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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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「いずも」に乗った日

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思いがけないご縁のおかげで、話題のDDH、「いずも」の就役・引渡し式に
出席し、その海自艦としての旅立ちを見届けたわたしですが、
今回ふとしたことで中に足を踏み入れることに成功しました。

ただし、ただしです(笑)

今回は一般公開などという開かれた機会とは関係なく、
用事で中に入る人にくっついて行って、ついでに艦長にご挨拶させていただいた、
というゲリラ的訪問だったので、内部の写真などは何もありません。

遡ることその前日、わたしは今になって去年のイベント参加を取り計らっていただいた
ある方に、そのお礼のお土産を渡すために会って会話をしておりました。

その会話中、たまたまその何日か前に見たニュース、

「いずも」の艦長からRR艦長にだるまのプレゼント」

というツィッターを受けて報じられた写真を見たことを思い出し、
吉野艦長をご存知であるその方に報告するためにその話をしたところ、

「明日いずも行きますので来られますか?」

というお誘い。
その方が用事で「いずも」に行くことが、その次の日に決まっていたというのです。
だるま贈呈の話をわたしが思い出さなければ、その方も次の日に
「いずも」に乗ることを思い出すこともなく、つまりこんな機会はこなかったでしょう。

わたしはつくづく自分のこういうことに対してだけ妙に嗅覚の利く体質と、
この偶然と、そして人脈ともちろんこの方に、感謝したのでありました。



次の日、車で行くことも見越して早めに出たため、1時間前についてしまいました。
車を道沿いのコインパーキングに駐めていつものスターバックスで待機。
もうすっかりおなじみになったスターバックスからの眺めですが、
最初に来た時にはそれは感激したものですよ。

今は、お、前に「ひゅうが」の定位置だったところが今は「いずも」なんだな、
などとちょっとした変化がわかるようになって、少し嬉しい。



季節が冬なのであまりゴミが吹き溜まっていない季節とはいえ、やはりよくよく見ると
いろいろと打ち上げられているのだった。

水際ではせっせとカモさんが羽繕いしています。

「いずも」へは横須賀駅で待ち合わせてから行く約束になっています。
ゆっくり港を見ながら歩いて行くことにしました。



いつもの海自潜水艦が繋留されている米軍側のドックには
「おやしお」型の潜水艦がいました。



ちょうどその対岸に当たるところに、現在のドックの位置を示した写真が。
昔米軍基地見学ツァーを終えてから、かなりこのドックについては
説明するために勉強しました。

まだ慶応年間に我が日本では最初のドライドックを持っていたということがわかり、
驚かされた記憶があります。

慶応三年のドライドック

上のエントリによると(笑)、この三つのドックのできた順番は
第1(1871年)、第3(1874年)、第2(1884年)となっており、
できた順番ではなく、場所で番号を割り振っています。




現在と比べると他の建物がないためまるで生け簀のような状態に見えますが、
右側が第1ドックで、どちらも現在入渠中の写真です。



俯瞰で見た第1、第2ドックの写真もパネルに掲載されていました。
上のエントリにもありますが、第1ドックの建設に大きく関わったのが
この公園に名前を残している若きフランス人技師、ヴェルニーで、関東大震災のとき
ドックがびくともしなかったのも、彼の仕事が確かだったからということです。

誠実に事業にあたり、外部の雑音に一切耳を貸さずに業者を選定したことが
150年にわたっていまだに現役であるドックの完成を実現させました。




横須賀軍港巡りの土産物屋さんでも買えるこの古地図、横須賀港のかつての姿です。
ちゃんと三つのドライドックも描かれていますね。

昔、ヴェルニー公園の対岸には、のちの横須賀造船所、横須賀製鉄所がありました。
慶応元年に鍬入れ式が行われてから、次々と施設が付加されていき、
横須賀の町とともにこの地域は一台工業地帯として発展していくことになります。

この工場は日本の工業の先駆けにおいてモデルケースとなり、ここで
近代工業の基礎だけでなく、例えば日曜休日制や労働時間の決まり、
メートル法、集団検診など、近代化のさまざまな「初めて」が形となりました。

この絵は明治14年に発行された当時の横須賀の地図で、これ自体が印刷されて
お土産になっていたといいますから(つまり今と同じ)進んでますね。



艦番号63の「ステザム」さんが係留中。
アーレイバーク級のミサイル駆逐艦ですが、そういえば姉妹艦の
艦番号89、「マスティン」には観艦式に参加していただきました。
操舵も危なっかしい韓国の駆逐艦のうしろをがっつりと固め、
遅れないようにおらおらと煽って進ませてくれてご苦労様なことでした。
(わたしがいったんじゃありませんよ?)

そういえばここはいつも「マスティン」さんの定位置だと思っていましたが、
いつも同じところに泊めるとは限らないようです。



これは曳船ですが、どうも日本の曳船ではないみたい。
一応共同運行なので、曳船も共用ということが多いとは思うものの、
やはりあちらは「ロナルド・レーガン」なんかの超弩級の出入港など、
他所には決して任せられない!という部分はかなりあるのに違いありません。
 


ああ、10月の観艦式の時、3回のうち2回はここから出航したのだわ。
防衛団体の賀詞交換会でお会いした防衛省の情報にお勤めの制服の方は、
わたしが「3回行った」というのは、「通算3回行った」という意味だと思っていて、

「1回目はむらさめ、2回目はあたご、3回目は・・」

と話し出すと、

「え、それはもしかして今年の観艦式のことですか?」

とえらいこと驚かれてしまいました。
全日行った人は少なくともわたしが知ってるだけであと3人はいましたが何か。

とにかくここには今「きりしま」がいます。

ところで本ブログのプロフィールが「174」の「きりしま」だと思っておられる方、
こちらは読者のmizukiさんがプレゼントしてくれたもので、 
よく見ると艦番号は「1.74」、「きりしま」ではなく実は「ちびしま」なのです。
念のため。



そんなことは今はよろしい(笑)
待ち合わせは横須賀駅前、相手の方は着くなりスカレー君を激写。
ついでにわたしも撮ってみました。



気になっていた、スカレーが捧げ持つカレーも激写。
これ、ものすごくちゃんとしてませんか?
まるでロウのサンプルみたい。
長年ささげ持たれているせいで埃がたまり、ご飯が黒ずんでいる以外は
ちゃんとビーフカレー(じゃがいも入り)であることまでわかります。


さて、スカレーの撮影を終わり、二人で門の中に入りました。



入る直前にヴェルニー公園の端っこから撮った写真がこれ。



門を入ってから柵の合間からもう一度「いずも」の姿を一枚撮って、警衛に向かうと、
入場のための手続きをする前に、海自迷彩の警衛隊員が近づいてきて、

「先ほどそこから写真を撮っておられましたが」

えっ?(ドキドキ)

「門を入ってからは写真撮影禁止なので撮らないでください」

ヽ(`Д´)ノ ウワァァァン!! だめだったんかい!

まあ、一般公開でもない平常営業?日だったんで、当然ですか。
連れの方はというと、警衛の窓口に手続きの紙を書いてわたしたあと、

「これ持っててください」

と言われたのをそのままカウンターに置いていたところ、

「これ持っててくださいって言ったでしょ?風で飛ぶんですよ」

とおじさんに叱責されておられます。
うーん、一般公開の時のあの、誰でも来るものは拒まず、
私たちに何でも聞いてください、のウェルカムでフレンドリーな顔とは
若干様子の違う自衛隊のそっけない一面を見た気がしますな。

とは言うても警衛の受け付けは自衛隊でなく警備会社社員だったんですけどね。
しかもこちらは防衛団体の視察でも偉い人のお招きというわけでもなく、
名義上は「いずも」艦内の部との打ち合わせ?というか商談?というか。

警備会社の係がぞんざいに対応してもまあ、当然ってこった。


桜のマークの付いた黒い車で送ってもらったり、赤いリボンをつけていたり、
一般公開以外ではそんな訪問ばかりをしていて、自衛隊という組織の一面しか知らない
わたしにとって、ある意味「普通」を知る上で大変興味深いものでありました。


というわけで、一切の写真を禁じられてしまったわたしは、同行の方の
所用のためにまずは担当部署に行くことになりました。

あの日、磯子の造船会社でその真ん前に立ち、皆の乗艦を見送った、まさにその
同じハッチから入っていくと、そこから艦内をまた何段も上へ上へと登っていく
あの懐かしい苦行を経て、士官食堂に通されました。

その方の用事が終わるか終わらない頃・・・・・、
「いずも」艦長キタワァ.*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!!☆



〜会見終了〜




終わって埠頭を歩いている時、

「なんか・・・表沙汰にはできない話ばかりでしたね」

と思わず呟いてしまうほど、その話の中身は「うちわ」でした。
人事であの人がどうなったとか今あそこの船がどうなっているとか、
今となってはわたしにもわりと理解できるレベルの話ではありましたが、 
とにかく特定ではないにしろ、守秘義務のないわたしでも他言無用な話ばかり。 

かろうじて、部屋の隅にあっただるまの話題から、わたしがここにくる
きっかけとなった「ロナルド・レーガン」の艦長と吉野艦長のニュースが
話題になったことくらいかな。ここで書けるのは。

「面白いおじさんでしたよ〜」

吉野艦長はそういってボルト大佐のカタカナ表記の名刺を見せてくれました。
クリス・ボルト大佐は、アメリカ海軍の空母艦長の他の例に漏れず航空出身、
EC-2ホークアイのパイロットをしていました。
艦長の話によると、ボルト大佐、元々はアストロノー志望だったそうです。

アポロ計画の昔から海軍のパイロットが宇宙飛行士になる例はいくつもあって、
それを目指すために海軍に入るという道もあるということなんですね。

いろいろあってそれは実現しなかったボルト大佐ですが、今は

 

「でもそのかわりにこんな大きな船の艦長になれたからいいもーん」(曲訳)

と豪語して現在の空母艦長という職に満足しておられるようです。
めでたい。 

士官食堂のテーブルに座って話をしている時、ちょうど艦内に
自衛艦旗降納のためのラッパが響きました。

「今でも現役ですね」

吉野艦長が笑いを含んで指摘したのでわたしは初めて気がついたのですが、
隣の同行の方は、椅子に座ったまま姿勢を正しておられました(笑)
(かつての士官である)

歩くのが早いとか、海軍5分前を旨とするとか、アイロンがけとか、
いろいろと身にしみついてしまったかつての習慣の一つなのでしょうか。
海自に一度でも身を置いたことのある人には、このラッパが吹鳴されるとき、
少なくとも背中を丸めていることはできないらしいと言うことがわかりました。



さて、艦長にお暇を告げ、出口まで送っていただいたのですが、
帰りはハッチとは違う「偉い人専用階段」から降りることになりました。
ここが「正門」にあたるので、表札に当たる艦名の書かれた看板があります。

「いせ」の看板が伊勢神宮の式年遷宮のおさがりを使ったものであるように、
ここの看板も当然のように2013年に式年遷宮された出雲大社のお下がりです。
式年遷宮と「いずも」の進水式はほぼ同じ時期だったということなんですね。
つまり、このころからこの年に進水する新鋭艦の名前は決まったのだろうと思いました。

「いずも」の文字も出雲大社の宮司の筆によるものだと聞きました。




ヤマタノオロチの剣をあしらった「いずも」のマークの横には、
初代「出雲」と現在の「いずも」が描かれた比較図があります。

「出雲」の戦没年を見てもしやと思ったのですが、やはり「出雲」は
昭和20年7月24日の呉空襲で、米軍艦載機の攻撃により着底していました。
「出雲」というと、日露戦争であの上村彦之氶将軍が乗った船で、蒜山沖海戦では
沈没した敵艦のリューリックの乗員を救ったことで有名だった船です。

 



上でクリス・ボルト大佐のプロフィールを開けてみた方は、この写真との
ある共通点に気がつかれませんか?
そう、右に行くほどだんだんわかりにくくなっていますが「ス マ イ ル」です。

なんでも、この写真を撮る時に、三役?の写真はアメリカ海軍のように
スマイルで撮ることにしよう、ということになったのだそうです。
さすがに本格的に歯を見せてはいませんが(ハルゼー除き米海軍は歯見せが基本)。
 

 


ここまでご案内くださったのはもしかしたら真ん中の副長さんだったかもしれません。
写真を撮る時間も待っていただき、さらには

「わたし!引き渡し式の時にハッチの前で見送らせていただきまして!」

と全く意味のない自己アピールを聞いていただいてありがとうございました。
おまけに、偉い人専用階段から我々が降りる時には、そこにいた全員が
びしい!と敬礼で見送ってくださって・・・・。

基地隊の入り口での普通扱いもそれはそれで新鮮でしたが、肝心の「いずも」の方々に
最後をこのようなお見送りで締めていただけると、やっぱり今日も海上自衛隊は
期待を裏切らないいつものスマートなネイビーだったなと嬉しくなるのでした。



 







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