大東亜戦争で日本領土で地上戦が行われたのは唯一沖縄だけでした。
巨額の制作費を投じて世に出されたS・スピルバーグ制作の「ザ・パシフィック」は
その最終週近くに沖縄での地上戦がアメリカ側の視点から描かれます。
このブログでもかつて映画「ひめゆりの塔」を扱ったことがありますが、
犠牲になった女子学生に主眼を据えるなど、被害者の立場から語った日本映画はいくつかあり、
戦争映画に挿入されているものも含めれば、相当な数になるかもしれません。
しかし、アメリカ側から沖縄戦を描いたものはもしかしたら初めてかもしれません。
このテレビドラマシリーズは、元海兵隊員ユージーン・スレッジのノンフィクション、
「ペリリュー・沖縄戦記」を始め、実際にこれらの戦闘に参加した軍人の証言を
ドラマにしており、そのために大変リアリティのある描写が話題になりました。
そこにはヒーローはおらず、市井の善良な一市民が狂気の戦場で何を見、何をしたか、
淡々と事実が描かれるため、米兵が行っていた非人道的行為も糊塗することなく
そのまま平坦とも言える調子で映像化されています。
映像のあまりのリアリティに、わたしはこれをHuluで通して観たとき、
大画面で見なくてよかったと何度も思ったくらいです。
そして10シリーズの9番目が「沖縄」なのですが、ここで最も印象的だったのは、
乳飲み子を抱えた日本女性が、米兵に近づいていって自爆するという場面でした。
しかし、証言から取られたシーンが多いこの映画で、なぜかここだけ創作だそうです。
実際、民間人が軍役に就いている知人から手榴弾を入手するなどして自決したり、
本土決戦に備えて、少年兵に対戦車自爆攻撃の訓練を行ったという事実はありましたが、
女性や幼児による自爆攻撃は、米軍側の資料を含め、史実に残されていません。
しかし、捕虜にしようとした日本兵が米兵を道連れに自爆したり、米兵が民間人
(映画では少年だったが原作では老婆だそうです)を撃ち殺したり、ということは
度々起こったことであり、穿った考え方をすると「子連れの女性が自爆」という創作は、
「であるから、米側としては、民間人であっても殺すしかなかった」
というマイルドな言い訳として挿入されたという気がします。
それにしても、米軍が沖縄に侵攻してきたとき、覚悟の上で軍に献身的な協力をするも、
次々と斃れていった沖縄県民が、戦後、本土の犠牲となったことの怨みをアメリカではなく
「日本」と「軍」に持ち続けるのも当事者であれば致し方ないこととも理解できます。
そんな沖縄県民ですが、彼らの怨みの対象はなぜか海軍にはないと言われます。
その理由というのが、この大田中将(最終)の最後にありました。
太田實少将は海軍兵学校41期。
同期には草鹿龍之介、木村昌福(まさとみ)などがいるクラスなのですが、
このクラスの恩師の短剣4人には、現在名前を聞いてすぐにそうとわかる軍人は一人もいません。
一番「出世」した草鹿龍之介も118人中26番ですし、109番だった木村昌福、
そして64番だった太田が後世に名を残しています。
また先日「ルーズベルトニ与ウル書」で取り上げた市丸利之助もこの学年で、
(彼の成績は22番と”比較的”上位ですが)木村、市丸、そしてこの大田少将に通じるのは、
いずれもその評価が、ハンモックナンバーで自動的に出世した地位で為した功績でなく、
もっと深いところの、人格や将器から生まれてきた結果であったことに注目すべきでしょう。
超余談ですが、この学年の後ろから7番目のハンモックナンバーに「東郷二郎」という名前があります。
これがうわさの東郷元帥の息子か?と思ったのですが、そうではなく、東郷は東郷でも、
日清日露戦争で第6戦隊司令官だった東郷正路中将の息子でした。
アドミラルトーゴー平八郎さんの方の息子はその一学年上の40期ですが、これも今調べてみたところ、
後ろから数えたほうがずっと早い、144人中121位なんですね(T_T)
しかしまあ、全員が超優秀な集団であるわけですし、ハンモックナンバーが下の方、
といっても本人の不名誉だとはわたしは全く思いません。
東郷元帥だってそもそも秀才というタイプではなかったわけですし、
現に後世に称えられる軍人はハンモックナンバーとは無関係なことが多いのは、
今説明した実例にもある通りです。
大田少将は昭和21年1月から沖縄方面根拠地司令となり、その3ヶ月後に始まった沖縄戦において
進退極まり、五名の幕僚とともに6月13日、壕の中の司令官室で自決しました。
軍人として華々しい功績をあげたわけでない一司令官の名前が現在も忘れられておらず、
そして沖縄の人々が海軍に対する反感を持たなかった理由は、大田少将が自決寸前、
海軍次官宛に打った一通の電報が、沖縄県民の心情を代弁していたからに他なりません。
沖縄県民の奮闘と犠牲を称え、後世必ずそれに報いてやってほしい、と締めくくられた電報には、
沖縄戦において、彼らがいかに一丸となって戦い、犠牲的精神を発揮して、
父祖伝来の土地を守ろうとしたかが、簡潔な、しかし血を吐くような調子で述べられていました。
それは現代語訳にすると次のようなものです。
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、
県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる
県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、
現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせする
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、
県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった
にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛招集に進んで応募した
残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、
しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、
軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、
辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、
砲弾運び、挺身切り込み隊にすら申し出る者までいる
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、
女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、
生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした
頼れる者のない重傷者の看護を続けている
その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ
移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して
勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)
ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に(判読不能)与えることがないまま、
沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという
米軍上陸当時、沖縄戦に備えて配備されていた部隊は、
運天港と近武湾に配置された震洋隊や咬龍隊、
魚雷部隊などの海上攻撃部隊、
南西諸島航空隊、
第951航空隊沖縄派遣隊、
砲台部隊、迫撃砲部隊
などです。
大田少将が、そのなかで第一次上海事変や2.26事件にも参加した経歴を持ち、
海軍における陸戦の権威であったのは確かですが、この人事の陰には、
前任の司令官が艦艇出身で、陸戦の指揮能力を全く持たなかった、とう事情がありました。
米軍が読谷海岸に上陸した時、大田少将は沖縄本島で1万人を指揮していましたが、
そのうち陸戦隊として投入できる兵力はわずか600人ほどで、しかも赴任にあたって、
大田少将は比喩でもなんでもなく、
「武器がなく竹槍で戦わなくてはいけないらしい」
というようなことを家族に漏らすという有様でした。
第32軍は米軍の飛行場占領以来、防御基地に立てこもり、米軍に対して
多大な犠牲を強いていましたが、参謀本部から
持久戦を捨てて攻勢に出るように
という要求が相次ぎます。
この要請は、実は海軍の主張によるものだったということですが、
5月4日に行われた総攻撃は、米軍の強力な防御砲火によって失敗しました。
このことが関係しているのかどうかはわかりませんが、その後5月24日、
米軍の上陸によって陸軍が首里を撤退することに決めたとき、陸軍の第32軍は
海軍司令部を陸軍第32軍の作戦会議に呼びませんでした。
そして直前になって撤退命令を出したのですが、大田少将は敢然とこれを拒否しています。
当初軍司令部が首里撤退に当たってその援護を命じたとき、大田と司令部は
その命令を読み誤り、一旦完全撤退しながら後から復帰しており、
大田の拒否はこのときの齟齬からくる陸軍への拒否だという説もあります。
このとき、「撤退をお断りする」電報はこのような内容でした。
「海軍部隊が陸軍部隊と合流するということは本当にやむを得なかったわけで、
もとより小官の本意ではありません。
したがって南と北に別れてしまったと言えども、陸海軍協力一体の実情は
いささかも変わっていないのであります。
今後はそちらからの電文にしたがって益々臨機応変に持久戦を戦うつもりです」
この電文からはなんとも言えず、実は米軍に退路を断たれたため、
撤退することは敵わなかったから、という推測も成り立ちますし、これは個人的意見ですが、
もしかしたら、大田少将は、撤退によって沖縄県民に犠牲を強いる可能性を懸念したのかもしれません。
事実、陸軍が首里を捨てて島尻地区に撤退したことによって、そこに避難していた島民が
結果的に激しい地上戦に巻き込まれることになっています。
いずれにせよ、この電報を発した翌日、海軍司令部は米軍三個連隊に包囲され、
二日間の抵抗ののち、大田少将は牛島軍司令官に対して
「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり。
根拠地隊は今13日2330玉砕す」
と決別電報を打ち、司令部の壁に辞世の句、
「大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり」
と書き記し、海軍次官宛にあの電報、その最後に
「沖縄県民斯く戦ヘり 県民に対し後世特別の御高配賜わらんことを」
と記された後世への遺書を打電して自決して果てたのでした。
アメリカ公刊戦史に記された沖縄戦の記述はこのようなものだそうです。
小禄半島における十日間は、十分な訓練もうけていない軍隊が、装備も標準以下でありながら、
いつかはきっと勝つという信念に燃え、地下の陣地に兵力以上の機関銃をかかえ、
しかも米軍に最大の損害をあたえるためには喜んで死に就くという、日本兵の物語であった。
アメリカの沖縄戦を語る視線は、むしろ残酷にも思えるくらいの憐憫に満ちています。
大田少将の兵学校では卒業時の成績は、だいたいクラスの真ん中。
学年途中で病気をして一旦最下位になったからとはいえ、入学時の成績も120名中53番ですから、
団体があれば必ず一定数いる、
”どんな集団に組み入れられてもなぜかいつも中間地点にいるタイプ”
であったという気がします。
その人物像もも皆が口を揃えて、温厚で包容力に富み、小事に拘泥せず責任感が強かったと証言し、
いかなる状況に遭遇しても不満を漏らさず、他人を誹謗するようなことはなかったと言われます。
しかしその反面、家ではすべての事は妻に任せっきり、髭剃りすら寝たまま妻にやらせる亭主関白。
妻とはそういうものだと思って育った娘が、新婚の夫に同じことをしようとしたら、
婿殿は刃物を持って迫ってくる嫁に殺気を感じて飛び退いたという笑い話まであります。
「軍人の妻になったからには夫が一旦任務に就けば、家庭のことはすべて自分でやれ」
という考えのもとに、大田自身は、たとえ子供や妻本人が病気でも、一切手を貸しませんでした。
大田中将は子沢山で、男女合わせて11人の子供がいました。
その理由というのも、兵学校で一番後に結婚したと思ったら、もう一人未婚が残っていて、
さらに一番若い嫁(18歳)をもらったと思ったら、さらに若いのと結婚した同級生がいた為、
「何も一番になれないのは悔しいから、子供の数でクラス1になる!」
と妻に向かって宣言したからだそうです。
11人の子供たちへの教育方針は”海軍式(海兵式?)”。
大田家の朝は海軍体操に始まり、心身を徹底的に鍛えるという家訓のもと、
妻は夫のいない間も、毎日子供たちを連れて海に泳がせに行かねばなりませんでした。
父親である大田少将が子供たちを率いる時には、皆が見ているのも構わず、
砂浜で海軍式号令をかけて、海軍体操を始めるのが常でした。
そして、自分が胃腸を患ったせいで、つり革につかまるのはもちろん、
お釣りを受け取っても激怒されるという理不尽な潔癖性ぶりで子供たちを悩ませていました。
そんな父、大田中将が沖縄に出征が決まった時、本人はもちろん家族も、
それが今生の別れになると明確に理解していました。
別れの日、海軍の車が迎えに来ている辻まで出た大田家の者は、
最後に大田少将が白い手袋をして敬礼をしたまま、ゆっくりと一人一人の顔を
まぶたの裏に焼き付けようとでもするように見つめていたのを覚えています。
そのとき、男児の一人が、父親に向かって海軍式の敬礼を返しました。
大田少将の息子のうち、二人は戦後、海上自衛隊に入隊しました。
三男の落合(たおさ)(養子に行き苗字が変わった)は1991年、
自衛隊初の海外派遣任務となったペルシャ湾掃海派遣部隊を指揮して、
「湾岸の夜明け作戦」に参加しています。
家族への厳しくも愛のある接し方を見ると、「外柔内剛」という言葉が浮かぶのですが、
最後の「撤退お断り」はともかく、大田少将は陸軍とも協調できる人物でした。
しかし、5・15事件に始まる一連の軍人の反乱については、軍人は政治に関与しないという理念から
怒りすら抱いていたわけですから、ここ沖縄で、三月事件・十月事件の首班であった
長勇と協調して戦うということになったときには、さぞ複雑な思いを持ったと思われます。
ところで戦後沖縄県民が「海軍なら許す」という傾向だったのも、
沖縄における陸軍が、外敵と戦うのに必死なあまり、ともすれば沖縄県民に遺恨を残すような
「県民軽視」に走りがちだったのに対し、大田少将の遺書が軍の姿勢を批判する一言すら加えた、
県民の犠牲と努力に言及したものであったからに他なりません。
そこには「天皇陛下万歳」も「皇国の興廃」という言葉も・・、
軍人の遺書や最後の言葉に必ず見られる定型の文句が全くありませんでした。
当時の帝国軍人として、最後にこういう本音を、しかも海軍宛に打電するのは異例のことで、
このことだけをとっても、大田少将を勇気ある人と讃えるのにやぶさかではありません。
しかし、そこであえて規格外とも言える遺書を残した大田少将という人は、
同期で3ヶ月前硫黄島に死した市丸少将の言葉を借りれば、「干戈を生業とする武人として」
護るべきは「皇国」という抽象的な概念めいたものではなく、
そこに生きる国民であると明確に自覚していたのに違いありません。
大田少将始め、司令部が自決を遂げた壕から発見された軍艦旗には、
誰が記したのか、「沖縄の日没」という文字が墨で遺されていたということです。