空母「ホーネット」艦内展示による日系アメリカ人部隊、続きです。
写真は第442連隊、通称日系人部隊。
笑を浮かべている隊員が多いですね。
前列の隊員は愛犬と一緒。
全員で撮られた写真の中央には5人の白人士官がいます。
黒人ばかりの飛行部隊であった「タスキーギ・エアメン」、陸軍のバッファロー中隊と同じく、
日系二世ばかりの部隊の隊長は白人でした。
その白人隊長をヴァン・ジョンソンが演じた映画「二世部隊」。
アメリカでのタイトルはそのものズバリ「ゴー・フォー・ブローク」でした。
二世部隊が主人公なのにこのポスターに一切その姿がなく、この少し間抜けな隊長が、
イタリアでおねえちゃんにデレデレしている写真や、442部隊に救出されるテキサス大隊の
メンバーの写真しかないというのはいかなることかと思うのですが(´・ω・`)
だいたいこのポスターには、ひとことも「日系」という言葉がありません。
映画では、最初のうちこそ上から目線で指揮官として着任するジョンソンが、
だんだん二世たちの優秀さに感服してしまうというふうに描かれ、
圧巻は一人だけ山中ではぐれてしまい(おいおい)、たまたま覚えていた日本語の悪口が
合言葉となって部下と合流できたというシーンでした。
映画には、実際に442部隊の兵士であった何人かが出演しています。
ついでに映画つながりで、「カラテ・キッズ」でパット・モリタが演じた
少年の師匠「ミヤギ」は、442部隊で栄誉勲章を与えられたことがあるという設定。
そのパット・モリタは、自分自身が日系人収容所にいたことがあります。
外套を着ているところを見ると、1944年の10月以降にヨーロッパで撮られたものでしょう。
にアルザス地方で行われた戦闘か、あるいはフランスのブリュイエールか、それとも
「テキサス大隊」、ロストバタリオンを救出する前か・・・。
全員の顔に激しい疲労が滲んでいるようにも見えますが、彼らはブリュイエールで
ドイツ軍と激しい戦いを繰り広げ、そのわずか10日後、休養もほとんど取れないまま、
ロストバタリオンの救出に向かっています。
テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、
600人以上が手足を失う等の重傷を負うことになりました。
戦後上院議員となり、晩年は上院議長の地位にあり、日系人として
大統領継承権第3位にまでなったダニエル・ケン・イノウエもこの戦いに参加しています。
この写真のイノウエの右手をご覧頂けばおわかりかと思いますが、
彼は1945年、ドイツ軍との戦闘において手りゅう弾による傷を負い、右腕を切断しました。
イノウエは医師を目指していましたが、これによって夢が断たれたため、
戦後は政治学を学んだ後、弁護士資格を取得しました。
88歳で亡くなる4年前、やはり日系アメリカ人のアイリーン・ヒラノと結婚しています。
彼の功績は讃えられ、アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦に
「ダニエル・イノウエ」の名を残すことになりました。
最後の言葉は「アロハ」(さようなら)だったということです。
タツミ・フルカワ上等兵。
戦争が始まった時、彼らの一家はアリゾナ州のギラリバー収容所に送られました。
二人の兄も100大隊と442連隊に入隊しています。
ヨーロッパで三つの大きな戦闘に参加したフルカワ上等兵は、
1944年に戦死しましたが、その功績によりパープルハート勲章と勲章を死後与えられました。
彼のお墓は、わたしが度々写真に撮っていたサンマテオの国立墓地の一角にあります。
442連隊にいたヒロ・アサイ氏が来ていた軍服。
スタッフサージャントの階級章、つまり二等軍曹です。
彼は2012年に亡くなったとき、サンフランシスコに住んでいました。
右側の双眼鏡とコンパスは、ブリュイエールの戦いのとき、
ドイツ軍の機銃手から取り上げた・・・、戦利品ですね。
相手が他でもない光学機器にかけてはトップクラスのドイツだったので、
双眼鏡などは嬉々として確保したのではなかったかと思うがどうか。
左のカメラなんて、きっとライカとかでしょ?
この左のコレクション?の人は、十字のペンダントとか、
バックルなど4つも持って帰ってきたみたいですが、これまさか
ドイツ兵のしたい・・・・いやなんでもない。
隊旗らしいドイツ軍の旗を持って帰ってきた人もいます。
2万人に及ぶ二つの師団が攻略できず手をこまねいていた
ゴシック・ラインの戦いにおいて、総員2,500人の442部隊は
「一週間でも、一日でもない、たった32分で」
防御戦を突破してしまいました。
というのは、「ゴシックライン」で検索をかけると未だに上位に出てくる
当ブログからの引用ですが()、そのゴシックラインを破った
マウント・フォルジョリートの戦いに参加したアーニー・ヒラツカは、
戦闘地となった山の大理石などを持ち帰りました。
未だにアメリカ陸軍の10大戦闘に数えられる「テキサス大隊救出」を成し遂げ、
他の白人部隊ができなかった戦線突破を、32分でやってのけた442部隊。
彼らの戦闘は未だにウェストポイントで教材となり、候補生が学ぶ対象ですし、
巷ではこのような、GIジョーみたいなフィギュアも販売されています。
誰がモデルかはわかりませんが、いかにも日本人な顔の兵士(笑)
戦闘の合間のつかの間の休息をとる二世兵士たち。
意外なくらい和やかな表情をしています。
沐浴中の姿を撮られてしまっている人がいますが、ジョージ・ボクジ・トンプソン
は、アングロサクソン系の父親と、日系の母親の元に生まれたのでしょう。
右下では顔を隠したりしています。
こういう血筋であっても収容所に送られていたのです。
ちなみに、442連隊には一人、朝鮮系アメリカ人のヨンオク・キムも居ました。
アンツィオの戦い、ゴシックラインの戦いの成功に大きく寄与した人物です。
ベトナム戦争にも参加し最終的には大佐まで昇進しています。
彼は純粋な朝鮮人でしたが、戦後は日系人アメリカ人博物館の創設にも寄与しました。
思わず吹き出しをつけて漫画にしてしまうのは日本人の習性?
上の二人は白人で、どちらも大尉。
右下は日系人の士官(中尉)です。
前線視察のトラック。
ブリュイエールの戦いについては以前一度書いていますが、
今でもこの地では、その日を記念して式典が行われます。
この激しい戦いで命を失った442部隊の戦死者たちは未だにここに眠っています。
このおじいちゃんたちが、かつてここで激しい戦いに身を投じ、
ドイツ軍から村の人々を解放し、未だに敬愛され、その名を讃えられているのです。
この村には442連隊通りという道があり、このような式典を通じて彼らの功績を顕彰しています。
陸軍が二世だけの部隊を編成したのは1943年のことです。
マサオカ家の5人兄弟は、全員がこれに志願しました。
この写真はキャンプ・シェルビーで撮られたもので、左からベン、マイク、タッド、アイク。
五男のハンクは、落下傘兵になったので、このとき442部隊にはいませんでした。
長男のベンは、この後、「ロスト・バタリオン」の救出のときに戦死しています。
なお、本日のタイトル「ブリュイエールのU.S.サムライ」は、ブリュイエール出身の作家、
ピエール・ムーランが第442連隊の戦い描いた著書の題名です。
なお、ムーランはホノルル、フレズノ、サンアントニオなど、日系アメリカ人について
深く関わった関係で名誉市民となっており、同氏の著書には
「ダッハウーホロコーストとU.S.サムライ ダッハウ最初の二世兵士たち」
などがあります。