昨年の秋、海軍兵学校の最後の在校生となった某期の同期会解散会に出席し、
ここで色々とご報告させていただいたことを覚えておられるかとおもいます。
この写真はそのとき教育参考館前で撮られた参加者の記念写真です。
海軍墓地の前での団体写真のときには、お墓の間を駆け回って写真を撮っていたわたしも
ここにはちゃんと(といっても人の影に隠れるようにですが)写ることができました。
当同期会は既定方針に則り、去年を以って活動終結をした、と聞いていたのでわたしは
文字通りこの時が最後の顔合わせだと思っていたのですが、実はそうではなかったのです。
解散の理由というのは、やはり会の世話人が幽冥境を異にしてしまったり、
高齢のため、運営を行うことが体力的に困難になってきたからだったのですが、
そんな理由では執行本部以外の生徒さんたちは納得せず(笑)
「なんらかの形で会を継続してほしい」
という要望が解散前から出されたため、解散と同時に「クラス会」という別組織が創設されました。
仕事をリタイアしているほとんどの方々にとって(現役のお医者様もいることはいますが)、
生活のハリにもなっている同期会がなくなってしまったら、やっぱり困るんですね。
というわけで、先日、江田島邂逅以来初めてのクラス会が水交会で行われたのですが、
どういうわけか、わたしもまた参加をすることになったのでした~!
江田島以来ご交誼を結んでいただいている例の「長門」艦長の息子、Sさんが、
「今度水交会で★(仮名)元海幕長の講演会がありますがいかがですか」
とお声をかけてくださったのです。
★氏の講演は3年前に聴講させていただいたことがあり、★氏ご自身にも
練習艦隊壮行会や「いずも」就役の日にご挨拶させていただいていますが、
3年前と今とでは同じ「中国の海洋戦略」であっても多少の変化があるはずですし、
場所が水交会で主催が兵学校クラス会となれば、ためらう理由がありません。
二つ返事で参加を承諾し、当日は車でSさんをお迎えにあがることになりました。
水交会とは海軍省の外郭団体として「水交社」という名前で明治9年に発足しました。
終戦とともに解散したのですが、昭和27年に有志により、
「海軍の任務に関連し戦傷病者となった者および戦没者の遺族の援護」
を主目的にする任意団体として発足し、主に帝国海軍士官の社交と親睦に利用されてきました。
近年は旧海軍関係者が激減したため、実質海上自衛隊の活動に対する協力支援をメインに、
会員相互扶助等も行っています。
ここ原宿の水交会は、東郷神社と同じ敷地内にあり、築山と渡り廊下のある
実に風情のある大きな池を臨む建物にあります。
「昔、水交社は六本木あたりにあったんですよ。確かソ連大使館になったと思う」
とSさん。
現在のロシア大使館は麻布なので、多分ここのことをおっしゃっているのだと思いますが、
Sさんは海軍士官だった父親に連れられて、ここでフランス料理を食べたことがあるそうです。
以前お話ししたことがありますが、Sさんは4歳の時、戦艦「長門」で水兵さんに給仕されて
フルコースのフランス料理を食べたこともある、という方。
戦前、海軍兵学校に入学し海軍士官にになるというと、周囲の者は、
「白いクロスのかかったテーブルでフォークとナイフを使ってフランス料理を食べるの?」
と羨望の口調で尋ねたものだそうですが、印象だけでなく、海軍は実際に
料理というとなにかとフランス料理を共していたのですね。
余談ですが、海軍といえば上野の精養軒、というのも一般に膾炙したイメージです。
以前精養軒について調べた時、帝都在住の海軍士官には
「マナー向上のためすべからく月に何度か精養軒で洋食を食すべし」
みたいなおふれが出されていただけでなく、給料から精養軒にいくら支払われていたか
ちゃんとわかるしくみになっていたらしいことが何かのはずみで判明し、
わたしはひそかに海軍と精養軒の癒着を疑ったものですが、その話はさておき。
「この庭が好きなんですよ」
水交会に到着し、受付を済ませて会が始まるまでの間、庭の散歩に誘われました。
中国の庭園の池にありそうな池の上の回廊を渡りました。
自然池か人工池かはわかりませんが、周りの草木も手入れが行き届いています。
枝垂れている遅咲きの桜はわずかに花を残して風情があります。
池に向かって枝を伸ばしているのは遠くて分かりませんが染井吉野でしょうか。
「桜が満開の時に来たかったですねえ」
「あっ、カメがいる!」
10年以上は生きていると思しき大きなミドリガメ?発見。
さらに周囲を探索すると、このような状態のカメ一家が・・。
親・子・孫ガメと集まって文字通り甲羅干ししています。
この日は前半とてもお天気が良く、日差しが降り注ぐ好天気でした。
回廊から向こうは東郷神社の境内になるため、ここに鳥居があります。
鳥居は人間界と神の居所を分ける境に置かれるので、ここからが東郷神社ですよという印ですね。
昔「水交社」は築地の海軍用地(今の築地卸売市場)にありました。
その敷地内に「水交神社」というのがあって、日清戦争の戦勝祈願する護符を奉安し、
また戦没社員の霊を合祀するために創建されたのだそうです。
当初の鳥居は日清戦争の戦利品である魚雷を利用して作ったもので、
さすがにあまり趣味がよろしくないという意見でも出たのか、明治44年、
この鳥居に建て替えられたのだそうです。
昭和3年に「水交社」は芝区(東京タワー北西となり)に移転した時、
この鳥居もそちらに移転されて長らくそこにありましたが、社殿は
昭和20年3月の東京大空襲で焼失してしまいました。
銅製のため空襲にも焼失を免れたこの鳥居は、戦後の進駐軍の「水交社」建物接収の時にも
毀損を免れ、(さすがの進駐軍も鳥居を壊すことは畏れからできかねたのかと)
いまの「水交会」ビルが昭和56年建て替えられることになった時に返還され、
東郷神社に奉納されることになったというわけです。
現地の看板にはこのように書かれています。
”この鳥居は、半世紀もの間、変転する日本海軍を見つめ続け、
二度の大災禍にも堪えてきたものであります。
そして皇族方は海軍大臣以下多くの武官文官、また水交神社で結婚式を挙げた方など、
この鳥居をくぐった人々は数え切れません。”
水交会のロビーの一隅には、海軍を象徴するこんな展示がありました。
山本五十六元帥の筆による「常在戦場」の書。
そして、山梨勝之進大将のブロンズ胸像です。
これが書かれた昭和10年というと、軍縮会議予備交渉に出席した山本は帰国したばかり、
本番の軍縮会議には参加を辞退しています。
同年海軍航空本部長に任命された山本が、このころの心境を「常在戦場」と表したことは、
このころの激動の情勢を思うと、それも宜なるかなと頷かずにはいられません。
このころ、横山大観が絵の寄贈を申し出たということがあったそうですが、
「全力で勤務にあたるため芸術にひたる余裕なし」
と山本五十六は述べて、これを断りました。
山梨勝之進は水交会の初代会長でした。
先ほどの軍縮条約会議ではいわゆる「条約派」として締結に奔走した山梨ですが、
1933年にはその影響で予備役に追いやられる形となり、実質退職に至っています。
水交会が昭和27年にできたとき、山梨は初代会長として立ち上げに寄与し、
また軍人恩給の復活に尽力し、なんといっても海上自衛隊の創建にあたっては
政界とのパイプ役として影の大きな推進力を担っています。
5年間水交会の会長を務め、その後は終身顧問を務めました。
このロビーでは会合が始まる前、ほとんどの皆さんが立っていられずに座りこむため、
床面積がほとんどないくらいぎっしりとソファー椅子が置かれています。
ところで、なぜか海軍軍人には喫煙する人が多いような気がするのですが、
海軍軍人のために作られたこの施設のロビーでは、普通に皆タバコを吸っています。
海軍兵学校の生徒だったということは、どんなに若くても87歳のはずですが、
こんなお歳でピンピンしている人たちの多くが紫煙を燻らすのを見ていると、
もしかしたら喫煙と寿命ってあまり関係ないのかも、といつも思います。
そんなみなさんの様子を映し出しているガラスケースの中に収められているのは
軍艦「摩耶」の模型。
この模型を寄贈した福富喜太郎さんという方は、船舶研究家の肩書きをお持ちで、
検索したところ、名護市のホテル「ブセナテラス」に、学童疎開船で
米潜水艦の攻撃を受けて沈没した「対馬丸」の寄贈をしたという記事が見つかりました。
この時、
「模型を作るのに数百枚の図面が必要なのに、対馬丸の資料はほとんどなく困った」
という裏話をされているところを見ると、既製品を買って組み立てたのではなく
これも部品から自分で作り上げた模型のようです。
その隣にあったのは、海軍兵学校の遠洋航海に使われた
「出雲」「磐手」「八雲」
の練習艦隊トリオ。
これは兵学校77期の生徒(分隊番号オー308)が作ったらしく、
「77期呉における乗艦実習時の携帯を復元した」
と説明があります。
先日、67期の遠洋航海について何日かかけてお話ししましたが、
あの時の最後の遠洋航海に使用されたのは「八雲」と「 磐手」でした。
最後にさりげなくこんなことが書かれています。
「乗艦実習経験者は、マスト登り、ハンモック吊り、艦内旅行、
その他のシゴきを思い出してください。」
ガラスケースの中には購入できる書籍、CD、海軍カレーなどがありました。
思わず見入ってしまった戦艦「大和」の絵画、
「如何に強風吹きまくも」。
「大和ミュージアム」で生存者の証言にもあったように、「大和」乗員は
全員が甲板でこの軍歌を涙を流しながら歌い、出撃していきました。
大和の向こう側に見えるのは「初霜」でしょうか。
わたしはなぜかこの手前に見える渦が気になってしまいました(笑)
なぜ画家がここにこんな渦を描いたのかが・・。
続きます。