江田島の兵学校生徒の同期会と一緒に巡る
入学何十周年記念解散式、最後の行程である
江田島のツァーを終え、我々のバスだけがフェリーに乗らず、
陸路で広島空港まで向かうことになりました。
なぜなら飛行機の出発時間が夜の7時20分だったからです。
見学が終了しバスが外に出たのが2時20分でしたから、
なんと5時間もの余裕があるわけで、我々のバスだけが
観光しながらのんびりと陸路を行くことになったのでした。
江田島の第一術科学校は赤丸のところにあり、
わたしたちは487号線を南下して、緑の丸の部分、
早瀬大橋を渡り、さらに呉から出た半島との間にある
音戸の瀬戸をつなぐ橋を渡って本土に渡ります。
しかしこの地図を見ていただければ、橋がかかっているだけあって
海峡がどれだけ狭いものかお分かりでしょうか。
まず、のんびりした風情の江田島を、海を右手に見ながら走っていきます。
まず、江田島から緑の丸の部分にある橋を渡ったところ。
(だったと思います。だいぶ前のことになってしまったので・・)
倉橋島を通り抜けるのはあっという間でした。
そして黄色で丸をした部分、音戸の瀬戸へと向かいます。
このあたりは瀬戸内特有の波が穏やかな内海なので、牡蠣の養殖が盛んです。
「広島の牡蠣」はここからきているんですね。
この辺りの山間に、わたしの知り合いの「山小屋」があります。
一度遊びに行かせていただきました。
オーナーはここに住んでいるのではなく、
週末のウィークエンドハウスとして周りに作物を作ったり、
釜でピザを焼いてパーティするためだけに使っています。
すごーく遠くでしたが、思いっきりズームして撮ってみたら、どうも今工事をしている模様。
ご主人は護衛艦の艦長を昔に退官して悠々自適の毎日です。
いわゆる音戸の瀬戸を渡っているところ。
大変高いところを通過するので、バスの中の
「僕、高所恐怖症」という男性(生徒ではありません)は、
ここを走っているときにずっと下を向いていたくらいでした。
高さを確保するために、橋のたもとでなんと三重のらせんを登ります。
なんでこのような非実用的な橋を作ったのでしょうか。
バイパスから本州に抜ける
警固屋音戸バイパス
という橋はつい最近できて、かなり便利になりました。
わざわざ螺旋をつけたこの橋は、
地図を見れば一目瞭然、昔はこの「第一音戸大橋」だけで、
すべての交通はここで行われていました。
今では観光用だけに残されているという形です。
ところで大河ドラマ、色々と滅法評判の悪かった「平清盛」が放映されることになった時、
このあたりの人々は「町おこし効果」を期待して、この橋のたもとに、
「平清盛音戸の瀬戸テレビドラマ館」というのを作りました。
そういえばそのころ、護衛艦の見学にきてそのようなものを見た覚えがあるようなないような。
しかし、肝心のドラマがアレだったので、集客はイマイチ。
だってそもそも「音戸の瀬戸」だけを目当てにわざわざ観光に来ますかね。
まあ、わたしたちも時間つぶしとはいえわざわざこっちに来て
ここでトイレ休憩したわけですが(笑)
むかーしむかし、橋ができた時(1961年)作られたと思しき軽食お土産観光ハウス。
ここが唯一の陸路交通だった時代は長く、渋滞緩和のために
向こうに見えている第二音戸大橋が完成したのは2013年の3月。
つまり、以前ここに来た時にはまだ開通していなかったことになります。
交通の要所が第二大橋に移ったので、このあたりは観光公園となりました。
それよりわたしにはこちらのことを説明しておかなくてはいけません。
wiki
先日「伊勢」の慰霊祭に参加させていただきましたが、
「いせ」が慰霊のために停泊したのは、この写真で攻撃されている「伊勢」のいる
「坪井沖」です。
先ほどの写真を、上の写真と同じ向きにひっくり返しました。
黄色い丸が「伊勢」着底現場、この音戸大橋は画面上になります。
もちろん「戦艦伊勢の物語」というエントリを上梓したわたしとしては
音戸の瀬戸を渡るたびに
「この近くで『伊勢』が最後を迎えたんだな」
と考えはしましたが、このときは具体的な場所を把握していませんでした。
補給艦「とわだ」が航行していました。
なんだかラッタルを下ろしたままのような気がするけど気のせいかな。
呉に入ってそのまま海岸沿いを走ると、赤錆びた機械のある工場地帯が現れました。
日新製鋼の工場がここ、警固屋というところにあります。
日新製鋼の隣は、海上自衛隊からす小島係留所。
ここでは日曜に艦艇公開をおこなっています。
今見えている5202は、なんと珍しい、音響測定艦「はりま」です。
潜水艦探知のためにソナーをソナー得た音響測定艦というのがあるんですね。
この音響測定艦が「ひびき型」で、1番艦が「ひびき」と、
せっかく誰がうまいこといえと状態なのに、2番艦がなぜ「はりま」なのか。
「ひびき」ときたら次は「こだま」と来てほしいけどな。
「しらべ」とかもいいんじゃないかしら。
で、なんで「はりま」?
この位置からはわかりにくいですが、船底がH鋼のような形になっているのです。
つまり相胴式なんですね。
このため艦の安定性が非常に良いのだそうです。
運用法は、日本近海を遊弋し、潜水艦の音響情報を収集すること。
収集した音響情報は、陸上にある対潜情報分析センターに送られます。
なお、ひびき型音響測定艦の目的は情報収集なので、武装はありません。
潜水艦救難艦「ちはや」。
わたくし「ちはや」については潜水艦救難艦について調べた時に
お話ししたことがあるので親近感があるんです。
自分のログからもう一度情報をキャプチャしてきました。
「ちはや」はハワイ沖で米原潜「グリーンヴィル」に衝突され沈没した
漁業実習船「えひめ丸」事故の際、引き上げ支援を
「災害派遣」(海外だから)という形で行っています。
実際に引き上げを行った米国海軍への支援、海中での遺品捜索のために、
「ちはや」が搭載した救難艇は、百数十回もの潜航を行うことになりました。
「国際潜水艦救難訓練パシフィックリーチ002」にも参加し、
荒天にもかかわらず全てのオペレーションを成功させた
他、救難艇は当初予定のソフトメイト(沈没潜水艦への達着)だけでなく、
ハードメイト(ハッチを開ける、より実際的な救難訓練)も成功させています。
さて、ここアレイからす小島には遊歩道のようなものがあって、
ここをそぞろ歩きながら護衛艦を眺めることもできます。
(これ、いいなあ)
そのために作られたらしいあずまやの近くに石碑を見つけました。
従軍する人を送る
陽炎に 心許すな 草枕
子規
正岡子規の句です。
子規が見送った人というのは、間違いなく日清戦争に従軍したということになります。
なぜなら、日露戦争の始まる2年前に、子規はわずか34歳で
結核のためなくなっているわけですから。
それにしても不思議な句です。
「陽炎に心許すな」とはなんでしょうか。
子規と従軍していく人は、草枕にねころびつつ、言葉少なに話し合ったのかもしれません。
陽炎とは春の季語なので、季節は春。
そこでふと気づくと、正岡子規は日清戦争の間新聞記者として従軍し、
大陸に渡っているのですが、その時期が1895年の4月。
友人の従軍と、子規自身の従軍は同じ頃だったということになります。
友人の従軍を見送る子規自身、少なくとも1ヶ月以内に従軍が決まっていたわけで、
もしかしたらこれは自分に向けていたのではないかという考えも成り立ちます。
「心許すな」
とは、子規が友人に、あるいは自分自身への訓戒としてそのときに発した
「警告」のような言葉だったでしょうか。
心許すも許さないも戦争に行けば自分の考えで何かを決定する、
ということなどないような気もしますが。
陽炎を季語であると同時に「儚いもの、泡沫のもの」とするならば、
「陽炎に心を許すな」→「実体のないものを信じるな」ということになります。
子規のいう「実体のないもの」とは、巷に言われるような
「戦地で敵に心を許すな」という身も蓋もない解釈ではなく、
もっと根源的な、深い意味があるのではないかと思えてなりません。
あえて無理やり解釈をしてみると、
「自分が生きているということをだけ実感しろ。
生の危険のあるところで自分の生を実感しなければ死ぬぞ」
ということでしょうか。
うーん・・・・自信ありません。
続きます。