海軍兵学校某期同期会、最後に江田島で行われた「解散式」に
参加し、元海軍兵学校生徒たちと共に、海上自衛隊の計らいによる
「特別見学」を果たしたエリス中尉です。
何回訪れても一般コースでは決して見せてもらえない建物、
入れない庁舎の中、そして近づきたくとも叶わない場所・・。
特に一般人には子息が幹部候補生学校を卒業して遠洋航海に出るのを
見送るときぐらいしか近づくことの出来ない(ですよね?)
表桟橋の一帯が見学できると知ったとき、わたしはどれだけ興奮したか。
大講堂の見学が終わり、講堂前に横付けされていたバスに乗り込むと
グラウンドに沿った道を回って表桟橋に送り届けてくれました。
A地点が大講堂、バスの進行は「→」で示しました。
バスの窓から見逃すまいとカメラを構えて観ていると、
「B」地点で先ほど遠くから撮った錨の横を通り過ぎました。
モードを間違えてこんな写真しか撮れませんでしたが、これは
護衛艦「いそなみ」(昭和33年竣工、昭和62年除籍)
の首錨だったようです。
「いそなみ」は「あやなみ」型護衛艦の2番艦として
昭和30年度計画で新三菱神戸造船所で建造され、横須賀地方隊に所属、
呉に転籍となってからは練習艦としてTV−3502の艦番号を負っていました。
退役した艦の主錨をこうやって江田島に持って来るというのは
時々あることのようで、今回検索の段階で、道路に面した裏門を
入ったところに、2011年に除籍になった
護衛艦「ひえい」DDH-142
の錨が1年くらい前に設置されていたことを知りました。
前回お話しした「父子桜」もそうですが、 江田島も歴史を重ね、
時を重ねつつ少しずついろんな海自の名残が増えて行くのです。
さらに、グラウンド「C」地点にさしかかったときに
船舶のマストがあるのに気がつきました。
防衛省のHPにはこういう細かい展示まで紹介されていないため、
何のフネのものか知るのは難しいと思われましたが、
意外なサイトでその正体がわかってしまいました。
それを説明する前に結論から言うと、これは
防護巡洋艦「明石」 (1899~1930)
のマストです。
「明石」は日本海大戦にも参加したことのある艦で、 最後は
急降下爆撃の(ってことは艦爆ですね)実艦標的となって沈没しました。
廃艦するときに艦というものは可能なものはリサイクルするのですが、
そのときについでに取り外したマストを破棄せずに展示しているのです。
廃墟マニア(気味)のわたしが横を通り過ぎるときに
思わずごくりとつばを飲み込んだ物件。
陸奥の砲塔の並びにあります。
今使われていないのは建物の周りを立ち入り禁止にしていて
中に全く気配がないことからそのように判断したのですが。
これ・・・、凄いですね。
建築様式から見てまず間違いなく戦前のものだと思うのですが、
中は今どうなっているのでしょうか。
このどんよりとした古い建物、夜にはまず近づきたくないですね。
しかもこの写真を仔細に眺めると、
階段の吹き抜けらしい部分に不思議な光が見えてるし・・・。
火災警報機とか防犯ランプかな。
しかしそもそも電気がまだ通じてるんでしょうかこの建物。
というのは実は単なる伏線としてのお話。(だったのよ)
先ほどの「明石」のマストの話に戻りますが、何処を検索しても
なかなか出て来なかったこのマストの正体、
「第1術科学校・幹部候補生学校(海軍兵学校跡地)の七不思議」
というタイトルの記事に引っかかってきたんですね。
こういう歴史的な場所にはありがちなオカルティックな噂で、
グラウンド南方、生徒隊隊舎前の「明石」のマスト上部の見張り台で
手旗を振っている人影を見ると、半年以内に命を落とす。
とか、
夜になると骸骨のような白い人間が手旗を振っている
とかいう話でした。
細部が違うのは口伝えられているうちに変質したのかもしれませんが、
いずれにしても「手旗」というキーワードは共通です。
戦没したわけではないので因縁があるのはおかしい、
という説もありますが、「明石」は日露戦争同じ年の1904年呉、
旅順港で触雷し大破した艦歴を持ちます。
ところでこの、
「日本海海戦に参加して無事だったのに旅順近郊で沈没」
というパターンに何か凄くデジャブを感じると思ったら、
「高砂の松、吉野の桜」
でお話しした巡洋艦「高砂」「吉野」の運命と酷似しているんですね。
ことに「高砂」とは同じ巡洋艦で同じ海戦に参加してその年の同じ12月、
同じ場所で触雷するという全く同じパターン。
「明石」が両艦のように顕彰されなかったのは大破したものの
沈没しなかったからでした。
話がそれましたが、「明石」も触雷で大破した際、犠牲者が
当然ながらあった筈で(航海中でしたから)、何が言いたいかと言うと
そのときに亡くなった明石の乗員の幽霊が手旗を振ってもおかしくない、
とまあ、こう思うわけです。
幽霊が実在することが前提っていうのもどうよって話もありますが。
さて、マイクロバスは表桟橋のある埠頭に到着しました。
何気なく立っているこの埠頭もすべて、昔のままの地面。
昔何かが据え付けてあったらしい土台の跡が手前にあります。
写真で検索していると、ここには割と最近まで
『何かがあった』ようなのですが、何かはわかりません。
向こうに見えているのは92式4連装魚雷発射管です。
終戦間際、「雑木林」と言われた「植物シリーズ」、
橘型の駆逐艦「梨」に搭載されていたものです。
「梨」と言えば当ブログでは「駆逐艦『梨』物語」というタイトルで
エントリに書いた話ですが、燃料がなくてやはり雑木林の「萩」と一緒に
山口の海岸に停泊していたところ、目の前に米軍の水上艇が着水して
グラマンの乗員を悠々と救出していくのを指をくわえて見ているしかなかった、
という屈辱的な出来事の僅か数週間後、
まさにその水上艇の情報を受けた米軍機に、訓練中撃沈されてしまいました。
説明板には
「この魚雷発射管から発射される魚雷は、
日本海軍が精魂を傾けて製作した93式魚雷であり、その射程、
雷速及び破壊力ともに世界に卓越したものであった」
と書かれています。
戦後史観に「配慮」した腰の引けた態度には厳しいエリス中尉ですが、
だからといってこの説明には(´・ω・`)な顔になってしまいます。
確かに間違ってはいません。
93式魚雷の破壊力は、たとえばミッドウェーで伊号19が発射した
一度に発射した魚雷が、「ワスプ」「ノースカロライナ」「オブライエン」
に命中し撃破撃沈せしめたという史実にも窺えるように、強力なものでした。
ただ、「梨」に搭載されていた92式発射管の説明なのに、そこで
93式魚雷の自慢?をされてもねー、と思ってしまったのはわたしだけ?
そもそも「梨」は着工から就役までわずか4ヶ月、配備されてから
沈没するまでもわずか4ヶ月。
しかもその間、カタリナ飛行機が目の前に降りてきても
見ているしかなかったくらいで、つまり実戦はおろか訓練でも
この魚雷発射管が実際に93式魚雷を撃ったことは殆どなかったのではないか、
というのがわたしの想像です。
「梨」の装備なんだからもう少し「梨」について書こうよ。
そう思って次にわたしはこんなことに思い当たりました。
沈没していた「梨」を戦後にわざわざ引き上げ、 自衛隊は
それを「わかば」と名付けて護衛艦として使用しました。
つまりこれらの装備は、海から引き上げた「梨」をもう一度
使えるように改造し兵装もしなおしたときに外したものです。
「梨」の死者は38名、行方不明者12名以上。(正確な数はわかっていない)
この数字は何を意味するかと言うと、1954年、なんと沈没から9年後、
引き揚げられた艦体からは、38名分のご遺体が発見されたということでしょう。
「海軍の血統を引く存在である」ということを証明する為、海自は
引き揚げた旧軍艦をわざわざ修復してまで使ったのだといわれますが、
そのために乗員の亡骸と一緒に海底に9年間も眠っていた艦を
わざわざ現代に蘇らせてしまったのです。
もしかして結果論だけども、そのことを海上自衛隊は後悔し、
その存在そのものが「負の歴史」となってしまったのではないか。
とふと考えました。
「梨」の装備は全て交換されましたから、ここには
高角砲も展示されています。
海自が「わかば」を負の歴史としているのではないか、というのは
勿論、史実から受ける印象から導き出された想像に過ぎません。
ただ、実際「わかば」では、
船中作業服を着た兵士、あるいは制服を着た士官が、
「苦しい、苦しい・・・」といって艦の通路を歩いていた。
こんな話がまことしやかに今でも言い伝えられていて、
海上自衛官であれば誰でも知っているのだそうです。
(関係者の皆様、知っておられました?)
高角砲を反対側から見ると、内部が見えるように
立て割りの状態になっていました。
1971年に退役した「わかば」は呉の鉄会社に払い下げられ、
解体されてその生涯を終えました。
兵装部分は9年間海水に浸かっていた上、ここに展示されて
さらに40年が経過し、老朽化が激しくなったため、平成25年に
「大和ミュージアム」にある10分の1スケールの「大和」を製作した
呉市の山本造船株式会社が請け負って修理改修がなされたということです。
そのときに劣化の激しい部分は取り替え、中を公開したわけです。
砲弾を装填する筒の部分はそのままです。
ちなみに、話が出たのでついでに捕捉しておきますと、
「兵学校の七不思議」は、先ほどの「明石」の手旗信号の他には、
1、幹部候補生学校自習室(赤レンガの建物・旧兵学校生徒館)廊下
03:00頃、帝国海軍の煙管服を着た人影が多数走り回る。
日清・日露の戦役で使用した艦艇の甲板材を床材として使用している。
2、学生隊隊舎(旧兵学校第2生徒館)
自習室の2階東側の廊下をカッターが走る。
3、グラウンド~教育参考館間の通路(屋外)
02:00頃、50人規模の行進の足音が聞こえる。
4、教育参考館
脱靴・脱帽せずに足を踏み入れると、後日、
階段からの転落事故を起こす。
などというものだそうです。
えー、ちょっと突っ込んでもいいですかね。
1、煙管服っていうのはフネの缶焚きが掃除のときに来たもので、
当時の服なのにフードがついているものです。
いくら甲板の材料を床材に使っていても、兵学校の校舎を
缶焚き下士官兵が走り回ることはないような気が・・・。
2、すぐ傍に海があるのだからカッター漕ぐならそこでやれ。
3、これはわからないでもない。
4、教育参考館に入ったときには自衛官が脱帽を促しましたが、
靴は脱がされたことがありません。
昔の映画、「ハワイ・マレー沖海戦」等を見ると、兵学校生徒は
必ず靴を脱いで階段を上がって行っていますから、
昔は(おそらく大理石の石段に赤い絨毯が敷かれる前)
靴を脱ぐことになっていたのだと思われますが、これによると
我々は全員階段からの転落には気をつけないといけないようです>.<
ただし「わかば」には出没したといわれる「梨」乗員の霊は、
その「住処」であった艦体が無くなってからは成仏したらしく
高射砲や魚雷発射管のある江田島には出ない模様です。
・・・・え?
「七不思議というならあと2つあるじゃないか」って?
それはまたのお楽しみ。
続く。