そんな生存者ですから、おそらく「綾波」の乗員であったことを
全員が何よりも誇りにしていたのだと思われます。 
碑石の揮毫は源田実に頼んでいることからも(源田実、達筆!)
それが窺える気がしますし、碑石を取り囲む小さな石碑には
かつての「綾波」の行動記録が逐一記されています。

例の「サボー沖海戦」は一番右に。
(敵艦船撃沈については一切述べられていない)
輸送船団の護衛で33名を救助したことや、パレンバン(落下傘部隊の輸送?)
にも参加していたことなど、wikiには載っていないこともここに書かれています。

 

少し奥まったところに、

「上海 満州事変戦没者之碑」

があります。
この碑は昭和8年に建立されたもので、昭和6年の満州事変、
翌7年の第一次上海事変 のあと、武力衝突で戦死した海軍将兵の
霊を慰めるために建てられたものです。

この後上海事変は、以前感想を書いた映画「上海陸戦隊」 でも
えがかれていたように、昭和10年から12年にかけて
中国による海軍軍人殺害事件が続けて三件起こり、
中国政府軍による攻撃によって、ついには第二次上海事変が起こります。


この慰霊碑は、第二次上海事変の前に建立されたことになりますが、
第二次事変の戦没者もここに顕彰されているのかもしれません。 



戦前に建てられた碑はたった11で、戦後の碑の数は
今やこれを大きく上回るようになったのですが、
戦後に決して増えないのが、個人の墓碑です。

古くは明治23年のものから、最後に葬られたのは
昭和20年8月までで、全部で158基あります。
このうち1基が、先日もお話しした英国水兵ジョージ・ティビンスのものです。

英国水兵の墓

時間がなくてこんな角度からしか撮れませんでした。



大東亜戦争中はそれこそ多くの海軍将兵たちが亡くなったのでしょうに、
なぜここに157基しかないのか、逆にここに葬られるのには
どんな理由があったのか知りたいところです。

潜水艇の事故で亡くなった佐久間艦長はこの場所で荼毘に付され、
このどこかに葬られているのだそうですが、そういった
有名な軍人でない、若い水兵や兵曹などの墓も多いのです。



たとえばこの手前の墓石。
明治33年と言うと義和団の乱のあった年ですが、
3月に戦闘は行われていません。
機関兵曹の死因はなんだったのでしょうか。

あと一つ注目していただきたいのが向こうの墓石の主、

「海軍一等船匠手」

船匠手というのは海軍の階級ですが、「船匠」だと船大工です。
明治時代に存在した船のメンテナンスを請け負う部署でしょうか。
この船匠手の死亡年月日に「帰天」と書かれていますが、これは
彼がカトリック教徒であったことを意味します。

十字架を掲げた英国水兵の墓があるように、この墓地には
宗教による分け隔てはないということがわかります。 




わずか22歳で亡くなった4等機関兵の墓。



この3基の墓は、いずれも海軍機関兵曹のものです。
故人は三人とも30過ぎのベテランで、全員が叙勲されています。
やはり軍人として自らの命を惜しまず任務に殉じた、といった
理由が在る者だけがここに埋葬されているのかもしれません。


軍艦や事変、部隊の慰霊碑とは違い、個人の墓には、
海軍墓地だけでなく先祖代々の墓にも葬られていたり、
縁故が死に絶えて遺族ですら訪れなくなってしまったため、
だれも訪れなくなってしまったものもあるのではと、
そのひっそりとした佇まいからそんな気がしました。

ですから、若くして戦死した無名兵士の墓石の前に
花が一輪手向けられているのを見て、ほっと安心させられたのです。

続く。


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