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天空に投錨せよ~アメリカ海軍航空隊事始め・後半

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アメリカ海軍航空隊事始めシリーズ、続きです。




イーリー(右)と、「カーティス学校」の同門である

陸軍パイロットのジョン・ウォーカー・jr.

(左)に囲まれた

”スパッズ”・セオドア・ゴードン・エリソン中尉。


洋の東西を問わず海軍の軍服というのはかっこいいですね。
このころの海軍の制服については調べていないのですが、
エリソンはまだ海軍兵学校の生徒であるような気もします。

エリソンの名前にある「スパッズ」というのはAKA、つまり通称で、
彼が赤毛であったことから付いたあだ名だったのだそうです。
「エリス中尉」と似ていてわたしとしては親近感がわくのですが、
 それはともかく、彼はこの写真でもわかるように、
パイロットとして海軍を代表する立場にいました。

のちに彼に与えられた称号は

「海軍パイロット第一号」。

彼はアメリカのみならず、世界の海軍にとって、
大きな功績の数々を残しています。
その一つが、カタパルト発進の開発をし実施に成功したことです。



また、パイロットにとって適正な服装や装備も、
自身の経験をもとにエリソンが提案して、開発が進められました。

民間のパイロットではなくエリソンが海軍軍人であったことから
これらの開発も「話が早かった」ということだったのでしょう。 




これが、スパッズ・エリソンの初めての飛行の時の勇姿。
にこやかに笑いつつ操縦席に座る彼は実に楽しそうです。

カーティス・プッシャーの「グラスカッター」での初飛行ですが、
このときのエリソン中尉の技術は、はっきりいってまだまだだったので、
実際は低空をほんの少しの間滑空したに過ぎないということですし、
この後、エリソンの機は風で流されて左側に落ちたそうです。
幸い怪我はありませんでした。

低かろうが短かろうが、これが海軍軍人が空を飛んだ初めての瞬間だったので
「海軍第一号」の称号が彼に与えられたというわけです。




エリソンはアナポリスの1904年卒で、一年先輩には
あのチェスター・ニミッツがいます。
海軍兵学校の「コレス」は33期で、この期生には豊田副武がいます。

ちなみにわたしが先日海軍兵学校の同期会で知り合った方は
この期にご尊父がおられました。
たまたま夏に花火大会でお会いし、こちらでも会食をした
Mという輸入食糧品会社の社長をなさっている方も
たまたまその同じ期生で、仲が良かったそうです。

話をしてみてあまりにも色々とつながっているので
そのご縁の不思議さに驚いた出来事でした。


ところで、チェスター・ニミッツは若い頃はハンサムで通っていましたが、
写真に観るエリソン中尉もなかなかの好男子です。

卒業後、艦隊乗り組みを経てから、海軍から選抜されてカーティスの元に
「飛行研修生」として派遣され、「海軍で最初に飛行機に乗った人物」として、
彼はわずかの研修の後に、海軍の航空部門の先頭に立って、後進の指導、
そしてアナポリスでの航空科の設立に携わります。



エリソンは訓練の段階で水上機の操縦も習ったため、
艦艇からの史上初の発進も行っていますが、 
彼はまた水上機でアナポリスからバージニア州までの 
最長距離無着陸記録も作りました。

そして卒業後は潜水艦に乗りんでいた経験から、 対潜水艦部門でも
駆潜艇隊のための戦術を考案し、その功績により海軍十字章を受章しています。


アナポリスの多くの卒業生の中からたった一人白羽の矢を立てられただけあって、
エリソンは真に優秀な人物であったようです。

しかし実のところ彼の起用には、前述のイーリーの着艦が無関係ではありません。

つまりイーリーの結果を受けて、海軍は初めて「空に錨を下す」ことを決意し、
本格的に海軍航空隊運用にむけて「舵を切った」といえるからです。 


第一次世界大戦前後のエリソンは、駆逐艦艦長や艦隊司令として、
どちらかというと「艦隊勤務」ばかりが続いたせいか、
現役の海軍パイロットとして任務に就くことはなかったようです。

彼は、艦隊勤務の合間に5年ほど航空基地司令を務め、
メキシコ海軍で航空隊設立に携わったのち、空母「レキシントン」の
艤装艦長などを経てその後また航空隊司令となりました。


つまり彼がパイロットであったのは若い時のごく一時だけで、
だからこそ、航空ショーで毎日のように飛行機に乗っていたイーリーや
前述のビーチェイより「長生きした」のだと言えます。


しかし不思議なことに、彼はやはり空で死ぬ運命から逃れられませんでした。


1925年2月27日、この日は彼の43歳の誕生日でした。

当時大佐になっていたエリソンは、司令を務めていた基地で、
娘が重い病気にかかったという妻からの報を受けます。
海軍軍人の常で、彼は家族をアナポリスに置いて単身赴任だったのです。

一刻でも早く娘の元に駆けつけてやりたいという気持ちからでしょう、
エリソンはローニング-OL7型機を、しかも夜間に出し、
自ら操縦して娘の元に向かいました。

それっきり彼の乗った機はそのまま消息を絶ち、
アナポリスに着くことはありませんでした。

エリソンの乗機行方不明になって一ヶ月以上経った4月になって、
チェサピーク湾の岸に打ち寄せられている彼の遺体が発見されました。

皮肉な偶然とでもいうのか、彼が見つかったのは、
かつて偉大な先輩飛行士、ユージン・イーリーが「バーミンガム」から
人類最初の航空機による離艦を行った場所でした。

つまり、彼が航空の世界に入るきっかけとなったできごとが起こった、
その同じ海岸で彼の身体は発見されたのです。


彼は航空隊司令の現職のまま事故死扱いとなり、特進はなかったようですが、
その後、1941年に就航した

USS「エリソン」DD454

にその名が残されました。

「エリソン」は日本とも縁があり、戦後自衛隊に貸与され、
あさかぜ型護衛艦「あさかぜ」として就役したという経歴を持ちます。

そしてその後、台湾海軍に譲渡され、最終的には
戦争映画のロケに使われて沈められその生涯を終えました。

合掌。


ところで「エリソン」就航の際、その進水式でシャンパンを割ったのは、
エリソン少佐の一人娘であるゴードン・エリソン嬢でした。

ということは、あの日重病だった少女は、その後回復したのです。
父親が自分の命と引き換えに、娘を救ったのかもしれません。



海軍軍人だったエリソンは、在任中に海軍十字賞を受けていますが、
これは先ほども書いたように航空に対してのものでなく、
駆潜艇の基地にいたとき、数々の戦術を考案したことに対しての賞でした。

彼がパイロットとして初めて受けた賞は、1962年になって
航空の発展に寄与した人物に与えられる「グレイ・イーグル・アワード」で、
これは「海軍パイロット第一号」というタイトルに対して授与されています。



海軍軍人はなかったたため、死後も海軍から公式な顕彰は行われなかった
ユージーン・バートン・イーリーですが、1933年、
時の大統領ハーバート・フーバーは、

「彼の挑戦はその後の航空界の発展にとって大きな意味があった」

とし、
フライング・クロス勲章を授与して彼のの功績とその犠牲を称えました。

彼が事故死してから実に22年後の叙勲でした。

 




 


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