先日防衛省のお膝元にある市ヶ谷で行われた防衛団体、GO!友会の懇親会。
この日をもってこの団体に参加することが決まったわけですが、与えられた肩書きは
防衛部長
防衛部長ですよみなさん。
防衛部長って何をしたらいいのかさえわかりませんが、とにかくまた名刺に書くことが増えたわ。
地球防衛団体の顧問もそうですが、こういう関係団体って仕事らしい仕事がないせいか、
肩書きといっても考えつく限りのそれらしいものを濫発してるみたいで、
ふと民主政権時代に一人でも多く「元大臣」の肩書きを与えるために、節電大臣とかボランティア大臣とか、
学級会の係みたいな大臣のポストを増やしていたのを思い出しました。
防衛団体というものが、社会的には実質学級会くらいの位置付けだってことなのかもしれませんが。
さて、この懇親会には、何人かの国会議員の中に自民党の宇都隆史議員がいました。
外務大臣政務官として、世界を飛び回っている宇土議員、この懇親会の挨拶でも
「7時間後は日本を出発する飛行機に乗っています」(行き先は失念)
ということでした。
このように外務大臣政務官は激務であるようで、先月は国某協会主催の講演会が
政務官としての任務が入ったため中止になり、残念に思っていたところです。
ここで見かけたが千載一遇のチャンスと思い、直接ご挨拶をさせていただきました。
この日の水交会会長の挨拶では、奇しくも海上自衛隊の練習間隊出航が
この直前に行われたことの報告があったのですが、遡ること1年前、
平成26年練習艦隊を晴海埠頭に見送ったわたしは、半年の航海を終えた彼らを、
同じ埠頭に迎えるという光栄に浴しております。
このとき、海上自衛隊の歴史上初めて、外地で戦没した旧日本軍将兵のご遺骨が
練習艦隊の旗艦「鹿島」に抱かれて日本の土地を踏む瞬間を見たのですが、
この帰還の実現には宇土議員が
「党遺骨帰還に関する特命委員会事務局長」
として奔走し、外務大臣政務官として現地にも赴いたことを知る身として、
そして国民の一人として労いの一言を述べさせていただきたいと思ったのです。
遺骨に花を手向けるため歩むその日の宇土議員。
このとき、やはり出席していた佐藤正久議員。
ところで、民主党政権時代、全てのことは暗転し、日本は没落への道をひた走り、
国体崩壊までまっしぐらだった、と思っている方は多いかと存じます。
確かに民主党の支援団体を見ただけでも、よく3年3ヶ月の間国が保ったものだとは思いますが、
細かいところでは必ずしも日本の不利益だけを目的に政治をしていたわけでもないのです。
・・・・って当たり前なんですが、こんな解説をしなければいけないこと自体、
あの政権がいかに異常だったかってことでもあるんですけどね。
特にこの戦没者の遺骨収集事業。
「史上最低の無能総理」とまで言われた菅直人が、ことこの遺骨事業に関しては
やるべきことをやっていたことだけは認めなくてはフェアではないでしょう。
硫黄島の遺骨収集作業の大幅な効率を上げるため、アメリカの公文書館で戦闘当時の
資料を探せといったのも菅元総理本人だったという話ですし、その結果、
公文書館で見つけた地図に「エネミーセメタリー」の文字を見つけ、そこから集団で埋葬された
日本軍将兵の遺骨を収集することにつながったわけですから、これは紛れもなく「功績」です。
そういえば菅元総理が、ある日の国会で唐突に
「硫黄島での遺骨収集事業は、わたし”が”やった」
と言いだしたことがありました。
わたしはちょうどそれを車の中で聞いていたのですが、もともとそのようなことが
議題に挙がっていない答弁のさなかの、まさに唐突な発言に思われました。
今考えれば、ご本人としては、これは誰からも評価されるべき功績の筈で、
俺がこんなことをやっているなんて知らないだろう!
責めてばっかりいるんじゃねーよ野党!これは認めてくれよ、という、いわば
日頃追い詰められてばかりいる者の”窮鼠猫を噛む”的唐突発言だったのかもしれません。
この功績が顧みられなくなったのは、たとえば遺骨に軍手のまま手を合わせている写真を
うっかり撮らせてしまい、それが報道に流れて
「票のためのパフォーマンス」
なんていわれてしまったり、それを打ち消すに余りある日頃の行いだったり、
失礼ながら当人の人徳のなさから来たこととはいえ、少し同情に値します。
まあ、菅直人が始めたことでもないし、彼だけがやったってわけでもないのですがね。
それはともかく、こと戦没将兵の遺骨帰還に関しては、それこそ超党派で
少しずつではあるとはいえ、切れ目なく前に進めているのは確かですが、
今までは法制化されていなかったため、それを宇土議員は特命チームの長として
佐藤議員らとともに推し進めており、ついに今国会で承認されたとのこと。
しかし法制化にはある程度タイムラグがあるため、実施は今の予定では8月になるそうです。
「それは何としてでも8月15日までに間に合わせていただきたいものですね」
わたしがいうと、宇土議員は
「もちろんその日には何が何でも間に合わせるつもりでやっています」
と返答されました。
この日、やはりお話を伺った元陸幕長は
「日本の終戦は8月15日じゃないです。
天皇陛下のお言葉があった日を終戦にしてしまっているけど、
本当の敗戦はミズーリの上での降伏調書に調印した9月2日です」
というのが持論で、 まあわたしも厳密に言うとそんな気がするのですが(笑)
いずれにしても遺骨の帰還を法律ですることが戦後70年の節目には実現するのは、
遅きに過ぎるという気はしますが、また一つ「戦後」から一歩進んだと言えるのかもしれません。
しかし、ご遺骨の収集事業そのものは、まだまだ「法制化で緒に就いただけ」です。
海外などからの戦没者の御遺骨の収容は、昭和27年度から南方地域において始まりました。
その後、平成3年度からは旧ソ連地域における抑留中死亡者について、
更に平成6年度からはモンゴルにおける抑留中死亡者についても御遺骨の収容が可能になりました。
この結果、これまでに約34万柱の御遺骨を収容し、
陸海軍部隊や一般邦人の引揚者が持ち帰ったものを含めると、
海外戦没者約240万人のうちの約半数(約127万柱)の御遺骨を収容しています。
戦没者の御遺骨が残されている地域には、相手国の事情や海没その他の自然条件等により
収容ができない地域等が残されていますが、政府としては今後も現地政府などからの
残存遺骨情報の収集に努め、そうした情報に基づき、御遺骨の収容を実施することとしています。
相手国の事情により御遺骨の収容ができない国には、外務省と連携して、
御遺骨の収容の実現に向けて努力しているところです。
なお、旧ソ連及びモンゴル地域においては、先の大戦の後に約57万5千人の方々が抑留され、
約5万5千人の方々が抑留中に死亡されていることから、
こうした抑留中死亡者の方々に関する埋葬地の特定や計画的な御遺骨の収容の実施に努めており、
平成26年度までに19,445柱の御遺骨を収容し、モンゴル地域についてはおおむね収容が終わっています。
そして厚労省では、日本人戦没者のための慰霊碑を建立することと、
慰霊巡拝を計画的に実地して、遺族の方々の巡拝を支援しています。
(厚労省HPよりの抜粋)
まだこのような法制が敷かれていないにもかかわらず、去年の練習艦隊が遺骨を持ち帰ることになったのは、
宇土議員や佐藤議員らと防衛省、そして当時の海幕長であった河野統幕長、
現場のすべての熱意によって実現したものだそうで、わたしが
「練習艦隊が遺骨を持ち帰るというのはこれから恒例となるのですか」
と尋ねると、
宇土「河野統幕長、当時海幕長なども大変そのことに乗り気で是非そうしたいと
いうことになったので、おそらく間違いはないですが、
練習艦隊が旧日本軍の戦跡に毎年寄港するかというと、そうではないので・・。
たとえば今年の練習艦隊は、マゼラン海峡を抜けた後は南米一周です。
日本軍の戦跡となると、パールハーバーしかないんですよ。
ですから毎年というわけには行かないのですが、寄港できる年には実現させたいとの意向です」
わたし「もちろんどんな方法で帰ってきても、日本の土を英霊が踏むことには違いないですが、
海軍艦で日本の地を後にした方々ですから、できるだけ海自の艦で帰して差し上げたいですね」
宇土「そうなんですよ。
ああいう儀式の時には、海自は殉職者の慰霊の際に使う”葬送の譜”を演奏するのが
恒例となっています。
”葬送の譜”って、らーらららーら♪(とメロディをフルで歌うw)というあれですが、
わたしは、”それではだめだ”と。
”お迎えには彼らが知っている曲でないとだめです” と言って、
”海行かば”を演奏することを・・・、こう言っては偉そうですが、命令?したんですよ」
わたし「ああ、それで”海行かば”だったんですね・・・。
わたしは旧軍の将兵のみなさんをお迎えするのにこれ以外ない曲だと思っていました」
宇土「あの曲が流れた時ですね、わたしもですが、あそこにいた者は皆涙を流しました」
わたし「わたしも涙を抑えられませんでした・・・。
このメロディを今、英霊の方々はここで一緒に聞いていると思って」
あの「海行かば」の演奏がご本人の指示によるものだったと聞いて、
わたしは思わず目の前の宇土議員に頭を下げずにはいられませんでした。
わたしが、幕僚の1佐から聞いた、
「航海中、ご遺骨を安置した”鹿島”の船室には常に誰かが手を合わせるために訪れ、
実習士官達にとって、また乗組員達にとっても、
これに勝る精神教育は無かったに違いないと思っております。」
という言葉をもうご存知だったかもしれませんが、お伝えしたところ、
こんな話をきかせてくれました。
ホニアラ島でご遺骨を明日は「鹿島」に乗せるという日、現地は篠突くような大雨に見舞われ、
明日の式典はどうなるかと皆は危ぶんでいたところ、
当日は昨日の荒天が嘘のように晴れ渡り、抜けるような青空が広がったというのです。
前日の雨は、日本からの迎えが来てくれたことに対するの英霊の涙雨だったのかもしれない、
と皆は言い合ったそうです。
が、 ガダルカナルのご遺骨の全柱帰還までにはまだまだ及びません。
宇土議員も、
「 わたしはあの雨は、未だあの地にあって帰還できない方の涙でもあると思いました」
自分のこれまで成したことは、まだ道半ばにすぎないことを肝に銘じている人の表情でこう言いました。