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呉海軍墓地~「隼鷹」と「秋風事件」

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呉の長迫公園にある「海軍墓地」についてお話ししています。

前回の訪問では駆逐艦隊の碑についてはまず

第15駆逐隊 夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎

についてお話ししたことがありますが、この写真は

第17駆逐隊 初霜 雪風 磯風 浜風 浦風 谷風

の慰霊碑です。
開戦時から大和特攻までは陽炎型駆逐艦のみで編成されていました。 
その後、浜風、浦風、谷風、磯風に加え、第16艦隊から雪風が戦争後期に参加し、
終戦直前には雪風と初春型駆逐艦初霜の2隻となりました。

雪風がなぜ流れてきたかというと、第16戦隊の時津風、天津風、初風が
いずれも昭和19年には全部戦没してしまったからで・・・。 (T_T)

というわけで、不沈艦だった雪風は第4、第10、第16、第17と、編成替えを3回も行っているのです。 
戦没しなかったので当然独自の「雪風戦没碑」はないのですが、戦死者も出しており、
駆逐隊の合同慰霊碑には名を連ねているのでしょう。

ちなみに「雪風」のモニュメントは江田島の第一術科学校構内に主錨が展示されています。

 

 



海防艦「稲木」戦没者慰霊碑。

海防艦、とは一般的に沿岸・領海警備、船団護衛などの任務に就く艦と定義され、
大きさは小型船から戦艦級のものまで、特に決められたものではありませんでしたが、
日本では開戦後、漁業保護や海上防衛を目的とした小型艦艇をこう称するようになりました。

この海防艦「稲木」は、鵜来型(うくるがた)海防艦で、三井造船玉野で建造されています。
この鵜来型は戦中日本が作った海防艦の中では最もよくできていて、
損失率も少なかったということですが、この「稲木」は八戸沖で昭和20年8月9日、
ーちょうどそれは長崎に原子爆弾が落とされた日ですがー空襲に遭い沈没しました。

 

「雑木林」とあだ名のあった「松型」15番艦「椿」慰霊碑。
慰霊碑揮毫は艤装・初代艦長であり最後の艦長であった田中一郎少佐(64期)によるものです。

主に内地~上海間の船団護衛に従事していましたが、その間一度触雷中破、
終戦間際の7月24日、岡山沖で敵空母機の攻撃を受け(呉軍港大空襲のときですね)
中破したまま呉で終戦を迎えました。



田中艦長はこの時の対空戦闘で負傷したのですが、このときグラマン2機を撃墜したそうです。
「椿」の合祀者名碑はこのように「神通」の横にあり、とてもちいさな名簿でした。
隣の「神通」のような膨大な戦死者ではなかったようです。
  
碑の前にはつい最近らしいペットボトルの水がのお供えがありました。



同じような形をしていてまるで一対のような碑ですが、
向こうは空母「隼鷹」(じゅんよう)の碑、こちらは駆逐艦「秋風」の碑です。

空母「隼鷹」は商船として建造していた日本郵船の「橿原丸」を買収し、
正規空母に改装されて就役したもの。
「秋風」は大正10(1911)年建造で、一時予備艦となっていたこともある老朽艦です。


微妙に墓石の薄さとかが隼鷹の方が分厚くね?とは思いますが、
空母と駆逐艦、なんだって仲良くお隣同志にそっくりの碑を建てたのでしょうか。



その理由かどうかはわかりませんが、このような両艦の関係がわかりました。

昭和19年10月30日、空母「隼鷹」は「緊急輸送作戦」に従事するために
「木曾」「夕月」「卯月」を護衛に佐世保を出発しました。
その翌日にはこの「秋風」と合流しています。

台湾に寄港した後ブルネイに向かっていた艦隊を、米潜水艦「ピンタード」が発見、
「隼鷹」に向かって魚雷6本を発射しました。
これが駆逐艦「秋風」に命中し同艦は轟沈し、乗組員は山崎仁太郎艦長以下総員戦死しているのです。

『3日2252地点北緯128度41.5分東経117度21分ニテ
秋風敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没全員戦死、夕月掃蕩セルモ航海不明』



潜水艦は最初から「隼鷹」ではなく「秋風」を狙った可能性はないのかって?

海戦では空母と戦艦がまず狙われ、駆逐艦などは見向きもされないのが普通です。
この場合は間違いなく「秋風」が「隼鷹」の身代わりになったと考えられます。

 




大東亜戦争中の軍艦というのはこうしてみるとはっきりと幸運艦、不運艦が分かれています。


「隼鷹」はダッチハーバー奇襲、空母「ホーネット」が戦没した南太平洋海戦、
第三次ソロモン海戦、「い号作戦」と激戦を立て続けに戦いながら、
その間魚雷1本(死者4名)の被害だけでしたし、「秋風」に救われたあと、
「武蔵」の生存者を日本に輸送するために航行していてまたもや米軍潜水艦3隻に狙われたものの、
このときも護衛についていた「槙」が身代わりになって艦首に魚雷を受けたため沈没は免れ、
修理ドックから出たところで終戦となっているわけですから、
これは非常に幸運な艦の一つだったということができるでしょう。

やはり身代わりとなった駆逐艦「槙」は大破し死者4名を出したものの、なんとか微速前進で生還しました。
「大和」沖縄水上特攻部隊では、前路を警戒する任務を一度は与えられましたが、
伊藤長官の命令で(・∀・)カエレ!!と言われたので、豊後水道で分離して帰投しています。
そんなこんなで終戦まで生き残ったこともありますが、戦後は賠償艦として
英海軍に取られてしまったのが、ここに「槇」の慰霊碑のない原因かもしれません。


ちなみに南太平洋海戦で空母「ホーネット」にとどめを刺したのは「隼鷹」から飛び立った攻撃隊で、
この時の攻撃隊は爆弾4発を全て命中させ、全機無事に「隼鷹」に帰ってきました。
米艦隊は「ホーネット」を二隻の駆逐艦に処分させようとしましたが雷撃も砲撃も失敗し、
沈めることができないまま偵察機に発見されて逃げたので、米艦隊司令は激おこだったということです。

なんとか空母を曳航して持って帰れないかと司令部は現場に詰め寄ったそうですが、
「鉄の塊がこんなに燃えるとは」と唖然とするくらい火災が激しくそれも不可能で、
仕方なく「巻雲」と「秋雲」の魚雷4本でこれを沈没させました。 

現場はこの空母の正体を知らずに戦っていたようで、救助した米軍乗員を尋問して
初めてこれが「ホーネット」であったことを知ったようです。
日本人にとっては「敵の象徴」でもあったドゥーリトル隊を運んだ空母なのですから、
そうと知ってからは、燃えてさえいなければ、と皆唇を噛んだことでしょう。 

 

 

 

ところでわたしはこの「海軍墓地シリーズ」を書くようになってから、帝国海軍艦艇439隻の生涯と
歴代全艦長3643人のプロフィールが検索できるという、

「艦長たちの軍艦史」戸山操著

を購入しました。
各艦の経歴が網羅されていて辞典のようで大変便利ではあるのですが、たとえば上の
「隼鷹」をかばって「秋風」が沈没したといったような縦の糸的知識については触れられていません。
そういうことはむしろ書き込み手が不特定多数のWikipediaの後塵を拝しているといった感があります。
「秋風」の項に民間人殺害事件である「秋風事件」の記載がないことからもそのように思ったのですが。


昭和18年、3月18日。
「秋風」はニューギニア東部に住む現地の民間人70名ほどをラバウルに向けて移送する航行中、
甲板で乗員が全員を処刑するという民間人虐殺事件を起こしています。

半数が現地の宣教師や修道女で、あとはアメリカ人、ドイツ人、オランダ人、ハンガリー人、中国人。
2歳から7歳の中国人とドイツ人宣教師の子供も4名含まれていたといいます。

現地人や聖職者、子供に同盟国人。
どこをどう探しても、この人たちを処刑にしなければいけない理由というのがわからないのですが、
その処刑の方法とは、洋上で全員を一人ずつ艦尾に特設された処刑台で銃殺するという凄惨なものでした。
しかも一人ずつ両手を後ろに縛り、目隠しをして撃ち、屍体はそのまま海に落とすことを繰り返し、
正午頃に始まった殺害は午後3時半まで続いたといわれています。

こんなことをするのなら最初から連れてこなければよかったじゃないかとしか言えないのですが、
どうやら「途中で殺すことになった」のではなく、最初から処刑するつもりで乗艦させたらしく、
残されているこのときの時系列からは、いかにも計画的なものであったらしい性急さが感じられます。




昭和18年3月  カイリル島とマヌス島にいた海軍分遣隊長が,駆逐艦を使って
       両島にいる外国人抑留者を全員ラバウルに移送するよう命令を受ける
   
3月16日午後 カイリル島の住民26名、ロークス司教以下を「秋風」に乗艦させる

3月17日午後 マヌス島の住民40名を乗艦させる 

 

3月18日10:00 「秋風」カビエン沖で信号を受けてからラバウルに向けて航行
    カビエン沖60マイルの地点で、佐部鶴吉艦長が、士官全員に外国人の殺害を命ぜられたと伝える

    12:00 処刑開始
    03:30 処刑終了 
    22:00 「秋風」ラバウルに到着  


「秋風」艦長の恣意的な判断などではなく、最初から殺害させるのが目的で乗艦させているようです。
つまりこの命令を下したのは上層部だということになるのですが、それでは誰が決定したのか。

戦後、戦犯裁判でオーストラリア代表検事がこの事件を裁くために
三川軍一中将と大西大西新蔵参謀長を1947年1月に逮捕したのですが、管轄権の問題と、
当事者である「秋風」の艦長と士官らが全員戦死していたため、不起訴になりました。

つまり、軍人として命令されたことは成さねばなず、女子供を含む民間人の殺戮に
手を染めた「秋風」の乗組員に「死人に口無し」とばかり全ての罪を押しつけ、
戦後のうのうとしていた(か戦々恐々としていたかはわかりませんが)軍人がいたということなのです。

ダンビールの海戦で、米軍機の搭乗員は、海上に浮かぶ沈没艦の乗員たちに
弾薬が切れたら取りに戻ってまで、何航過もして銃弾を浴びせましたが、そのとき
命令を受けて殺人を行った搭乗員の、少なくない人数があまりのことに気分が悪くなり、
後から「あれは男らしくなかった」などという言葉を漏らしたものすらいたそうです。

ニューギニアで「日本人の捕虜は取らずにその場で始末しろ」と命令した司令官も、
命令しただけで、決して自分の手で日本人を殺すわけではなく、
無抵抗の日本兵に銃弾を打ち込むのは、いつも下の者の仕事でした。


戦争中の残虐行為には往々にしてそれを命じる者が・・・自分は手を下さず離れたところ、
ときとして戦場でもないところから駒を動かすように命令する者がいるのみです。


「秋風事件」について書かれた書物は戦後一つも出版されていないそうです。
それについて語るものもなく、当人たちが罪を背負ったまま戦死したことで、
海軍ではおそらく誰かが胸をなで下ろしていたことでしょう。


「秋風」は幸か不幸かでいうと不幸に数えられる艦です。
このような命令を実行しなければいけない立場にあったという意味ではなおさらのこと。
しかし、彼らが生き残っていたら確実に戦犯裁判において有罪となり、
これも確実に艦長以下何人かが死刑になっていたことは間違いのないところです。

そのような裁判で戦犯として裁かれる前に「秋風」乗員が名誉の戦没で亡くなったことは、
ある意味彼らにとって幸運だったと言えるのかもしれません。


戦後、自衛隊になって多くの自衛艦が旧軍の艦名を引き継ぎました。
必ずしも先代がどのような最後を遂げたかということは選定において考慮されていないようですが、
(考慮したらどの名前も引き継げなくなりますし)護衛艦「はるかぜ」はあるのに、
この「秋風」を継いだものはないというのは、この事件が影を落としているのではないでしょうか。

 


同じような形で「隼鷹」と並んでいる「秋風」の慰霊碑。
因みに慰霊碑が建立されたのは「隼鷹」が昭和58(1983)年。
「秋風」が8年後の平成3(1991)年です。

戦後、忌まわしい事件の記憶を刻むその艦体とともに海に沈み、
誰一人としてそのことを語らずに逝った「秋風」の乗員たち。

全てを理解(わか)ったうえで彼らの慰霊碑を自分たちの碑の横に、
まるで寄り添うように置くことを決めたのは、「秋風」の犠牲によって命を救われた
「隼鷹」の生存者たちだったのではなかったかとふと思いました。

 

 

 


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