舞鶴で訪問した「赤レンガ博物館」で仮営業していた
「引揚記念館」についてエントリにしようとおもっていたところ、
その後、それに関連するイベントに参加し、思うところがあったので
少し関連させてお話ししてみようと思います。
わたしが舞鶴を訪れたシルバーウィークの頃、引揚記念館はリニューアルのため
仮設展示をレンガ街で行っていました。
今はもうこの展示も新しくオープンした記念館に移されて公開されているでしょう。
引揚げに関わる写真や資料、遺品や寄贈品など、それこそ「岸壁の母」の
モデルとなった陸軍兵士の母と子についてのパネル展示や港のジオラマ、
当時のビデオ映像などが見られる記念館は、仮展示とはいえ充実したもので、
ぜひいつか舞鶴にいくことがあったら訪れてみたいと思っています。
わたしのデータのうち残っていたのは、まず冒頭の絵を始め、
実際に引揚げを経験した漫画家の作品です。
これ、絵柄を見てすぐにちばてつや氏の絵だとわかる方おられますか?
ちば氏の経歴によると、氏は生後すぐに日本を離れ、2歳の時に、満州に渡っています。
幼い頃、印刷会社に勤めていた父親が暖房用にと貰ってきた紙の切れ端に
絵を書いて寒い冬を過ごしていたといいます。
昭和20年、同地で終戦を迎え、敗戦に伴い、暴動や略奪などが相次ぐ社会的混乱の中、
生と死が隣り合わせの過酷な幼少の一時期をすごした。
父の同僚の中国人徐集川に一家は助けられて、屋根裏部屋にかくまってもらった。
翌年、家族共々、日本に引揚げ、千葉を経て、東京、墨田区小梅町に移り住んだ。
(Wikipedia)
引揚げ当時氏は6歳であったということですが、幼いちば氏にとって
強烈な記憶となったのだろうと思われる光景が、これ。
ピントが合っていなくてよくわからないのですが、引揚げの道中、
動けなくなって路傍に斃れ、そのまま息果てる人たちもたくさんいました。
「赤い夕日の中をひたすら歩く」と題された絵。
ここはお国を何百里 離れて遠く満州の 赤い夕日に照らされて・・・
という軍歌をつい思い出してしまいます。
ちば氏の追憶によると、終戦のその日から「地獄を知らされた」(6歳児が)のでした。
「まもなく中国人街で爆竹が鳴り、暴動が起こり、日本人の家を襲いだした。
それから約1年、コロ島にたどり着いて日本に引き揚げるまで長い地獄の旅が続いた」
wikiには一家を助けてくれた中国人については名前まであるのに、実際には
何よりも恐ろしかったであろう「中国人の逆襲・略奪・殺戮」については書かれていません。
どこかで見た絵柄だなあと思ったら、「陸軍よもやま物語」「海軍よもやま物語」
など、一連の「軍よもやま物語」の挿絵を描いている斎藤邦雄氏でした。
斎藤氏は東宝在職中に召集令状を受け、奉天で終戦を迎えました。
1ヶ月後シベリアに移送され、そこで3年間の抑留生活を送っています。
上:親切なロシアマダム 下:スターリンの写真を破る娘
収容所の周りに住む、あるいは捕虜と接触のあるロシア人は、
日本人に対して非常に親切だったという話が多く残されています。
周辺に住むロシア人家庭の子供のために柵越しに手作りのおもちゃを渡したり、
堅牢な建築物を(大地震でそこだけ倒れなかった)作り上げたり・・。
日本人の真面目さと勤勉さに驚嘆した両親から
「日本人をお手本にしなさい」
と言われて育った記憶とともに、彼らに対する尊敬を持っているロシア人もいました。
ジャガイモを分け与えてくれる夫人、そしておそらく捕虜に対する扱いに
憤りを持った若い娘が、目の前でスターリンの写真を破るということもあったのでしょう。
「ロシア人は歌が好き」という絵。
戦後日本で爆発的に流行した「歌声喫茶」で歌われるのは「カチューシャ」「トロイカ」
といったロシア民謡だったといいますが、これはもしかしたら
抑留されていた人が伝えたものだったのでしょうか。
余談ですがロシア人にバス歌手が多いのは、その声帯が
低い声を出すのに向いている人が多いからだと聞いたことがあります。
いろはカルタを残した人もいました。
のべつまくなし解剖哀れ
死亡者が出るたびに解剖させられていた医師に同情しています。
「のべつまくなしに」人が死んでいたということでもあります。
拉致され帰らぬ中沢通訳隊長
元気に手を振って出て行き、それっきり二度と帰ってくることのない
生死不明者はしょっちゅうだったということです。
何かの任務に就かされ、そしてそのまま・・・・。
天皇打倒を叫ぶ赤大根
「赤大根」というのは、おそらく思想教育にかぶれた収容者の蔑称でしょう。
中国でもそうでしたが、シベリアでは捕虜に対し共産主義を礼賛する思想を叩き込みました。
ソ連は当初、日本軍の軍組織をそのまま活用して、間接統治を行いました。
上官を優遇し、彼らには食料や日用品などが優先して割り当てられるように計らったのです。
これは決して日本軍に敬意を払ってしたことではなく、この不平等が、日本人捕虜社会の中に、
軍の上層部及び階級そのものに対する不平と憎悪を生むことを知ってのことでした。
身を以て共産社会主義の素晴らしさに目覚めてもらおうというわけですね。
このころ国際社会から捕虜の取り扱い方針を厳しく批判されたソ連は、
以後段階的に捕虜を帰すことに方針を転換しましたが、それは条件付き、すなわち
ソ連に協力的なものから優先的に帰国させようというものでした。
ソ連は日本人捕虜を徹底的に思想教育し、共産主義への共感と
スターリンへの尊敬を植えつけようとしました。
捕虜社会の中に、思想教育のための協力組織を作らせ、これを通じて
捕虜の教育、ならびにいわゆる反動分子の吊るし上げを行わせたのです。
のちに日本を震撼させた連合赤軍事件では「総括」という名のリンチによって
些細な理由(髪をとかしていたとかちり紙を取ってくれと頼んだとか)で
仲間を殺していったのですが、まず敵を内部に求め、疑心暗鬼から互いを監視しあい、
果ては吊るし上げて殺すこれらの行動パターンは、このとき思想教育された
「赤大根」たちによって日本に輸入されたのではないかと思わされます。
収容所の日本人はこうした政策の中で、互いを監視しあうような生き方を強いられたのでした。
これを地獄と言わずしてなんと言えばいいのでしょうか。
しかも、その「赤大根」が全員ではなかったにもかかわらず、シベリア抑留されていた者は
引き揚げ後例外なく「赤呼ばわり」されたり、警察の監視が付いたりしました。
ところで、わたしは観艦式が終わってすぐ、東京6大学のうちひとつのキャンパスで行われた
戦争経験者の声を聞く催しに参加しました。
学徒出陣を経験したという人物が、その体験を語り学生の質問を受けるというシンポジウムです。
この大学は、最近何かと保守方面から眉をしかめるような話題の中心となることがあり、
なんとなく身構えるものがないわけではなかったのですが、
実際に戦争を体験した人の話に右も左もないだろうとある意味楽観していたため、
なんの先入観も持たず、誘われるがままに現地に赴きました。
都内でも有数の趣のあるキャンパスの、比較的新しいオーディトリウムが会場で、
入り口に続く外の階段を降りていくと、そこでチラシ配りをしている「市民団体」がいました。
市民団体、というのは今や共産党とイコールであるという社会通念にもなっています。
貧乏くさいいでたちに加えて手入れの悪いショートカット、典型的なその手の中年女性が
チラシを渡してきました。
「戦争法案」「廃案」「アベ政治」「許さない」
この文字を確認し(ほぼそうだろうと思っていたので)た次の瞬間、
わたしは黙ってチラシを彼女に突き返しました。
びっくりしたように目を見張って固まる彼女の顔を眺めながら、
ツッコミを入れるために貰っておいてもよかったかな、とチラッと思いましたが。
会場に入ると、まずデカデカと幟に書かれている
「学生を二度と学苑から戦場に送らない」
うーん・・・・あのチラシ配り隊といい、このキャプションといい・・。
おらなんかわくわくすっぞ。
そしてしょっぱなから、期待を裏切ることなく、挨拶をしたのがなんと、
「李という名前の日本人ではない人」(当大学文化学術院の朝鮮史教授)
・・・・。
今、その大学のHPでシンポジウム報告を見ると、この李という人物は
非常にまともなことを言ったように書かれていますが、これはインターネット用に、
ソフトに実態を欺瞞して編集されたものであると実際にその挨拶を聞いたわたしは思いました。
「なぜ学生たちは戦争に行かねばならなかったのか」
「わたしたちはそれを考えることをやめてはいけない」
その後に、いきなりこうですよ。
「今、戦後の平和を守り続けてきた日本の危機が訪れようとしている。
平和憲法を破棄し、戦争を行うための安保法案が強行採決(略)」
どう見ても三国人が先導する左翼集会です本当にありがとうございます。
でもまあ、戦争体験者のお話はそんなものではないと信じたい。
零戦搭乗員のHさんのように左に利用されているのは確実だとしても。
一人目の講演者は、満州に学徒動員で送られた人物でした。
この人の話を抜粋して掲載します。
1945年8月9日、そこに雪崩のように、ソビエト軍が侵攻してきたのです。
相手は157万の大軍で、主力はソビエト陸軍自慢のT-34戦車部隊でした。
戦車による凄惨な殺戮が始まったのです。
124師団は1万5千、対するソ連軍は15万人です。
10対1という言葉では想像もできない、言いがたい恐怖でした。
古い精神主義・建前主義で動く日本軍に対し、ソ連軍は近代的な重装備で、
戦車以外にも自動小銃・狙撃銃などを揃えていました。
1万5千人のうち生存者は1,200人ほどでした。
防衛省防衛研究所の資料には「四散消滅」とあります。
私は小豆山のふもとで敵に発見されました。脱出不能、絶体絶命です。
ソ連兵は長時間射撃し続け、手榴弾も投げ込まれました。
勝利したソ連軍の車列が煌々と明かりをつけて進軍するなか、
深夜敵地から命がけで突破しました。
その後、武装解除され、延吉収容所に送られました。
そこには4万5千人も収容されていました。
そこで、ソ連兵に、日本へ帰すからクラスキーノまで歩け、
そこから貨車でウラジオストックに行く、と言われました。
徒歩の苦しさは生き地獄でした。まさに死の行進です。
クラスキーノで貨物に乗せられました。10月、もう冬が迫っています。
50人もすしづめにされた貨車には、15センチくらいの穴があり、そこが便所でした。
ウラジオストックでは乗船の準備が間に合わないとかで、
ニコライエフスクまで列車は走りました。
10日間くらいで貨車を降り、そこで強制抑留だと聞かされたのです。
日本人は20年、ドイツ人は終身だと。
俺たちは帰るはずだった、何が何だかわからない、もうだめだ、と絶望しました。
10月22日夜、7名が首をくくって自殺してしまいました。
スターリンは、8月23日のソ連国家防衛委員会で、日本人捕虜60万人をソ連の経済復興に利用する、
2,000カ所の収容所を設けて強制労働をさせると決定していたのでした。
シベリアの強制労働では一年間に2,000名が死にました。
死んだら裸にされて穴に埋められました。
また将校による統制に対する「民主化運動」も起きました。
あるとき、ある人物の態度が悪いということで、将校たちが彼を撲殺するという事件が起きました。
それが引き金になって、日頃労働もせずゴロゴロしている将校たちに対する
強い反感から、彼らを「反動分子」として吊し上げたのです。
こんなに苦労しているのにぶらぶらしているのはなにごとかと、謝罪を強制しました。
抑留から3年経ったころ、突然帰ることになりました。
やっと帰れる、歓迎されるか──と思いきや、まったく歓迎されませんでした。
その当時の日本は食糧不足で、シベリアから60万も帰ってきたら食わせるものもなく
どうしようもない、その上、抑留者はソ連に留め置かれて「アカ」になっている、
危険人物だとまで言われ、騒然とした状況でした。
その時、私は血を吐いたのです。肺結核でした。
会場はただしんとして聞き入りました。
わたしもまた、その時代に生まれたというだけで大変な目にあったこの老人の
凄絶な体験に、鉛を飲んだような重たさと、同時に重みを感じていました。
と こ ろ が 。
ここまでは確かにそうだったのです。
が、この次からがまさにこの手の集会らしくなってしまったのでした。
「日本は我々を犠牲にしたのです。」
そして延々と続く日本に対する恨みつらみ。
わたしは、彼が戦い、彼の仲間を殺したのは近代兵器を持ったソ連軍で、
戦後彼らを自国の利益のために抑留したのもソ連という国だった、
という話を本人から延々と聞いた後だっただけに、唖然としてしまいました。
沖縄戦について「ひめゆりの塔の怖さ」というエントリでもお話したのですが、
この人たちは、なぜ直接の殺戮者に向けるべき恨みを全て祖国に向けるのでしょうか。
もうここまでくると「ああ・・」と察してしまってもうなにも驚きませんでしたが、
彼は次いで日本の「侵略」を糾弾しだしました。
相変わらずHPにはきれいにまとめてあるこの部分ですが、実際に
この人が言ったのはこんなことです。
「日本は近隣諸国、朝鮮・中国に、恐怖と悲惨の限りを与えた。
韓国のパククネ大統領は日本のことを1000年恨むといったけど、恨まれて当然だ。
国を植民地にされて、収奪され、慰安婦にするために女性を強制連行されたんだから」
インターネットに大学の名前とともに流されては何かと面倒の起こりそうな
この部分は一切公演の記録からは消されています。
「日本は侵略者だった。
侵略戦争を国際的にお詫びする、何度でも、何度でも詫びるという姿勢が重要です。
私たちは加害を忘れない、と言い続ける必要があるのではないでしょうか。」
この部分は本当に言っていたし、きちんと記録されています。
しかしながら、この人物は、日ソ不可侵条約を破って、日本が負けそうになるや
突然参戦してきた上、終戦後は国際法を無視して捕虜を帰さず、恥じることもなく、
もちろん戦後補償などしていないソ連に対しては何の恨みもないようでした。
(エリツィン大統領は非人道行為としてシベリア抑留を謝罪した)
そして、戦後生まれの政治家から成る現在の日本政府に向かって
わたしたちに謝れ、世界に謝り続けよとただ繰り返すのでした。
わたしは菅さんという人は好きだったんですがね、私たちに対して
「お気の毒です」しか言わなかったのでこれはなんたることかと思いましたね。
政府はわたしたちに謝罪をするべきだ。国を代表して、国民を代表して詫びてほしい。
経済的補償が欲しいのだろうという人もいるかもしれませんが、
財政破綻に直面している日本にそれを要求するわけがありません。
それをしないと日本は世界から尊敬される国になれません。
加害と被害の歴史を国民に対してしっかり教え、
二度と戦争しないと全世界に向かって謝罪し、努力を誓うべきです。
わたしはこの公演を聞いて非常に驚き、防衛団体の会合で話題にしました。
知人の年配の男性に
「どうしてあんな悲惨な目に遭ったのに恨みの矛先がソ連じゃなくて日本なんでしょう」
と疑問をぶつけると、
「思想教育されてきた人だねえ」
と一言。
抑留中に「上官を反動分子として吊るしあげた」と言っているのは
自己紹介というか「お察し」というやつだというご意見でした。
そういえば、舞鶴の引揚記念館には女性の「語り部」がいました。
「中国の人達は日本人に自分の土地を奪われたりしているんですよ。
だから恨みつらみで、終戦になった時に日本人を襲ったんです。
わたしは全ての身包みを剥がれて一糸纏わぬ姿になった女の人の集団をみました。
『せめて何か着せてやりたかった』と男の人が泣いていました」
わたしは長時間館内にいたので、3歳か4歳の時に引き揚げしたという
彼女が、何回も何回も、一言違わず同じ「証言」をしているのを聞きましたが、
その度に
「中国の人は酷い目に遭ったのでその恨みつらみで」
と繰り返すのに強い違和感を持ちました。
ちばてつや氏の証言によると、終戦になった途端中国人は日本人を
堂々と襲いだしたということですが、彼女に言わせるとそれも皆
「日本が悪かったから」「日本が侵略したから」
しかたない、ということらしいのです。
当時幼児だった彼女が見たものは、おそらく終戦までは豊かな満州であり、
そこで一緒に暮らす日本人と中国人であったはずなのですが、
戦後70年経った今、彼女にとって満州とは「日本の侵略」の痕跡でしかないようでした。
抵抗できない女性を襲って身包みを剥ぎ、おそらく陵辱もしたであろう
中国人は、中国人の中でも「悪辣な」部類であったであろうに、
そんな未開な人間の屑の行った犯罪をも
「日本が悪かったから仕方がない」
といいたげに何度も何度も「うらみつらみ」を繰り返す「語り部」。
戦争の責任ををすべて自分の祖国のみに負わせ、祖国を恨みながら戦後を生きてきた
このシベリア抑留者と、幼い目で見た引き揚げの光景に
自分でも気づかないうちに「色」をつけて語るこの「語り部」との間には、
いずれも自分の祖国を愛せず、自分の不幸と戦争の悲惨を全て戦後
作り上げられてきた「日本の戦争責任」に押し付けているという、
「ふるえる」くらいの共通点があるのに、わたしは人知れず暗然としたのでした。
お気分直しに、このときの舞鶴の帰り、京都駅のコンコースで見つけた看板。