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海軍兵学校同期会@江田島~表桟橋は「表門」

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昨年秋、ふとしたご縁で同行させていただいた
海軍兵学校同期会解散記念ツァー、続きです。

陸奥砲塔のある江田島湾に沿った岸壁近くには、
一般ツァーでは正面を見ることができない
第一術科学校の正面玄関があります。

旧江田島海軍兵学校を、現在こちらの名称で呼ぶことが多いのですが、
ここには「第一術科学校」と「幹部学校」は独立した学校組織として
別々に存在しているのです。

昭和31(1956)年に連合軍が接収していた施設が返還されたとき、
当時横須賀の田浦にあった術科学校が江田島に移転してきました。

旧海軍時代は例えば「砲術」「水雷」といった学校があり、
「砲術学校」だけで見ると、初級士官(少尉)訓練のための普通科、
砲術士官訓練のための高等科(大尉、少佐対象)、予備士官(高等商船学校)
のための練習科、下士官を錬成する予科が併設されていました。

現在の術科学校は幹部、海曹士ともに、部隊配置の合間に5週間から
最長1年間、専門教育を施す教育機関となっています。
例えば幹部であれば、

任務過程(3尉~2尉)・・5週間
中級過程(1尉)・・・・18週~1年
専攻科過程(3佐)・・・1年

と、最低三回はここに帰ってくるということになります。
「第一」というからにはそれ以下もあって、海自の教育隊は
このあと「第4術科学校」までがあります。
第1術科学校はこの中でも艦艇デッキ部門(砲術・水雷・運用など)を担当し、
年間を通じて常時、幹部・曹・士約600名がここで教育を受けています。

わたしが時折このブログで語っている、台南飛行隊の笹井醇一中尉が、
兵学校67期の同分隊の仲間と撮った卒業記念写真は、明らかにこの建物、
当時は新館であった西生徒館の窓越しであり、
初めて江田島に一般ツァーで訪れてこの建物を見たときには感激して、

「建物はそっくりそのままだが窓枠だけ変えたようだ」

と書いたことがあるのですが、今回これが、平成17年に新しく
建て替えられていたということがわかりました。



建て替えられたと言えば、レンガの生徒館も同時期に、
基礎から補修をやり直して改装されていたらしいですね。

わたしには「あのまま」と思われたこの建物ですが、
元兵学校生徒から見ると、練兵場から見た「西生徒館」は
「何かが違う」と一目でわかる変化があったようで、
というのも当時は3階建だったのが4階になっているのです。
白黒写真なのでそのニュアンスも伝わりにくかったわけですが、
壁もクリーム色で、現在の白亜の壁色とは違っていたそうです。

江田島にある他の建造物が歴史的に保存の価値があるとされ、
改修も往時の姿を保持したまま行われたのに対し、
この建物はその対象には入っていませんでしたし、調査の結果
基礎の劣化が酷く、保存するより新築してしまった方が安い、
ということになったため、建物のデザインをそっくりに、
元の建物を取り壊して作り直すということになりました。

当然、外部、特に兵学校出身者などからは猛烈な反対が起き、
関係者はその対応に大変な腐心をしつつも理解を求めることに
心を砕いたと言われています。

この改修の意義と経緯、旧館との違いについては、
兵学校75既卒の方が詳しくお話ししているページがありますので、
もしご興味がおありでしたらそちらをお読みください。

海上自衛隊第1術科学校(海軍兵学校第1生徒館・西生徒館)大改修物語



さて、陸奥砲塔横のボートダビッドを左に見ながら岸壁を行くと、
兵学校の、そして今でも江田島の「表門」である「表桟橋」があります。
ここを「正門」、通常の入り口を裏門と称する文言もときどき見かけますが、
ある自衛隊幹部の見解はこのようなものです。

門の呼称については諸説ありますが、
わたしが気に入っているのは次のような解説です。
敷地の東側、通常守衛が立っている入り口は「正門」
敷地の西側、宮ノ原地区の入り口は「裏門」
そして表桟橋は「表門」

艦艇の舳先側を「おもて」と言いますが、
艦に見立てた生徒館(赤煉瓦)の正面が海に面しており、
その海側の出入り口が「おもて門」というふうに、
自然と呼称されたように感じます。


ところで、この写真を含め、これからの3つの写真を見ていただくと、
江田島湾を右から左まで見渡すことができるわけですが、
何かに気づかれませんか?

そう、ここからは外洋への切れ間、水平線がないのです。
この写真の右手は湾のたった一つの切れ目である津久毛瀬戸という
海峡につながっていますが、江田島湾というのは周りを陸に囲まれ、
まるで湖のような入江なので、ご覧のように波が全く立たないのです。
兵学校がこの地を東京の築地から移転させた理由は

「第一、生徒の薄弱なる思想を振作せしめ
海軍の志操を堅実ならしむるに在り。
第二、生徒及び教官をして務めて世事の外聞を避け
精神勉励の一途に赴かしむるに在り。
第三、生徒の志操を堅確ならしむるため
繁華輻輳(ふくそう・集まっていること)の都会を避くるを良策とす」

つまり、都会の誘惑から生徒を遠ざけるという意味だったようです。
アメリカ東部の全寮制名門高校のほとんどが田舎にあるのも同じ理由ですが、
当時の江田島には漁村があるのみ。

兵学校のドキュメンタリー映画「勝利の礎」を撮るためにやってきたスタッフは
当初、島で一軒しかない宿屋に寝起きして撮影をしていましたが、
あまりの生活にすぐに根をあげて、広島から毎日船で通うことにしたそうです。

俗といえば俗過ぎる娑婆っ気の塊であった映画スタッフにとっては
せめて仕事以外は「世間の風」に吹かれたかったのでしょう。
それほどこの江田島というところが世俗離れしていたということなのですが、
なぜ江田島だったか、については、英語の教授だったセシル・ブロック先生が

「江田島という島は、ほぼY字形をしている。
兵学校は、ほとんど完全に陸で囲まれた江田内という湾を見下ろす
Yの字の分枝の内側に位している。(略)
古鷹山の頂上から見下ろした兵学校の景色や、ここから眺めた瀬戸内海の姿は、
こよなく美しいものである」

と著書に書いたように、この土地の美しさも選定の理由でした。

そして、この表桟橋が入江に位置し、
例えば遠泳やカッターなどの訓練に最適だったからだと思われます。



この桟橋も何時改修されたものか、大変美しく、
おそらく生徒館の大改修のころにまとめて行われたようです。
しかし手すりなどは昔の写真の雰囲気に似ています。

もっとも昔の手すりは地面に衝立のような手すりを置いただけ
といった風に見えますし、地面は無舗装です。

ここは兵学校時代から「表門」とされ、江田島で学んだ海軍軍人は
この表桟橋から巣立っていったものですが、今現在も、
幹部候補生学校を卒業した学生がこの桟橋を使用するのはただ一度、
練習艦隊出航の時なのです。

通常は国賓や特別なVIPしかここから入校するとは許されません。



ボートダビッドの方角を向いて撮っています。
この向こうにあるのが「陸奥」の砲台です。
岸壁も工事されているようですね。

岸壁といえば、兵学校時代、許可された時間外に学校を抜け出して、
分からないうちにまた忍び込んだ生徒の一派がいたのですが、
それがばれて学校側に呼び出されました。
彼らの計画は、

「潮の満ち引きの時間を調べ、干潮時に岸壁沿いに忍び込む」

というもので 、どこの部分のことかはわかりませんが、
おそらく干潮時には地面が出る地帯があったのでしょう。
ところが学校側はなぜか、

「干潮時を調べて行動するとはいかにも兵学校生徒らしい」

と妙なところで彼らの計画に感心し、叱責だけで放免となったとか。
おそらくこの表桟橋の海峡よりの海岸だと思うんですが、
表玄関側から堂々と忍び込むというのも、
もしかしたら海軍的にポイントが高かった点かもしれません。



案内係は、一つの団体に一人が付きました。
全体で4つくらいの団体に分かれたので、こういう幹部が
少なくとも4人は用意されていたということです。

通常科長職にある2佐が案内を務めることはありませんが、
このときには兵学校の先輩方に敬意を表して失礼のないように
シニアな幹部が指名されたようです。

ところでこの、前回も触れたように「身振り手振りが激しい士官」
ですが、目元を隠していても彼の経歴がわかる方が教えてくれました。

それによると彼は機雷掃海幹部であり、現在第一術科学校の潜水科長である
杉山重一2佐で、いわゆるEOD、水中の爆発物、すなわち
機雷の人的処理が専門のベテランなのだそうです。

胸につけている徽章は、上側が「潜水徽章」下が「艦艇徽章」。
潜水艦徽章と前回書いてしまいましたが、正しくは「潜水徽章」ですね。

3.11の時には、掃海艦「つしま」の艦長として、被災地に先陣を切った
勇猛果敢な幹部自衛官でもあり、

「めまぐるしいほどせわしい仕草と大きな声も、
彼のトレードマークです(*^o^*)」

とのことです。(メールより)
これはもう杉山2佐でほぼ間違いないとこの文章で確信しました。

 


この写真を撮った時に杉山2佐(仮定)が説明していたのは、
今年の練習艦隊、つまりわたしが晴海で見送り、
同じ晴海でガダルカナルで収取された旧日本軍将兵のご遺骨と共に
帰還を見届けた平成26年度練習艦隊の出航のときには、
安倍首相夫人が来賓として卒業式に出席し、それを見送った、
ということでした。

安倍昭恵さんのFacebookでこの件を検索してみると、
彼女がアップした大講堂の写真は二階席の正面に向かって
右の上の席から撮られており、戦前は「皇族専用」であった席は
今はVIP来賓のために使われていることがわかりました。

ちなみに、このとき杉山2佐(仮定)は、安倍夫人のことを
「安倍ゆきえさん」と連呼していたのですが、
皆意味はわかっているようだったので、指摘しませんでした。




さて、桟橋付近岸壁の見学の後、もう一度マイクロバスで
教育参考館の前に、今度は団体写真の撮影のために集合です。



石段の上に並んで立った時の眺め。
彼らが本日の同期会ツァーのためにいろいろと
お世話してくださった自衛官たちです。

カメラを提げているのは写真中隊の海曹ですが、
写真の専門家というのはどんなときにもこのように
安定した立ち方が習い性となっているものなのでしょうか(笑)



しかし、メインのカメラはこちらではなく、旧西生徒館、
第一術科学校の屋上の角にいます。

「あちらから撮りますので皆さんカメラの方を向いてくださ~い」



わかりやすいようにカメラマンが帽子を取り手を振ってご挨拶。
皆もニコニコと手を振り返します。



それから歩いて大講堂の裏に移動しました。
これから、最後のイベントである、呉音楽隊によるコンサート。
呉音楽隊といえば、先日音楽庁舎を訪問し、練習場を
音楽隊長の案内で見学させていただいたばかりです。
ただそれだけの縁ですが、すっかり馴染みになったようで
コンサート会場にはワクワクしながら向かいました。

向こうに見えているのは学生が寝起きする官舎だと思われますが、



見てください。
古鷹山の下にその姿を見せているのは、一般ツァーではもちろん、
今回の特別ツァーでもついに見ることができなかった

理化学講堂

です。
貼り付けたページの解説によると、春の一般公開の時には
近くまで行くことはできるようです。
しかし、内部を見る限り使われている形跡がないとのこと。

1904年の建造という歴史的な建物。
このまま保存、修復作業をして記念館にでもしてくれるといいのですが、
生徒館や第一術科学校の大改修のときにも予算が上がらなかったようなので、
今後どうなるのかとても心配です。




皆が案内されて次々と吸い込まれていく建物は、後から地図を見たのですが、
どう考えても位置的に教育参考館の裏側のように思えて仕方がありません。



建物の屋上にはまるでギリシャ神殿の円柱のような部分があり、
このテイストはどうも教育参考館のそれなのですが・・・。

もしかしたら、今流行りの「下は歴史的建造物、上に近代的ビル積み」
というあの「ツギハギ建築」の「上下」ならぬ「前後」ツギハギなんでしょうか。
ここが一体なんなのか、もしご存知の方、教えていただけませんでしょうか。


続きます。


 


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