皆様。
あけましておめでとうございます。
これまでのご愛読ならびにご指導ご鞭撻に心から感謝するとともに、
今年も精進して参る所存ですので何卒よろしく御願いいたします。
昨年、護衛艦「いせ」に慰霊祭のため乗艦させていただきました。
海上自衛隊がフィリピンのレイテに海外派遣されたニュースを受け
「戦艦『伊勢』の物語 」というエントリを書いたところで、
その「伊勢」の慰霊祭に参加させていただけるなんて、
不思議なご縁と言わずしてなんというのでしょうか。
お誘いくださった方には衷心より感謝する次第です。
その時のご報告はそのうちさせていただく予定ですが、
元旦なので「いせ」の艦内神社の話を少々。
昔の戦争映画を見ると、「赤城」から出撃する艦載機の搭乗員などが
出撃前に頭を下げて神棚に祈りを捧げるシーンが必ずあります。
軍艦の中に鎮座する「艦の守護神」である艦内神社です。
日本人のこういう信仰のあり方について全く理解していなかった
映画「パールハーバー」では、乗員たちが仏壇とも神棚ともつかない
御神体のようなものを船室に飾り、それに酒ビンだの経典だの、
数珠やローソクなどを備えている無茶苦茶なシーンがありましたが、
どうもマイケル・ベイ始めあの映画のアメリカ人スタッフたちは、
自分たちの武運長久を祈願するための「お守りグッズ」として
あの「マイ神棚」を各自が持ち込んでいると思っているようでした。
艦内神社というのが「艦の神様の居所」であり、それとて
個人の利益繁栄をお願いするためにあるものではない、という
日本人であれば生まれながらの血で理解できるこの一事が、
どうやら彼らには全く理解できなかったやに思われます。
さて、大東亜戦争期の日本の軍艦のうち、戦艦、空母、重巡、
軽巡洋艦は、地名由来の艦名が付けられています。
「比叡」「榛名」「日向」「長門」「陸奥」「霧島」。
「大和」「武蔵」そして「伊勢」ももちろんその法則に則ったものです。
それらの艦に備えられた艦内神社は、艦名にゆかりのある地域の神社から
御祭神が分霊されており、地元の氏神様がそうであるように、
その地域ならぬ「艦」の守り神となっていたのです。
「伊勢」の艦内神社は言わずと知れた三重県伊勢市の「皇太神宮」から
分霊されたものでした。
実はこの日の「いせ」には、この
「帝国海軍と艦内神社」
の著者である久野潤氏が乗艦しておられまして、
生まれて初めて作家の名前入り贈呈本をいただいたこともあり、
呉に行く飛行機の中で読破してから臨んだだわけですが(; ̄ー ̄A
この「帝国海軍と艦内神社」は、著者が日本中の関係神社を
くまなく訪問し、神職や旧軍人への綿密な取材を経て書き上げた、
今までない新しい視点(帝国海軍と神々との関係)からの海軍史で、
皆様には是非一読をお勧めしたい良著だと思うわけです。
同著の中から「伊勢」について書かれた部分によると、
伊勢の神社(全125社)における中心とも言えるいわゆる「内宮」は
「伊勢」以外にもあらゆる軍艦に別大麻(お札のようなもの?)を
奉賛(授与)し、伊勢湾に軍艦が投錨した際には旭日旗を奉じ、
艦長以下陸戦隊の服装で特別参拝が許可された。
ということです。
さらに、神宮と「伊勢」との絆は、大正9年、伊勢神宮の別大麻を戴き、
館内に伊勢神社が「分祀」されるに及んで一層緊密なものになり、
乗員は暇あるごとに朝夕参拝するのが慣例となっていきました。
さらに同著からです。
「伊勢」の乗組員は毎朝参拝して1日の作業を遂行することを誓い、
また競技や戦技そして重大な作業や戦いに臨むときにも
必ず参拝し、成功や必勝を祈願したという。
「いせ」の艦内神社。
現代の護衛艦にも変わらずゆかりの神社から頂いた
「別大麻」によって分祀された艦内神社があるのです。
観艦式で「ひゅうが」に乗艦した時に、
「ひゅうが」艦内の神社に目が留まりました。
もし、この現代の護衛艦にも帝国海軍の「日向」と同じ
御祭神が祀られているのであれば、「ひゅうが」には
宮崎県都農神社か宮崎神宮の御神礼があったはずです。
「ここにご挨拶することはあるんですか」
近くに警衛のために立っていたセーラー服の海士に
写真を撮ってから尋ねたところ、彼はとんでもない、
というように笑って
「ありません」
と即答しました。
まるでこんなものは単なる飾りか、そういうことになっているので
一応作ってあるだけで全く意味はない、とでも言いたげで、
わたしは微かながら残念な気分を味わったものです。
護衛艦や海上自衛隊とのあいだには、帝国海軍の時代から
「船と神々との関係」がいまだに連綿と受け継がれているのですが、
失礼ながら彼らのような立場ではそれを知る機会すらないのでしょう。
艦内神社が政教分離の憲法違反であるという観点から、
「神社からもらってきた札などを艦内に『祭る』のは問題なのでは」
などというモノ知らずの学者(一般常識の点でも)が新聞で騒ぎ、
「戦前の帝国海軍で普通にお祀りしていた艦内神社は実は
よくないことで、海上自衛隊はそんなことしません」
と防衛省に言い訳させるような社会風潮、それを後押しするメディアが
存在するということである。(帝国海軍と艦内神社)
のが現状であれば、海士くんのこの態度も当然といえます。
「いせ」の舷門、護衛艦の玄関に当たるところには、
このような立派な艦名が書かれた木の看板があります。
「これを触るといいことがあるそうですよ」
とその時に聞きましたが、わたしは遠慮してしまいました。
この揮毫は伊勢神宮大宮司によるもので、使われている板は、
遷宮の際に取り払われる社殿の木材が使用されています。
今回「いせ」に乗ることを前もって内情に詳しい方に報告していたところ、
その方からこの揮毫の件で「いせ」と大宮司との仲を取り持ったのは、
ある一人の元女性自衛官であることを教えていただきました。
比留間峰子・元1等海佐がその人です。
比留間元1佐は、学習院大学卒業後30期一般幹部候補生となり、
心理適性幹部、情報幹部として活躍しました。
大学時代文学部心理学科で学んだ経験を情報分析や教育関係の職務に生かし、
阪神基地隊の副司令を務めたあとは舞鶴教育隊の司令にも就いていたそうで、
仕事、結婚、子育てを全うして定年まで勤め上げたパーフェクトな女性。
「海自きっての秀才」と言われていたという話もあります。
彼女が結婚した 2期先輩の海上自衛官(防大21期)比留間宏明さんが、
渋谷にある金王八幡宮の長男であったため、退官後二人そろって
國學院大學の専攻科に進み神職の資格 を取りました。
海上自衛隊退職後は、金王八幡宮の権禰宜(ごんねぎ)として、
宮司のご主人、ご子息、そして国学院大学神道学専攻科を
ご一緒に終了されたオーストリア人の4名でお務めをしておられます。
彼女は神道学習院出身ということもあり「ハイソな方々にお顔が広く」、
皇族や元華族等々ともお友だちつきあいがある方だそうですが、
また伊勢の大宮司とも懇意にしていたことから、この縁がつながり、
揮毫を依頼するということになったのだとか。
金王八幡宮は渋谷駅近く、
そういえば「金王神社前」というバス停もありましたね。
「いせ」のご縁に結ばれたことでもありますし、
是非新年のお詣りをさせていただこうかと思っています。