あるブログ読者の方から送っていただいた、海軍兵学校67期生徒が
卒業後遠洋航海で撮った貴重な写真をご紹介しています。
まず冒頭の、艦船ファンには大変興味深い写真をご覧ください。
台湾の馬公(台湾海峡にある澎湖諸島の中心都市)でのものですが、
左はこの練習航海でアルバムの主越山候補生が乗艦した(煙突の形状からおそらく)「八雲」。
日程から見ると、これは昭和14年7月25日に江田内をでて、
舞鶴ー宮津ー鎮海ー旅順ー大連ー青島ー上海ー馬公
と一ヶ月かけて8月28日に到着した時のものです。
ちなみに舞鶴では機関科候補生、宮津では主計科の候補生が配乗しました。
記録によると、「八雲」には戦後幕僚長になった中村悌二、「天山」爆撃隊の隊長だった
肥田真幸、真珠湾の軍神となった古野繁実、水上機の横山岳夫候補生が、
「磐手」には台南航空隊の笹井醇一、もう一人の軍神横山正治候補生が乗艦しています。
「八雲」も「磐手」も明治時代にイギリスから購入したもので、この時すでに建造から
40年近く経っている超老朽艦でした。(だからこそ練習艦になったわけですね)
どちらも日露戦争で働いた旧式艦で、速度はなんと時速10k/t。
しかし、乗員は選り抜きの精鋭で訓練と整備に励む様子は、教練作業、検閲も含め
当時の帝国海軍の猛訓練ぶりを候補生に知らしめたそうです。
「磐手」の方は例の昭和20年7月26日の呉大空襲で沈没しましたが、「八雲」は
終戦時稼働状態であったので、復員船として1年間「最後のご奉公」をしました。
ついでに「磐手」ですが、以前にも「船乗り将軍の汚名返上」というエントリで話したことのある
上村彦上之氶が蔚山沖海戦でロシア海軍のリューリック号乗員を救助した艦でもあります。
写真に戻りましょう。
右側に並んで停泊しているのは、東洋汽船の貨物船「総洋丸」です。
東洋汽船は戦前の安田財閥系海運会社で、その所持船は全て「×洋丸」と名付けられていました。
徴用船はもちろんですが、東洋汽船所有の貨物船はそのほとんどが戦没しており、(その他は座礁沈没)
この「総洋丸」も、昭和18年の12月7日に戦没のため喪失となっています。
写真を詳細に眺めれば、「八雲」の舷側に候補生たちが固まって列を作っているのがわかります。
これは後からわかったのですが、今から作業に入る候補生たち。
そして、注目して欲しいのは両艦の間にかけられたラッタル。
昔のラッタルってこんなだったんですね・・・。
これ、もしかしたら長い梯子を渡しただけですよね><
横にいる人の大きさと比べてもかなり板と板の間が広そうな・・。
これは、酔っ払っていなくても結構 落 ち た のでは・・・。
ましてや舷門番に怒り、目が眩んで足を踏み外すガンルーム士官なども当然(意味深)
軍艦「松島」は日本三景艦「松島型」一番艦で、お召し艦になったこともあり、
黄海海戦ではあの「勇敢なる水兵」三浦寅次郎3等水兵の逸話を生んだ艦です。
ここにあるのは台湾にあった「松島」の記念碑。
海軍の遠洋航海なのでこういうところに立ち寄ったようですね。
公文書館の資料でこの碑を建立したときの趣意書を見ることができますが、
それによると、この塔は松島の主砲を模しているもので、周りに置かれた
砲弾とスクリューはどうやら本物のようです。
国民に寄付を募ったところ当時のお金で1万5千円が集まり、昭和11年に完成したとありますから、
このときはまだできてすぐの「ホットなスポット」でもあったということです。
ところでなぜ「松島」の記念碑がここにあるか、ですが。
実は「松島」、明治41(1901)年になんと、少尉候補生を乗せて遠洋航海中、
ここ馬公で爆発事故を起こして沈没してしまったのです。
兵学校35期の名簿を見ると、卒業生172名のうち33名の名前の後ろに「馬公(松島)」とあり、
33名もの候補生が遠洋航海で一挙に失われてしまった悲劇の学年であることがわかります。
67期候補生にとっても、自分たちの先輩、しかも同じ航路での惨事とあらば他人事ではありません。
おそらくこの悲劇は、候補生たちの間でひとしきり話題になっていたことでしょうし、
練習艦隊に乗り組むに当たっては、この事故から得た教訓なども訓示されたはずです。
おそらくこの碑の前に彼らは神妙な面持ちで佇み先輩の霊に黙祷したに違いありません。
ところで、事故当時の「松島」の乗員307名のうち死亡したのが207名、3分の2が殉職しています。
この多さを考えると、兵学校生徒の33名というのは割合にして約3分の1と少なく、
もしかしたら救出も彼らが率先されたのだろうか、というようなことも考えてしまいます。
写真を頂いた時にはなんとなく見て「台湾だなあ」と思っただけでしたが、
実はわたくしここに行ったことがあったのでした(^◇^;)
お正月に旅行で台南市にいったとき、赤崁楼(せきかんろう)というオランダ人の作った城郭跡が
博物館も兼ねた公園のようになっていたところに観光に行ったのですが、どうやらわたしは
全く自分でも知らないうちに67期の皆さんと同じところを見ていたのです。
別角度からですがこれが右側の建物ですね。
これも何度か書いていますが鄭成功が、ここに陣を張るオランダ軍を攻め攻略したのちに、
ゼーランディア(ここも観光地)も落とし、オランダの台湾支配を終焉させました。
鄭成功が「台湾中興の祖」と言われる所以です。
この写真だけでは意味がわからなかったのですが、旅程によると、
8月29日には馬公で「載炭」と予定にもそう書かれています。
よくよく見ると旅程の所々に「載炭」の日があり、これは読んで字の通り
石炭を艦に搭載する日が丸一日設けられていたらしいことがわかります。
これは今石炭を積んでいる作業中で、石炭貯蔵タンクの向こう側には
候補生らしい人影があります。
冒頭写真は「総洋丸」から石炭をもらっているところなんですね。
候補生にとっても石炭搭載作業は大変印象的だったようです。
当時において重油専焼艦が大半を占めていた海軍艦船のうち、
数少ない石炭専焼艦として、各地で一日がかりの載炭を行い、
候補生も炭塵にまみれて下士官とともにこの苦しい全艦作業を経験するのです。
殊に酷暑の候、熱帯地方で陽に照りつけられながら、あるいは空気の流通の悪い
炭庫深くで行う作業は、かれらにとってひとつの試練でもありました。
この作業を体験したクラスは、67期が海軍の歴史でも最後になったのです。
本土帰港前の最後の寄港地は廈門でした。
候補生たち練習艦隊は廈門にある南普陀寺(なんふだじ)に観光に来ています。
しかし、今までの観光地での写真はほとんどが水兵さんばかりが写っているのですが、
彼らは一緒に行動していたのでしょうか。
それともカメラを持っている者は候補生にもいなかったため、皆の写真を撮ってあげていたのか・・。
それにしても、このアルバムの主、越山清尭候補生のカメラの腕は冒頭の艦上写真を始め
(これ一体どこからどうやって撮ったんでしょうか)相当確かなものに思われます。
もしかしたらご本人ではなく同行のカメラマンが撮ったものだったのかな・・・?
日光岩というわりに景色が日本ではないなと思って調べたら、これも廈門でした。
「鼓浪嶋ニテ」とありますが、これは「こらんとう」、中国読みでグゥ ラン ユィだそうです。
1900年くらいから欧米、および日本の共同租界となっていて「コロンス島」という別名があり、
欧米諸国や日本が領事館、学校、教会等を建設したことから、租界地特有の豪華な洋風建築が
島内のあちらこちらに今でも残されていて見ることができるそうです。
言われてみれば写真に見える建物は、洋風と言えなくもないですね。
このころはどうだったのかわかりませんが、現在鼓浪嶋の住人は音楽好きで知られており、
”住宅街で耳を澄ませばピアノやバイオリンの音が聞こえてくる”といわれているそうです。
租界だったということもこの環境に影響しているのでしょうか。
陸戦隊というのは他でもない海軍陸戦隊のことなのですが、そもそもこのアモイ、
明治時代に日本が占領しようとしたことががあるってご存知でしたか?
廈門事件で検索すると詳細が出てくるのですが、
福建省のこの地における覇権確立をかねてより狙っていた日本は、児玉源太郎台湾総督の時代、
廈門にある東本願寺が焼失したのを名目に(どうもこれは自作自演っぽい)
海軍陸戦隊を海峡を隔てたお向かいの台湾(つまり日本ですね)から出兵させて
廈門を軍事占領した、ということがありまして。
この崖の上の本部というのは、その時に司令部としてつくったか接収したものであるようです。
しかし中国での権益を強く主張するイギリス、アメリカ、ドイツの参加国が
これに対し強く抗議し、特にイギリスが軍艦まで出してきたため、日本政府はさすがに
布教所の火事ぐらいを占領の理由にするのは無理があると諦め、潔く?撤兵しました。
まあ、このあたりから列強各国は日本に対して牽制にかかっていたということですね。
出る杭は打たれるってヤツでしょうか。
日本としてもせっかく義和団事件でいい感じ()だった列強との関係を壊したくなかったため、
大人しく引き下がったという経緯がありました。
というわけで日本は、軍事占領は諦めて、いわゆる「対岸経営」というやり方、
すなわち対岸の台湾から福建に会社や鉄道の経営を通して経済的権益を得る、
という方法で廈門に進出していくことになります。
この建物は明治時代に陸戦隊本部であったのですが、この頃(昭和13年)には
実際に部隊が置かれていたわけではないので、候補生たちは「本部跡」として見学したのかもしれません。
このとき候補生たちは「戦跡見学」として、日露戦争の戦場、そして
満州事変戦跡(柳条湖)、彼らの先輩が陸戦隊で勇戦奮闘した上海広中路の激戦跡、
といったところを目の当たりにしました。
ある候補生は戦後このときのことを
「将来の決意を一層固めたものである」
と書き残しています。
それは果たしてどのような「将来」であったのか・・・・。
この後候補生たちは、満州鉄道に乗って新京まで行き、そこで
満州国皇帝愛新覚羅溥儀に拝謁を賜っています。
「ラストエンペラー」溥儀は、1932年、日本の後押しで満州国皇帝となり
施政を執ってもうこのころで7年目になっていました。
「満州国皇帝」に即位してから5年目です。
候補生たちはこのときに関東軍司令官にも伺候しています。
このころは梅津美治郎が就任する少し前で、前任の植田謙吉の頃です。
彼らは夢にも知りませんでしたが、このころ時あたかもソ連と満州の国境で、
日ソ国境紛争の一つであるノモンハン事件が起こっていました。
1939年のこの時期、国境での紛争件数は200件に上り、軍事衝突において
日ソともに戦死者は8~9千人に上るというものでした。
植田司令が候補生たちを拝謁したとき、ちょうど最後の戦闘が行われようかという時で、
司令官が兵学校の候補生と会っている場合だったのか?という気もしますが、
わたしたちが思うくらいですから候補生たちがこういったことを一切知らず、
後で聞いて驚愕したとしても当然のことだったかもしれません。
続く。