「江田島の七不思議」のうちの5不思議までを説明したので、
今日はもう一つの不思議、「陸奥砲塔の幽霊」についてです。
ところで、実はその後、わたしたちはこのツァー中知り合った
(というかわたしにお声をかけてくださった) 元生徒の何人かと
日を改めてこちらでお会いする機会に恵まれました。
そのお一人に伺ったところによると、兵学校の卒業生、特にこの学年は
途中で終戦となって僅かの間しか在校しなかったにもかかわらず、
齢八十を超えてもな元気なうちは結構な頻度で集まっているそうです。
そして、
「ヨイヨイになって現れたら元気なものまで意気消沈するから、
そうなった者は速やかに会を辞退すること」
という申し合わせをしていると笑っておられました。
そのとき印象的だったのが、その方はかつての級友のことをいまだに
「隣の分隊だった男で」
などという枕詞をつけて説明していたことで、つまり
お互い、元兵学校学生のままで60年間つきあってきたということなのです。
ちなみにこの方、Sさんは、戦後、旧制高校から入り直して東大に進みましたが、
どうやら東大の同級生とは、このような付き合いはしておられない様子。
兵学校の出身者は、他では決して得られない強い連帯感を
「同期の桜」に対して一生持ち続けるのではないかと思われました。
ところで、
「兵学校の出身者は戦後無試験で旧帝大に入れた」
という噂も世間にはあるようですが、これは大きな間違いです。
なぜなら、GHQの「旧軍パージ」の一環として、旧軍人はことごとく
公職追放に遭いましたし、旧帝大、特に東大には一定の割合以上旧軍関係者を
(10%と言われている)入学させない、という措置が取られました。
今現在東大が
「卒業式に君が代・日の丸を留学生に配慮して廃止する」
などというとんでもない大学になってしまったのも、こういう措置とともに
公職追放になった大学総長や教授の席に空席に入り込んできた連中の殆どが、
戦前は「取締の対象」であった「共産主義者」であったからです。
なかでも総長南原繁は、当時の吉田首相の単独講和論に対し「全面講和論」、
要するに対米講和だけでなく、支那やソ連、果ては朝鮮とも
講和条約を結ぶことを主張していた、筋金入りのの共産主義者でありました。
戦前にはコミンテルンのスパイであったともされています。
(蛇足ですが、ハルノートを作成したのはハル長官ではなく、
ハリー・ホワイトという共産党エリートであり、ソ連のスパイで、
日米間に戦争を起こそうしたのはコミンテルンの謀略でもあった、
とされる証拠となっています)
南原の次の東大総長の矢内原忠雄は共産主義者ではなかったようですが、
皇室廃止論者でもありました。
そんな学長をいただいた戦後の東大が、たとえ卒業していないとしても、
一旦兵学校に籍を置いたことのある若者を無試験で入れるわけがありません。
S氏は、しかも父親が海軍中将。
アニメーション「火垂るの墓」では、海軍軍人の息子、清太が
戦争で両親を失い辛酸を舐める、というストーリーで、当ブログでも一度
「火垂るの墓と海軍」
という一項を設けてその関係性を考察してみたことがありますが、
このとき、未熟なわたしには考えが及ばなかった一事があります。
それは、
「戦没した軍艦の艦長の家族がそれを知らされず、よって路頭に迷う」
ということなどおそらく実際にはあり得なかった、ということです。
いかに日本の敗戦を国民に隠していたとはいえ、戦死した大佐の家族に
それを伝えないということはまずあり得ませんし、
戦死によって階級は特進(清太の父であれば少将になる)し、
叙勲され、それによって遺族に恩給も支給されたはずだからです。
ことほどさように「親が軍人」というのは当人にとって、そして
戦後の「軍パージ」をする方にとってもそれは大きなことでした。
というわけで、S氏は本来ならば、海兵陸士生徒であれば「スライド試験」、
つまり形だけの口頭試問で入れるはずの東大を、面接で不合格にされました。
もちろんその理由は父親が中将であったこと、そしてS氏の兄もまた
海軍兵学校卒の航空士官で戦死していたことです。
そのため、S氏は旧制高校からもう一度やり直すことにしたというわけです。
さて、そんな方と知り合いになるきっかけとなった江田島ツァー、
表桟橋付近に展示されている兵器などの見学が続いています。
この角度からの写真は、一般の見学ツァーでは決して撮れない写真。
くだんのS氏、この写真ではかつての同期生の未亡人の
肩に手を置いて写真を撮っておられます。
戦前の男、しかも軍人の息子でありながら、当人のいうところの
「プレイボーイだった」
というイケイケぶりが、こんなさりげない仕草にも滲み出ています。
このタンクかと思うくらい巨大な砲塔は、戦艦「陸奥」のもの。
ワシントン軍縮会議において、あやうく廃艦になりかったものの、
その時点で完成しているかどうかを視察に来た英米の査察団を
権謀術数を巡らして煙に巻き、就役にこぎつけた、あの「陸奥」です。
「陸奥」「長門」といえば、戦前の男子の憧れで、戦艦を覚える語呂合わせも
陸奥,長門,扶桑,山城, 伊勢,日向,金剛,比叡,榛名,霧島
むつ、ながと
ふそう、やましろ
いせ、ひゅうが
こんごう、ひえい
はるな、きりしま
といった具合にその二つから始まっていたりしました。
Googleアースで上空から見た砲塔をキャプチャしてみました。
タンクの上にはまるで蟹の甲羅のような覆いがかけられており、
いかに巨大なものであるかがお分かりいただけるでしょうか。
これはそのときに幹部学校か術科学校の学生が
近くの芝生上で円になって何かをしているのが写っていたので
ついでにキャプチャしてみました。
なんだろ・・・・軍歌演習?
とにかく、戦前戦中の男子の憧れであったところの戦艦陸奥ですが、
実際の戦歴はほとんどありません。
なぜかというと、「大和」「武蔵」のように、もちろん「長門」もですが、
序盤は温存されていたためです。
1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦に参加しましたが、
このときには色々とあって反転し、第二次ソロモン海戦でも
米軍と交戦することはなく、第三次ソロモン海戦でも「大和」と一緒に
後方に待機していたというふうに、一度も戦わぬまま、
1943(昭和18)年、6月8日、広島県柱島沖に停泊していた「陸奥」は
三番砲塔付近から突然に煙を噴きあげて爆発を起こし、
一瞬のうちに船体が2つに折れ、右舷に傾斜して沈没してしまいます。
このときに、この写真にあるのと同じ大きさの第三番砲塔が
艦橋と同じ高さまで爆発で噴き上げられたという目撃証言があります。
原因は直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、その容疑者に対する査問が
行われる寸前で、その容疑者が起こしたものだとする説があり、
四番砲塔内より犯人と推定される遺骨が発見されたとも言われています。
しかし真相は未だに明確になっておらず、この他、スパイの破壊工作、
三式弾の自然発火による暴発、乗員のいじめによる自殺や一下士官による放火
などの原因が取りざたされています。
このとき乗員1,474名のうち1,121名が爆死した大事故だったにもかかわらず、
海軍は陸奥の爆沈をひたすら秘匿しました。
「長門」と並ぶ国民のアイドルであった「陸奥」が、一度も敵と戦わぬまま
原因不明の爆沈を起こしたとあっては、国民に与える影響はあまりにも大きく、
戦争中の日本人の士気に関わる、という理由からの隠蔽でした。
海軍内でも「陸奥」に関して発言することを禁止され、事故については
噂が囁かれるのみで、日本人は戦後まで、その事実を誰も知りませんでした
「火垂るの墓」の清太少年の父がたとえば「陸奥」の艦長なら、
(陸奥艦長の三好輝彦大佐はこの日殉職した)確かに戦後まで
父の死亡を知らずにいたわけですが、「陸奥」の場合
事故を乗員の家族にも知らせないため、事故後もずっと変わりなく
給料が支払われていたということですから、清田少年はどちらにしても
生活に困窮することにはならなかったということになります。
さて、ここでもう一度例のオカルティックな
「旧兵学校の七不思議」
に話を戻します。
じつはそのうちの一つに、こんな話があるのです。
戦艦「陸奥」の主砲塔
グラウンド西方端にある戦艦「陸奥」の第三主砲塔の下部ハッチから
帝国海軍の煙管服を着た人影が覗く。
「陸奥」は知ってのとおり、昭和18年に柱島泊地で爆沈事故を起こしている。
特に悪さをするとは聞いていないが、日没後は近づくな。
下部ハッチ、って、このドアみたいなののことですよね?
この怪談話の全てを検証?したわけではもちろんありませんが、
こうやって真正面から取り組んでみると、いかにこういった話が
信憑性のないものであるかがよくわかります。
噂があるということは「誰かが何かを見た」ということも
長い歴史のうち1度くらいはあったのかと思いたいのですが、
まず、この情報がとてもアヤシイ。
まず、
「第3主砲塔の」
とありますが、ここにある砲塔は「第4主砲」です。
爆発の時に艦橋まで爆風で噴き上げられた第3主砲塔は、引き上げられておらず、
柱島沖から引き上げられたのは「第4主砲」なのです。
「ほら、やはり爆沈した『陸奥』の主砲なんじゃないか。
第4砲塔からは『犯人』の遺骨がでたとさっき書いていたし、
その幽霊がこの砲塔から顔を出すなんていかにもありそうな話じゃないか」
と思われた方、この砲塔の横に置かれた説明を読んでみてください。
「この連装砲は、かつて日本戦艦『陸奥』の4番主砲として搭載されていた
40センチ砲であり、昭和10年(1935)海軍兵学校生徒の教材として
当地に移設されたものである」
昭和10年・・・・?
兵学校生徒の教材として・・・・?
続けましょう。
「1922年、ワシントン条約は英・米・日保有戦力の比率を5・5・3とし、
主力艦の砲を「40,6センチ以下」に制限した。
その後昭和5年(1930)ロンドン条約が締結され、巡洋艦など補助艦兵力が
制限されたが、両条約はいずれも若干の排水量増大を見込む
現有戦艦の改装を認めた。
よって日本海軍は戦艦の数の劣勢を質によって補うため、
主砲の仰角増大
防御鋼の添加
機関の換装
飛行機射出機の新設
艦橋の改造
艦尾の引き伸ばし
などの工作によって全主力艦の活性化を図った。
この40センチ砲も、その改装の際に「陸奥」から撤去されたものである。
つまり・・・・
お分かりいただけただろうか。
・・・じゃねーよ!
これ、全然爆沈事故関係ないじゃん!
「陸奥」は知ってのとおり、昭和18年に柱島泊地で爆沈事故を起こしている。
って、何が「知っての通り」だっていうの。
というわけで、ここに陸奥乗員の幽霊が出る意味もなければ
由来もない、ということがお分かりいただけただろうか。
出るというのなら、
大和ミュージアムの前にあるスクリューと「砲」の前
同じくミュージアム前の「錨」
江田島町にある「ふるさと交流館」の遺品展示室
こういうところに出てくるのが筋ってもんでしょう。
いやまあ、そっちはそっちで出てるのかもしれないけど、
少なくとも江田島のこの砲塔に出るのは筋違いってやつ、
この話の信憑性もまた甚だ怪しいということなのです。
自分が爆死したことを顕彰するどころか、家族にまで
死んだことを知らせてもらえなかった1,121名もの「陸奥」の乗組員が、
自分の「幽霊」に対し海軍が長年給料を支払い続けていたことを以って
海軍を恨むべきか恨まざるべきか「迷い続けていた」←
という可能性はおおいにありますが。
続く。