空母「ホーネット」は現在海軍博物館として、そのものだけでなく
広い艦内にたくさんある区切られたスペースを利用して、海軍軍艦をトリビュートした
メモリアルルームのような展示がなされています。
「ベニントン」「ガンビア・ベイ」「フランクリン」
など、だいたい一部屋ごとにテーマが一つづつまとめられているわけです。
それはセカンドデッキといってハンガーデッキの一つ下の階ですが、
立ち入りを禁じられていたさらに一つ下のサードデッキには、後から調べたところ
などがあったことがわかりました。
艦内監獄、特別兵器室、カタパルト機械室、歯医者、ベーカリー・・。
ぜひ見てみたいのですが、これは「一泊プラン」にでも参加しないとだめかな。
ちなみに、以前少し触れた「ホーネットの幽霊」ですが、英語のサイトだけに
「ホーネットは幽霊が頻繁に目撃されることでも有名」
なんて書いてあったりして、それがテレビ番組などでも取り上げられたり、
「ゴーストハンティングツァー」なんかが企画されているらしいこともわかりました。
こちらも一度くらいここでお伝えするためだけに参加してみたいんですけどねえ・・。
さて、他の軍艦などについての展示はだいたい艦内でも下の方にあったのですが、
ハンガーデッキから細い階段を上がっていった一段上に
「ジャパニーズアメリカンコーナー」
というのがあるのに気がつきました。
車椅子では物理的にたどりつくことすら不可能な場所にあるのがなんですが、
上がってみてびっくり、そこには日系アメリカ人、特にあの「世界最強」と言われた
日系人部隊「442大隊」にまつわる資料が網羅されているではありませんか。
昨年夏、「ジャパニーズアメリカンセンター」で日系人の歴史を学びましたが、
日系人部隊の資料については、ここが軍艦博物館であることからか、
たいへん充実しているように思われました。
このコーナーの入り口にあったフラッグには、
「アメリカ陸軍情報部」
「第442連隊戦闘団」
「U.S.S. ホーネット」
と記されています。
アメリカ陸軍情報部というのは第二次世界大戦のときにアメリカ陸軍が設置していた
日系人中心になる情報部隊です。
対日戦における翻訳や情報収集、文書の分析、投降の呼びかけ、捕虜の尋問のため、
太平洋戦線に投入されました。
このMISについてはまた詳しくお話しすることにして、今日はこのコーナーができたとき、
ここを訪れたある日系退役軍人についてです。
冒頭写真のアメリカ軍人がその人、
ERIC KEN SHINSEKI (エリック・シンセキ)。
日系人で初めて星4つのジェネラル、陸軍大将にまでなった人物です。
それにしてもみなさん、この写真を見て、アメリカ国旗があるにもかかわらず
「あーこんな自衛官っているよね~空自とかに」
と思ってしまった人はいませんか?
見れば見るほど自衛隊タイプじゃないですか?この人。
エリック・シンセキは日本が真珠湾攻撃を行ったハワイに、
それからおよそ1年後の1942年11月28日、生を受けました。
祖父は広島県広島市江波から移民としてハワイに入植した一世で、
苗字は漢字で書くと「新関」です。
彼が生まれた時、彼の両親はアメリカ国民にとってまごうかたなき
「enemy alien」
に属する人種でした。
この「ジャパニーズアメリカンコーナー」でも縷々語られているように、
442部隊やMISなどの日系人部隊の日系人たちの多くは、
移民しその市民となったアメリカ政府への忠誠を証明するために入隊しました。
シンセキの叔父もまたハワイにあった第100大隊、
そして第442戦闘団の一員として欧州で戦った一人です。
何度かお話ししているように、敵国の血が流れている兵士たちへの懸念は
当初アメリカ政府に色濃くあったわけですが、彼らは比類ない勇気を発揮し、
その捨て身の戦いは歴史に名を残し多くの勲章を得ることで歴史に残りました。
エリック・シンセキが軍人への道を選んだのは、この叔父の存在があったためで、
彼はウェストポイントの陸軍士官学校を卒業し、ベトナム戦争に参加しました。
同時にエンジニアリングの学位も取得しています。
ベトナム戦争に参加した彼は戦地で地雷を踏んで右足の半分を失うという負傷をし、
パープルハート勲章とオークリーフ・クラスター賞を授与されました。
負傷後たった一年休養しただけで、彼はまた現役に復帰したそうです。
シンセキはウェストポイントでの教官職のためにデューク大学で英語の修士号を取得し、
その後も順調にキャリアを積んで米国国防総省、ペンタゴンでのポストと
西ドイツにおける第3歩兵師団を経たのち、准将に昇進を果たしました。
1996年、54歳の時にはヨーロッパにおける米陸軍部隊の最高司令長官となり、
「三ツ星」となっていますが、これも日系米人としては初めてのことになります。
この期間に彼は中央ヨーロッパに展開するNATO軍の司令官も務め、
ボスニアヘルツェゴビナでの地域安定化の指揮を執るなどの活躍をしました。
ビル・クリントン政権のとき彼はついに陸軍参謀総長のポストに推挙され、
このときに名実ともに日系米人のみならずアジア系で初めての4つ星将官、
つまり制服組のトップに上り詰めることになります。
アメリカ軍ではこういうときに上院軍事委員会で適性を審査されたのち、
上院本会議で議員の賛成多数を得ることが慣習となっています。
このときの上院では、あのダニエル・イノウエ議員が
意見を取りまとめ、シンセキは全会一致で承認されています。
ジョージ・ブッシュ政権では陸軍長官として留任したシンセキでしたが、
ペンタゴンの文民指導者との間に齟齬が起こります。
それは、陸軍参謀総長として出席した2003年の公聴会で、
『イラク戦争における戦後処理は数十万人の米軍部隊が必要』
と述べたことでラムズフェルド国防長官、ポール・ウォルフォウィッツ副長官らの
少数精鋭論と対立して表面化し、シンセキは彼らに退任・退役に追い込まれました。
一部報道には、この解任劇にはラムズフェルドの人種差別・偏見、つまりアジア系
(というよりおそらくかつてのエネミー・エイリアンの血を持つ日系)であるシンセキが
アメリカ陸軍のトップであることが許せなかったためである、とも報じられました。
それが本当にそうなのかどうかを立証することはできませんが、
シンセキ陸軍参謀総長の退任・退役式典にに際しては、長官・副長官がどちらも欠席するという
露骨な非礼を働いたのを見ても、信憑性のある意見ではあります。
対立の原因もおそらく「奴がこう言ったからその逆」という理由でラムズフェルド側は
少数精鋭を主張したにすぎないのではなかったでしょうか。
というのも、問題となったイラク情勢は占領後に計画の不備が露呈され、
結果的にシンセキの意見が正しかったことが証明される結果となったからです。
シンセキ大将が追い込まれるきっかけとなった上院軍事委員会の公聴会で、
ある上院議員が
「多数兵力を投入すべきと主張したシンセキは正しかったか」
と質問したのに対し、イラク軍を管轄する中央軍の司令官であるジョン・アビゼイド大将が、
「シンセキ将軍は正しかった」
と明言したのに始まり、何と言っても現場の制服組トップからも同意見が次々と出され、
2006年には逆にこの件でラムズフェルドが更迭されると言う結果となりました。
バラク・オバマはこの件についてのシンセキについて、
「シンセキ氏は権力に対して真実を述べることを決して恐れてこなかった」
と評価しています。
というか、わたしはこの件で「差別する側」の二人がどちらもユダヤ系であったことは
何かの悪い冗談のような気がしています。
「ホーネット」の日系アメリカ軍人資料室にはこのようなシンセキ将軍のパネルがあります。
右下の写真には元第442部隊出身のダニエル・イノウエ議員(右端)が見えますね。
シンセキ氏は軍退役後早々に、非営利団体「ゴー・フォー・ブローク教育センター」の
スポークスパーソン(全米広報担当)に任命されました。
"Go for broke"とはここで何度もお話ししている日系米人部隊第100歩兵大隊のモットーで
「当たって砕けろ」という意味の日系人英語です。
2007年3月、シンセキ元将軍は「ホーネット」の「ニセイ・ベテラン」コーナーを訪ね、
自分のパネルの前で記念写真を撮っています。
ここでシンセキ氏は、ニセイ・ベテランたちが敷いた道が次世代の日系米人にとって
アメリカ軍での成功を可能にしたと改めて強調しました。
ところでこのときシンセキ氏 、65歳なのですが、妙に若く見えませんか?
オバマ政権が発足した2009年、オバマ大統領はシンセキ氏を
United States Secretary of Veteran's Affairs(アメリカ合衆国退役軍人長官)
に指名しました。
これはアジア系アメリカ人初で、閣僚就任したのはノーマン・ミネタ氏に次いで二人目です。
しかし4年後の2013年、CNNの取材で退役軍人病院の診療の遅れによる死者がでているという
問題点が明るみに出たため、オバマ大統領はその調査を親戚長官に命じました。
しかしこの不祥事に対しまず野党からシンセキに辞任を求める声が起き、
シンセキ自身が責任を取る形で昨年、2014年5月に辞任してしまいました。
この不祥事の原因は、退役軍人の医療費が膨れあがったので、その抑制のために
診療待ち時間を減らした施設の幹部にボーナスを出すことにしたことでした。
つまりこの報奨金のために「偽の待機者名簿」を提出する病院が続出し、
実際に診療の必要な退役軍人たちが自分の順番が来るまでに死亡してしまう、
ということが起こったのです。
いずれにしてもこの件は、オバマ政権に対して打撃となっていると言われています。
シンセキ氏は、退役軍人たちへの忠誠が、自らを辞任することへの推進力となった、
と述べ、辞任が退役軍人たちの利益になると考えればこそ、これを決断したと述べたそうです。
この覚悟に日本の武士道の覚悟を見るような気がするのはわたしだけでしょうか。