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海軍兵学校67期遠洋航海アルバムより~ヤルート島の「土人踊り」

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ハワイを出港した昭和14年の練習艦隊「八雲」「磐手」は、
太平洋をさらにすこし南下していきます。
次の停泊地、ヤルートに向かうためです。

ヤルートというのはマーシャル諸島の環礁にある小さな島です。
なぜこのとき練習艦隊がヤルートに向かったかというと、当時ここは
日本政府が委託統治していたからでした。

皆さんは「南洋庁」という言葉を聞いたことがありますか。

第一次世界大戦の後、連合国とドイツの間で調印されたヴェルサイユ条約で、
敗戦したドイツがそれまで植民地にしていたいくつかの領土は、
国際連盟に指名された国が委託統治することになりました。

アフリカのトーゴ、ルワンダ、カメルーン、タンガニーカその他、
そして太平洋のニューギニア、サモア、南西諸島などです。

日本は第一次世界大戦にはちょっと参加したため、ドイツ領ニューギニアであったうちの

マリアナ諸島、カロリン諸島、パラオ、マーシャル諸島

を南洋諸島として国連から委託されて統治することになったのです。
日本はこれで、

サイパン・ヤップ・パラオ・トラック・ポナペ・ヤルート

などに包括される島々を植民地として支配することになったわけですが、
日本政府はこれらの南洋諸島を統治するために「南洋庁」という役所を作りました。
南洋庁の本部はパラオのコロールに、上の各ゾーンごとに支庁が一つづつ置かれました。

委託統治については、国際連盟の定めた委託統治条項を守ることが定められており、

地域住民の福祉のための施政を行う義務(第2条) 奴隷売買・強制労働の禁止(第3条) 土着民に対する酒類供給の禁止(第3条) 土着民に対する軍事教練の禁止(第4条) 軍事基地設置の禁止(第4条) 信仰の自由及び国際連盟加盟国民による聖職者の行動の自由(第5条) 毎年、施政年報を国際連盟に提出する義務(第6条)

という内容でした。
つまり植民地じゃないのよ、統治なのよ、ということですね。
しかし、特に「強制労働禁止」とか「福祉のための施政」とか「宗教の自由」とか、
果たして他の、特にアフリカの統治を行ったイギリスやらフランスやらは、
本当にこれを守っていたのか、とすこし疑ってしまいますね。

実際はその懸念通りで、国連の「原住民の自主独立を尊重した上での統治」などというお題目を
まともに実行しようとしていた国などなく、名目は統治、実態は植民地というのが現実でした。

その中で、日本の統治は真面目に国連の指示を守ろうとしたと言えるもので、
何と言っても他の委任国との違いは原住民のための学校があったことでした。
ただし、この学校での初等教育は日本語で行われています。
日本政府が学校を作る以上そうなってしまうのは当然なのですが、
これが「原住民の自主独立」に則しているかというとちょっと違いますしね。

これをもって「言葉を奪われた」の「文化を強制した」の、未だに憎悪を剥き出しにして、
終わることのない謝罪と賠償を求めてくる国も世界には約1カ国あるわけですが、
当時非統治国でなされた統治国による教育の是非を、わたしは言っているのではありません。
今現代の価値観で帝国主義の善悪を論じるのと同様に、それは意味のないことだと思います。

日本の南洋庁は現地に公立の病院を作り、気象観測所を作り、
土木課などを置いてインフラの整備を行い、農業、水産、林業、畜産と、
あらゆる分野を日本の統治下で行ってきました。

この練習艦隊がヤルートを訪れたとき、すでに統治が始まってから20年近く経過しており、 
南西諸島はすでに「日本」となっていたということです。

ここで改めて海軍兵学校の歴代遠洋航海の航路、寄港地を調べてみると、
大正12年、「磐手」の艦長が米内光政大佐であった年に初めて、

「トラック・パラオ・サイパン」

という南洋庁の支庁がある島への訪問が始まっています。
以降、ヤルートを加えたこの4箇所が寄港地の定番となり、
ほとんどの練習艦隊がこのいずれかの島に錨を下ろすことになったのでした。


という説明はそこそこにして、ヒロ出港後から、続きです。



「艦内運動会」とありますが、なんとなく赤道祭りみたいですね。

この練習艦隊は赤道を越えてはいませんが、赤道に近づいたので、
赤道祭りっぽく運動会の仮装行列をやってみたということでよろしいでしょうか。

赤道祭りというのは外来のしきたりで、もともとは大航海時代、
すなわち帆船で航海していた時代に、赤道近くになると無風になることから、
神様に風を吹かせてくださいとお願いした儀式が元になっているそうです。

動力船になってからは儀式として残り、戦争中も大抵の船が赤道を越す時には
祭りこそしないまでも皆が一斉に祈りを捧げたものだそうで、
それは海中を進む潜水艦の中においても変わらずに行われたということです。

我が海軍では日頃の厳格さをここぞとかなぐり捨て、仮装して無礼講で祭りを行った
(もちろん平時のことですが)ということですので、
この仮装も「プチ赤道祭り」「ニアミス赤道祭り」の意味で行われたのではないでしょうか。



工夫を凝らした仮装ですが、特に一番右、トラウマになるくらいキモい。

一つ上写真での仮装している乗組員の皆さんですが、
着物やヅラ、看護婦さんの衣装なんかをいったいどうやって調達したのか・・。

そして、写真に写っている誰一人としてニコリともしていないのがシュールです。
特に赤鬼青鬼の一人、結構なイケメンですが、目を伏せて実に暗い。
決してやりたくてやっているわけではない、みたいなオーラ全開です。



ちなみにわが自衛隊の赤道祭りの様子を拾ってきましたのでどうぞ。
赤道を越えた時の南極観測船「しらせ」での赤道祭りの模様。
赤鬼さんの無表情に、昭和14年の艦上の鬼と同じような不承不承さが見て取れます。
え?鬼になりきってるだけだって?

それにしても、こ、この凝りようは・・・・・。

この「赤道門」はもしかしたら艦内に常備してあるもの?
そしてあまりにも似合いすぎている赤鬼と青鬼のパンツは一体どこで購入したのか。
こういうものを調達、制作するのに、公費は使えないときいたことがあるので、
もしかしたら全てポケットマネーで賄っているのか、などと色んなことが気になります。

ところでなんで赤道祭りに鬼が出ることになったんでしょうね。
どなたかこのあたりのいわれに詳しい方おられませんでしょうか。




艦内で行うのでどうしてもこういう小学校の運動会みたいなものになってしまうのかと・・。
パン食い競争のような感じですが、ロープの先に吊られているのは何でしょうか。
タバコのようにも見えますが、魚肉ソーセージかなんかかしら。
こういう競技の場合、圧倒的に背の低い人が有利です。(一番左)

ところで彼らの着ている2種軍装はすでに兵学校のリーファージャケット
(裾の短い上着)ではなくなっていますね。
このリーファーという言葉はファッション辞典で知った言葉ですが、
「士官候補生」という意味もあるということだったのでreeferという綴りで
調べたところ、これは「縮帆する人」という意味しかありませんでした。

士官候補生というとカデットとかミシップマンしか知らなかったのですが、
もしかしたらこういう隠語もあるのかもしれません。


あらためていただいた写真を確かめてみると、卒業したばかりの少尉候補生は
抱きミョウガの軍帽に短いジャケットという独特のスタイルであるはずなのですが、
いつの間に彼らは少尉軍服に着替えることを許されたのでしょうか。



内地から郵便が届きました。
後ろには小包もありますね。
郵便到着!とエクスクラメーションマークを打っているあたりに、
越山候補生のときめいた気持ちが表れています。

練習艦隊への手紙は、おそらく各寄港地に送られて艦隊が到着するのを
待っているのだと思われますが、彼らはいったいどのくらいの割で
家族からの郵便を受け取ることができたのでしょうか。



ここでの一大イベントはヤルートの島民の踊りです。

先日、陸軍部隊の「魔のサラワケット越え」を率いた「栄光マラソン部隊」
の話に興味を持って、その隊長、北本中尉が書いた本を手に入れたのですが、
この本では、苦楽を共にした愛すべき原住民のことを普通に「土人」と呼んでいます。

「土人」という言葉はネットで「民度の低い民族」というネガティブな意味で使用されるのみで、
放送禁止用語にもなっており、こういうのを見るとアレっと思うのですが、よく考えれば
オリジナルの「土人」には読んで字のごとく現地の(土の)人という意味しかなく、
なんでこれが差別用語に指定されたのか不思議でなりません。

こういうのって、差別用語ということに決めたから、否定的なイメージを持つんですよ。
差別が作り出される一つの構図ですね。


で、このヤルート島民も当時は「土人」と言われていたわけですが、
写真を見ると絵に描いたような、というかまるで冒険ダン吉に出てくる人たちそのもの。
見物している練習艦隊の皆さんも頭の中では

「冒険ダン吉の土人そっくりだなあ」

という感想をお持ちだったと思うのですがどうでしょうか。

ヤルートの島民は日本の統治下で学校に学び、読み書きができましたし、
統治後20年経っていたこの頃では、むしろ普段こんなスタイルはしておらず、
候補生たちに見せるために特別に腰蓑をまとっただけであると思うのですが。


ヤルートは環礁なので大型船の泊地に適しています。
この練習艦隊が寄港した直後くらいから、海軍はここに航空基地などを備えて、
対米戦に備えていたということです。

開戦後しばらくは後方基地となっていたのですが、昭和18年頃には連合軍の来襲があり、
昭和19年にかけては連日激しい空襲や艦砲射撃にさらされる激戦地となってしまいました。
食料も不足し、末期には毎日10名が餓死していくという中で、ここでも捕虜の処刑が行われ、
報復裁判では、自決した司令官の部下が、わずか30分の裁判を経て絞首刑に処せられています。


わずかこのときから数年で、この平和な環礁が悲劇の舞台となるとはあまり想像せず、
練習艦隊の乗員たちは、珍しい島民の踊りに目を輝かせて見入ったに違いありません。




ヤルートを出港するとき、現地の生鮮食料品が寄贈され積み込まれました。
白黒なのでわかりにくいですが、ドリアンのようなものが見えます。
手前の右側にあるのはおそらくジャックフルーツだと思われます。
なんでも地べたにゴロゴロなっている、やる気のない植物だとかで、
暑いところで文明の発達が遅れるのは、こういう食物を努力せずに食べられて
創意工夫をしようとしないからだ、という話をふと思い出しました。

この後、練習艦隊は太平洋を西北に進み、最後の寄港地サイパンに向かいます。


続く。




 


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