ヒラー航空博物館は、数多あるアメリカの航空博物館の中でも
なんというか資金が非常に潤沢なのではないかと思わせるものがあります。
去年の夏は合計三つの航空博物館に行ったのですが、オークランド空港にある
オークランド航空博物館は、レストアがなかなか進まず、何年も希少な機体を
敷地内に放置している様子がありましたし、軍用機が中心のキャッスルミュージアムも、
常に寄付を募り、維持していくための努力が機体の保存状態に反映されていない風でした。
しかしここはいついっても展示物のメンテナンスがちゃんとされているし、
そもそも展示の仕方に演出が加えられてドラマチックになっていたり、
航空に興味を持つ子供たちにサマースクールや定期的な航空教室を開催し、
リピーターを増やす工夫を常に行っていて、盛況です。
残り二つの航空博物館が、わたし以外の客の姿すらほとんどなく、
平日の閑古鳥が鳴いている状態だったのに比べ、ヒラーには必ず一定数の客がいました。
しかし、改めて調べたところ、ヒラー航空博物館のオープンは1998年。
カリフォルニアの非営利団体が母体です。
メンバーシップ制度で、年会費を下は40ドルから上は1万ドル(100万円)まで払い、
ベネフィットを受けたり、常時寄付金を募ったりして維持しているほか、
労働力(レストアに必要なメカニック)などもボランティアを採用しているようです。
ここには個人機用の飛行場が併設されていますから、飛行場の利用客には
大口のスポンサーもいるのではないかと思われます。
さて、冒頭写真は今日お話しするつもりの展示機、
HU−15 アルバトロス。
ヒラーのHPにはこれにamphibian(水陸両用)、さらに
Circumnavigated the world.(世界一周バージョン)と説明があります。
この「アホウドリ」の愛称を持つ飛行艇は、グラマンが開発したレシプロ双発。
ごらんのように、飛行艇独特の船底型下部を持っています。
飛行艇ですね。
宮崎駿監督の「紅の豚」は、登場人物の全員が飛行艇に乗っていました。
ポルコ・ロッソの飛行機のモデルはマッキM・33、ライバルのカーチスはカーチスR33−2、
他にもサヴォイア・マルケッティS・55、ハンザ・ブランデンブルグCC・・・・・。
いずれも1900年代、第一次世界大戦後に登場した飛行艇で、この頃は飛行艇に取って
黄金時代とも言うべき反映期、「飛行艇の時代」でもありました。
具体的な時代や国ですら分からないことが多い宮崎作品の中では珍しく、
第一次大戦後の世界大恐慌の不安と混沌の世界、と時軸をはっきり限定してありますが、
それは宮崎監督がこの飛行艇を作品で描きたかったからでしょう。
テーマのコアは主人公が第一次世界大戦でエースと呼ばれた戦闘機乗りで、
つまり「人を殺すのがいやで自分に魔法をかけて豚になった男」であること。
第一次世界大戦から人類は飛行機という武器で殺し合うことを始めましたが、
それでもこの時代は作品でも描かれる「騎士道的な名のある人間同士の戦い」が
航空戦に許された最後の時代であったとも言え、この時代設定には必然性を感じます。
主人公は人間であったとき、戦闘機マッキM・5に乗っていましたが、
豚となってからは飛行艇にその乗機を替えます。
このころ、高揚力装置が未発達だったため、滑走距離に制限がある陸上機と比較して
滑走距離に制限のない水上機は高出力化が行いやすく、いくつかの戦闘飛行艇が生まれました。
この映画にはいくつかそれらをモデルにした飛行艇が登場します。
しかし、技術の発達により陸上機でも高出力化が行えるようになったため、
水上艇は戦闘のためでなく、輸送に目的をシフトして製造されるようになりました。
つまり、飛行艇が歴史的に悲惨なイメージを背負っていないことが作者の用途にぴったりで、
かつこの頃の空気をノスタルジックに表現するツールとして得難い題材だったのでしょう。
というわけで今日は、ヒラー航空博物館の飛行艇関連の展示をご紹介します。
グラマンは大戦中、G−21「グース」という、
名は体を表すというか、いかにも「グース面」をしたこの飛行艇を既に作っていました。
この水陸両用艇はグラマンが最初に民間用に作ったもので、
米軍や沿岸警備隊などでも輸送任務等で活用されました。
もともとロングアイランドに住む富豪がニューヨークに飛ぶための飛行機を
グラマンに依頼したというのが開発のきっかけです。
この「グース」の後継タイプが、冒頭写真の「アルバトロス」です。
戦後すぐ、アメリカ空軍と海軍の両方から「墜落したパイロットの救出」
という用途のため発注されたので、陸上でも外洋でも運用できるように、
その胴体には深くて長いV字断面を持ち、波浪状態の海面に降りることを可能にしていました。
ところで皆さん、飛行艇と言えば!
我らが海上自衛隊には名機US−2がありますね。
戦後、川西航空機と海上自衛隊はあくまでも飛行艇にこだわり、
PS-1、救難艇US-1、そして現在のUS-2につながる名作水上艇を生み出してきました。
それがあの「エミリー」、二式大艇に始まる日本の飛行艇の系譜です。
グラマンは戦争中「フォーミダブル・エミリー」(手強いエミリー)と米軍に恐れられた
名機二式大艇の性能に興味を示し、川西の技術を自社へ移転しようと考えました。
そこでUF-1救難飛行艇、つまりこのグラマンHU-16「アルバトロス」飛行艇1機を
川西航空機に提供し、川西はそれを基に実験飛行艇UF-XSを製作しました。
UF-XSは昭和37年12月の初飛行から昭和41年まで実験と調査を行い、
十分な基礎データを取得したうえでPS−1の制作に取りかかっています。
アルバトロスの制作は戦後すぐに始まり、初飛行は1947年。
ここにあるアルバトロスはもっと新しいものですが、この胴体、
戦後捕獲した二式大艇の波消し装置そっくりに思えるのですが、どう思いますか?
ほら、このシェイプも二式そっくりです。
さて、ここにあるアルバトロスですが、1997年3月にここベイエリアのオークランドを発ち、
5月29日までの73日間で世界一周飛行をしています。
このスポンサーであったらしいアップル社の昔のロゴが鮮やかに描かれていますね。
この赤道を縫うようなコースで、フロリダをアメリカ本土の最後に、そのあとは南米の
ベネズエラからブラジルまで行き、アフリカ大陸にはダカール、セネガルから入り、
スペイン、アテネ、ギリシャ・エジプト、インド洋ではパキスタン・カルカッタに寄り、
タイ、シンガポール、インドネシアから下に降りてオーストラリアへ。
ポートモレスビーなどという、戦記好きにはおなじみの名前もあります。
太平洋ではクリスマス諸島やハワイなどを点々と経由し、ホノルルからオークランドに帰還。
オークランドから出発して東周りで世界一周する。
このコースを見て、アメリア・イアハートの名前を思い出した方はいませんか?
そう、この企画は、かつて女流飛行家イアハートが、最後の挑戦となった世界一周飛行、
残念ながらそれはニューギニアのラエ、(ポートモレスビー近く)を出発したのを最後に
永遠に消息を経った、あの挑戦をそのまま再現しているのだそうです。
操縦したのはここベイエリア在住の二人の飛行家で、この飛行機は、たった一つの
「世界一周」という目的のためだけに飛んだ、初めてのアルバトロスとなりました。
それでは皆様を機内へご案内いたします。
コクピットとフライトアテンダント?のジャンプシート。
そして客室でございます。
こんなに豪華なシートならば、世界一周旅行もどんなに楽だったでしょう。
この周囲には、かつて全盛期だった頃の飛行艇の資料もあります。
マーチンM−130、クリッパー。
このクリッパーあたりは船底がただ丸いだけであるのに注意。
パンアメリカン航空が1935年から1941年まで運用していました。
クリッパーはここに描かれているように全部で三機制作されました。
ボーイングB−314。
人員輸送用に12機制作され、全盛期には大統領機となったこともありますが、
飛行機の発達によってその存在意義も薄くなり、
1946年に戦争が終わると全て退役しました。
写真は1939年、パールハーバーで翼を休めているB−314。
飛行艇に艀(はしけ)から人々が乗り込む様子が書かれたリトグラフ。
下のエアメールは、この飛行艇でハワイに旅行をした人が国内に宛てて出したもので、
1940年7月12日の消印があります。
表記がなかったので自分で調べるしかなく時間がかかりましたが(笑)
おそらく
シコルスキー S42B 旅客飛行艇
ではないかと思われます。
建設途中の橋が写っていますが、マイアミのキー諸島を結ぶセブンブリッジマイルかな?
マーチンM−130もまた旅客機で、広い機内にはベッドやラウンジを設けてあり、
ゆったりと空の旅を楽しめる仕様になっていたそうです。
そして"チャイナ・クリッバー"の名が与えられ、ハワイ経由で東アジアへの航路に使われました。
シコルスキーと同時期の飛行艇ですが、大きさも航続距離もこちらが上回っていました。
この頃の旅行は「移動することが旅行」なので、乗る方も「ちょっと早い船旅」位の感覚です。
実際チャイナクリッパーは巡航速度時速252kmというものでした。
元々の写真がボケていたのでさらにボケていて何が書いてあるのか分かりませんが、
これはチャイナクリッパーのクルーです。
ところでこのヒラー航空博物館の正面にこのような慰霊碑があることを
去年エントリでお話ししましたが、これは、M−130の三番機である
フィリピンクリッパーが、まさにここ、ヒラー博物館のあるこの地に墜落し、
その際死亡した人々の魂を悼むために建てられたものです。
M−130は全部で三機作られました。
チャイナクリッパー、グアム近海で行方不明になったハワイ・クリッパー、
そしてこのフィリピンクリッパーです。
このときはM−130は海軍に徴用されていたため、乗っていたのは大半が海軍軍人でした。
クルー9人、乗客10人。
碑銘の一番最後に見えるのは女性名で、看護士の大尉です。
そして、チャイナクリッパーも1945年1月に着水に失敗し、喪失しました。
オークランドにあったショート・ソレント(インディアナジョーンズの撮影に使われた)
についてお話ししたときにも思いましたが、低速で港港を、
しかも明るい時間だけ飛んでゆっくりと移動する、そんな交通手段は
ジェット旅客機が世界の都市を瞬く間につなぎ、地上ではアメリカですら
リニアモーターカーを日本から技術輸入しようかという今日、(笑)
よほどの物好きか乗り物そのものを楽しむ目的でもなければだれも必要としなくなりました。
航空の発達に伴い、飛行艇の時代が終わりを告げるのは自然の淘汰でもあったのです。
しかし、我が国では、例えば小さな諸島だけでできているモルジブ共和国が
移動手段を全て飛行艇に頼っているように、海洋国家ならではの必要性から
救難艇という分野で独自の道を歩み、その技術をUS−2という飛行艇に結集させました。
ヒラー航空博物館にあるアルバトロスが世界一周のためだけに作られたように、
かつての「飛行艇の時代」を懐古するためのものではなく、
今ここにいる我々国民をいざというときには救難するという存在意義を持って。
そこで、自衛を除く戦争という手段を放棄した日本の軍隊である自衛隊が、
かつて敵を畏怖させた二式大艇をUS−2に乗り換えたことは 、ポルコロッソが戦闘機を降り、
飛行艇に乗り換えたこととなんだか繋がるなあ、などと思ってしまったのですが、
こういう考え方は宮崎駿監督の思うつぼでしょうか(笑)